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18 武神降臨
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武神降臨
少しずつ夏の訪れを感じさせる緩やかな熱気と、そこに時折吹き込む春の名残の涼風とが、ない交ぜとなって心地よく体を包む。それに身を委ねながら、貞将は静かに目を閉じた。
聞こえる。
軍馬の嘶きと、甲冑の擦れる音が。
兵たちの喚声が。
――いよいよだな。
既に洲崎の戦いで赤橋守時が壮烈な最期を迎えたことも、極楽寺口で大仏貞直が獅子奮迅の働きを見せて敵将大舘宗氏を討ち取ったことも、耳には届いている。
残るは、自分だ。
迎え撃つのは、おそらく新田軍でも最強の精鋭部隊――義貞みずからが率いる本隊である。
滾るような闘志が、体中を駆け巡る。
大きく深呼吸をすると、体の奥底から漲ってくるようだ。
鎌倉の地へ足を踏み入れさせている以上、いくさは圧倒的に不利な状況にある。そのことは疑いようがない。
思えば、こうなる前におのれにはできたことがあったのではないか――ここへ出張ってくるまでは、そんな自責にも似た思いに捉われてもいた。実際、敵方の総大将としてこの鎌倉を陥れようとしている新田義貞とは、これまで何度もそのような話を交わしてきたではないか。
義貞もまた鎌倉を愛していると言った。その愛する地を馬蹄で蹂躙することは本意ではなかっただろう。たとえ主上の名を受けてのことであったとしても、あるいは源氏の棟梁たる足利高氏と歩調を合わせる必要があったにせよ、やはり義貞の心には深い悲しみと、この事態を招いた貞将たちに対する憤りがあるはずだ。
今の自分には、それを真っ向から受け止めることしかできない。
そうすることが、義貞への友情を証し立てる唯一の方法だろう。
「みなの者」
後ろに控える兵たちに、大音声で呼ばわった。
「我等はここで敵を食い止め、そして押し戻す。これより先へは一兵たりとも通すことまかりならぬ。よいなッ!」
おおおおおっ。
地鳴りのような怒号が辺り一面に響き渡る。
兵たちの気魄もまた貞将に負けていないようだ。
――よし。
たしかな手応えを得た貞将は、蒼天に向かって高々と拳を突き上げた。
「者ども、かかれえッ!」
号令一下、鯨波の如きうねりを上げて、貞将の軍勢は新田軍に襲い掛かった。
「さすがは金澤殿。おのれから攻めかかってくるとは」
新田軍の本陣では、前線からの報せを受けた義貞が嬉しそうに膝を打っていた。
――貴殿の心意気、この義貞、喜んで受けて立とうぞ。
立ち上がると近習に、
「俺が出る。馬を引け」
と、命じた。
駆け出す近習の背中を見送りながら、
「はや兄者みずからがお出ましになるのか。今少し様子を見てからでも遅くは――」
言いかけた弟の義助を、義貞は鋭い眼差しで制した。
「それはならぬ」
凛然とした声音には、強い意思が込められている。
「金澤殿は俺がこの鎌倉で誰よりも認めていた人物だ。俺だけではない。誰もが幕府の屋台骨を支えて欲しいと期待していたのだ。当の本人には欲がなく野心もなく、とうとうそれは果たされることがなかった。その無欲と清新さこそが今日のこの日を招いたと、自身も気付いているだろう。忸怩たる思いに苛まれながらも、せめて華々しく戦い、鎌倉武士としての意地や誇りを満天下に見せつけることによって、幕府の末期を美しく飾ろうと燃えているのに違いない。であれば、その相手は他の誰であってもならぬ。その鎌倉を攻め落とそうとする総大将の、この俺でなければな」
「しかし、兄者の身に万一のことがあったらどうする」
「その時は、おぬしが指揮を取れ。武芸の腕では俺が勝るが、将帥としての能力では、もともとおぬしのほうが優れているのだ。問題はあるまい」
「それは違うぞ、兄者。将帥とは能力だけでは務まらぬのだ。俺では将兵はついてこぬ。我等には兄者の存在が必要なのだ」
「嬉しいことを言う」
義貞は莞爾と微笑み、
「ならば、おぬしらのために生きて戻ってきてやる」
少年のような口調で、そう言ってみせた。
馬上颯爽と戦場を駆け巡り、鬼神の如き働きで敵兵を薙ぎ倒していく貞将の勇姿に、人々は武神の降臨を見た。
――これは、もはや人ではない。
神だ。
誰もがそう思った。
敵の刃はその体に掠ることも許されず、放たれた矢はみずからの意思で彼に当たることを避けているかようであった。
敵兵たちもまた、そんな彼に恐れを超えた畏敬の眼差しを向けている。
それを受けながら、貞将は剣を振るう。
その心に邪念はない。
ただひたすら、この一瞬を輝かしきものとするためだけに、彼は戦っている。
「さすがだな、金澤殿」
そんな貞将に、遠くから大音声で呼ばわる者がいた。
貞将は視線を送り、
「おお」
と、嬉しげに微笑む。
「お出ましくだされたか、新田殿」
「貴殿の働きぶりをこの目に焼き付けておきたくてな」
「死に土産に、でござるか」
「ほう、これはまた似合わぬ減らず口を」
互いに馬上から交わし合う言葉の端々に、ここで相まみえたことへの喜びが滲んでいる。
「いくさの大勢は既に決し申した」
義貞の言葉に後ろを振り返ると、なるほど、いつの間にか味方の兵はずいぶん少なくなっている。討ち取られたか、あるいは逃げ出したか。
「一応、、聞いておこう。武器を捨てて我等に降るおつもりはござるか」
「愚問」
貞将は笑い飛ばす。
「であろうな」
義貞も負けじと笑い返した。
「では、勝負いたすか」
「一騎討ちか」
「いかにも」
「むろん望むところ。新田殿とはいつか手合わせを願いたいと思っていた」
「俺もだ、金澤殿。もっとも、このような形で手合わせをしたかったわけではないがな」
「ああ」
ふたりは互いの顔を見合わせ、今度は寂しげに笑った。
「だが、仕方あるまい」
「そうだな。かくなる上は、ここで雌雄を決しよう」
言うなり義貞は、ゆっくりと前へ進み出た。
そして背中越しに味方の兵たちに向かい、
「これより、いっさいの手出しは無用ぞ」
高らかに命じた。
「わがほうも同じである」
貞将もまた自軍の兵たちに釘を刺す。
両者、さらに前進。
互いに頷き合った後――。
「いざ!」
「おう!」
ふたつの閃光が激しく交錯した。
北条高時、長崎円喜父子らは相次ぐ幕府軍の敗報を受けて御所を離れ、葛西谷の東勝寺へ身を移していた。
獅子奮迅の働きを見せた長崎高重や大仏貞直ら、各地の戦場から退いてきた武将たちも続々と集まってくる。
貞将の父金澤貞顕もまた、息子の貞冬に背負われるようにして、ここへやってきていた。
彼等の表情には絶望が色濃く浮かんでいる。
敗戦は誰の目にも間近と映っていた。かろうじて持ちこたえている金澤貞将の抵抗も、もはや時間の問題だろう。
新田義貞の大軍は、ほどなくこの鎌倉市街へなだれ込んでくる。
そうなれば、すべては終わりだ。
みな、それなりに覚悟を決めた様子である。
身だしなみを整える者、何事か書き留めている者、静かに白湯をすする者……。
