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Lesson5 恋の愛印《メジルシ》

STEP③ 冷たい季節

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 冬の日を追っていくごとに寒さを増し、日本中は冬の匂いに包まれていた。寒波によって気温が上がらなくなった日本は歴史的な低い気温を更新していると、テレビで俺と同じくらいの年代の天気予報士のお兄さんが言っていた。事務所の中は温かい空気を纏い、過ごしやすい。
 しかしいくら環境が良くても、この事務所に今入っている仕事はなかった。クリスマス商戦のポスターの依頼や新作ケーキのお知らせのポスターの依頼はもう完遂し、ピークはすぎている。毎年市で行われる年越しイベントのチラシの依頼もすでに終わっていた。市は地元密着型のこの事務所を贔屓ひいきしてくれていて、毎年依頼をくれるのだ。

 今回も依頼があるだろう、とこちらは先回りをして大体のデザインを決めてしまっていた。後は依頼者の要望に沿えるように修正を加えるだけですぐにできてしまう。あまりの早さに市の職員は電話越しで驚いていたようだ。その他の依頼も完了し、完全な仕事休業に移行しようとしているpaletteの従業員。
 本来であれば俺はゆったりと怠け者状態に移行したいのだが、小坂の注文でCMFの勉強をする羽目になってしまった。そこまで切り詰めてすることでもないのでまだ楽ではあるのだが、金属、プラスチック、布、樹脂など様々な素材についての知識を必要とするため、かなり難儀な作業だった。もう科学の分野だ。樹脂にこの色を塗るとどう見えるか。この布の耐久性・耐光性・耐熱性はどうか。頭がパンクしそうだ。
 俺は疲弊をこしらえた視線を振る。小坂はコーヒーを飲みながら持参した本を読み、時折本に線を引いたり付箋を貼ったりしている。その姿は受験勉強に励む高校三年生ではなく、ただ興味のあることを探求する少年のようだ。俺は微笑ましい小坂の姿に感化され、もう少し頑張るかと一回背筋を伸ばしてから作業を再開させた。


 凝り固まった腰や肩を自分で労わりながら季節に活気づいた街中を歩く。クリスマスなんてものは、社会人となった俺にとって仕事の繁盛期でしかなかった。つまり八年もの間、俺はクリスマスを一人で過ごすことが多かったのだ。しかし、今の俺には海香ちゃんがいる。さすがにクリスマスかイブの日のデートは俺から誘うべきだろう。たぶん、海香ちゃんも楽しみにしていると思うし。まあ、特に何か凝った演出をしようとか考えてるわけじゃないけど。
楽しく過ごせればそれでいっか。
 昨晩、コネクトで会話している際に今日デートする話になった。今日はクリスマスの予定にデートを取りつけるのが目的だ。言わば前哨戦なのである。
 なんか館花さんから出された宿題みたいだな。意外とあれも無駄じゃなかったのかもしれない。
 待ち合わせ時間まで少しあった。近場のカフェで時間潰しをする。俺はカフェ店に入り、適当な席に着いた。


 やばい! 遅刻だ!
 俺は夜に染まった街の中を走っていた。スマートフォンのネット検索で色々調べていたら偶然見たことのないアニメに出会ってしまい、夢中になってしまった。ふと時間を確認すれば、カフェ店を出る予定時刻をすぎていたのである。
 街に白い吐息を溶けさせながら走ること数分。店頭に小さな階段があるお店に着いた。寿司店。もちろん回る方だ。
 俺はお店に入る。
「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
 オーシャングリーンの制服に身を包んだ爽やかな眼鏡姿の男性が迎えてくれた。
「待ち合わせなんですけど」
「あ、はい。お待ちしておりました。どうぞ」
「すみません」
 俺は店の奥へと進む。ボックス席の一つに海香ちゃんの姿があった。
「ごめん。遅れて」
「もう、遅いわ」
 俺は席に着く。
「本当にごめん」
「まあええけどさ」
 海香ちゃんはちょっとすねた顔をする。
「まだ食べてなかったんだ」
「うん。来てからでええかな思って」
「今日は奢るよ」
 俺はここで遅れたお詫びに気前のいいことを言ってみる。
「ええよ。そんな無理せんでも」
「大丈夫。給料日までもう少しだし」
「そう? じゃあ、お言葉に甘えます」
 海香ちゃんは掌を合わせて喜ぶ。
「ふふ。じゃ、食べようか」
 俺は机の端にある小皿を取り、醤油を小皿に落とした。


