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25話:例え奇跡は起きずとも
しおりを挟むぱーん! と強烈な破裂音がして、夢から覚めた。
「な、なに!? うぐぇっ」
そして、間髪置かずにずっしり重たい物体が私の上に覆い被さる。
「この痴れ者がぁぁ、儂は天下にょぉぉ」
「ぐぇぇ、あけび様重たい……」
薄暗い和室。
布団でぐっすり睡眠中の私にダイブしてきたのは人型のあけび様だった。
「しぇんこうぼ……もっと酒をよこせぇ!」
叫びとともに、声の主はごろりと布団から転がり落ちる。
「しゃけぇ……」
完全にろれつが回っていないし、ほんのりアルコール臭が漂ってくる。
食事中に姿を消して以降、どこで酒盛りしていたのやら。
「お早いお帰りですねあけび様。どちらで嗜んでおられたんですか」
起き上がって照明をつける。
明るくなった部屋に転がっていたのは、案の定真っ赤な顔のあけび様だった。
袴と着物は無残に乱れ、濡れ羽色の長い髪が畳に広がっている。
実に残念な美少女である。
「しぇんこうぼうと、呑んでおったのじゃぁ」
「しぇんこうぼう? お友達ですか?」
「しぇ、清光坊は呼べば飛んでくる都合の良い天狗じゃぁ……」
「……天狗って実在するんですね」
猫又がいるのなら当然と言えば当然、なのかな。
こちらも昔話の中でしか存在を知らないが、どうやら呑兵衛らしい。
しかも相当な。
「憎きつるっぱげの命日なぞ祝ってたまるかぁ……。あやつは、あやちゅはぁぁ」
さすが酔っ払い。いまいち話が噛み合わない。
「福じいがどうしたんですか」
生前、あけび様が福じいに抱かれている場面を見たことがない。
触ろうとするとフーシャーが始まるのだとおばあちゃんも言っていた。
「儂のちゅねこを奪いよったのじゃ! けしからんつるっぱげめぇ。ちゅねこは儂のものなのじゃぁ。誰にも渡しゃん!」
手足をじたばたさせて憤慨するあけび様。
駄々っ子みたいでちょっと笑えた。
「でも、福じいとおばあちゃんは夫婦なんだし、別に取ったわけじゃ」
「ちゅねこは未来永劫儂だけのものなのじゃ! 儂のものに手を出すなぞ、千年早いわぁぁ!」
「はいはい」
また、じたばた。
おばあちゃん、起きたらどうしよう。
「痴れ者めぇ、痴れ者めぇ。あやつ勝手にちゅねこより先に逝きおった! ちゅねこの気も知らんで! 少しは猫又の儂を見習えばよいもにょを! けしからん!」
今度は畳をバンバン叩くうら若き乙女。
「わかりましたからちょっとだけ静かに――」
「いーやーじゃぁー! 腹の虫が治まらぬのじゃぁぁぁ! ぬか漬けはちゅねこがどれだけ憔悴したか知らぬじゃろうが!」
鋭く睨まれて言葉を失う。
「料理もせぬ! 縫物にも手をつけぬ! 鉢植えは水をやりゃずに枯らす! 畑なぞ雑草まみりぇでひどい有様じゃった! 楽しみにしておった旅行も断ってずうっと臥せっちぇおるのじゃぞ! あのちゅるっぱげめ!」
憎しみに満ちた眼光が私を突き刺す。
当時知りもしなかった真実に胸が軋んだ。
「にゅか漬け風情は知らぬじゃろうて! あやつの身勝手で、ちゅねこがちゅねこではなくなったのじゃぁぁ! どんなに禿げ頭を下げても許してにゃるものか!」
呪詛を吐くようにあけび様は「許さん……儂のちゅねこを」と繰り返す。
枕元に花を運んでくれた甲斐甲斐しい愛猫。
愛くるしい話の裏側が、私を打ちのめす。
本当に私たちは、すべてをあけび様に背負わせてしまった。
あけび様がいなければおばあちゃんはどうなっていたのか、考えたくもない。
夫を亡くしたおばあちゃんにとって、あけび様は生命線だった。
あけび様にとっては、おばあちゃんは命の恩人で独りにしておけない大切な人。
猫又になってでも、添い遂げるべき相手なのだ。
だからこそ福じいを許せない。
おばあちゃんを傷つけるものは誰だろうと敵で、憎むべき相手でしかないから。
あけび様はおばあちゃんのためにずっとそばにいるから。
「ごめんなさい」
「ふん、儂はちぇんかのあけび様じゃぁぁ。はなからお主らなぞ当てにしておらにゅわ! ちゅるっぱげと同じで盆くらいにしか顔を見しぇんしの!」