おのおののやりかたで、最期の時に向けて心を落ち着けようとしている。そうした中にあって、
「ええい、なぜだ。なぜ、このようなことになったのだ」
ひとり場違いな金切り声で喚き立てているのは、長崎高資であった。
「薄汚き謀叛人どもに、我等幕府がむざむざ敗れるなど……。ありえぬ。絶対にそのようなこと、あってはならぬのだ」
気が触れたように哄笑する権力者の哀れな末路に、みな冷ややかな眼差しを向けるだけで言葉をかけようともしない。それをよいことに、
「そもそも――」
高資の口吻はいよいよ激しさを増していく。
「仕える主君が悪かったのだ。田楽舞と闘犬に狂ってまつりごとを顧みぬ者、縁戚から謀叛人を出す者……。揃いも揃って愚物ばかりよ。かような者たちが上に立って、偉そうにふんぞり返っておるものだから、公家衆などに足元をすくわれたのだ。高時よ、諸悪の根源はおのれぞ」
そう叫んで、上座の高時を指差した。
「我等を生かすために潔う腹を切れ、高時」
罵詈雑言の限りを尽くすかつての権臣の狂態を、高時は生気のない目で見詰めている。
「どうした、図星を突かれて反論の言葉もないか」
高資の声が高くなる。
「さあ、腹を切れ。腹を切って我等を助けるよう、新田義貞に命乞いを――」
言いかけた高資の体が、不意に沈んだ。
背後に能面のような円喜が立っている。
手には血塗れの短刀――。
ゆっくりと振り返った高資は驚愕に目を見開き、
「ち、父上……。わが子を……、わが子を手にかけられまするか……」
呻くように言った後、前のめりに倒れ伏した。
口から泡を吹きながら、小さく痙攣する。
その背に馬乗りになった円喜が、背中から心の臓をひと突きして、高資の鼓動を止めた。
「太守、申し訳ござらぬ」
短刀の血を拭うこともせず、しわがれた声で呟くように言う。
「不肖の息子の無礼、どうかお許し願いたい」
「いや、よい」
高時の声も掠れている。
「高資の申すとおり、儂は愚かな主よ」
「やはりあの時、息の根を止めておくべきでござった」
「あの時とは」
「田楽舞を催した、それがしの館での宴席にて」
「おお、そうであった。そなたと儂で相語ろうて、高資を討とうとしたのであったな」
高時は懐かしそうな顔をしてみせる。
「実の子である高資を斬ろうと持ち掛けられた時、儂はわが耳を疑った。しかし、そなたの思いが真剣であるとわかったゆえ、その策に乗ろうと決めたのだ。円喜よ、そなたの幕府を思う気持ちが本物であることを、儂はあの時、改めて思い知らされた。同時に、恐ろしいとも思うた。幕府を立て直すためにはおのれの息子さえも惜しみなく犠牲にしようとするそなたが」
「それゆえに、もろともにそれがしも殺そうとなされましたか」
「……やはり気付いておったのだな」
「気付かぬとお思いでござったか」
「気付かぬはずはあるまいな。それゆえ怖くなった」
「怖くなって刺客の口を封じてしまわれた」
「哀れなことをした。あの刺客――丹次にだけ、儂を狙うふりをしてそなたを狙うよう密かに指示をいたしたのは、他ならぬこの儂であった。他の者にはいっさい知らせずにな。うまくいくと思うたのだがなあ」
「せめてあの時、高資だけでも殺させておくべきでござった。それなのに太守、あなたは動転して刺客の命を奪ってしまわれた」
「儂は怖くなったのだ。目論見どおりに高資だけが死んだら、儂は顔色ひとつ変えずおのれの息子を生贄にしたそなたと一対一で対峙しなければならなくなる。儂には耐えられぬと思うた。それで、すべてをなかったことにいたそうと決めたのだ」
「なるほど、それで息子は命拾いしたわけでござるか」
円喜は静かに笑うと、
「そのご気性の優しさこそが太守でござる。それがしは、そんな太守が好きで、これまでこうしてお仕えしてまいりましたゆえな」
「気持ち悪いことを申すな」
高時が嬉しげに苦笑する。
「そなたに好かれるほど優しゅうはないわ」
「なんの、それがしほど太守のことをよう知っておる者はおりませぬぞ。そのそれがしが言うのだから、間違いはござらぬ。太守は生来、お優しいお人柄。それゆえにこそ、失礼ながら執権などには不向きなお方でござった」
「同意じゃ。儂は執権になどなるべきではなかった。やはり早いうちに貞将に職を譲って引退しておくべきであったわ」
「まあ、よろしい。すべては終わったことでござる」
憑き物が落ちたような、晴れやかな表情で言った。
「太守とはいろいろござったが、こうしてここでともに生涯を終えられることが、今となっては素直に嬉しゅうござる。実は、その最期を彩るのに相応しき趣向を用意してござるのだが――よろしいか」
「趣向?」
訝しむ高時。
円喜がポンポンと手を叩く。
「おお」
高時の口から驚きの声が洩れた。
円喜の合図を受けて現れたのは、まさにその刺客騒ぎの宴席で囚われ人となったはずの田楽舞の面々であった。
座長の丹次はあの時、高時の刃にかかって命を落としたが、伊三太はじめ他の者たちはみな顔を揃えている。
「桔梗、そなたも生きておったのだな」
高時は、最後列の少女に声をかけた。
以前よりはやややつれたが、可憐な面差しは今なお健在の少女――桔梗が、複雑な表情を浮かべながら、小さく頷く。
「わが命を受けたがゆえに、あのような危うき目に遭わせてしまいましたゆえ、わが屋敷に丁重に留め置き申した次第。新田軍がこの鎌倉へなだれ込んで来る前に逃がしてやろうと思い、連れ出してまいりました。逃げる前に少しだけ、ここで舞を披露してくれぬかと頼んだところ、快く引き受けてくれましてな」
「おお、そうか。我等の死出の旅を見送ってくれるのだな」
高時の声が華やいだ。
「ありがたい。ぜひ舞を見せてくれ。もしも、そなたたちがこの儂を許し、哀れと思うてくれるのならば、せめて一指しだけでも――」
「心得ました」
主を失った一座を代表して、伊三太が応える。
「いざ、ご笑覧あれ」
後ろを振り返って、仲間たちに目配せをする。
ぴい、ひゃらり。
笛の音が軽妙に弾む。
とん、とん。
調子を合わせる鼓の音も軽やかだ。
風流笠を頭に乗せた男女が、体をくねらせながら舞う。
優美でいて、そこはかとなく洒脱。
かつて、まだ幕府が頽廃の兆しを見せつつ華やかさを失わずにいた頃と、寸分違わぬ雰囲気の、愉しく艶やかな舞だ。
「見事だ」
高時は手を叩いて褒めそやした。
「最期に素晴らしき舞を見せてもろうた。これで心置きなく死出の旅路に着くことができる」
「太守」
円喜が声をかけた。
「この者たちの舞が奇跡を呼んだようでござるぞ」
「なに、奇跡とな」
「あれをご覧じろ」
そう言って円喜が指差した先に――。
「おお、貞将」
高時はひとりの若武者の勇姿を見止めた。
若武者は傷ついていた。甲冑の至るところに矢を受け、血の匂いを全身から漂わせている。足を引きずりながら、ゆっくりと、しかしながらしっかりとした足取りで、彼はこちらへ近づいてくる。
「太守さま、約束どおり生きて戻ってまいりましたぞ」
その声を聞いた瞬間、高時の目から滂沱の涙が零れ落ちた。
「よくぞ……、よくぞ生きて戻ってくれた」
声を震わせながら近づいてきた高時は、膝から崩れ落ちた貞将を支えるように、そっと抱きかかえた。
