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1話:猫又と呪い

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 どこで道を踏み外してしまったのだろう。


 畳の上に寝転がりながら、私は堂々巡りを続けていた。
 昔から大好きだったいぐさの香りも、乱れた心を整えてはくれない。

「すみれちゃーん。ご近所さんにお漬物、おすそ分けしてくるけんねー」

 急な階段を降りた一階から、おばあちゃんの声がする。
 すみれちゃんこと私、笹森すみれは返事もせず、玄関の引き戸が閉まる音を聞いていた。
 本当は「はーい」とか「もう暗いから気をつけてねー」とか「ちゃんと上着羽織らなきゃ風邪ひくよー」とか言ってあげたい。
 言いたいのだ。
 でも、今の私にはできない。
 できないから、こうしてここで寝転がっている。
 桐箪笥や卓袱台が鎮座する、八畳ほどの和室に。

 十全な人生を歩むはずだった。
 中高一貫の進学校から、都内の国立大学へ進学。
 そこで優秀な成績を修めて、国内外に支社を持つ有名企業に就職。
 あとはバリバリ働いて働いて働くだけ。
 流れに乗っていさえすれば、最後まで安定した道を歩める、はずだった。
 はずだったんだ。
 それなのに現在私はといえば、ドのつく田舎、鬼住村きずみむらで居候をしている。
 かろうじて舗装された道路上で、サワガニが潰れて息絶えているような山間のド田舎に。
 さも当然のようにシカやイノシシは出没するし、畑に田んぼに果樹園に酪農までなんでもござれ。
 朝になればお隣からニワトリの鳴き声だって聞こえるし、近くを流れる清流にはイワナやヤマメが泳いでいる。
 そんな、のどかで過疎が進む、緑と水ばかりの場所に。

 順調に働いていた私が災厄に見舞われたのは、噎せ返るような梅雨の朝のこと。
 その日、私は突然何の前触れもなく喋れなくなった。
 言葉はおろか笑い声や悲鳴すら上げられない、失声症とやらに罹ってしまったのだ。
 病院に行ってもどこも異常はなく、精神的なものだろうと繰り返されるだけ。
 結局三か月たっても治らず、上司から療養するべきだと諭された。
 こうして謎の失声症により、笹森すみれは職を失ったのだ。
 舞い戻った実家もどこか居心地が悪く、両親を説得しておばあちゃんの元へ。
 久しぶりに会ったおばあちゃんは昔と変わらず優しいし、近所の人たちも温かく迎えてくれた。

 しかし、だ。
 ゆったりと時間の流れる田舎ライフを始めてはや十日。
 私の声は一向に戻ってこない。
 マイナスイオン的なもので治らないかと期待したのがバカだった。
 悪意を向けてくる人も、冷たく接してくる人もいない。
 ストレスが存在しない環境でも無理となると、もう一体全体どうすればいいのだろう。
 恐らくだけど、鬼住村で私に陰険な態度をとるのは、おばあちゃんの愛猫だけだ。
 小柄でつやつや三毛猫の彼女ったら、私を見るなり毛を逆立てて逃げていくのである。
 何度「あけびちゃん、おいで」と誘っても触らせてくれない。
 今日だって朝から一度も姿を見せてくれないのだ。
 ああ、こんなことつらつら考えていても治らないのになぁ。
 私の回復より先に雪が降るに決まっている。

 うう。この辺りってどれくらい積もるんだろう。
 どれくらい冷えるんだろう。
 寒いのは苦手なのになぁ。
 あけびちゃんを湯たんぽにする算段もすでに潰えたしなぁ。
 なんて考えながら目を瞑り、大げさに息を漏らした。
 おばあちゃんお手製の夕食で満腹なせいか、軽い睡魔に蝕まれつつある。
 このまま眠ってしまいたい……。


「おお、相も変わらず臭い臭い。ぬか漬けの臭いがするわい。鼻が曲がりそうじゃ」


 不意に、左の耳元で軽やかな女性の声がした。
 ぎょっとして、私はすぐさま飛び起きる。

「なんじゃその顔は。元々愉快な顔がさらに愉快になっておるぞ」

 え? ん?
 わけがわからない。
 私の左側にいたのは、小柄な三毛猫だった。
 間違いなくおばあちゃんの愛猫、あけびちゃんだった。
 あ、あけびちゃんが喋った?
 まさか。

「たわけ。猫又が喋って何がおかしい。儂は天下のあけび様じゃ。阿呆面をするな、ぬか漬け娘」

 ね、猫又?
 猫は猫でも猫又なら喋って、えっと……いやいや。
 まさか。
 これは夢だ、絶対に夢だ。
 まやかしだ。悪夢だ。
 ありえない。
 だって、あけびちゃんは私が生まれた頃からずっとここに住んでいるただの猫なのだから。
 小学校時代、夏休みにお泊りした時には確実に、にゃーん、と鳴いていた。
 しっかり記憶している。
 あの時のあけびちゃんは喋らない、どこまでもただの三毛猫だった。
 ほら、それにあけびちゃんの尻尾は一本じゃないか。
 確か猫又って尻尾が二股に分かれているんじゃ……。

