鎌倉最後の日

もず りょう

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   暗闘


 元徳二年(一三三〇)四月、貞将のもとへ鎌倉の使者がやってきた。
 ――六波羅探題の職を解くゆえ、ただちに鎌倉へ戻るように。
 貞将は驚いたが、同時に、
 ――やはり、来たか。
 とも感じた。
 このところ鎌倉の様子がいっそう不穏さを増していると、隠居の身となった父貞顕が文を寄越してきている。それによれば、出家遁世したはずの前執権高時がふたたびまつりごとの表舞台への復帰を企み、それを快しとせぬ長崎円喜・高資父子との溝が急速に深まっているというのだ。
 ――新たに執権となった守時殿が、せっかくうまく長崎父子と折り合いをつけながらまつりごとを動かし、少しずつ軌道に乗り始めた矢先に、この始末だ。まったく高時殿にも困ったものよ。
 貞顕はそう嘆くが、貞将にしてみれば、高時の気持ちもわからぬではなかった。
 そもそも高時が出家したのは、病を得たためである。一時は重篤に陥り、日常を取り戻すことすら危ういと思われたからこそ、あえて政権の座を捨てて隠居の道を選んだのだ。
 だが、高時は病を克服し、健康を回復した。今ならば、ふたたびまつりごとを執り行うこととて不可能ではないだろう。
 しかしながら、彼が床に着いているわずかな期間に、幕府はその手をすり抜け、いよいよ長崎父子の独断場と化していた。
 新執権守時はよくやっているが、やはり政治向きの人物ではない。必然的に多くのことは長崎父子――とりわけ若い高資に任せざるを得なかった。
 ――器量人と褒めそやされていたくせに、なんのことはない。結局、守時とて高資の操り人形という意味では、儂となんら変わらぬではないか。どうせ何もできぬのならば、儂に執権職を返すがよい。
 高時は、守時に執権職の返上を迫った。
 むろん守時がこれに応じるはずはない。
 すると、高資も守時を擁護して、高時の前に立ちはだかった。
 ――仮にも一度は出家なされ、まつりごとから身を退かれたはずでござりましょう。今さらしゃしゃり出てこられては迷惑千万。大人しく我等のまつりごとを見守っていてくだされ。
 かつての寵臣は、にべもなくそう言って、高時を切歯扼腕させた。
 以後、両者の間には一触即発の空気が流れているという。
 ――高時さまにも困ったものだ。
 貞将は深々と嘆息する。
 高時が病を得て隠退すると決まった時、これを惜しむ声はまったくといっていいほど上がらなかった。後を受けるのが温和な君子人として知られた貞顕だったということもあるだろうが、やはり改めてその人望のなさが浮き彫りになったと見るべきだろう。にもかかわらず、当の本人は未だ権勢への未練を断ち切れずにいるらしい。
 ――栄華とは恐ろしいものだな。
 その魔力に、貞将は慨嘆せざるをえない。こうなったからには悠々自適の身となり、大好きな田楽舞を日夜愉しみながら過ごせばよいものを――と、高時のためにその強欲ぶりを惜しんだ。
「申し上げます」
 小平次が告げる。
「ただ今、佐々木道誉さまがお見えになりました」
「なに、佐々木殿が」
 意外な思いがしたのは一瞬のことだった。
 ――さすがは早耳よな。私が鎌倉へ戻ることを、はや聞き知ったか。
 そうと察し、
「わかった、すぐに参る」
 嬉しそうに立ち上がった。

「いやあ、少しずつよい陽気になってまいりましたな」
 肩を並べて歩きながら、佐々木道誉は上機嫌で言った。
 屋敷を訪ねてきた道誉は、迎えに出た貞将を散歩に誘った。貞将はその誘いに乗り、供も連れずふたりきりで町へ出てきたのだった。
「それがしは、この季節の京が一番好きでござる」
「ようわかり申す。京は今がもっとも穏やかな雰囲気に満ちておりまするゆえな。秋の紅葉に彩られた時期もよいが、かように心の騒ぎがちな日々には、かえって今ぐらいのほうが落ち着く」
「そのような季節に、京を離れられまするか」
 探るような眼差しを、道誉は向けてくる。
 貞将は、それをさらりと受け流して、
「鎌倉よりの命なれば」
 是非もござらぬ、と結んだ。
