シカメツラ兎-短編集-

加藤

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アビューズ

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パスタが茹で上がった。娘は、食卓に座ってプラスチック製のカップを小さなフォークでカチカチと叩いている。やめなさい、と言ったけれど娘は聞き入れなかった。
うさぎ柄の器にパスタを盛って、トマトソースをかける。粉チーズは多めで、バジルはのせない。娘の前にそっと置くと、娘は皿をひっくり返した。テーブルの上にパスタが土砂崩れのようにぶちまけられる。娘はそれを楽しげに弄び始めた。私は止めることもせずにぼんやりとそれを眺めた。
娘が手で掻き回しているそれはひどく込み入っていて、以前大学で行った兎の解剖を思い出させた。白い毛を丁寧に剃って、死んで血の固まったどす黒い色の頭皮に解剖用のナイフを突き立てて、静かに引き裂いていく。それは私たち人間を試すかのような儀式だった。お前はこの兎を解剖して何を思うのか。兎の中身をすっかり抉り出したなら、それをただの肉だと思うのか。そう問われているようで、私は一度ナイフを止めて息を吐いた。
再びナイフを動かして、兎の内部が露わになった時私は感嘆のため息を漏らした。その光景はあまりに複雑であり、同時に単純であった。入り組んだその姿は生物の神秘を体現していた。目にしているこの脳は、兎に指令を出し、兎を生かしていた。前頭葉だとか、脳幹だとか、小葉だとか、部位的な複雑さは私の視覚に訴えかけてくる。けれど、死んでしまえば何も動かない。解剖されて、医学生に撫で回される身になっている時、兎の脳は何も感じない。脳だけでなく全ての器官が。そう思った時、私の目尻に涙が浮かんだ。私は儀式に失敗した。私は弱く脆い人間だった。瞬時にそう悟った。黙々と作業を続ける同級生たちの間を通り抜けながら、私は教授に気分が悪くなったので早退しますと言って早引きした。その次の日、私は大学を辞めた。
娘はパスタで遊び続けている。指にトマトソースが絡みついて、そこら中に撒き散らされる。飛散したパスタが娘の顔に当たった時、娘は我に返って食卓の上を見た。そして大声で泣き始める。
私は娘を抱き上げてあやしはじめた。
大丈夫よ。大丈夫。
中身のない慰めだった。何が大丈夫なのか。少し考えてみたけれど、私にはわかるはずもなかった。兎の儀式に失敗した私には。
娘が小さな声で呟くのが聞こえた。どうしたの、と耳をその小さな口に近づけると、娘は囁くように、オレンジジュースと言った。私は娘の顔を見た。娘は意地の悪い顔で笑っていた。
この子、兎によく似ているわ。
そんな事が頭によぎった。私は何も言わずに、冷蔵庫からオレンジジュースの紙パックを取り出した。

娘は中学生になった。
外では無口で大人しく、家ではわがままな子に育った。今日も家に帰ってくるなり、肥満体をソファに投げ出して漫画本を読み始める。
「お母さん、おやつ」
漫画から目を離さずに気だるげに催促する。私は洗濯物をたたむ手を止めて、台所の戸棚を開けた。クッキー数種類とポテトチップス、それにチョコレートをおやつ用のボウルに綺麗に並べる。なんだか動物に与える餌を盛っている気分だった。
「はやく。お腹空いた」
ガラスのコップにジュースを入れて、木製のお盆に乗せてソファ前のローテーブルに静かに置いた。娘はお菓子の種類を見もせずに、漫画を読みながらボウルに手を突っ込んだ。口の周りに食べかすをつけながら、一心不乱に口の中にお菓子を詰め続ける。時おり、鼻がヒクヒクと動く。少し風邪気味なのか、鼻の頭がわずかに赤い。色白な娘の鼻先にその赤はやや目立つようだった。ちょうど、兎の鼻のように。
ヒク、ヒク。ヒク、ヒク。
絶え間なく動き続ける。私は無意識のうちに、手を伸ばしていた。
ヒク、ヒク。ヒク。触れると鼻の動きが止まった。娘が怪訝そうな表情で私を見ていた。
「なに、いきなり」
私はサッと手を離した。
「鼻の頭にチョコレートがついていたの」
娘はふうんと気の無い返事をして漫画に目を落とした。娘の鼻の頭は暖かかった。

娘は大学生になった。
中学、高校とは打って変わり、すっかり派手好きな女の子になった。髪を明るい茶色にし、いくつもピアスの穴を開けて、短すぎるスカートを履いている。そんな変化が気にならないほどに、増えすぎた体重。優に100キロは越えているであろうその巨体から、関節の軋む音が聞こえてきそうだった。
娘は家に帰ってくると、自室に入って部屋の鍵を閉める。何をしているのかわからからない。けれど、時おり奇妙な高笑いや、不気味なすすり泣きが聞こえてくる。その甲高い声は兎の警戒の鳴き声のようにも聞こえるし、私をどうにか困らせてやろうという残虐な悪意の権化のようにも聞こえた。
ある日、娘は家に帰ってくるなりソファにドサっと腰掛けた。腰掛けた、というより、崩れ落ちた、という方が正しいかもしれない。娘は口を開いて天井を見つめていた。
ヒク、ヒク。ヒク、ヒク。
顔は真っ青で、けれど目は恍惚としている。口からはよだれが垂れている。
ヒク、ヒク。ヒク、ヒク。
鼻の頭にニキビが出来ているようだ。それを隠そうとファンデーションをしつこく塗りたくったのか、そこだけいやに強調されて見える。
ヒク、ヒク。ヒク、ヒク。
私の手は、娘の鼻にすうっと伸びていった。
娘の鼻は冷たかった。娘の中身は死んだのかもしれない。
鼻に触れた瞬間、娘は私の指に噛み付いた。一切の加減無しに、指に歯を食い込ませてくる。鼻に皺がより、口の端から大量の唾液が溢れ出している。
「食いちぎればいいわよ」
私は娘を嘲笑った。正確に言えば、娘を通して見える兎を。
「死んだら、ただの肉よ。肉だわ」
指の抉れるような痛みは快感に変わっていく。
「そんなに肥えて、そんなに醜い顔をして。ああ、おかしい」
私は娘の頰を引っ叩いた。娘は我に帰り、頰を抑えて呆然と私の顔を見ると、自室にかけ出した。

翌朝娘の部屋の前を通ると、ドアが開け放されていた。中を覗き込むと、娘は体を部屋の中央に横たえて目を見開いていた。
中へ入ると、部屋自体が汚物であるかのようなひどい悪臭がする。部屋中に汚物と吐瀉物が撒き散らされていた。私の目を引いたのは、赤いうさぎ型のラムネだった。海外の有名キャラクター。ニタニタと笑うその顔が、部屋中に広がっている。
倒れている娘の顔を見ると、口から赤いうさぎがこぼれ落ちていた。いったいどれだけ詰め込んだのだろう。素手で取り除こうとしても、ずっと奥の方でうさぎが笑っている。
娘の胸に耳を当てると、微弱な心臓の音が聞こえた。
私はしばし娘を見つめてから、台所にいき、包丁を取ってきた。
娘の体に包丁を突き立てる。皮膚を乱雑に掻っ捌いて腹の中心の内部を露わにした。娘のうめき声が聞こえた。
どっと血液が溢れ出す。内部で、器官という器官が、巨漢の兎を動かそうと、脂肪に邪魔をされがら必至に蠢いている。
私の目尻に涙が浮かんだ。
生きてる。生きてるわ。
兎に勝った、そう思った。私は娘を娘として、きちんと抱きしめた。
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