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第二章 存在の証明

証明1

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 美術室に隣接している準備室の扉を開けた凌空は、待ち伏せしていた晴陽の顔を見て一瞬だけ目を見開いた。だがすぐに自分を連れてきた担任の諏訪部先生の決まりの悪そうな顔からすべてを察したらしく、大きな溜息を吐いて先生を睨みつけた。

「優位な立場にいる人間が立場を悪用して弱者に精神的苦痛を与えることを、なんていうか知っていますか? パワハラっていうんですよ。先生、早めに転職先を考えておいた方がいいですよ」

「こ、怖いことを言うなよ都築ぃ。勘弁してくれ。俺は嘘は吐くけど、約束は守る主義なんだ。教師向きの性格だと思わないか?」

 引きつった顔で凌空の言及から逃れようとする諏訪部先生はもう二度と、生徒の可能性を否定するような過ちは犯さないだろう。

 今、彼が社会人生活において突然の窮地に立たされているのは、凌空との対面を成功させるために練った晴陽たちの作戦の成果だった。

 凌空と話がしたいと思っていても、徹底的に避けられている晴陽は彼を呼び出す術を持っていなかった。さあどうしたものかと頭を捻る晴陽の相談に乗ってくれたのは、やはり翔琉だったのだ。

 悪巧みをする悪戯っ子のような笑顔で翔琉が提案してきたのは、諏訪部先生を利用することだった。「翔琉が賞を取ったらなんでも言うことを聞く」という言質を諏訪部先生から取っていた翔琉は、『高校生限定アートコンテスト』の賞状をたじろぐ先生に印籠のように見せつけ、「教師の権限を使って都築先輩を呼び出してほしい」と要求を突きつけた。

 侮られた悔しさから仕返しをしてやりたい気持ちは当然あっただろう。

 それなのに諏訪部先生に命令する権利を譲ってくれた翔琉には、先日からずっと感謝しかしていない。

「諏訪部先生、ありがとうございます。あとは私と凌空先輩をふたりきりにさせてください」

「お、おう。鍵は明日のホームルーム前に他の先生にバレないように、こっそり俺に返しにこい。……わかっているとは思うけど、問題は起こすんじゃないぞ」

 目は泳いでいたものの最後だけ教師らしい言葉を残して、諏訪部先生はそそくさと準備室から出て行った。

 凌空も一緒に出て行ってしまうことを懸念していた晴陽だったが、彼は呆れたように再び溜息を吐いた。

「……ここ二週間くらい姿を見せないから、やっと諦めてくれたと思っていたのに……俺と話をするためにここまでするか?」

「ここまでしますよ。みっともなくても足掻きますよ。私にとって凌空先輩は、見栄もプライドも全部捨ててでも手に入れたいと思うくらいに価値がある人なんです」

「そういうことを言うのはやめろ。……どんな言葉で拒絶をすれば伝わる?」

 凌空は心底苛ついているように見える。

「安心してください。響いていますし、それなりに傷ついています。ただ、凌空先輩にはご迷惑な話かもしれませんが、私が受けるダメージや先輩が受けるストレスよりも、私があなたに好きって伝えたい気持ちの方が強いんです」

 そう言って晴陽は凌空に、古びた一冊のスケッチブックを手渡した。それはつい先日まで、晴陽の手を離れていたものだ。

「これはなんだ?」

「お願いがあります。最後のページ……描いたのが新しい方から順に、見ていってください」

 怪訝な顔をしていた凌空だったが、晴陽とのやり取りを最小限に抑えて早く去りたかったのか、指示通りに後ろから開いてページを遡っていった。

「笑えますよね。『凌空先輩を描くことが私の夢です』なんて語っておきながら、実はとっくの昔……三年前には先輩のことを描いていたんですから」

「……三年前?」

 一番古いページを見た彼の手が止まり表情が変わったのを視認して、晴陽は緊張で震える手を隠すために拳を握った。

 今から好きな人の前で弱さを晒すのだ。不安にもなる。

「入院中も、自宅療養中も毎日毎日、体の調子のいいときは時間の許す限り描き続けました。……当時は自分が生きた証を一つでも多くこの世に残そうと、子どもなりにない知恵を絞って必死だったんです」

 翔琉は「数多い娯楽の中でも逢坂は絵を選んだ」と評価する方向に捉えてくれたが、晴陽が絵を描き続けた最大の理由は、形を変えた遺書――あるいは、ある種の生存本能からくる部分もまた大きかったのだ。

「……この絵って、写生だよな……? まさか……?」

 今よりずっと拙い三年前の画力でも、凌空に伝わったことを嬉しく思った。

「その通りです。凌空先輩は覚えていないと思いますが、私と先輩は三年前すでに大瀧総合病院で出会っていたんです。お母さんのお見舞いに来ていた先輩を見て、私は一目惚れしたんです」

 スケッチブックの一番古いページには、凌空が大瀧総合病院の中庭のベンチに座って佇んでいる様子が描かれている。凌空の指摘通り、構図も表情も実際に晴陽がこの目で見て描いた写生だった。

「高校で出会って運命の人だと直感したって言ったのは、嘘です。私、凌空先輩を追いかけて瀧岡高校に入学しましたから」

 当時入院していた晴陽はたまたま風に当たろうと中庭に出て、初めて見る少年から目が離せなくなった。入院生活は同世代の男の子と話す機会が少ないから、免疫がないだけだと自分に言い聞かせてこの感情は気のせいだと思い込もうとしたけれど、晴陽の本能はそれを拒否した。

 気がつけば手に持っていたスケッチブックに少年を描いて、少しでも多く彼の情報を記憶に残すための行動を取っていたのだった。

「病院では必死に盗み見るだけで、声の一つもかけられなかったんですけどね。あれから三年、時間が経っても心臓が変わっても私は……凌空先輩のことが、ずっと好きなんです」

「なんで……今まで黙っていた? もっと早く教えてくれてもよかっただろ」

「言えないですよ。あの頃の私って病的に細くて、内気で、全然自分に自信がなくて……それに私、当時は死ぬと思い込んでいたので、未来に希望なんて持ちたくなかったんです」

 ドナーがいつ現れるかもわからない、先の見えない未来の中で不安や痛みと戦う日々。

 あの頃の晴陽はこの世に未練が残らないように人間関係を極力なくし、楽しい気持ちや嬉しい気持ちにならないよう意識して、下手に夢や希望を抱かないようにしていた。

 それなのに、出会ってしまったのだ。

 どうしても一緒に生きていきたい、一緒に幸せになりたいと思える人に。

 凌空との邂逅は、生にしがみつく気力を得るには十分すぎるものだった。
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