「申し訳ありませぬ。敵の鎌倉侵入を防ぐことは叶いませなんだ」
「なんの、謝ることはない。もはや幕府の終焉は変えられぬ定めだったのだ。儂が執権となったその日から、こうなることは決まっていた。天命なのだ、これが」
「その天命さえも変えられるほどの武将に、願わくばなりとうござりました」
「なんの、儂が意固地にならず、みなの願いを汲んでそなたに執権職を譲り渡してさえおれば、あるいは天命はこのようではなかったかもしれぬ。その機会を、儂はみずから逃してしもうたのだ。今日の始末は、いわばその天罰であろう」
高時はそう言って、流れ落ちる涙を拳で拭う。
「見よ、貞将。田楽舞ぞ。我等の最期を彩ってくれているのだ」
見上げた貞将の視線が、桔梗を捉えた。
貞将は驚いたようであったが、すぐに平静を取り戻し、透き通るような笑顔を浮かべてみせた。
桔梗も、それに応えて微笑み返す。
そんなふたりの様子を、傍らで円喜が嬉しそうに見詰めている。
今、この場に流れている穏やかな空気は、これまで誰もが味わったことのないものだった。そして、誰もが心の中では望んでいたものだった。
最後の最後に、それを手にすることができた幸せに、男たちはしばし浸った。
やがて、
「円喜、そろそろこの者たちを下がらせよ。あまり留め置いては、彼等を危険に巻き込んでしまう」
高時が、凛然たる声音で命じた。
「心得ました」
円喜は頷き、一座に退出を指示した。
みな踊るのをやめて、高時らのほうを向き、深々と一礼する。
「大儀であった。そなたたちの田楽舞は日の本一ぞ」
高時の言葉を背に、そそくさと立ち去る一同。
その最後尾に立った桔梗が、去り際にもう一度、貞将のほうを振り返った。
無言のまま見詰め合う。
ふたりは、ともにその視線に万感の想いを込めた。
それは間違いなく互いの心へ届いたことであろう。
桔梗はそれを信じて、踵を返した。
貞将もそれを信じて、その華奢な背中を見送った。
「太守さま」
一座が見えなくなった後、貞将は高時に向かって言った。
「それがしはもう一度、戦場へ戻りまする」
「なんと」
驚く高時。
「なにゆえぞ」
「かくなる上は、太守さまはじめみなさま方には、鎌倉武士の名に恥じぬ堂々たる最期を飾っていただかねばなりませぬ。そのためには、もうしばらく時を稼ぐ必要がござりましょう。それがしが今一度、敵を食い止めまするゆえ、その間にどうか見事なご最期を――」
「よくぞ申された、金澤殿」
円喜が叫ぶように言った。
「その心意気、しかと受け止め申した。後のことはご懸念なく、存分に戦われよ」
「心得た」
飛び出そうとする貞将を、
「待て」
高時が押し止める。
怪訝そうな顔をする貞将に、ゆっくりと近付くと、その肩を強く叩き、
「わが北条一門の武名を天高くまで轟かせよ、金澤相模守貞将」
瞬間、貞将がハッと目を見開いた。
「金澤……相模守……」
呟きと同時に、双眸から涙が流れ落ちる。
相模守――この官職は、北条一門の中でも執権職に就くものだけが得られるものだった。高時は今、貞将にこの相模守の官職を与えたのだ。
むろん官職とは本来、朝廷が与えるものであり、いかに絶大な権勢を持つ得宗とはいえ、勝手にこれを与えることなどできない。つまり、この叙任は当然のことながら実質的な効力を持ってはいないのだが、貞将にとって、そのようなことはどうでもよかった。
相模守の官職を与えるということは、取りも直さず執権の地位を与えるということである。高時は今、紛れもなく貞将を次なる執権と見なしたのだ。
栄華を誇った北条家が滅びようとする、まさにこの日――。
鎌倉最後の執権、金澤相模守貞将が誕生したのである。
「太守!」
涙声の貞将を、高時は笑顔で励ます。
「存分に働いてまいるがよい。そなたの武勇伝は、あの世でとくと聞かせてもらうゆえな」
「はい」
「金澤殿、よろしくお願いいたしまする」
円喜が進み出てきて、貞将の手を取った。
「後のことはご懸念あるな。我等は我等で、鎌倉武士に相応しき最期を飾ってみせようほどにな」
「わかりました」
貞将は力強く頷く。
「方々の思い、この貞将が背負ってまいりまする。どうか、見守っていてくだされ」
ふたたび修羅の戦場へ向かおうとする勇者の背中を、みなの熱い眼差しが見送った。
鎌倉市街は既に新田軍の将兵で満ちていた。
抵抗している者は、ほとんどいない。
いくさは、終わったのだ。
新田軍の、まさに圧勝だった。
――とうとう我等は幕府を滅ぼしてしまったのだ。
義貞は、半ば呆然と馬上から部下たちのはしゃぐ姿を見詰めていた。
事ここに至って、彼はようやくおのれがとんでもないことを成し遂げたのだと実感した。源頼朝による開闢以来、百四十余年にわたって諸国の武士たちの頂に君臨しつづけた幕府を、この地上から消滅させたのだ。
これから世の中はどうなっていくのだろう。
六波羅探題を陥落させた足利高氏の導きによって、既に主上は京への帰還を果たしている。宿願であるという公家一統の世とは、どのようなものなのか。義貞たち武士は、その新たな世において、どのような役割を担うことになるのか。何もかもが未知数である。
――本当にこれでよかったのだろうか。
思いもよらぬ形で戻ってきた、愛着ある鎌倉の地。
勝ちいくさへの喜びよりも、戸惑いや不安のほうが大きかった。
聞けば主上は、足利高氏に早くも絶大なる信頼を寄せておられるという。もしこの先、高氏が征夷大将軍となって、鎌倉幕府に代わる新たな幕府を開くようなことがあれば、自分たちは当然、その風下に立たされることになるだろう。今こうして喜びを爆発させている兵たちは、はたしてそれを受け入れられるだろうか。弟の脇屋義助や、腹心の堀口貞満はどうか。
そして、何よりも自分自身は……。
――いくさはこれが終わりではないかもしれぬ。
義貞の心に、そんな思いが芽生えた。
むしろここから先が、無間地獄なのではないか。
おのれは今、まさに出口の迷路へ入り込んでしまったのではないか。
甲冑を着込み、暑いはずの背中を、冷たい汗が流れ落ちた。
「兄者」
近づいてきたのは、弟の脇屋義助だった。
「とうとうやりましたな」
「ああ」
興奮気味な義助とは対照的に、義貞の応えはどこか虚ろである。
「鎌倉を攻め落とした功績は大きい。主上は必ずや我等に関東のまつりごとをお任せくださるでしょう。北条がなしえなかった武家による武家のためのまつりごとを、我等が実現させるのでござる。楽しみでなりませぬ」
「武家による武家のためのまつりごと、か」
呟く義貞の表情は暗い。
「それができる御仁に、やっと巡り合えたのにな」
「金澤殿、でござるか」
義助が訝しげに問いかける。
「はたして彼の御仁は、本当にそれほどの人物だったのでござろうか。先程の兄者との一騎打ち、たしかに見事な腕前ではござったが……、まさか途中で放り出していくとは」
「致し方あるまい。一門の命運が今まさに尽きようとしていると報せが届いたのだ。だからこそ、それを見届けたらふたたび儂の前へ姿を見せると約束して行かれた」