 十分後、俺と海香ちゃんの机の端には重なった皿があった。
「お疲れやね。亨二さん」
「そう見える?」
「うん。もうクタクタやって感じ」
 そんな風に見せるつもりはなかったのだけれど、顔に出てしまっていたらしい。
「まあ、ちょっと忙しい日が続いてやっと収まった感じだから、一気に疲れが来たみたいだね」
「そんな時にデートに来て良かったん?」
「ああ、全然気にしないでいいよ。海香ちゃんとデートできたら疲れも吹っ飛ぶだろうし」
 海香ちゃんはふふっと微笑む。
「上手いこと言うなぁ。亨二さん」
「そうかな?」
「あ、言うとくけど褒めてへんで?」
「ええ……」
 海香ちゃんはクスクスと笑う。
「仕事は落ち着いてる割には今日も大変そうやった感じやけど」
「ま、ちょっと同僚が勉強してるからその付き合いをね」
「デザインの?」
「そうそう」
 俺は回転レーンからウニを取る。
「やっぱ勉強とかもするんや」
「まあね」
「教えてるん?」
「いや、お互いに勉強しあって、実践で生かそうとしてるんだよ。ただ、専門外のことも出てくるからちんぷんかんぷんだけどね」
 俺は苦笑してウニを一つ口に入れる。
「へぇー」
 海香ちゃんはレーンからイクラを取る。
「海香ちゃんの仕事先はこの時期忙しくないの?」
「うちの会社はあんまり関係ないかな」
「そっか。まあ、ゆっくりできるのは羨ましいね」
「だらしない発言やな~」
 海香ちゃんは呆れながらも口に笑みを浮かべる。
「いいじゃん。もうクタクタなんだからさ~」
 俺はナマケモノの顔真似をして、背中を丸くした。

 俺達はお店を出た。
「ご馳走様。亨二さん」
「どういたしまして」
「あぁ寒いわ~」
「雪降りそうだね」
 俺達は街の中を歩きだす。青と白のLDEが道の端に剪定せんていされた植木を装飾していた。夜の金曜日ということもあって仕事帰りに寄り道している人も多いようだ。会話を弾ませながら人の行き交う道をゆっくり進んでいく。
「亨二さん」
 不意に海香ちゃんが俺の名を呼んだ。
「もう少し歩かへん?」
「え? ああ、いいよ」
 笑みを残して、海香ちゃんは前を見る。
 俺は妙な雰囲気を感じ取って、海香ちゃんの少し後ろをついていく。海香ちゃんが案内する道は駅からどんどん離れ、オレンジの外灯が等間隔に灯る橋にさしかかっていた。橋の下は大きな川が流れ、左右二車線ずつの道路が整備されている。歩道の道幅はけっこう余裕があり、幅の広い橋だった。更待月ふけまちづきは夜空に浮かぶ雲から見え隠れする。よし、そろそろ言ってみるか。
「亨二さん」
 俺が海香ちゃんを呼ぶ前に、海香ちゃんは俺を呼んだ。海香ちゃんは歩みを止めていた。
「な、何?」
 俺はタイミングを失い、慌てて聞き手に回る。海香ちゃんは先ほどまでの楽しそうな表情から一変し、真面目な表情をしていた。
「亨二さん。私は、亨二さんが好き……」
 今更だな。
「もちろん、知ってるよ」
「……」
「……?」
 海香ちゃんは不安そうな顔で見つめてくる。冬の寒ささえ忘れていた今までと違う空気に困惑していると、海香ちゃんは口を開いた。

