シカメツラ兎-短編集-

加藤

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境界線

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そこには明確な境界線があった。
込み入った曲線だとか、優しい障害物だとか、そんなものは一切ない。
それはただ真っ直ぐに私の眼前に横たわっていた。
それは不意に現れたように見せかけて、実はずっとすぐ横にあった。それに気がついたのは、私がまた境界線が近くにある事を忘れてしまってからだった。
超えたらおしまい。踏み込んだら全て終わり。
それなのに、私は境界線の向こう側に行きたくて仕方なかった。
境界線の向こう側はただ漠然としている。
真っ暗と言うわけじゃない。真っ黒と言うわけじゃない。
何もないのだ。空気も、音も、光も。「存在」がないのだ。
その漠然としか言いようのない状態が私に希望を抱かせる。麻薬中毒者みたいに、そこに幻影が見える。何もない空間に漂う穏やかな永遠。何もない空間なのだから、穏やかさ、というのもないはずなのに。

境界線を越えようと決意した日の朝は快晴だった。
越えるか、越えないか。悩んでいた日々の陰鬱が嘘のように消え去って、体が軽かった。
朝、家族に「おはよう」と言った。
久しぶりの、最後の「おはよう」。私は笑顔だった。
家族は不思議そうに顔を傾げたけれど、やがて嬉しそうに「おはよう」と返してくれた。胸が痛かってけれど、それはすぐに晴れた。
外に出て、暖かい日差しを浴びて、境界線の向こう側を目指した。

全部終わるんだ。全部終わるんだ。

目の端から水滴が溢れていた。

境界線はすぐそこだった。

さあ、越えよう。

そこで全てが終わるはずだった。

足が動かない。
私は境界線の前に立ち尽くして、呆然と漠然の中を見つめた。

楽になれるのに。どうして動けないんだろう。
もう境界線のこっち側にいるのは辛いのに。あと一歩なのに。

自分のために自分を殺せない事が、ただ悔しかった。


それからは境界線が真横にあることから目を逸らして生きていた。
時々、ふと越えてみようか、と思う時はあった。
越えるのはあまりにも簡単だと知っていたから。
それでも私は越えない。
越えなくても生きていけるから。
今は、越えたくないから。
境界線は今もそこにある。
「越える」という選択肢はただ保留になっただけ。
それでも、私は境界線のこちら側でもう少し頑張りたいと思う。
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