「はたして本当に戻ってくるとお思いか。東光寺で一門とともに果てておるかもしれませぬし、あるいは混乱に乗じて何処かへ――」
「それはない」
強い口調で義貞は断言する。
「彼の御仁にかぎって、そのようなことは決してありえぬ。必ずここへふたたび現れるであろう。儂はそう信じている」
「兄者はお人がよろしい」
義助がそう言って、親しみに満ちた笑みを浮かべた時である。
「殿、あれを――」
ご覧くだされ、と叫んだ武士がいる。
義貞と義助は、視線の先にひとりの武者の姿を見止めた。
「どうやら敵将の生き残りのようでござるな。何を思うてか、ふらふらとこちらへ近づいてまいるが、いかがいたそうか」
瞬間、義貞の目がカッと見開かれる。
「義助、あれは――」
「ああ、間違いない。金澤殿でござる」
「見ろ、儂の言ったとおりであろうが」
興奮して叫び、義貞は馬から飛び降りた。
「みな、手出しは無用ぞ」
鋭い声で兵たちに指示すると、急ぎ足で朋友のもとへ駆け寄ろうとする。
と、ゆっくりと歩きながら、その鎧武者――金澤貞将が腰の刀を抜き放った。
「金澤殿、ようお戻りくだされた」
義貞が呼びかける。
「待たせたな、新田殿」
貞将は莞爾と微笑んで言った。
「約束は果たしたぞ」
「金澤殿、我等はもう存分に戦った。俺と貴殿の一騎打ちも、勝負がつかぬまま分ける形となったが、俺は満足している。おそらく生涯これほどの敵に出会えることはないだろう。楽しく、幸せな勝負だった」
「私もだ、新田殿。必ず生きて戻るという太守との約束がなければ、あのままいつまでも戦いつづけていたかったほどだ」
「見てのとおり、いくさはもう終わった。鎌倉幕府は滅びたのだ。貴殿は約束を守り、鎌倉武士としての面目を立てられた。この上は、何処かへ落ちられよ。朋友として命まで取りたくはない」
「ご厚情かたじけない。しかし、私はここから逃げるわけにはいかぬ」
「なぜだ。北条の一門だからか。得宗高時の弟である泰家は、既に行方知れずになっていると聞いたぞ」
義貞の言うとおり、泰家は敗戦を喫した後も鎌倉へ戻らず、行方を消していた。金澤貞顕の執権就任を拒み、鎌倉にひと悶着起こした張本人が、この期に及んで命を惜しんだかと、みなは口々に非難したが、兄の高時は端然と、
――あいつはそれほど軟弱な男ではない。いずれどこかで再起を期するつもりなのであろう。
そう言って、深くは追及しなかった。
「さにあらず」
貞将はしかし、静かに首を振った。
「ただ北条の一門であるというだけならば、いかようにもしよう。だが、今の私にはそれは許されぬ。なぜなら私は――晴れて金澤相模守貞将となったからだ」
「金澤相模守貞将? それでは――」
義貞の声が上ずる。
「貴殿はついに……」
そこから先は、涙で声にならなかった。
「私は太守から鎌倉の最後を託されたのだ。だから、ここから逃げるわけにはいかぬ」
「遅かった……。あまりにも遅かった……」
義貞が肺腑の奥底から絞り出すように言った。
「せめて……、せめてあと二年早くそうなっていれば……」
「言うな、新田殿。今さら悔いたとて詮なきこと。私はこの鎌倉幕府をここで見事に終わらせる。後事は貴殿たちに託そう。よき世を作ってくれ。武士も公家も、むろん民百姓も、みなが憂いなく暮らせる世を」
「金澤殿……」
「本来ならば、東勝寺で一門のみなとともに腹を切るべきところだが、どうしても貴殿にこのことを知らせたくて、出てまいった。私の思い、しかと受け止めてほしい」
「受け止めた! たしかに受け止めたぞ、金澤相模守殿!」
声を震わせながら、義貞は叫んだ。
「されば、どうする。今一度、先程の一騎打ちのつづきをいたすか」
「いや、やめておこう」
貞将は小さく微笑んだ。
「私はもう傷だらけだ。貴殿に勝てるとはとうてい思われぬ」
「そうか」
「一騎打ちで無様に倒されるよりは、ここで潔く自害させてほしい。勝手を言って申し訳ないのだが、貴殿にはその介錯を頼みたいのだ」
「介錯?」
「ああ、ぜひ頼む。朋友として、私の人生の花道を飾る手助けをしてほしい」
「金澤殿」
「私も鎌倉武士の端くれとして生まれた以上、新田殿ほどの武人に討ち取られて死ねれば本望だ。これまで私が生きてきた道がたしかなものであったと、貴殿に証し立ててもらいたい。どうだ、新田殿。わが最後の望みを聞き入れてくれるか」
「……心得た」
義貞は声に力を込めた。
「その役目を俺に託してくれたこと、朋友として嬉しく思う。俺に頼んでよかったと思えるよう、見事な介錯を務めさせてもらうぞ」
「かたじけない。貴殿ほどの武者がそう請け負ってくれるのなら、安心だ。正直、痛いのはもうたくさんだからな」
貞将は諧謔交じりに言って、ゆっくりと腰を下ろした。
そして、静かに目を閉じる。
心は、不思議なほどに穏やかであった。
――わが生涯に悔いなし、か。
端正な口元がかすかに綻ぶ。
しっかりとした足取りで近づいてくる義貞を迎えるように、爽涼な風が貞将のほつれた髪を遊ばせていた。
貞将が朋友の手で黄泉路へ旅立ったのとほぼ同時に、東勝寺に集まっていた面々も一斉に自害して果てた。
老齢のために手元が狂い、見苦しい失敗を犯しては面目が立たぬと、長崎円喜は孫の高重の手を借りて命を絶ち、その高重は豪快ないくさぶりを髣髴させる壮絶な切腹を遂げた。同じく自害に踏み切ることを躊躇した心優しき金澤貞顕は、わが子貞冬に励まされ、互いに差し違える形で最期の時を迎えた。
そして高時は――。
みなの死をひとり端然と見守りつづけ、ついに最後のひとりとなると、舞うような仕草でふらりと立ち上がった。
後年、世の人々は、栄華を誇った鎌倉幕府にこのような末路を迎えさせたのは、この高時の暗愚さゆえと罵り、嗤い、そして蔑むだろう。口惜しいことではあったが、もはや今の彼には、それに抗う気持ちはなかった。
赤橋守時も大仏貞直も、あの長崎円喜でさえ、愛する鎌倉を守るために懸命に生き、戦い、そして死んでいった。彼等の生を意味あるものにしてやれなかったとすれば、紛れもなくおのれの罪だと思った。
罪は、償わなければならない。
そう感じた次の瞬間、
――いや、彼等の生は決して無意味なものなどではなかった。
と、高時は思い直した。
世の人々は、彼等が鎌倉に注いだ愛や情熱を理解してくれるだろう。それがたとえ自分たちに敵対し、幕府をここまで追い込んだ者たちであってもだ。それだけのものを、自分たちは示した。
最後にそれを託した金澤貞将の死にざまを、高時が知るすべはない。だが、あの貞将ならば間違いはないと、今は心から信じることができた。不甲斐ない自分に代わって、貞将は鎌倉幕府の――北条一門の意地と誇りを見せつけてくれたはずだ。その彼を最後の最後に相模守に任じた自分の手柄を、あの世で待つ父や先祖たちも、きっと認めてくれるだろう。そうに違いない。
――儂が腹を切るのは、彼等への罪を償うためではない。儂もまた北条一門に列する者として、この鎌倉幕府の最後を彩る使命があるからなのだ。
そう思えた彼の心は、三十余年の生涯でもっとも晴れやかな瞬間を迎えていたかもしれない。