「ふん。わしの毛色に二股の尾は似合わぬからの。みすぼらしいお主と違って、身だしなみを整えておるだけじゃ。淑女なら当たり前のまなー、じゃろう?」

 意外とおしゃれさんな三毛猫は、気怠そうにあくびをした。
 対して私は混乱真っ只中。
 許してください。

「情けない。この程度で怯えるなど、常子つねこの孫とは毛頭思えんのう。ほれ、これで満足か?」

 ぽん。と、ポップコーンが弾けるような音がし、僅かな白煙とともに現れたのは――
「ほうれ。人の姿になってやったぞ? 喜べ、ぬか漬け娘」

 紅紫の袴を身に纏った、十代後半の少女だった。
 私のミディアムロングよりずっと長い黒髪を垂らす、艶っぽい女の子。
 小柄だけど、表情が大人びていて神秘的な空気を漂わせている。
 喜べと言われたが、もうこんがらがった頭が火を噴きそうだ。
 猫が人に化けた。
 あけびちゃんが、人になった。

 猫又、とか言っていたけど、あれってただの言い伝えみたいなものなんじゃ……?
「ふん。目の前で化けてやったのにまだ疑うか? 臭いうえに愚かとは、救いようがないのう」

 切れ長の目がすっと細められ、腰を抜かした私へ蔑みの眼差しが注ぐ。
 潤んだ瞳と長い睫毛が印象的だけど、今はそんな悠長なことを考えている場合じゃない。
 やっぱり私はどこかを患っているんだろうか。
 だからあけびちゃんが、こんな、こんな。

「常子はともかく、ぬか漬けの分際で気安くあけびちゃんなどと呼ぶな。あけび様と呼べ、あけび様と」

 は、はい。えっと、わかりました、あけび様。

「よろしい」

 あけび様は三日月のように唇を歪める。
 どうやらご満悦らしい。

「まったく。儂の屋敷にこんな臭い生き物が居つくとはのう。世も末じゃ。加えて酒の一つも土産に持ってこないときた。常子の手前、追い出さずにやったがもう限界じゃ。不届き者め、こうでもせんと気が晴れん!」

 眉間に深い皺をよせたあけび様は、私の脳天めがけて、ごちん、と猫パンチよろしくげんこつを降らせた。
 全身に響く痛みに頭を押さえるも、私は悲鳴すら上げられない。
 うああ、痛い。
 とても痛い。
 こんなに痛いのに、どうして目が覚めないのだろう。
 幻覚が続くのだろう。
 夢でも幻覚でももうどっちだってかまわない。
 早く終わってほしい。
 確かに社会に出てから辛いこともあったし、嫌な思いもした。
 でも、私はまともだ。
 私の気は触れてなんかいない。
 ただ声が出なくなっただけで、それ以上の何かを抱えてはいない。
 いるはずがない。
 しっかりしろ、しっかりするんだ、すみれ。
 これだけ強く殴られて目が覚めないのなら、今目の前にいる女の子は現実だ。
 ほら、事実はナントカよりも奇なりなんて言葉もあるじゃないか。
 きっと私が知らなかっただけで、猫又はずっと昔から存在していたんだ。
 そうだ、そうに決まっている。
 じゃなきゃ、こんなこと起きるわけがない。

「おお。儂の手にまで匂いが移りおった。これは相当憎しみをかったのう」

 殴られた頭を摩りながら、仁王立ちの袴姿を仰ぐ。
 スピリチュアルなものへの信仰はないが、目の前で起きた事象は間違いなく現実、なんだと思う。
 自分の気が触れただなんて思いたくないし、頭を殴られて痛かった。
 殴られたということは、実体がある、ということだ。
 まやかしに痛覚まで乗っ取られてたまるか。
 あけび様は人に化けられるし、猫又は実在するし、私は臭い。
 そうだ、違いない。
 私は絶対に絶対にまともだ。
 単純に現実を知らなかっただけで、私はまと、も……あれ? 臭い?

 いやいやそんなはずない。
 毎日欠かさずお風呂にも入ってるし、今日の夕飯にぬか漬けは食べていない。
 いくら猫の嗅覚が鋭いからって、鼻が曲がるような臭いと形容されるのは心外だ。

「なんじゃ、まだ気づいておらぬのか」

 何を?
 というか、どうして会話が成立しているんだろう。

「おぬし、呪われておるぞ。相当な憎しみが纏わりついて臭くてたまらん。喉が震えんのはぬか漬け臭い呪いのせいじゃ」

 呪われている。
 呪いのせいで、声が奪われている。
 想定外が再び襲来し、私の思考回路がパンクする。

「目を回すな気色悪い。で、どうなんじゃ? 呪われたままではいつか本当に心身を患うぞ? いいのか? 呪いを解いてほしくはないか?」

 そりゃあもちろん解いていただきたいです。
 私はすぐさま正座し、ふんぞり返るあけび様を拝むように見つめた。

「ふふん。じゃろうなあ。しかしの、儂はタダ働きなぞする気は毛頭ないのじゃ。解いて欲しいのなら、それ相応の褒美をよこせ」

 褒美? 例えば、またたびとか、でしょうか?