「鎌倉とは、新たに執権となられた赤橋守時殿にござろうか」
 道誉はしかし、なおも畳みかけてくる。
「それとも、長崎高資殿かな」
「さて、それがしは執権さまをはじめとする、幕閣のみなが決めた総意と受け止めており申すが」
「ほう」
 道誉はおどけたような口振りで、
「そうであった。鎌倉の幕府はもともと合議によって事を決するのがならわしでござったな」
「相変わらず棘のある申されようだ。まあ、佐々木殿らしいというべきかな」
「げにも」
 貞将の皮肉に、道誉は破顔してみせた。
「出家しても、ばさらぶりは変わりませぬな」
「褒め言葉と受け取ってよろしゅうござるか」
「むろん、最上の褒め言葉と思うて、申し上げている」
「さようでござるか。では、遠慮なくいただきましょう」
 ふたりは互いの顔を見合わせて笑う。
 並んで歩く彼等の横を、子どもたちが走り抜けて行った。
 無邪気な笑い声が、青い空に吸い込まれていく。
「金澤殿」
 不意に道誉が真顔になった。
「鎌倉へ戻って、何をなさる」
「何を、とは」
「お父上の仇を討たれますか」
「戯れが過ぎまするな、佐々木殿」
「なんの。幕府の頽廃は今や誰の目にも明らかでござる。高時さまも長崎父子も、あるいは泰家殿や得宗家に近い面々も、みな世の乱れの予兆から目を背け、おのれが権勢を得ることばかり考えている。人の好いお父上は、いわばその醜き争いに巻き込まれたのでござろう」
「……」
「新たに執権となられた赤橋殿をはじめ、道理をわきまえた御仁も幾人かはおられるが、もはや尋常の手段では、ここまで腐りきった幕府を立て直すことなどできますまい」
 道誉の舌鋒は鋭い。平素の剽軽さからは想像もつかぬような沈痛な面持ちで、
「率直に申し上げれば、幕府の命脈は既に尽きているといっても過言ではござるまい。一度は謀叛に失敗した主上に、今なお多くの期待が寄せられているのも、幕府が頼みにならぬと思われているゆえでほかなりませぬ。現状を見れば致し方なしとも思われる反面、せっかく百四十年もつづいてきた武家の幕府、武家によるまつりごとが終わってしまうのは寂しい。だからこそ――」
 道誉は力強い眼差しを貞将に向けて、
「それがしは貴殿に期待しているのでござるよ、金澤殿」
 熱っぽい口調で言った。
「今、幕府を一から作り直すことのできる人物は、貴殿を措いてほかにない。貴殿が上に立てば人は付いてくる。そうしてみなが同じ方を向けば、まつりごとはおのずと正されていく。さすれば、鎌倉は昔日の強さを取り戻すことができ申す」
「しかし、それでも朝廷が――主上が我等を敵と見なされたら、なんとする」
「その折は、それがしや千種忠顕卿等が身を挺してお諫め申し上げましょう」
 道誉の言葉には淀みがない。
「それがしのようなばさら者は、とかく世を拗ねた捻くれ者のように思われがちでござる。まあ、たしかにそれはそうなのだが……、しかし、ただ捻くれているだけではござらぬ。旧態依然としたしがらみに囚われず、思うままに日々を生きてみたい――そんな思いが強いからこそ、時に常道とされるものから逸脱した振舞いや装いを見せてしまうのでござる。逆に言えば、そうすることによって世の人々に指弾されることを屁とも思わぬ意志の強さも持ち合わせておりまする。ゆえにこそ、これと決めた道があれば、たとえどれほど険しくとも真っ直ぐその上を進んで行く。それがばさら者の矜持でござる。相手が主上であろうと、あるいは神仏であろうと、怯むことはござらぬ」
「頼もしゅうござるな」
「いかにも。味方につけておいたほうが得だと思われぬか」
 悪戯っぽく笑う道誉。
 貞将もつられるようにして微笑み、
「はて、これは難問でござるな。いったいどうすれば、このばさら者を味方につけられましょうかな」
 おどけた口調で切り返す。
「簡単なことでござる。執権におなりなされ」
 道誉の答えは、単刀直入だった。
「今の鎌倉はつまらぬ。得宗家とそれを取り巻く一部の者たちばかりが美味い汁を吸い、世の動きなどまるで見ていない。我等武士は本来、幕府とともにあるべきだが、今の幕府にはそう感じさせるだけの魅力がござらぬ」
