鎌倉最後の日

もず りょう

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 幕府方は、押し寄せる新田軍の鎌倉侵入を阻むべく、北条一門の桜田貞国を総大将とする三万の軍勢を整えた。先の評定で鮮烈な光芒を放った長崎高重もその中に加わっている。
 五月十一日朝、新田軍が入間川を渡河し、小手指原へ差し掛かったところで両軍が衝突。激しい戦闘が開始された。
 幕府軍は当初、新田軍が入間川を渡る前に、つまり川向うでいくさを仕掛ける算段だった。ところが実際には、新田軍の動きが想定よりもはるかに速く、幕府軍は初手から後れを取ることとなった。
「過ぎたことを悔やんだとて詮なきこと。この上は、ここから敵を押し戻すまで。者ども、我につづけッ!」
 戦略上の手違いにも怯むことなく、長崎高重は果敢に敵中に身を躍らせ、悪鬼羅刹のごとき働きで新田軍を震撼させた。
 実際に対峙してみると、やはり新田軍の六万という数は、明らかな誇大報告であった。少なくとも兵数という点では、むしろ幕府軍のほうが勝っていたであろう。
 しかし、新田軍の士気はことのほか高く、兵たちはみな剽悍であった。加えて武蔵近郊の御家人たちを味方に付けているため、地の利を得ている。義貞自身は勇猛ではあるものの、必ずしも知略に長けた武将ではなかったが、弟の脇屋義助や老練な重臣の堀口貞満といった者たちがその点を補った。巧みな駆け引きに幕府軍はしばしば翻弄された。
 高重らはそれでもなお善戦したが、一度奪われた流れを引き戻すことは、若く一本気な高重にはやはり難しかった。午後には戦況はいよいよ明らかとなり、高重ら幕府軍は総大将桜田貞国の指示によって後退を余儀なくされた。

 翌日朝、久米川の南岸に陣を構えた幕府軍は、勢いに乗って南下してくる新田軍を迎え撃った。
 後方からの援護も得て、五万に膨れ上がった幕府軍は、新田軍を数の力で押し戻そうとする。ところが昨日の勝ちいくさに力を得た新田軍の勢いは凄まじく、幕府軍はここでも後塵を拝する結果となる。高重をはじめとする諸将は懸命に戦い、鎌倉武士の名に恥じぬ働きを見せつけたが、負けを勝ちに転じさせるまでには至らなかった。
 結局、桜田貞国はふたたび撤退を決断。分倍河原まで兵を引いた。

 たてつづけに届けられる敗戦の報せは、鎌倉に残る面々を激しく動揺させた。
 ――なんとしても鎌倉へ入れる前に敵の足を止めなければ。
 ただちに北条泰家を総大将とする十万の大軍が編成され、一路北へ向かう。
 五月十五日、新田軍が攻撃を仕掛けてくる。その数、一万余。
「蹴散らせッ!」
 泰家の号令一下、幕府軍の兵たちがこれまでの後れを取り戻さんと突進する。今度という今度は圧倒的な兵力差に物を言わせて、新田軍を押し戻すことに成功した。
 総崩れとなった新田軍は、潰走した。
「敵は浮き足立っています。追撃し、義貞の首級を獲りましょう。不肖それがしが先陣を相務めまする」
 高重は気負い込んだが、
「いや、追撃はいたさぬ」
 泰家はその申し出を冷笑とともに退けた。
「これだけ完膚なきまでに勝ったのだ。新田はもはや再起できまい。後のことは此度の謀叛に与しなかった武蔵の武士たちに任せて、我等はいったん鎌倉へ引き上げよう」
「しかし、新田を滅ぼすには今が好機かと」
「我等が手を下さずとも、新田は自壊いたすであろう。やはり足利とは違う。所詮は源氏の端くれに属するだけの田舎武士よ」
 あからさまに嘲弄する泰家に、高重は喰ってかかる。
「お言葉ながら、我等は身をもって新田軍の強さを知っておりまする。義貞は智に秀でた将にはあらねど勇敢で、配下には脇屋義助や堀口貞満といった優れた腹心がおりまする。ここで徹底的に叩いておかなければ、いつまた我等の脅威となって立ちはだかるやもしれませぬぞ」
「若いのう、そなたは」
 泰家の冷ややかな目が、高重の紅顔に注がれる。
「そなたのお父上にも、せめてその半分の気概でもあればよかったのだがな」
 皮肉に満ちた言葉を受けて、高重が顔色を変える。
「いかに泰家さまのお言葉とはいえ、わが父への侮辱は――」
 言いかけたところへ、桜田貞国が止めに入った。目顔で「よせ」と言っている。
 高重は口惜しげに唇を噛んだ。泰家という人物の性格は、彼もよく知っているのだ。
「承知いたしました」
 憮然とした面持ちで、高重は引き下がった。