「このあんぽんたん! 酒じゃ酒! 物わかりの悪い小娘じゃの」

 酒といわれても、この辺りに酒屋があるかどうか。
 おまけに私はお酒全般に明るくない。
 スーパーも遠いし、あるとしたら高速道路近くのコンビニくらいじゃないかと思うのですが。

「ええい、まどろっこしい。ものを知らぬぬか漬けじゃの! その、こ、こんべに、とやらの近くに酒屋があるのじゃ!」

 あるんだ。

「あるに決まっておろう。ほれ、儂に酒を貢ぐと誓うのなら、呪いなぞひと捻りにしてくれようぞ?」

 承知いたしました。
 誓います。
 誓いますので、どうか呪いを解いてください、あけび様。
 断る理由なんて、私にはありません。

「よい心がけじゃのう。儂もお主の悪臭を嗅がされ続けるのは堪えるしの」

 にっと笑った赤い唇から鋭い牙が覗く。
 人間のものではない、獣の輝きがぎらりと光った。

「よおし、ぬか漬け娘。ちぃと目を瞑っておれ。なに、すぐに祓ってやろう」

 言われた通り、私はまぶたを下ろした。
 布の擦れる音が絶えず耳に届く。
 何をされるのかと身構えていると、顔先で吐息を感じた。
 あけび様のものだろう唇が首筋に触れ、外国語の呪文のような言語が囁かれる。
 瞬間、喉がかあっと熱を持ち、すぐにひいた。

「目を開けよ」

 唇が離れ、目を開ける。
 私の視界は、あけび様の美貌で埋まっていた。

「儂の名を呼んでみるがよい」
「……あ、けび、さま」

 かすかに喉が震える。
 ……震えた。
 喋れた。
 私の意志で私の喉が。

「しゃべれ、た。……あけび様、私元に戻った! すごい、本当に私……!」

 半年ぶりに聞く自分の声に、ちょっと涙ぐむ。
 あれほど悩んだものが、一瞬で、だ。
 泣いたって許されるだろう。

「おお、おお、儂のお蔭じゃなぁ。ぬか漬け娘、何か言うことがあるじゃろう?」
「え、ええっと、ありがとうございますあけび様」
「ふふふん。なんのこれしき、朝飯前よ」

 あけび様は上機嫌で胸を張った。
 どこかの誰かに五寸釘でも打たれていたとしたら、気味が悪くて仕方がない。
 でも、もう呪いなるものは解けた。
 ずっと治らなかった失声症は、あけび様の呪文一つで治まってしまったのだ。
 先ほどから繰り広げられる不可思議な現実が、私の苦悩を取り払ってくれた。

「お礼にお酒買ってきます! コンビニの近くなら自転車ですぐだし!」

 私は勢いよく立ち上がって、部屋の隅にあったハンドバッグを引っ掴む。

「ほう、よい心掛け……ん? おい、待てぬか漬け娘」

 襖をぱーんと開くと同時に、あけび様に呼び止められた。

「なんでしょうか!」
「卓袱台の上、その奇怪な赤いものは、もしや、ぺそこんではないか?」

 あけび様が指さしたのは、実家から持ってきた深紅のノートパソコンだった。
 可愛い私の戦友である。

「パソコンがどうしたんですか?」
「ぬか漬けのくせにぺそこんが使えるのか……?」

 ぬか漬けのくせにって。
 ひどい。

「はい、まあ一通りは」

 首を傾げつつ回答すると、あけび様は含みのある笑みを浮かべた。

「のう、ぬか漬け娘。ぺそこんが使えるなら、働き口を紹介してやってもよいぞ? 畑仕事すらろくにできぬ居候も肩身が狭かろう?」
「うっ……」

 おっしゃる通りでございます。
 痛いところを突かれてしまった。

「なぁに、おぬしが酒を買う金を儲けねば儂の晩酌も危うくなるしのう。どうじゃ、悪い話ではなかろう?」
「パソコンを使う仕事ってことは事務系ですか? 力仕事とかだとちょっと自信が」
「知らぬ。やるのか、やらぬのか今ここで決めい。さもなくば儂がもっと悪質な呪いをかけてやろうぞ?」
「や、やります! 精一杯働かせていただきます!」

 上手い具合に操られてしまった。
 酒を調達するための機械として仕立て上げられてしまった。
 肩身が狭いのもこのまま無職でい続けるのも嫌だが、あけび様の真っ黒な微笑みが怖い。

「では、すぐに発つぞ。店まで人間の足でも大してかからぬしの」
「はい!」

 ぽん、と白煙を上げ袴姿の女の子は三毛猫に戻る。

「ついてこい」

 私は階段を駆け下りるあけび様を小走りで追った。


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