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第二章 存在の証明

ファーストキス

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「……凌空先輩⁉ どうしてここに⁉」

 凌空は不機嫌そうに、ふいっと顔を背けた。

「……そいつに聞け」

 意味がわからず蓮を見たものの、彼は凌空を見つめたまま口元の笑みを崩さなかった。前に水族館で会ったときは凌空は蓮に対して敬語を使っていたし、もう少し穏やかに会話をしていたと思うのだが、ふたりの中で何があったのだろうか。

「凌空くん、そんなにつんけんしないでよ。今日ここでふたりを会わせたのにはちゃんと理由があるんだよ。あのさ、凌空くんには晴陽ちゃんのことを諦めてほしくて」

「「は?」」

 珍しく――いや、初めてかもしれない。晴陽と凌空の声が重なった。

「諦めるも何も……俺は晴陽のことなんて好きでもなんでもないんだけど」

 凌空が呆れたように口にした。改めて言葉にされると悲しいが、それは現時点では事実なので晴陽も頷く。

「そうですよ。っていうか、そうやって凌空先輩に変な絡み方するのはやめ――」

 抗議は最後までできなかった。晴陽の唇は、蓮のそれに塞がれてしまったからだ。

 頭が真っ白になるとはこのことだと思った。反射的に唇を離し慌てて後ずさったものの、ファーストキスを奪われたという事実を覆すことはできない。

 女を信用できない凌空の信頼を得るために、誠意を見せる努力をしてきたというのに。

 一瞬の裏切りが、凌空に対する罪悪感と蓮に対する怒りを抱かせる。

「な……なんでこんなことするんですか。私、凌空先輩のことは裏切りたくないって言ったじゃないですか!」

「ごめんね、我慢できなかった。でもさ、晴陽ちゃんと凌空くんは別に付き合っているわけじゃないじゃん? 別に悪いことじゃないよね?」

 蓮は申し訳なさそうにするどころか、楽しんでいるようにすら見えた。蓮との付き合いを金輪際にしてしまいたい気持ちが沸騰するも、そうすれば菫を再び失う悲しみを抱かせてしまうだろうという想像力が働いてしまい、結局どうすればいいのかわからず途方に暮れる。

 もらった心臓によって拓かれた未来が、もらった心臓によって縛られる感覚。

 一ミリも動けずにその場に立ち尽くす晴陽だったが、凌空に手を引かれて引き寄せられてようやく体が動いた。乱暴に掴まれた手首は痛みを訴えたけれど、痛覚を上回る興奮と感動にも似た感情が胸の奥から湧いていた。

「晴陽は、俺のことが好きなんじゃなかったっけ?」

 現実に脳の処理が追いつかない状態だけど、これは脊髄反射で答えられる質問だ。

「も、もちろんそうです! 私は、凌空先輩のことが好きです!」

 晴陽の意思を確認した凌空は、蓮を睨みつけた。蓮もまた凌空の真正面に立って、笑みを浮かべていた。

「あれ? 凌空くんってば、嫉妬? 晴陽ちゃんのことは別に好きじゃないって言っていたのに、もしかしてヤキモチ?」

「違う。非常識な相手に困っている後輩を助けただけだ」

 目鼻立ちの整ったふたりは、互いの目を見ながら何を考えているのだろうか。高度な駆け引きなのか腹の探り合いなのか、あるいは単純に喧嘩をしたいだけなのか。晴陽には何もわからなかった。

「今日はそういうことにしておいてあげる。じゃあ、遅くなっちゃったしそろそろ帰ろっか! オレたちは車なんだけど、凌空くんも乗っていく? 家まで送るよ?」

「密閉空間でお前と同じ空気を吸いたくない」

 そう言って凌空は踵を返して去って行ってしまった。追いかけようとしたが「付いてくんな」という一言と蓮に裾を掴まれたことが、晴陽の足を止めさせた。

「あーあ、凌空くんにこっぴどく振られちゃったー」

 晴陽を振り回し凌空との関係をかき回しておきながら、ふざけたことを口にする蓮に対する怒りやら疲労やらで、体中の力が一気に抜けて人目など気にする余裕もなくヘナヘナとしゃがみ込んでしまった。

「……蓮さんは一体、凌空先輩に何を言ったんですか。あんなに敵意を剝き出しにする先輩は、お母さんのことを語るときか、私を罵るときにしか見たことないですよ……」

「別に大したことはしてないよ? 凌空くんの下校に合わせて待ち伏せして『オレは晴陽ちゃんを菫にするつもりだよ』って話をしただけ」

「は?」

「そしたら怒っちゃったから十八時以降にここに来るつもりだってことだけを伝えて、逃げたんだけど……あの子、ずっとここでオレたちが来るのを待ってたのかなあ? 可愛いね」