 この時、高重の言葉に従って、幕府軍が新田軍を追撃していたら、歴史はどう変わっていただろうか。
 少なくともこの瞬間の新田軍に、幕府軍の追撃を受け止める余力はなかった。ここで義貞の息の根を止められていれば、京を制圧した足利高氏への対処策も講じられただろう。新田軍と行動をともにしていたという高氏の嫡男千寿王を人質に取ることでもできれば、その後のいくさとて有利に進められたはずである。
 だが――。
 結果的には、この時の判断の甘さが新田軍に息を吹き返すゆとりを与えてしまった。
 一度は壊滅したかに思われた新田軍は、幕府の行く末を見限った三浦一族らの援助を受け、復活を遂げた。三浦一族は幕府早々以来の名家であり、北条とは和合離散を繰り返してきた因縁の間柄だが、ここへきてその北条に引導を渡す側へ回ることとなった。
 一族の中でも有力だった大多和義勝という人物が、みずからは幕府側に付くと虚報を流した上で新田軍の先陣に立ち、幕府軍を攻撃した。これに対峙した泰家の軍勢が打ち破られたところから、鎌倉幕府は滅亡への坂道を一気に転がり始めるのである。

 ――お味方、大敗。
 分倍河原の敗報は、鎌倉の幕閣を恐慌状態に陥れた。
 これで新田軍の鎌倉侵入は不可避となった。圧倒的な数的不利を覆しての勝ちいくさに、敵は勢いづいているだろう。
 対する幕府側は、泰家率いる精鋭部隊を完膚なきまでに打ち破られた今となっては、兵力の点でも士気の点でも、大きく後れを取っている。
「どうすればよいのだ」
 おろおろと狼狽えるばかりの高資を、
「そなたはおのれの醜態によって、せっかく息子が得た名声を台無しにするつもりなのか」
 これまでずっと口を噤んでいた円喜が鋭く叱責した。
 追撃の進言が受け入れられず、分倍河原で一敗地に塗れる中にあっても、高重の働きぶりはひときわ目を引くものであった。それは世が世なら次代の幕府を担っていくべき新鋭の誕生として、華々しく語られるべき出来事であったろう。だが、今は――。
 誰の心にもはっきりと「終わり」の時が近づいていることがわかる。そうした中で、消えゆく自分たちの末路をせめて明るく照らしてくれる希望の星――そんな悲しい輝きであった。
「さよう、もはや策を講じるまでもない。かくなる上は、向かってくる敵に正面からぶつかって、これを打ち払うのみ。むしろ単純でわかりやすくなり申した」
 そう言ってからからと笑う守時の目には、その言葉とは裏腹に、清々しいまでの諦観があった。
彼にしてみれば、ようやく死に時がやってきたという、どこか安堵にも似た気持ちがあるのかもしれなかった。自分が華々しく戦って散り、鎌倉武士の武名を高めて末代までの語り草になることこそが、彼にできる唯一の罪滅ぼしということなのだろう。
「御免」
 ぎゅっと唇を引き結んで見守る高時に深々と一礼をして、守時は去って行った。
 その大きな背中を見送ってから、
「それでは、私もまいります」
 貞将は立ち上がった。
 同じように一礼をして、大股で立ち去ろうとする、その背後から、
「待て」
 と、声がかかった。
 見れば高時が腰を浮かせ、何かを言おうとしている。
 だが、次の瞬間、彼は静かに腰を下ろして、
「いや、今はいい」
 小さな声で呟くように言った。
 怪訝そうな顔をする貞将に、
「貞将、わが命である。必ず敵を打ち破り、そして……、生きてここへ戻ってまいれ。よいな」
 今度ははっきりと、大きな声で言った。
「よいな、死んではならぬぞ。必ず生きて戻るのだ、ここへ」
「太守さま」
「戻ったら、そなたに伝えたいことがある。今言おうかと思うたが、それではそなたはここへ戻るまい。それゆえ後回しにする。よいな、わが命を受けるために、必ずここへ戻ってまいれ」
 厳しい声音の中にも、優しさが込められている。
 ――ああ、これがこの方の本質であったのだな。
 貞将は、これまで対立することも多かった高時の人間性を見直していた。
 生来暗愚だったわけではないだろうとは、なんとなく感じていた。おそらく周りの環境や育てられかた、得宗そして執権という地位の重みや専任感、それに伴う孤独――さまざまな要素が折り重なって、
 ――暗君北条高時
 を作り出してしまったのだろう。持っている資質そのものが悪かったわけではない。まことに不幸なめぐり合わせであったのだ。
「心得ました」
 貞将は力強く言った。
「必ず勝ちいくさの報せを持ち帰りまするゆえ、しばしお待ちくださりませ」
 その言葉に、高時は染み入るような笑顔で応えてみせた。