「でも亨二さんは……私よりも好きな人がおるんやない?」
 冷たさを感じるような言葉は、俺の耳にはっきり聞こえた。車が横を通り抜け、アスファルトとタイヤの摩擦音が俺達の間に残った。
「え?」
 俺は不意の問いに思わず絶句した。冗談で済ませようという雰囲気すら海香ちゃんからはうかがえない。
「どうしたの? 海香ちゃん?」
「お願い。答えて」
「……」
 海香ちゃんは表情を崩さない。
「海香ちゃんより好きな人なんていないよ。浮気してるって疑ってるの?」
「そうやない」
 海香ちゃんは暗い声でそう言った。
「花冠……」
 海香ちゃんは呟いた。
「友人の結婚式のプレゼントやってゆうてたあの花冠。すごい綺麗にできてた。何度も練習して作ったんやろ?」
「それが、どうしたの?」
「亨二さんは私と付き合う前に、付きおうとった人がおってんやろ?」
「蘭子から聞いたの?」
 海香ちゃんは黙って首肯する。
「もう別れてるよ。それにあれは恋人ごっこみたいな物で、付き合ってたっていうのでもないよ」
「それは蘭子先輩から聞いてる。恋人体験やろ? うちと亨二さんが出会った時には別れてた」
「じゃあ、なんで?」
「うちの会社の社長の友達が結婚式やったらしくて、そこにうちの社長がおったんよ。でも結婚式は中止なった。花嫁が途中で退席したまま出てこんようになったんやって」
 聞き覚えのある話。点と点が繋がった音がした。
「社長が見せてくれたんよ。花嫁の写真」
 そう言ってスマートフォンを鞄から取りだし、スマートフォンを操作する。そして、俺にその画面を見せてきた。
「花嫁さんの被ってる花冠。亨二さんの作った花冠と同じ物やった……」
 俺は目を疑った。画面いっぱいに表示された画像は新郎と花嫁がアップで映っていた。スマートフォンに映しだされた写真の花嫁は紛れもなく、館花さんだった。
「この人やろ? 亨二さんが付き合ってた人……」
 俺は息を呑む。

「そう、だけど……」
 海香ちゃんはスマートフォンをかざしていた手を下げた。
「この人が結婚式場から逃げだした理由って、亨二さんが原因ちゃうの?」
「……」
 どうすれば分かってもらえるのか。どう答えれば理解してもらえるのか。張り詰めた二人だけの空気に俺の体が緊張する。
「……好きだって言われたよ。でも、断った! 俺は海香ちゃんといたいから」
 俺は誤解を解こうとする。
「じゃあ、なんで頑張って花冠作ったん?」
「え?」
「祝儀で良かったやん! 何度も同じような物作って、手をボロボロにして、休みもせんでなんで作ったん!? 好きやったからやないの!?」
 捲し立て、質問をぶつける海香ちゃんの語気は、悲痛な叫びへと変わっていた。
「俺があの人に好きって言われた時には海香ちゃんと付き合ってた。その時にはもう、海香ちゃんの方が好きだった! これは本心だよ!」
「嘘や……」
 海香ちゃんは首を振って、泣きだしそうに声を詰まらせる。
「ほん」
「嘘やッ!!」
 海香ちゃんは冷たい風を割くような強い語気で遮った。
「亨二さん。嘘つくの下手や……」
 俺は固まってしまう。
「亨二さんは、ただうちをその人のにしてるだけや」
 代わり……。
 俺は言葉を失った。動揺させる一言を口にした海香ちゃんの目から、涙があふれていた。
「うちはそんなんで、亨二さんに好きになられても、嬉しくない……」
 海香ちゃんはうつむき、切ない声でそう言った。
 俺は唇が震えているのを自覚した。自分が犯した最大の罪に気づかされてしまったのだ。
「もう、連絡してこんといて……」
 酷く辛そうな泣き顔で、海香ちゃんは俺から逃げるように走っていった。俺に追いかける気力などなかった。彼女を引き留める言葉も、持っていなかった。
 海香ちゃんの背中が遠くなる。滲む視界に、うっすらと牡丹雪が海香ちゃんの背中を隠すように降りてきた。雪は俺の頬に優しく触れて溶ける。触れた頬に伝わった冷たさは、沁みこんで痛みへと変わっていくようだった。
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