 時計を見ると二十時より少し前だった。晴陽たちがここに到着したのが十九時半過ぎだから、蓮の仮定を信じるならば少なくとも凌空は九十分以上は待っていてくれたことになる。

 凌空は出不精で人混みが嫌いなのに。晴陽のことを拒絶していたのに。

 わざわざ電車を乗り継いでやって来て、寒空の下で心配してくれていたなんて。晴陽の身を案じてくれたその優しさに、胸が熱くなる。

 だからこそ、堪え難い怒りが込み上げてくるのだ。

「蓮さんが私を菫さんにしたいってことはわかりましたよ。でも、菫さんとは日頃からキスしていたわけじゃないですよね? それなのに、わざわざ凌空先輩の前で、なんで……めっちゃ性格悪くないですか? 本当、勘弁してよ……」

 思わず敬語が抜けてしまうほどに、晴陽の恨みは深かった。

「性格が悪いのは認めるよ。でもね晴陽ちゃん、オレさ、鈍感すぎる女の子って好きじゃないんだよね」

「はあ? 何が言いたいんですか?」

「わからない? 今日ここに来てくれたってことはさ、凌空くんは晴陽ちゃんのことが好きなんだよ」

 情けない話、晴陽は見事に動揺させられた。

「……いや、そ、そんなわけないですよ……凌空先輩は私が菫さんになることを強制される前に、助けてくれようとしただけだと思います」

「ほら、そういうところが嫌なんだよ。それに、晴陽ちゃんの好意に胡坐をかいて自分から何もしない凌空くんも気に入らない。だから発破かけてやった。ね、オレって恋のキューピッドみたいだと思わない?」

 全く同意できないし、胸を張って話す内容ではないと思った。キューピッドを自称するくせに、蓮は彼自身の「嫌だ」という感情でしか動いていない。

 そして何よりそのやり方がもう、どうしようもないくらいに捻くれている。

「でも、百歩譲って発破をかけてくれたと思ったとしても……最悪の煽り方ですよ……」

 晴陽は蹲り地面に目を落とした。仮に蓮の推測が当たっていて、凌空が本当に晴陽のことを少しは気にかけてくれていたとしても、今日の出来事を経て大いに嫌われてしまったかもしれないのだ。

「あ、勘違いしないでほしいんだけど」

 晴陽の隣にしゃがみ込んだ蓮の顔が近づいてくる。睫毛の長い大きな双眸に、強制的に視線を合わされた。

「誤解させちゃったら申し訳ないからハッキリ言うけど、凌空くんが好きになったのは晴陽ちゃんじゃなくて、君の中で生きる菫だからね?」

「……意味がわからないのですが」

「だからね、菫が凌空くんを好きになって、凌空くんも菫を好きになった。君が菫として生きるのなら両想いだけど、『晴陽ちゃん』であることを主張するのなら……第三者の君は失恋したってことになるからね?」

 あまりにも横暴な理屈には、反論せざるを得ない。

「納得できませんね。凌空先輩は私と菫さんが違うことを証明してほしくて、駄々をこねているんですから」

「晴陽ちゃんには証明なんてできないよ。オレの我儘を受け入れてしまう優しさと甘さがある君は、いずれ菫になる選択をするだろうし。あ、もし君が『晴陽ちゃん』として生きようとするなら、オレは君の恋路を徹底的に邪魔するからね。オレは菫に凌空くんとくっついてほしいもん」

 頭がこんがらがっておかしくなりそうだ。蓮の思想……いや、申し訳ないが彼の存在自体が凌空との幸せな未来の前に立ち塞がる大きな障害だということは明確なのだが、今の晴陽には蓮の思惑や打算を阻止する方法を思考できる余裕なんてなかった。

 晴陽は立ち上がり、「帰りましょう」と言ってスカイデッキの出入口へ向かった。

「あれ? 案外普通の反応だ。もっと凹んでほしいんだけどな」

「これ以上蓮さんに付き合っている暇はないんです。私は逢坂晴陽が都築凌空を本気で愛しているっていう、目には見えない愛を証明しなくちゃいけないので忙しいんですよ」

「だからあ、君にはできないって。……まあいっか。無謀なチャレンジでも一度は温かく見守ってあげるのが、お兄ちゃんの役割だしね」
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