 屋敷へ戻ると、既に兵たちのいくさ支度は整っていた。
 誰もが緊張した面持ちである。だが、不思議に悲壮感はない。
 むしろ、これから始まる戦いへの高揚した心持ちだけが、ひしひしと伝わってきた。
 ――我等にとって、これが最後のいくさとなろう。みな、そのことはわかっているはずだ。にもかかわらず、恐れの色など何ひとつ見せず、こうして付き従ってくれる。私は果報者だ。この者たちとならば、この鎌倉最後の日を華々しく飾ることができる。
 心の昂ぶりを、ふーっと大きく息を吐き出すことで整えようとする貞将に、
「恐れながら――」
 と、小平次が囁きかけた。
「ご出立の前に、お目通りを願い出ておる者がござりまする」
「目通り? 誰だ、このような時に」
「勝手ながら、中へお通ししてござりまする」
「なに」
 小平次は古くから慣れ親しんだ雑掌だが、決してその関係性に甘えて勝手な振舞いをするような男ではない。そのあたりは、誰よりも「わきまえた」男なのだ。その小平次があるじの許しも得ず、屋敷の中へ招き入れた来客とは、いったい――。
 訝しく感じながら部屋を覗いた貞将は、
「あっ」
 思わず声を上げた。
「そなたは――」
「かような折に、不躾なる振舞いをいたし、まことに申し訳ありませぬ」
 そう言って楚々とした所作で頭を下げたのは、あの田楽一座の少女――桔梗に他ならなかった。
「そなた、無事であったのか。鎌倉にいたのだな。どこで、どうしていたのだ。一緒にいた、あの伊三太という男は――」
「お待ちください」
 桔梗は袖で口を抑えて、
「そんなにいっぺんに訊ねられては、何からお答えしてよいか、わからなくなりまする」
 可笑しげに言った。以前、鎌倉で会った時と比べると、格段に物言いが大人っぽくなっている。従前の可憐さに妖艶さが加わって、貞将を当惑させた。
「あ、ああ、そうだな。すまぬ」
 わざとらしく咳払いをして、貞将は腰を下ろす。
「長崎の屋敷から姿を消したことまでは聞いていたが……。円喜殿の計らいか」
 探るような問いに、桔梗は躊躇なく頷いた。
「では、そもそもそなたたちにあのようなことをさせたのも、やはり――」
「はい。長崎円喜さまです」
 この返答にも、淀みはない。
「なぜだ、なぜあのように恐ろしき真似を」
「……」
「あの伊三太という男、ただの田楽舞ではあるまい。草の者のような身のこなしであったが――」
「金澤さま」
 桔梗は正面から貞将の顔を見据えて、
「これから私が申し上げること、すべて嘘偽りなき真実でござりまする。金澤さまがもし私のことを許せぬと思われるようでしたら、話し終えた後の私をいかようにご処罰いただいても結構でござりまする」
 凛然とした口調で言った。
「お聞きいただけまするか。あの夜の出来事の、真相を」
「……聞こう」
 貞将は頷くと、静かに目を閉じた。