「……」
「だが、金澤殿が執権になられるのならば話は別でござる。それがしはこの数年、京で貴殿と親しく交わらせてもらって、正直なところ驚き申した。取るに足らぬ御仁ばかりと内心侮っていた北条一門に、このような人物がいたとは、と盲を開かれた思いさえいたした」
「これはまた、とんだ買い被りようでござるな」
「なんの、本心でござるわ。忠顕卿もつねづね言っておられる。これまであまたの武士たちと接してきたが、金澤殿のような御仁には、これまで出会ったことがないと」
「忠顕卿が、そのようなことを」
「ああ見えて、忠顕卿の人を見る目はたしかでござる。その忠顕卿が、一貫して金澤殿のことを褒めておられる。彼の御仁が幕府を束ねる地位に就けば、主上とてご自身の夢を諦めざるをえないだろう、とまで申されていた」
 意外な言葉に戸惑いを覚えながらも、
「おふたりのお言葉は、それがしにとって、この上なき励みとなり申した」
 貞将は決然と前を向いた。
「執権になりたいなどと考えたことはないし、そのような野心も持ち合わせており申さぬ。されど、幕府のまつりごとを今一度立て直し、義時公、泰時公の頃のような強きものにしたいという思いは、誰にも負けぬと自負いたしてござる。鎌倉へ戻れば、そんなそれがしを疎ましく感じ、追い落としを画策してくる者とて現れるやもしれませぬが、もとより屈するつもりはござらぬ。佐々木殿をはじめとする諸国の武士たちが幕府を頼みとし、誇りとしてくれるようになる、その日まで、それがしは戦いつづけてみせましょうぞ」
 初夏の爽やかな風が、貞将の頬をそよと撫でた。

 貞将が鎌倉へ戻って、瞬く間に一年余りが過ぎた。
 まつりごとは表向き執権守時と、それを補佐する御内人等によって行われていたが、実際のところは長崎父子――とりわけ高資の意のままに動かされていた。
 それだけでも憂うべき事態といえたが、さらに混迷に追い討ちをかけるように、一度は身を退いたはずの高時が、ふたたび幕政に容喙し始めてきた。
 高資にしてみれば目障りとは思うものの、仮にも前執権となれば邪険には扱えない。表面上は融和しつつ、内心では激しく火花を散らし合う両者の関係が、幕府内部に漂う空気をいっそう不穏なものにさせた。そうした中にあって、
 ――守時殿は、よう我慢しておられる。
 貞将は、同志と自認する執権の気苦労に思いを寄せ、深い同情の念を抱いた。
 もとより、まつりごとには不向きな人物というべきであった。竹を割ったような爽涼な気性は武人としては好もしく、慕う者も多い。だが、政略の才があるかと言われれば疑問符を付けざるをえず、何よりそういう駆け引きをよしとしないところがある。
 高資は、そんな守時の気質をうまく掴み、その人気を巧妙に利用しつつ、それをみずからの専横の隠れ蓑にしようとしている。狡猾な高資にとって、少年のように真っ直ぐな守時を掌の上で転がすなど、造作もないことだった。
 以前の貞将ならば、義憤に駆られ、高資との対決をも辞さぬ姿勢で臨んだことだろう。
 だが今は――。
 貞将の意識は、確実に以前とは違っている。
 たしかに高資は俗物である。人一倍欲求が強く、それを隠すことがない。清廉であろうとする感覚そのものを持ち合わせていないのだ。
 しかし、その一方で、貞将の脳裏には長崎円喜の言葉がずっと残りつづけている。
 まつりごとに不向きな守時や、はなからそれを司る能力を持たぬ高時に媚びへつらい、意のままに操ろうとするのは、もちろんそうすることによって吸える甘い汁の魅力でもあるだろうが、同時にまた、
 ――このお方ならば、お飾りになっていただき、儂がまつりごとを取り仕切ったほうが絶対にうまくいく。そうすることが、鎌倉のためなのだ。
 そんな確信めいた思い、もっといえば信念にも拠っているのだった。少なくとも、円喜の場合は。
 欲得まみれの汚さと、鎌倉の行く末を心から案じる心――一見するとまったく相反するようなふたつの要素が、この長崎高資という人物の中にも父と同じように存在するかはわからない。だが、あるいはそうした奇妙な感情の同居が、どこかにはあるのかもしれない。今はそうでなくとも、これから芽生えてくるかもしれない。もし高資にも円喜や自分と同じように、この鎌倉を愛する心があるならば――。