「へ? 福じいがお盆に?」
だからお墓に姿がなかったのかな。
普段はきっと、天国でおばあちゃんを見守ってくれているんだ。
「儂があの世に追っ払ってやったのじゃぁ! 事あるごとにあの石っころに宿ろうと企みよるからにゃぁーあ」
あけび様は仰向けのまま大あくびする。
「ちゅねこを、泣かすやちゅの、顔にゃぞ――」
そして、事切れるようにぱったりと寝落ちてしまった。
掃除機に似た可愛くないいびきが部屋に響き渡る。
「自由な酔っ払いだなぁ」
でも、怒れない。
「ありがとうございます」
小さく感謝して、羽毛布団をあけび様にかける。
私にはこれくらいしかしてあげられない。
これ以上は煙たがられるに決まっている。
「あけび様は、家族でいてくれたんですよね」
私たちが果たせなかったことを、一生懸命に果たしてくれたんですよね。
彼女は、もう何十年も前からおばあちゃんを護ってくれていた。
私よりもお母さんよりも福じいよりも長い間、ずっとずっと。
何も知らなかったのは私の方だった。
「ちゅね、こぉ……儂がしかと見て……おりゅから、の……安、心しぇい……」
ふてぶてしさの抜けた寝言に、胸の奥がささくれ立つ。
「こんなの、忘れられないじゃんか」
ずるいよ。人間は忘れる生き物なのに。
忘れなきゃ生きていけないのに。
私は鼻の奥がつんとするのを堪えながら照明を消して毛布にくるまり、目を瞑った。
*****
お隣のニワトリの鳴き声で、目が覚める。
今日は随分巻き舌のコケコッコーだった。
目だけ動かすと、障子が朝日のオレンジ色で染め上げられているのが見えた。
淡いのに鮮やかで鮮烈で、儚げなオレンジ。
あの日のアルストロメリアを想起させる色彩が私を覚醒させる。
大の字の美少女の姿はすでになく、無造作にめくれた羽毛布団だけが畳に残っていた。
猫の隠密行動恐るべし。
気配と音の消し方は忍者すら上回るのではなかろうか。
私なんか、一生真似できない芸当に思える。
襖を数十センチ開けて出ていっているはずなのに、そちらも気づけなかった。
今頃は多分、おばあちゃんに添い寝をしているのだろう。
絶対そうに決まっている。
あけび様専用の極上羽毛布団が恋しくなったに違いない。
「うあー、今日も仕事だぞーっと」
体を起こしてぐっと伸びをする。
すると、冷え切った朝の空気が、再びニワトリの雄叫びを運んできた。
「はいはい、起きます起きます」
毛布から這い出て、袢纏を羽織る。
ぐちゃぐちゃの羽毛布団を畳みなおして部屋を出た。
目的地は一階の洗面所。
顔を洗ってさっぱり目を覚ましてしまおう。
ごろごろしていると瞬く間に時間は過ぎてしまうから。
恐らくだけど、もうおばあちゃんは台所に立っている時間だ。
抜き足差し足も必要ない。
なのに、深夜の酔っ払いの影響で私は静かに階段を下りていた。
横切った台所では炊飯器が蒸気を噴き上げ、炊飯の真っ最中。
まだおばあちゃんはおらず、薄暗いままだった。
でも、じきに台所は美味しそうな香りが充満して、あけび様がおこぼれを狙いに来るのである。
今日の献立は何だろうか。
なんて考えつつ、ひっそりと洗面所に到着した。
暖簾の先の古風な洗面台の鏡には、ぼさぼさ髪にノーメイクな二十代女子が映っている。
どこをとっても野暮ったくて腫れぼったくて愛想がない。
ああもう。
今に始まったことじゃないんだぞすみれ。
昔からだ、昔から。
諦めろ。
諦めないと生きていけないぞ、すみれ。
「考えるなー。考えたら負けだぁ……」
雑念を振り払うため、蛇口をひねって顔を洗う。
流れる水はまるで氷のように冷え切っていた。
それでも耐えて洗顔を終え、タオルで顔を拭く。
さっきより頭がしゃっきりしているような、していないような。
微妙すぎてあまり感じられないが、とりあえず目覚めの儀式は終了だ。
私は部屋に戻るべく、洗面所を出た。
「……ん?」
暖簾を押した途端、嗅いだことのある香りが鼻孔をくすぐる。
お香に似た、煙の匂いだ。
「お線香、かな」
洗面所は仏間の近くにある。
匂いが届いてもおかしくはない。
だけど、こんな朝早くにお線香?