 私たち田楽一座は諸国を旅し、有力者の庇護を受けるのが、いわば生きる術となっております。
 一座には踊り以外にさまざまな働きをなす者がおります。多くは諸国の情報を集めてきて、それを定期的に伝える蝶者のごとき役目をする者、女子であれば夜のお相手をいたす者もおりまする。幸い私はまだそのお役目を課されたことがござりませぬが……。
 そうした者の中に、草の者として汚れ仕事を引き受ける者もまた、おります。
 私どもの一座の長であった丹次さんは、元はそうした者のひとりでした。若い頃はずいぶん過酷なお仕事を請け負われたこともあるとか。私も詳しいことは存じ上げませぬが、その手にかけた人の数は両の手足でも足りぬほどだと、いつか酒の席でぽつりとおっしゃっていたのを耳にしたことがござりまする。
 伊三太は、そんな丹次さんとは同郷の出でした。ふたりの故郷は悪党退治を称する幕府の追討軍によって蹂躙され、居合わせた村人たちはほとんどが殺されてしまったそうでござりまする。丹次さんは既に村を出て、田楽一座を立てていましたが、そこから逃れてきた伊三太のことを哀れに思い、一座に引き入れたのでござりまする。
 そんな丹次さんと伊三太にとって、円喜さまからのお申し出――宴席に紛れて長崎高資の命を奪うようにとのご命令は、まさしく願ってもないものでござりました。なぜなら、ふたりの故郷を焼け野原にし、人々を虐殺したのは、他ならぬ高資の軍勢だったからにござりまする。その憎き敵をおのが手で葬り去ることのできる機会など、そう何度も訪れるものではござりませぬ。
 とはいえ円喜さまにとって高資はかわいいわが子。なぜ、そのわが子を討たせようとなさるのか。はじめはその真意を疑いましたが、お話を聞くうちに、円喜さまもまた鎌倉の行く末を案じておられ、そのためには息子とて消さねばならぬと覚悟を決められたことが、よくわかってまいりました。長崎円喜さまといえば世の人々は権勢欲にまみれた俗物のように思い込んでおりますが――むろん、そういった側面もたしかにあるのではございましょうが、その一方で幕府に対してはひとかたならぬ思いをお持ちであったのでござりましょう。そう感じさせるだけの熱意が、丹次さんたちの心を揺さぶったのは、たしかでござりました。
 丹次さんは、そのお役目を引き受けました。むろん伊三太とて異論はありませぬ。ふたりは必ず高資を討ち果たすと、円喜さまに誓われました。
 かくして、あの日の宴席と相成ったわけでござりまする。
 あと一歩のところまで迫った丹次さんは、思いがけぬ狼狽を見せた太守さまの手によって、命を落としました。私たちは円喜さまから、太守さまもこの企てを御存知であると聞かされていたのでござりまする。それゆえに丹次さんも、まさか太守さまが自分に刃を向けようなどとは、思うてもいなかったに違いないのでござりまする。なぜ太守さまはあのように動転なされたのか……。私には今でもよくわかりませぬ。
 ともあれ伊三太と私は囚われの身となり、円喜さまのお屋敷で牢へ閉じ込められました。
 私たちは秘事を知っている。当然、殺されるものと覚悟を決めておりました。
 ところが、ある夜、その円喜さまが単身で牢へやってくると、鍵を開け、私たちに逃げるよう促されたのです。円喜さまはおっしゃいました。
 ――あの夜の謀り事が成らなかったことで、幕府の命運は尽きた。遠からず鎌倉は灰になるだろう。今さらおまえたちの口を封じるまでもない。今のうちにどこぞへ逃げて、田楽舞をつづけて生きよ。
 私は意外な思いがいたしました。長崎円喜さまといえば、執権をも圧倒する権勢をお持ちのお方。どれほど恐ろしい鬼のような人物かと思うておりましたが、私たちに語り掛けるその姿は、さながら孫に説諭する優しい祖父のようでござりました。やはり、あれが長崎円喜さまというお方の本当のお姿だったのかもしれませぬ。権勢を手にしつづけるために無理をなされ、恐ろしく冷たいご自分を演じていらっしゃったのではないでしょうか。私には、そんな気がしてならぬのでござりまする。