轟々と燃え盛る炎の中で、高時は穏やかな笑みを浮かべ、静かに腹を切った。
少しずつ夏の訪れを感じさせる緩やかな熱気と、そこに時折吹き込む春の名残の涼風とが、ない交ぜとなって心地よく体を包む。それに身を委ねながら、貞将は静かに目を閉じた。
聞こえる。
軍馬の嘶きと、甲冑の擦れる音が。
兵たちの喚声が。
――いよいよだな。
既に洲崎の戦いで赤橋守時が壮烈な最期を迎えたことも、極楽寺口で大仏貞直が獅子奮迅の働きを見せて敵将大舘宗氏を討ち取ったことも、耳には届いている。
残るは、自分だ。
迎え撃つのは、おそらく新田軍でも最強の精鋭部隊――義貞みずからが率いる本隊である。
滾るような闘志が、体中を駆け巡る。
大きく深呼吸をすると、体の奥底から漲ってくるようだ。
鎌倉の地へ足を踏み入れさせている以上、いくさは圧倒的に不利な状況にある。そのことは疑いようがない。
思えば、こうなる前におのれにはできたことがあったのではないか――ここへ出張ってくるまでは、そんな自責にも似た思いに捉われてもいた。実際、敵方の総大将としてこの鎌倉を陥れようとしている新田義貞とは、これまで何度もそのような話を交わしてきたではないか。
義貞もまた鎌倉を愛していると言った。その愛する地を馬蹄で蹂躙することは本意ではなかっただろう。たとえ主上の名を受けてのことであったとしても、あるいは源氏の棟梁たる足利高氏と歩調を合わせる必要があったにせよ、やはり義貞の心には深い悲しみと、この事態を招いた貞将たちに対する憤りがあるはずだ。
今の自分には、それを真っ向から受け止めることしかできない。
そうすることが、義貞への友情を証し立てる唯一の方法だろう。
「みなの者」
後ろに控える兵たちに、大音声で呼ばわった。
「我等はここで敵を食い止め、そして押し戻す。これより先へは一兵たりとも通すことまかりならぬ。よいなッ!」
おおおおおっ。
地鳴りのような怒号が辺り一面に響き渡る。
兵たちの気魄もまた貞将に負けていないようだ。
――よし。
たしかな手応えを得た貞将は、蒼天に向かって高々と拳を突き上げた。
「者ども、かかれえッ!」
号令一下、鯨波の如きうねりを上げて、貞将の軍勢は新田軍に襲い掛かった。
「さすがは金澤殿。おのれから攻めかかってくるとは」
新田軍の本陣では、前線からの報せを受けた義貞が嬉しそうに膝を打っていた。
――貴殿の心意気、この義貞、喜んで受けて立とうぞ。
立ち上がると近習に、
「俺が出る。馬を引け」
と、命じた。
駆け出す近習の背中を見送りながら、
「はや兄者みずからがお出ましになるのか。今少し様子を見てからでも遅くは――」
言いかけた弟の義助を、義貞は鋭い眼差しで制した。
「それはならぬ」
凛然とした声音には、強い意思が込められている。
「金澤殿は俺がこの鎌倉で誰よりも認めていた人物だ。俺だけではない。誰もが幕府の屋台骨を支えて欲しいと期待していたのだ。当の本人には欲がなく野心もなく、とうとうそれは果たされることがなかった。その無欲と清新さこそが今日のこの日を招いたと、自身も気付いているだろう。忸怩たる思いに苛まれながらも、せめて華々しく戦い、鎌倉武士としての意地や誇りを満天下に見せつけることによって、幕府の末期を美しく飾ろうと燃えているのに違いない。であれば、その相手は他の誰であってもならぬ。その鎌倉を攻め落とそうとする総大将の、この俺でなければな」
「しかし、兄者の身に万一のことがあったらどうする」
「その時は、おぬしが指揮を取れ。武芸の腕では俺が勝るが、将帥としての能力では、もともとおぬしのほうが優れているのだ。問題はあるまい」
「それは違うぞ、兄者。将帥とは能力だけでは務まらぬのだ。俺では将兵はついてこぬ。我等には兄者の存在が必要なのだ」
「嬉しいことを言う」
義貞は莞爾と微笑み、
「ならば、おぬしらのために生きて戻ってきてやる」
少年のような口調で、そう言ってみせた。
馬上颯爽と戦場を駆け巡り、鬼神の如き働きで敵兵を薙ぎ倒していく貞将の勇姿に、人々は武神の降臨を見た。
――これは、もはや人ではない。
神だ。
誰もがそう思った。
敵の刃はその体に掠ることも許されず、放たれた矢はみずからの意思で彼に当たることを避けているかようであった。
敵兵たちもまた、そんな彼に恐れを超えた畏敬の眼差しを向けている。
それを受けながら、貞将は剣を振るう。
その心に邪念はない。
ただひたすら、この一瞬を輝かしきものとするためだけに、彼は戦っている。
「さすがだな、金澤殿」
そんな貞将に、遠くから大音声で呼ばわる者がいた。
貞将は視線を送り、
「おお」
と、嬉しげに微笑む。
「お出ましくだされたか、新田殿」
「貴殿の働きぶりをこの目に焼き付けておきたくてな」
「死に土産に、でござるか」
「ほう、これはまた似合わぬ減らず口を」
互いに馬上から交わし合う言葉の端々に、ここで相まみえたことへの喜びが滲んでいる。
「いくさの大勢は既に決し申した」
義貞の言葉に後ろを振り返ると、なるほど、いつの間にか味方の兵はずいぶん少なくなっている。討ち取られたか、あるいは逃げ出したか。
「一応、、聞いておこう。武器を捨てて我等に降るおつもりはござるか」
「愚問」
貞将は笑い飛ばす。
「であろうな」
義貞も負けじと笑い返した。
「では、勝負いたすか」
「一騎討ちか」
「いかにも」
「むろん望むところ。新田殿とはいつか手合わせを願いたいと思っていた」
「俺もだ、金澤殿。もっとも、このような形で手合わせをしたかったわけではないがな」
「ああ」
ふたりは互いの顔を見合わせ、今度は寂しげに笑った。
「だが、仕方あるまい」
「そうだな。かくなる上は、ここで雌雄を決しよう」
言うなり義貞は、ゆっくりと前へ進み出た。
そして背中越しに味方の兵たちに向かい、
「これより、いっさいの手出しは無用ぞ」
高らかに命じた。
「わがほうも同じである」
貞将もまた自軍の兵たちに釘を刺す。
両者、さらに前進。
互いに頷き合った後――。
「いざ!」
「おう!」
ふたつの閃光が激しく交錯した。
北条高時、長崎円喜父子らは相次ぐ幕府軍の敗報を受けて御所を離れ、葛西谷の東勝寺へ身を移していた。
獅子奮迅の働きを見せた長崎高重や大仏貞直ら、各地の戦場から退いてきた武将たちも続々と集まってくる。
貞将の父金澤貞顕もまた、息子の貞冬に背負われるようにして、ここへやってきていた。
彼等の表情には絶望が色濃く浮かんでいる。
敗戦は誰の目にも間近と映っていた。かろうじて持ちこたえている金澤貞将の抵抗も、もはや時間の問題だろう。
新田義貞の大軍は、ほどなくこの鎌倉市街へなだれ込んでくる。
そうなれば、すべては終わりだ。
みな、それなりに覚悟を決めた様子である。
身だしなみを整える者、何事か書き留めている者、静かに白湯をすする者……。
おのおののやりかたで、最期の時に向けて心を落ち着けようとしている。そうした中にあって、
「ええい、なぜだ。なぜ、このようなことになったのだ」
ひとり場違いな金切り声で喚き立てているのは、長崎高資であった。