 だとしたら、その信念を生み出させ、彼をすら鎌倉にとって有益な存在に変えていくことこそが、あるいはおのれに課せられた役割なのかもしれないと、貞将は思い始めている。
 結局のところ、傾き始めた幕府の屋台骨をもう一度支えなおすためには、そこに拠る人々の融和を図るしかないのである。守時も高時も、長崎父子も御家人たちも、あるいは西国にいる佐々木道誉のような武士たちも、そして、もちろん貞将自身も――すべての者が同じ方を向くことでしか、まつりごとを正すことはできない。反目していては、何もならないのだ。むしろ、それこそが綻びの元となり、ふたたび主上の謀叛のような一大事を招くのだ。
 ――今度そのようなことが起きたら、いよいよ幕府は危ない。
 貞将はそう確信していた。だからこそ一日も早く融和をもたらす必要があるのだ、と。
 今、幕府内で権勢を二分している高資と高時は、いってみれば、その鍵を握るふたりだった。
 ところが――。
 そのふたりの仲が、いよいようまくいかなくなってきている。
 かつて病を得て頭を丸め、執権職を降りたのは、たしかに高時自身の意志ではなかったかもしれない。それゆえか高時は、このところ高資を名指しで批判するようになっていた。挙句の果てには、
 ――あやつは儂を誑かしおった。そもそも儂は、執権職を譲るのは一時的なことで、病が癒えたらまた復帰すればよいと高資が申したゆえ、出家いたしたのじゃ。しかるに、あやつは儂の後を受けた金澤貞顕が弟泰家の抵抗に遭い、執権職を放り出した後も儂に返り咲けとは言わず、赤橋守時なんぞを担ぎ出しおった。守時は生来の武骨者で、まつりごとのことなどまるでわからぬ。駆け引きも苦手な男ゆえ、高資にしてみれば儂と同様、あるいはそれ以上に好きなように操れると踏んでのことに違いない。まったく、あやつこそ鎌倉に巣食う獅子身中の虫ぞ。
 誰彼かまわず悪しざまに罵る始末だった。
 衆望のない高資だけに、あえて庇い立てしようとする者もいないが、さりとて幕府内で大きな力を持つふたりがかようにいがみ合っていては埒が明かぬ。
「恐れながら――」
 憤懣やるかたない日々を過ごす高時に声を掛けたのは、円喜だった。
「久方ぶりに宴席を設け、田楽舞でも愉しまれてはいかがでござりましょう。聞けば、太守さまお気に入りの丹次一座が近頃、この鎌倉へまいっておるようでござりまする。以前のようにわが息子たちと席を並べて舞をご覧になり、酒を酌み交わせば、わだかまりも消え失せるのではありませぬか」
「なに、宴席だと」
 激昂するかに見えた高時だが、すぐに落ち着きを取り戻し、
「田楽舞か。なるほど、悪くないな」
 かすかに口元を歪めてみせた。

 ぴい、ひゃらり。
 ぴい、ひゃらり。
 軽快な笛の音が、そこに流れる空気の冷ややかさを少しずつ打ち消していってくれる。
 円喜の主催による宴は、高時の屋敷で盛大に催された。
 執権守時や長崎父子をはじめ、幕閣の主立った面々が軒並み顔を連ねた。はじめはどの表情も固く、ほとんど会話らしい会話もない有様だったが、田楽舞が進むにつれて次第に打ち解け、気付けばそこかしこで他愛ない世間話の花が咲くまでになった。
 ――このような和やかな場は、いつ以来のことであろうか。
 貞将も守時たちと与太話に興じながら、深い感慨に耽っていた。
 そもそも鎌倉幕府というもの自体、創設から内紛に次ぐ内紛の繰り返しだった。
 初代頼朝の弟でありながら、兄によって滅ぼされた義経、範頼。
 その頼朝の後を受けた若き将軍頼家、実朝。
 梶原景時、畠山重忠、和田義盛ら創業の功臣たち。
 幕府内の権力争いに敗れ、北条氏の前に散った三浦泰村、安達泰盛ら有力御家人たち。
 その北条氏の内輪揉めで命を落とした御内人の能臣平頼綱。
 こうした多くの犠牲――夥しく流された血と汗と涙の上に、今の幕府は成り立っている。だが、その先人たちの営みに感謝する一方で、彼等が血塗れになって生み出してきた成果を維持し、後の世にまでつなげていくためには、幕府は新たな段階へ入らなければならないと、貞将はいよいよ強く確信する。