「それで、伊三太は今どこに?」
 桔梗の話が一段落したところで、貞将は問いかけた。
「一座の者を連れて、鎌倉を出る支度を整えています。私が来るのを待って、すぐに出立する手筈です」
「そうか。ならば、急ぐがよい。ほどなくこの鎌倉も戦場になるであろう」
「金澤さま」
 桔梗の真摯な眼差しが、貞将を捉える。
「私たちと一緒にまいりませぬか」
「なに」
 貞将の口から驚きの声が洩れた。
「そなたたち一座とともにか」
「はい」
 桔梗は真顔である。
「私たちは、求めてくれる人たちの声に応じて諸国を旅します。そこにはさまざまな出会いがあり、発見があります。日々が新鮮で、心が躍るようです。私たちにとっては、まつりごとを行うのが鎌倉の武士であれ、京のみかどであれ、どうでもよいことなのです。私たちはただ心のままにこの世を生きていきたい。そう願うのみなのです」
「心のままに、か。ぱさらな生きかただな」
 ただ心のままに――それはかつて主上からも聞かされた、ばさらの極意に他ならなかった。
「羨ましきかぎりだ。私はそのような生きかたに憧れを感じる」
「であれば、ぜひ一緒に――」
「ありがとう。しかし、今は駄目だ」
「どうしてです」
「私には守らなければならぬものがある」
「幕府ですか」
「正確には、違うな」
「北条家のご一門ですか」
「それも違う」
「では、何を」
「誇りだ」
 貞将は、断固たる口調で言った。
「我等北条一門は――あるいは鎌倉幕府は、坂東の武士たちの束ねとして、武家のまつりごとの頂点に立ち、幾多の国難を乗り越えてきた。今、その幕府が終わりの時を迎えようとしている。幕府がどのような最後を迎えたか。史書は余すところなく語るだろう。願わくば、誇り高き末期を後世まで語り継がせたい。それが、ここまでの歴史を作り上げてきた我等の先祖に対する礼儀だ。ゆえに私は戦う。鎌倉最後の日を華々しく彩るために」
「そうですか」
 桔梗は可憐に微笑んで、
「一緒にまいりましょうなどと、不躾なことを申し上げました。金澤さまのお心は、よくわかりました。それでは、そのお心のままに生きてくださりませ」
「心のままに、か。なるほど、私もまたばさらの道を行こうとしているのだな」
 貞将の言葉に、桔梗は大きく頷いた。
「さあ、では疾くここから立ち去れ。急がねば敵の軍勢に吞まれるぞ」
「心得ました」
 桔梗は立ち上がり、深々と一礼した。
「鎌倉の夜道で助けていただいてから、金澤さまのことを想わぬ日は一日とてございませんでした。ともに生きることは叶わぬと得心いたしましたゆえ、せめて遠くからご武運を祈らせていただきとうございます。どうか、悔いなきいくさを――」
「桔梗殿」
 貞将は莞爾と笑みを浮かべて、
「いかなる世になろうとも、そなたたちは心のままに生きつづけよ。そして願わくば、そなたの思い出の中で私もともに旅をさせてほしい。これから来る新たな世を、ともにばさらに生きようぞ」
 やわらかく語りかけた。
 桔梗は涙を見せることなく、
「はい」
 強く、そう応えた。