「薄汚き謀叛人どもに、我等幕府がむざむざ敗れるなど……。ありえぬ。絶対にそのようなこと、あってはならぬのだ」
気が触れたように哄笑する権力者の哀れな末路に、みな冷ややかな眼差しを向けるだけで言葉をかけようともしない。それをよいことに、
「そもそも――」
高資の口吻はいよいよ激しさを増していく。
「仕える主君が悪かったのだ。田楽舞と闘犬に狂ってまつりごとを顧みぬ者、縁戚から謀叛人を出す者……。揃いも揃って愚物ばかりよ。かような者たちが上に立って、偉そうにふんぞり返っておるものだから、公家衆などに足元をすくわれたのだ。高時よ、諸悪の根源はおのれぞ」
そう叫んで、上座の高時を指差した。
「我等を生かすために潔う腹を切れ、高時」
罵詈雑言の限りを尽くすかつての権臣の狂態を、高時は生気のない目で見詰めている。
「どうした、図星を突かれて反論の言葉もないか」
高資の声が高くなる。
「さあ、腹を切れ。腹を切って我等を助けるよう、新田義貞に命乞いを――」
言いかけた高資の体が、不意に沈んだ。
背後に能面のような円喜が立っている。
手には血塗れの短刀――。
ゆっくりと振り返った高資は驚愕に目を見開き、
「ち、父上……。わが子を……、わが子を手にかけられまするか……」
呻くように言った後、前のめりに倒れ伏した。
口から泡を吹きながら、小さく痙攣する。
その背に馬乗りになった円喜が、背中から心の臓をひと突きして、高資の鼓動を止めた。
「太守、申し訳ござらぬ」
短刀の血を拭うこともせず、しわがれた声で呟くように言う。
「不肖の息子の無礼、どうかお許し願いたい」
「いや、よい」
高時の声も掠れている。
「高資の申すとおり、儂は愚かな主よ」
「やはりあの時、息の根を止めておくべきでござった」
「あの時とは」
「田楽舞を催した、それがしの館での宴席にて」
「おお、そうであった。そなたと儂で相語ろうて、高資を討とうとしたのであったな」
高時は懐かしそうな顔をしてみせる。
「実の子である高資を斬ろうと持ち掛けられた時、儂はわが耳を疑った。しかし、そなたの思いが真剣であるとわかったゆえ、その策に乗ろうと決めたのだ。円喜よ、そなたの幕府を思う気持ちが本物であることを、儂はあの時、改めて思い知らされた。同時に、恐ろしいとも思うた。幕府を立て直すためにはおのれの息子さえも惜しみなく犠牲にしようとするそなたが」
「それゆえに、もろともにそれがしも殺そうとなされましたか」
「……やはり気付いておったのだな」
「気付かぬとお思いでござったか」
「気付かぬはずはあるまいな。それゆえ怖くなった」
「怖くなって刺客の口を封じてしまわれた」
「哀れなことをした。あの刺客――丹次にだけ、儂を狙うふりをしてそなたを狙うよう密かに指示をいたしたのは、他ならぬこの儂であった。他の者にはいっさい知らせずにな。うまくいくと思うたのだがなあ」
「せめてあの時、高資だけでも殺させておくべきでござった。それなのに太守、あなたは動転して刺客の命を奪ってしまわれた」
「儂は怖くなったのだ。目論見どおりに高資だけが死んだら、儂は顔色ひとつ変えずおのれの息子を生贄にしたそなたと一対一で対峙しなければならなくなる。儂には耐えられぬと思うた。それで、すべてをなかったことにいたそうと決めたのだ」
「なるほど、それで息子は命拾いしたわけでござるか」
円喜は静かに笑うと、
「そのご気性の優しさこそが太守でござる。それがしは、そんな太守が好きで、これまでこうしてお仕えしてまいりましたゆえな」
「気持ち悪いことを申すな」
高時が嬉しげに苦笑する。
「そなたに好かれるほど優しゅうはないわ」
「なんの、それがしほど太守のことをよう知っておる者はおりませぬぞ。そのそれがしが言うのだから、間違いはござらぬ。太守は生来、お優しいお人柄。それゆえにこそ、失礼ながら執権などには不向きなお方でござった」
「同意じゃ。儂は執権になどなるべきではなかった。やはり早いうちに貞将に職を譲って引退しておくべきであったわ」
「まあ、よろしい。すべては終わったことでござる」
憑き物が落ちたような、晴れやかな表情で言った。
「太守とはいろいろござったが、こうしてここでともに生涯を終えられることが、今となっては素直に嬉しゅうござる。実は、その最期を彩るのに相応しき趣向を用意してござるのだが――よろしいか」
「趣向?」
訝しむ高時。
円喜がポンポンと手を叩く。
「おお」
高時の口から驚きの声が洩れた。
円喜の合図を受けて現れたのは、まさにその刺客騒ぎの宴席で囚われ人となったはずの田楽舞の面々であった。
座長の丹次はあの時、高時の刃にかかって命を落としたが、伊三太はじめ他の者たちはみな顔を揃えている。
「桔梗、そなたも生きておったのだな」
高時は、最後列の少女に声をかけた。
以前よりはやややつれたが、可憐な面差しは今なお健在の少女――桔梗が、複雑な表情を浮かべながら、小さく頷く。
「わが命を受けたがゆえに、あのような危うき目に遭わせてしまいましたゆえ、わが屋敷に丁重に留め置き申した次第。新田軍がこの鎌倉へなだれ込んで来る前に逃がしてやろうと思い、連れ出してまいりました。逃げる前に少しだけ、ここで舞を披露してくれぬかと頼んだところ、快く引き受けてくれましてな」
「おお、そうか。我等の死出の旅を見送ってくれるのだな」
高時の声が華やいだ。
「ありがたい。ぜひ舞を見せてくれ。もしも、そなたたちがこの儂を許し、哀れと思うてくれるのならば、せめて一指しだけでも――」
「心得ました」
主を失った一座を代表して、伊三太が応える。
「いざ、ご笑覧あれ」
後ろを振り返って、仲間たちに目配せをする。
ぴい、ひゃらり。
笛の音が軽妙に弾む。
とん、とん。
調子を合わせる鼓の音も軽やかだ。
風流笠を頭に乗せた男女が、体をくねらせながら舞う。
優美でいて、そこはかとなく洒脱。
かつて、まだ幕府が頽廃の兆しを見せつつ華やかさを失わずにいた頃と、寸分違わぬ雰囲気の、愉しく艶やかな舞だ。
「見事だ」
高時は手を叩いて褒めそやした。
「最期に素晴らしき舞を見せてもろうた。これで心置きなく死出の旅路に着くことができる」
「太守」
円喜が声をかけた。
「この者たちの舞が奇跡を呼んだようでござるぞ」
「なに、奇跡とな」
「あれをご覧じろ」
そう言って円喜が指差した先に――。
「おお、貞将」
高時はひとりの若武者の勇姿を見止めた。
若武者は傷ついていた。甲冑の至るところに矢を受け、血の匂いを全身から漂わせている。足を引きずりながら、ゆっくりと、しかしながらしっかりとした足取りで、彼はこちらへ近づいてくる。
「太守さま、約束どおり生きて戻ってまいりましたぞ」
その声を聞いた瞬間、高時の目から滂沱の涙が零れ落ちた。
「よくぞ……、よくぞ生きて戻ってくれた」
声を震わせながら近づいてきた高時は、膝から崩れ落ちた貞将を支えるように、そっと抱きかかえた。
「申し訳ありませぬ。敵の鎌倉侵入を防ぐことは叶いませなんだ」
「なんの、謝ることはない。もはや幕府の終焉は変えられぬ定めだったのだ。儂が執権となったその日から、こうなることは決まっていた。天命なのだ、これが」
