シカメツラ兎-短編集-

加藤

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白い駅

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白い駅があった。
そこは俗世から隔離された巨大な空間だ。
「静か」という状態を「言葉らしきものが聞こえない」という状態だと言えるのであればここは異様なまでに静かな空間であり、そうとは言えないのであれば非常に騒がしい空間である。
なぜならば、突然踊り出す者がいて、
いきなり喚き散らす者がいて、
不意に泣き出す者がいて、
突如笑い出す者がいる。
というように、濁りなき感情に満ちた空間だからである。

この駅に電車が来たことは一度もない。
線路上には、胸の上で手を組んで眠る者たちが規則正しく並んでいる。
彼らの目は虚空を見つめていた。



僕は物心ついた時からこの駅にいた。
そして、その時から心に不安を飼っていた。
理由はない。漠然とした不安がただそこにあった。
その曖昧さがさらに不安を肥えさせた。
不安を受け止める器は、恐ろしく小さい。
涙より先行する嗚咽を自信が漏らしていることに気がついた時、僕は真っ白な空間を呆然と見つめた。
僕の中には、まっさらな悲しみが存在していた。誰にも手をつけられず、僕の中の感情をやりくりして出来た僕だけの悲しみ。それは、誰にも侵されないのではない。理解されないのだ。どこまでも続く苦しみだった。
この駅にはそういう者しか存在しない。けれどそれぞれが持つ感情は違う。お互いに干渉できない冷たい空間だ。
僕はいつも真っ白な柱の陰でうずくまって泣いている。目は腫れ、開かなくなる。まるで自分がひどく小さな胎児であるかのような錯覚が起きる。泣いていないのはほんの少しの時間だけ。泣いていない間は、この駅をひたすら徘徊する。
この駅に出口はない。
この駅に電車は来ない。
つまりは完全な隔離空間である事がわかった。
プラットホームが無限に続き、階段がなければ駅のその向こうの世界も存在していない。ただただ真っ白な空間があてもなく続いている。
線路には、白い布を顔に乗せた者たちが、規則正しい間隔で横たわっている。
この駅が隔離空間であると気づいた時、僕はわかってしまった。

そうか、彼らは死ぬのをひたすらに待っているのか。

つまりは絶望が彼らを支配しているのだ。彼らは自らを縛る一辺倒の感情を抱いたまま、この空間で生きる事を拒んでいる。
絶望は彼らに一種の繋がりを持たせている。僕にはそれが見えた。
細い糸が、彼らを繋いでいる。
僕は、無性にそれを切ってやりたくなった。
僕もあの中に入りたいのに、あんまり彼らが規則正しく並ぶから、輪を乱す事なんて出来やしない。
いや、違う。死を選択できる彼らが、僕にはどうしようもなく輝いて見えた。羨ましかった。
僕はプラットホームから、彼らを覗き込んだ。
薄い布から、彼らの密やかな輪郭線がうっすらと透けて見える。
ぼんやりとそれを見つめていたら、僕の口から静かに嗚咽が漏れていた。
音も立てずに、僕はその場に倒れ伏した。
体を抱えてうずくまる。
ああ、僕も支配されている。
ここから出たい。ここから。感情を自由に解放出来たら、どんなにか楽になれるのだろう。
しばらくそうしていた。やがて立ち上がると、僕は再び彼らの輪郭線を見つめた。
何かが、何かが変わる気がする。
目の前と死と向き合いたい。これは一つの無であろう。一度自分をまっさらに出来たのなら、感情をまた生み出せるのではないかと思う。
いつまでも、僕は彼らに向き合っていた。
するとその時は突然訪れた。
不意に、彼らの結びつきが大きな輪のように広がり始めたのだ。
ゆらゆらと繊維を残して、それは急速に広がっていった。
輪の中には、世界があった。
巨大な高層ビル群、人口の光、闊歩する人々、そして、一人一人が持つ無数の感情。
僕は巨大な引力に引き寄せられて、世界へ飛び込んだ。
僕のまっさらな心に、感情がべちゃべちゃと塗りたくられていく。
僕はひどく薄汚れて、世界に立っていた。
空を仰ぐと、白い駅がぽっかりと浮いているのが見えた。電車が、白い龍のように駅へ向かっている。

そうか、この世界に来るには、僕は電車へ乗らなくちゃ。

僕は強く目を閉じた。
次に目を開けると、僕は白い駅の中にいた。
線路に横たわる者たちは安堵の涙を流す。
この駅での生活になんの疑念も抱かなかった者たちは、錯乱状態になり、各々の感情を惜しげもなく爆発させる。
僕は、その状況をみて笑っていた。

電車が来る。
『次は、白い駅、白い駅に止まります。黄色い線の内側まで下がってお待ちください』
電車の音がする。
徐々に近づいてくるその音を聞いて、僕は不思議と寂しくなった。

『白い駅 白い駅、あるいは、あるいは』

電車は容赦なく線路に横たわった者たちを轢き殺した。

『あるいは、白痴の駅でございます』

僕は電車に乗った。
「…白痴なんかじゃないよ」
流れ落ちた僕の涙は、ひどく濁っていて、駅の中の白い床を汚してしまった。
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