 桔梗を見送った貞将のもとへ、
「殿、こちらを」
 愛刀を手にした小平次が近づいてくる。本当に気の利く雑掌であった。特に六波羅探題として京へ赴いた時には、世慣れた彼の機敏な働きに何度助けられたか知れない。
「うむ」
 頷いて、刀を受け取る。
「万が一、私が戻らなければ屋敷に火を放ち、どこへなりとも落ち延びよ。もし行き先に窮するようなことがあれば、新田義貞殿を頼るがよい。義貞殿は今となっては憎き敵だが、心まで鬼と化したわけではあるまい。彼の者は武士でないそなたのような者の命までは決して取らぬであろう」
 小平次は泣きじゃくっている。必死に言葉を返そうしているが、ただ涙に咽ぶばかりだ。
「さらばだ」
 思い切るように言い捨てて、貞将は馬上の人となった。

 鎌倉は三方を山、残る一方を海によって囲まれた天嶮の要害である。外から鎌倉へ通じる道は、ほとんどが狭い切り通しになっていて、そう簡単には進むことができない。攻めるに難く守るに易いこの地形こそ、幕府にとっての命綱であった。
 しかし今、怒涛の勢いを誇る新田義貞の軍勢が、この鎌倉へなだれ込もうとしている。
 義貞は参謀格の脇屋義助、堀口貞満らの進言を取り入れ、軍勢を三つに分けた。はじめの一隊は大館宗氏を総大将として極楽寺口から、次の一隊は堀口貞満を総大将として洲崎から、そして最後の一隊は義貞みずからが総大将を努める本体が化粧坂から、それぞれ鎌倉市街を目指すこととしたのである。
 対する幕府側もただちに軍勢を送り出す。
 極楽寺口の大館軍には大仏貞直が、洲崎には赤橋守時が、そして化粧坂の新田本体には金澤貞将が、いずれも三万から六万程度の兵を従えて迎撃に向かった。
 かくして――。
 鎌倉幕府の最後を彩る大いくさの幕が切って落とされた。

 洲崎へ向かった赤橋守時は、はじめから死ぬつもりでこのいくさに臨んでいた。
 何度も触れてきたとおり、彼にとってはそうすることが北条一門に生まれ、執権職にまで就きながら身内から謀叛人を出し、幕府をかかる窮地に追い込んでしまったことへの唯一の贖罪の手段なのだった。攻め寄せる堀口貞満の軍勢との戦いに勝とうが負けようが、二度と高時たちのもとへ生きて戻る気はなかった。
 およそ戦いの場において、命を捨てている者ほど強い者はいない。まして守時は、もともと武勇に長じている。必然的にそのいくさぶりは神懸かっており、敵味方を問わずその場に居合わせたすべての将兵たちから畏敬の目を向けられた。
 戦うこと数刻――粘りを見せた赤橋軍にも疲れの色が見えてくる。主立った部将たちが次々と討ち取られ、守時自身も体中に傷を負って身動きが取れなくなった。
「それがしが敵を食い止めまするゆえ、巨福呂坂あたりまでいったんお引きくださりませ」
 平素より腹心と頼んできた南条高直という武士が促すのを、守時は笑って拒絶した。
「この上、儂だけ逃れてなんとしようぞ。かくなる上は、ここで潔く腹を切るまで。そなたこそ疾く落ちよ。いくさはまだ終わっておらぬぞ」
 言うが早いか、残された体力のすべてを使って、おのれの腹に刃を突き立てた。
「殿ッ!」
 崩れ落ちる主君の胸に、高直が取りすがって慟哭する。
 そのさまを見止めた堀口貞満は、兵たちに手出しをせぬよう厳命した。この主従には、敵の手にかかることなくみずからの手で最期を飾らせるべきだと思ったのである。
 その思いが通じたのか、高直は莞爾と微笑みながら貞満に頭を下げると、そのままみずからの太刀で咽喉を掻き切って倒れた。
 主従の凄絶な死は、喚声と怒号の飛び交う戦場のただ中に奇妙な静寂をもたらした。それはどこか神聖な静けさのように感じられ、その場に居合わせた者たちは、おのれの発する声がそれを汚してしまうことを恐れて、いつまでも無言のまま折り重なるようにして横たわる主従の躯を見詰めていた。