気になって、静かに歩みを進めた。
廊下はまだ薄暗い。
なのに仏間の障子はほんのりと発光していた。
わずかに開いているし、絶対に誰かがいる。
きっとそれは――
「――ですけんねぇ」
やっぱり。
お線香の香りに乗って耳に届いたのは、おばあちゃんの軽やかな喋り声だった。
「福さんは山育ちだに寒がりでしたがぁ。大雪の日はいっつもこたつであけびちゃんと喧嘩しとりましたねぇ。足が傷だらけになっても、こたつから離れられんくて」
そっと、隙間から様子を窺う。
予想通り、おばあちゃんが座布団の上に正座して、仏壇と語り合っていた。
たくさんの蘭を背景に、白い煙が漂う仏間。
遺影と笑顔で対話するおばあちゃん。
膝に形見のリトープスの鉢を大切に抱えながら、だ。
どことなく神聖で踏み入れない雰囲気があった。
「昨日のごちそうはどげでしたかね。すみれちゃんも一生懸命手伝ってごしなって、楽しかったですがぁ」
おばあちゃんは、ふふふと和やかに笑う。
「ちょーっと前まで流しに背が届かんかったに、びっくりするくらい大人になって」
あけび様の気配はない。
福じいの遺影があるから入りたくないのかもしれない。
「すみれちゃんは立派なお嬢さんになりましたけんねぇ。可愛い声も戻って、お仕事も見つけて。ほんに立派ですがぁ」
袢纏の裾をぎゅっと握り締める。
私は、決して立派なんかじゃない。
私は。
「福さん。すみれちゃんのこと、見守とってください。私には話してくれんけど、あっちでたくさん辛い思いをしとるみたいですけん。せめて鬼住にいる間はすみれちゃんらしく笑っとって欲しいですがぁ。すみれちゃんの笑顔は世界一ですけんねぇ」
おばあちゃんは、目を閉じ手を合わせる。
「おばあちゃんは充分幸せにしてもらいましたけん、どうかすみれちゃんを」
私は静かに仏間を離れた。
鼻をすすったら気づかれてしまう。
潤んだ視界が決壊するもの時間の問題だろう。
何より、これ以上は聞いちゃいけないと思った。
ふう、っと長く息を吐き出して心をリセットする。
忘れられない。
忘れちゃいけない。
忘れてたまるもんか。
遠くにいたのに、こんなに愛してくれる人がいる事実を。
空の上で暮らす家族を。
私ごときが蔑ろにしてはいけない大切な祈りを。
ああそうだ。
呪われて当然なくらい、私は罰当たりなんだ。
愛されて愛されて愛されていたのに、放って無視して目を背けて。
愛想をつかされてもおかしくない行いばかりしていたのに、おばあちゃんは私を。
考えて、袢纏を体ごと抱き締めた。
一歩、二歩、三歩。
息を殺して廊下を進むにつれ、線香の香りが薄れていく。
行き止まりの裏戸に着いた頃には、かすかなそれも完全に消えてしまった。
可能な限り物音をたてずに戸を開けて、スリッパを引っ掛けて庭に出る。
肺を刺す外気を目一杯吸い込み、ふわふわの冬芽をつけた木蓮を仰いだ。
庭の半分は、石灯籠や松やツツジなどで構成される和風庭園。
もう半分は、多種多様な草花がひしめき合うイングリッシュガーデン。
今は季節柄花も葉も少ないが、春になれば緑と花々で一斉に彩られるのだろう。
春を告げる木蓮の甘い香りに思いを馳せて、またゆっくりと深呼吸。
昇り始めたオレンジ色の球体が、芽吹きを待つ庭を染めていく。
そのあまりに清々しい彩りに、長い間見惚れていた。
白い息を吐いて、ぽとりぽとりと雫を滴らせて。
「きれい……」
未来がどうなるかなんてわからない。
わからない方がいいのだ。
わかってしまったら、日々が退屈になってしまう。
そんなつまらないもの、知るべきじゃない。
もしかしたら、未来の私は鬼住村から飛び出しているのかもしれない。
こんなに素敵なもので溢れた鬼住村をまたド田舎だと罵って嫌気がさして。
だけど、少なくとも今は、今だけはこの色に身を委ねていたい。
凍てつく空気も、春を待つ自然も、私を大事に思ってくれる人々も、今はすべてが愛おしい。
すべてを手放したくない。
刹那主義だと嗤われたってかまうものか。
だって私は、鬼住村が、みんなが大好きだから。
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