「その天命さえも変えられるほどの武将に、願わくばなりとうござりました」
「なんの、儂が意固地にならず、みなの願いを汲んでそなたに執権職を譲り渡してさえおれば、あるいは天命はこのようではなかったかもしれぬ。その機会を、儂はみずから逃してしもうたのだ。今日の始末は、いわばその天罰であろう」
高時はそう言って、流れ落ちる涙を拳で拭う。
「見よ、貞将。田楽舞ぞ。我等の最期を彩ってくれているのだ」
見上げた貞将の視線が、桔梗を捉えた。
貞将は驚いたようであったが、すぐに平静を取り戻し、透き通るような笑顔を浮かべてみせた。
桔梗も、それに応えて微笑み返す。
そんなふたりの様子を、傍らで円喜が嬉しそうに見詰めている。
今、この場に流れている穏やかな空気は、これまで誰もが味わったことのないものだった。そして、誰もが心の中では望んでいたものだった。
最後の最後に、それを手にすることができた幸せに、男たちはしばし浸った。
やがて、
「円喜、そろそろこの者たちを下がらせよ。あまり留め置いては、彼等を危険に巻き込んでしまう」
高時が、凛然たる声音で命じた。
「心得ました」
円喜は頷き、一座に退出を指示した。
みな踊るのをやめて、高時らのほうを向き、深々と一礼する。
「大儀であった。そなたたちの田楽舞は日の本一ぞ」
高時の言葉を背に、そそくさと立ち去る一同。
その最後尾に立った桔梗が、去り際にもう一度、貞将のほうを振り返った。
無言のまま見詰め合う。
ふたりは、ともにその視線に万感の想いを込めた。
それは間違いなく互いの心へ届いたことであろう。
桔梗はそれを信じて、踵を返した。
貞将もそれを信じて、その華奢な背中を見送った。
「太守さま」
一座が見えなくなった後、貞将は高時に向かって言った。
「それがしはもう一度、戦場へ戻りまする」
「なんと」
驚く高時。
「なにゆえぞ」
「かくなる上は、太守さまはじめみなさま方には、鎌倉武士の名に恥じぬ堂々たる最期を飾っていただかねばなりませぬ。そのためには、もうしばらく時を稼ぐ必要がござりましょう。それがしが今一度、敵を食い止めまするゆえ、その間にどうか見事なご最期を――」
「よくぞ申された、金澤殿」
円喜が叫ぶように言った。
「その心意気、しかと受け止め申した。後のことはご懸念なく、存分に戦われよ」
「心得た」
飛び出そうとする貞将を、
「待て」
高時が押し止める。
怪訝そうな顔をする貞将に、ゆっくりと近付くと、その肩を強く叩き、
「わが北条一門の武名を天高くまで轟かせよ、金澤相模守貞将」
瞬間、貞将がハッと目を見開いた。
「金澤……相模守……」
呟きと同時に、双眸から涙が流れ落ちる。
相模守――この官職は、北条一門の中でも執権職に就くものだけが得られるものだった。高時は今、貞将にこの相模守の官職を与えたのだ。
むろん官職とは本来、朝廷が与えるものであり、いかに絶大な権勢を持つ得宗とはいえ、勝手にこれを与えることなどできない。つまり、この叙任は当然のことながら実質的な効力を持ってはいないのだが、貞将にとって、そのようなことはどうでもよかった。
相模守の官職を与えるということは、取りも直さず執権の地位を与えるということである。高時は今、紛れもなく貞将を次なる執権と見なしたのだ。
栄華を誇った北条家が滅びようとする、まさにこの日――。
鎌倉最後の執権、金澤相模守貞将が誕生したのである。
「太守!」
涙声の貞将を、高時は笑顔で励ます。
「存分に働いてまいるがよい。そなたの武勇伝は、あの世でとくと聞かせてもらうゆえな」
「はい」
「金澤殿、よろしくお願いいたしまする」
円喜が進み出てきて、貞将の手を取った。
「後のことはご懸念あるな。我等は我等で、鎌倉武士に相応しき最期を飾ってみせようほどにな」
「わかりました」
貞将は力強く頷く。
「方々の思い、この貞将が背負ってまいりまする。どうか、見守っていてくだされ」
ふたたび修羅の戦場へ向かおうとする勇者の背中を、みなの熱い眼差しが見送った。
鎌倉市街は既に新田軍の将兵で満ちていた。
抵抗している者は、ほとんどいない。
いくさは、終わったのだ。
新田軍の、まさに圧勝だった。
――とうとう我等は幕府を滅ぼしてしまったのだ。
義貞は、半ば呆然と馬上から部下たちのはしゃぐ姿を見詰めていた。
事ここに至って、彼はようやくおのれがとんでもないことを成し遂げたのだと実感した。源頼朝による開闢以来、百四十余年にわたって諸国の武士たちの頂に君臨しつづけた幕府を、この地上から消滅させたのだ。
これから世の中はどうなっていくのだろう。
六波羅探題を陥落させた足利高氏の導きによって、既に主上は京への帰還を果たしている。宿願であるという公家一統の世とは、どのようなものなのか。義貞たち武士は、その新たな世において、どのような役割を担うことになるのか。何もかもが未知数である。
――本当にこれでよかったのだろうか。
思いもよらぬ形で戻ってきた、愛着ある鎌倉の地。
勝ちいくさへの喜びよりも、戸惑いや不安のほうが大きかった。
聞けば主上は、足利高氏に早くも絶大なる信頼を寄せておられるという。もしこの先、高氏が征夷大将軍となって、鎌倉幕府に代わる新たな幕府を開くようなことがあれば、自分たちは当然、その風下に立たされることになるだろう。今こうして喜びを爆発させている兵たちは、はたしてそれを受け入れられるだろうか。弟の脇屋義助や、腹心の堀口貞満はどうか。
そして、何よりも自分自身は……。
――いくさはこれが終わりではないかもしれぬ。
義貞の心に、そんな思いが芽生えた。
むしろここから先が、無間地獄なのではないか。
おのれは今、まさに出口の迷路へ入り込んでしまったのではないか。
甲冑を着込み、暑いはずの背中を、冷たい汗が流れ落ちた。
「兄者」
近づいてきたのは、弟の脇屋義助だった。
「とうとうやりましたな」
「ああ」
興奮気味な義助とは対照的に、義貞の応えはどこか虚ろである。
「鎌倉を攻め落とした功績は大きい。主上は必ずや我等に関東のまつりごとをお任せくださるでしょう。北条がなしえなかった武家による武家のためのまつりごとを、我等が実現させるのでござる。楽しみでなりませぬ」
「武家による武家のためのまつりごと、か」
呟く義貞の表情は暗い。
「それができる御仁に、やっと巡り合えたのにな」
「金澤殿、でござるか」
義助が訝しげに問いかける。
「はたして彼の御仁は、本当にそれほどの人物だったのでござろうか。先程の兄者との一騎打ち、たしかに見事な腕前ではござったが……、まさか途中で放り出していくとは」
「致し方あるまい。一門の命運が今まさに尽きようとしていると報せが届いたのだ。だからこそ、それを見届けたらふたたび儂の前へ姿を見せると約束して行かれた」
「はたして本当に戻ってくるとお思いか。東光寺で一門とともに果てておるかもしれませぬし、あるいは混乱に乗じて何処かへ――」
「それはない」
強い口調で義貞は断言する。