 洲崎方面が破られたという報せは、瞬く間に他の幕府方の武将たちへも伝わった。
 極楽寺口を守る大仏貞直は、守時自刃の報を受けて、静かに瞑目した。
 貞直には、守時への密かな共感があった。彼等はともに、
 ――得宗家以外から執権職に就いた
という共通点を持っている。
幕府の頂点にいるのは名目上、将軍であるが、源氏将軍が三代で途絶えて依頼、京の摂関家や親王家から形だけ迎え入れる飾り雛になっている。実質的にまつりごとを司るのは執権だ。しかし、その執権の地位も最近では「得宗」によって脅かされるようになっている。
「得宗」とは、北条宗家を指す言葉だ。初代時政・二代義時以降、連綿と受け継がれてきたその正統なる血筋こそがすべての権力を握るのだとする「得宗専制」の色合いは、代を重ねるごとに少しずつ強められ、九代貞時の代で、その完成を見た。
 執権職は基本的にその時の得宗が継ぐ。その得宗が年少であるなど特殊な事情がある場合のみ傍流の者が執権職に就くが、それはあくまで「つなぎ」である。いずれ得宗が成長すれば、その地位を譲り渡す。
 貞直が執権職を継いだのは、貞時が四十歳の若さで病死し、嗣子高時が未だ幼かったことによる。もとより一門の務めと自覚し、武骨な性分ゆえあまり得意とも言えぬ政務に誠心誠意努めてきたが、やがて高時が成人に達すると、貞直は弊履のようにその地位を追われた。
 はじめからわかっていたことであり、まつりごとに向いていると感じたこともなかったが、それでもどこか寂しさを感じたことを今もなお覚えている。
――所詮、自分は使い捨て。
そんな拗ねたような感情を持ってしまったことも否定はできなかった。だからこそ高時の急病によって同じ境遇に置かれた守時への同情の念が強いのだ。傍流の身の虚しさを共感し合える同志――どこかにそんな気持ちをずっと持ちつづけていた。むろん、それを公言したことはただの一度もないが。
――そうか、守時殿はよき死に場所に巡り合えたか。
胸中を支配していたのは、そんな清々しい思いだった。陽の当たらぬ場所に生まれ、浴びたくもない表面的な陽光を無理やり浴びさせられた挙句、もう満足だろうとまた冷ややかな場所へ戻される。その理不尽な人生の最後を「鎌倉武士の誉れ」として、人々の称賛の中で迎えることができたのだ。心の中で密かに朋友と見なしていた男のために、そのことを寿いでやりたい気持ちが強かった。
――儂もおぬしにつづくぞ。
もう二度と会うことのない朋友に心の内でそう語り掛けて、貞直は立ち上がった。

 貞直の守る極楽寺口から鎌倉への侵入を図るのは、新田軍の部将大舘宗氏に率いられた軍勢である。一説にはその数およそ十万であったというが、これもまたおそらくは誇大であろう。
 とはいえ大軍であることに変わりはない。先に述べたように鎌倉への侵入口はいずれも狭い切り通しになっており、いかに大軍を擁していようと、一気呵成に攻め込むことは困難であった。地の利を得た貞直は、この地形を最大限に利用した防衛線を張り、細長い隊列を組んで進まざるをえない大舘軍の兵団に対して、各個撃破を仕掛けた。
「怯むな、押し通せッ!」
 宗氏は声を限りに叫び、兵たちは勇敢にもその激に応えようとしたが、こうなると勇敢さはもはや無謀さと同義でしかない。
「ええい」
 焦れた宗氏は、みずから先頭に立って切り通しを押し破ろうとした。もともと剛毅な武将なのである。
 だが、この場合はその剛毅さが仇となった。
「見よ、敵の大将が攻めてまいったぞ。一斉に矢を射かけて、討ち取れ」
 貞直の号令一下、無数の矢が宗氏目掛けて飛翔する。
 逃れるすべもなく、針鼠のようになった宗氏が馬から転げ落ちた。
 たちまち幕府軍の兵たちが群がっていって、その首級を搔き落とす。
「大舘宗氏、討ち取ったり!」
 高らかな叫び声が、初夏の鎌倉の青空に吸い込まれていった。
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