「彼の御仁にかぎって、そのようなことは決してありえぬ。必ずここへふたたび現れるであろう。儂はそう信じている」
「兄者はお人がよろしい」
義助がそう言って、親しみに満ちた笑みを浮かべた時である。
「殿、あれを――」
ご覧くだされ、と叫んだ武士がいる。
義貞と義助は、視線の先にひとりの武者の姿を見止めた。
「どうやら敵将の生き残りのようでござるな。何を思うてか、ふらふらとこちらへ近づいてまいるが、いかがいたそうか」
瞬間、義貞の目がカッと見開かれる。
「義助、あれは――」
「ああ、間違いない。金澤殿でござる」
「見ろ、儂の言ったとおりであろうが」
興奮して叫び、義貞は馬から飛び降りた。
「みな、手出しは無用ぞ」
鋭い声で兵たちに指示すると、急ぎ足で朋友のもとへ駆け寄ろうとする。
と、ゆっくりと歩きながら、その鎧武者――金澤貞将が腰の刀を抜き放った。
「金澤殿、ようお戻りくだされた」
義貞が呼びかける。
「待たせたな、新田殿」
貞将は莞爾と微笑んで言った。
「約束は果たしたぞ」
「金澤殿、我等はもう存分に戦った。俺と貴殿の一騎打ちも、勝負がつかぬまま分ける形となったが、俺は満足している。おそらく生涯これほどの敵に出会えることはないだろう。楽しく、幸せな勝負だった」
「私もだ、新田殿。必ず生きて戻るという太守との約束がなければ、あのままいつまでも戦いつづけていたかったほどだ」
「見てのとおり、いくさはもう終わった。鎌倉幕府は滅びたのだ。貴殿は約束を守り、鎌倉武士としての面目を立てられた。この上は、何処かへ落ちられよ。朋友として命まで取りたくはない」
「ご厚情かたじけない。しかし、私はここから逃げるわけにはいかぬ」
「なぜだ。北条の一門だからか。得宗高時の弟である泰家は、既に行方知れずになっていると聞いたぞ」
義貞の言うとおり、泰家は敗戦を喫した後も鎌倉へ戻らず、行方を消していた。金澤貞顕の執権就任を拒み、鎌倉にひと悶着起こした張本人が、この期に及んで命を惜しんだかと、みなは口々に非難したが、兄の高時は端然と、
――あいつはそれほど軟弱な男ではない。いずれどこかで再起を期するつもりなのであろう。
そう言って、深くは追及しなかった。
「さにあらず」
貞将はしかし、静かに首を振った。
「ただ北条の一門であるというだけならば、いかようにもしよう。だが、今の私にはそれは許されぬ。なぜなら私は――晴れて金澤相模守貞将となったからだ」
「金澤相模守貞将? それでは――」
義貞の声が上ずる。
「貴殿はついに……」
そこから先は、涙で声にならなかった。
「私は太守から鎌倉の最後を託されたのだ。だから、ここから逃げるわけにはいかぬ」
「遅かった……。あまりにも遅かった……」
義貞が肺腑の奥底から絞り出すように言った。
「せめて……、せめてあと二年早くそうなっていれば……」
「言うな、新田殿。今さら悔いたとて詮なきこと。私はこの鎌倉幕府をここで見事に終わらせる。後事は貴殿たちに託そう。よき世を作ってくれ。武士も公家も、むろん民百姓も、みなが憂いなく暮らせる世を」
「金澤殿……」
「本来ならば、東勝寺で一門のみなとともに腹を切るべきところだが、どうしても貴殿にこのことを知らせたくて、出てまいった。私の思い、しかと受け止めてほしい」
「受け止めた! たしかに受け止めたぞ、金澤相模守殿!」
声を震わせながら、義貞は叫んだ。
「されば、どうする。今一度、先程の一騎打ちのつづきをいたすか」
「いや、やめておこう」
貞将は小さく微笑んだ。
「私はもう傷だらけだ。貴殿に勝てるとはとうてい思われぬ」
「そうか」
「一騎打ちで無様に倒されるよりは、ここで潔く自害させてほしい。勝手を言って申し訳ないのだが、貴殿にはその介錯を頼みたいのだ」
「介錯?」
「ああ、ぜひ頼む。朋友として、私の人生の花道を飾る手助けをしてほしい」
「金澤殿」
「私も鎌倉武士の端くれとして生まれた以上、新田殿ほどの武人に討ち取られて死ねれば本望だ。これまで私が生きてきた道がたしかなものであったと、貴殿に証し立ててもらいたい。どうだ、新田殿。わが最後の望みを聞き入れてくれるか」
「……心得た」
義貞は声に力を込めた。
「その役目を俺に託してくれたこと、朋友として嬉しく思う。俺に頼んでよかったと思えるよう、見事な介錯を務めさせてもらうぞ」
「かたじけない。貴殿ほどの武者がそう請け負ってくれるのなら、安心だ。正直、痛いのはもうたくさんだからな」
貞将は諧謔交じりに言って、ゆっくりと腰を下ろした。
そして、静かに目を閉じる。
心は、不思議なほどに穏やかであった。
――わが生涯に悔いなし、か。
端正な口元がかすかに綻ぶ。
しっかりとした足取りで近づいてくる義貞を迎えるように、爽涼な風が貞将のほつれた髪を遊ばせていた。
貞将が朋友の手で黄泉路へ旅立ったのとほぼ同時に、東勝寺に集まっていた面々も一斉に自害して果てた。
老齢のために手元が狂い、見苦しい失敗を犯しては面目が立たぬと、長崎円喜は孫の高重の手を借りて命を絶ち、その高重は豪快ないくさぶりを髣髴させる壮絶な切腹を遂げた。同じく自害に踏み切ることを躊躇した心優しき金澤貞顕は、わが子貞冬に励まされ、互いに差し違える形で最期の時を迎えた。
そして高時は――。
みなの死をひとり端然と見守りつづけ、ついに最後のひとりとなると、舞うような仕草でふらりと立ち上がった。
後年、世の人々は、栄華を誇った鎌倉幕府にこのような末路を迎えさせたのは、この高時の暗愚さゆえと罵り、嗤い、そして蔑むだろう。口惜しいことではあったが、もはや今の彼には、それに抗う気持ちはなかった。
赤橋守時も大仏貞直も、あの長崎円喜でさえ、愛する鎌倉を守るために懸命に生き、戦い、そして死んでいった。彼等の生を意味あるものにしてやれなかったとすれば、紛れもなくおのれの罪だと思った。
罪は、償わなければならない。
そう感じた次の瞬間、
――いや、彼等の生は決して無意味なものなどではなかった。
と、高時は思い直した。
世の人々は、彼等が鎌倉に注いだ愛や情熱を理解してくれるだろう。それがたとえ自分たちに敵対し、幕府をここまで追い込んだ者たちであってもだ。それだけのものを、自分たちは示した。
最後にそれを託した金澤貞将の死にざまを、高時が知るすべはない。だが、あの貞将ならば間違いはないと、今は心から信じることができた。不甲斐ない自分に代わって、貞将は鎌倉幕府の――北条一門の意地と誇りを見せつけてくれたはずだ。その彼を最後の最後に相模守に任じた自分の手柄を、あの世で待つ父や先祖たちも、きっと認めてくれるだろう。そうに違いない。
――儂が腹を切るのは、彼等への罪を償うためではない。儂もまた北条一門に列する者として、この鎌倉幕府の最後を彩る使命があるからなのだ。
そう思えた彼の心は、三十余年の生涯でもっとも晴れやかな瞬間を迎えていたかもしれない。
轟々と燃え盛る炎の中で、高時は穏やかな笑みを浮かべ、静かに腹を切った。
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