 新しい幕府に求められるもの――それは融和であり、団結だ。
 そうしてこそ、幕府は付け入る隙のない堅牢な政権になる。
 英邁剛毅な主上という「脅威」に相対し、敵対するのではなく協調すべき相手として認められるためには、そのことが不可欠なのだと、貞将は京での日々を通じて心の底から感じるようになっていた。
 大好きな田楽舞を前にして、高時はご満悦だ。
 盃が空になると、すかさず高資が徳利を持ってにじり寄る。
 よい呼吸だ。
 ――高資のような男が、その才覚を主君に媚びへつらうことだけに使うのではなく、真摯にまつりごとに向き合うようになれば、幕府が昔日の威を取り戻すことも夢ではない。それは決して叶わぬことではないだろう。
 そのために自分がすべきことは何か。
 舞台上の丹次一座――その中でもひときわ軽やかに舞う桔梗の姿を見詰めながら、貞将は思いを巡らせていた。

 舞が一段落すると、芸人たちも交えての大宴会となった。
 高時はいよいよ上機嫌で、ひとりひとりにみずから酒を注いで回った。
 地下の芸人たちにしてみれば、この上ない栄誉である。
 感動の面持ちで杯を受ける彼等の中にあって、ひとり硬い表情を崩さぬ若者がいた。
「丹次よ」
 傍らに呼び止めて京での思い出話に興じていた貞将が、
「見慣れぬ顔だな。新入りか」
 と、その若者を指して問う。
「ああ、あの者は――」
 丹次は頷いて、
「此度のお招きに預かり、鎌倉へ向かう途中で拾いましてござりまする。なんでも三河の生まれで、幼くして両親と死に別れ、地元の一座で舞をしていたのですが、その一座が座長の死で解散し、行き場を失ったというのです。試しに舞わせてみたところ、これがなかなかの腕前で。当人もたってと申しまするゆえ一座に加えたのでござりまする」
「たしかに、切れのよい動きを見せていたな」
「いかにも。うちの面々でも、あやつと同じぐらい踊れる者となると、それがしを除けば桔梗ぐらいでしょうか」
「名はなんと申す」
「伊三太と申しまする」
 その伊三太のもとへ、高時が歩み寄った。
 ずいぶん杯を重ねているらしく、危うい千鳥足だ。
「そのほうの舞、見事であったぞ。一座の中でも抜きん出ておったわ」
 さすがに高時は舞の技量を見る目がある。
「褒美にわが盃を取らせよう。受けるがよい」
「ははっ」
 平伏した伊三太に笑顔を向けたまま、
「高資、酒を持て」
 と、促す。
「はっ、ただちに」
 徳利を持った高資が、傍らに膝行した。
 高時は視線を動かさず、手だけを伸ばしてその徳利を受け取ろうとする。
 その手は徳利ではなく、高資の華奢な腕を掴んだ。
「太守さま、お戯れを――」
 刹那、媚態を作りかけた高資の表情が強張る。
 高時の目は、殺気に満ちていた。
 憎悪と、敵愾心と、嗜虐の悦びに禍々しく彩られていた。
「太守さま、お放しくださりませ」
 高資の声が震える。
 だが、高時はその手にいっそう力を込める。
 次の瞬間――。
 目の前にひれ伏していた伊三太が、跳躍した。
 振り上げた拳の先に、光るものがある。
「危ないッ!」
 貞将の口から叫びが洩れるのと、手元の徳利を力いっぱい投げつけるのとは、ほとんど同時だった。
 徳利は伊三太の横面に当たり、激しく砕け散った。
「くっ」
 伊三太が一瞬、苦悶の表情を浮かべる。
 割れた徳利の欠片が目を掠めたようだ。
 それが、高資にとっては幸いした。
 振り下ろされた光るもの――伊三太の持つ短刀は、高資の肩口にわずかに届かず、虚しく空を切った。
「うおおっ」
 野獣のような咆哮を上げて、高資が身を捩る。
 高時の手が、振り払われた。
 転がるように逃げる高資。
 追う伊三太。
 呆然と見詰める高時。
 すべての時が止まったように、みなが動けずにいる中で、ひとり猛然と駆け出した男がいる。
 貞将だ。
 後ろから伊三太を羽交い絞めにし、背負うように投げ飛ばす。
 小柄な伊三太は、蹈鞴を踏んで倒れ伏す。
「くそっ」
 起き上がろうとしたところへ、守時が圧し掛かる。
 守時は巨漢である。背丈もあるし、筋骨隆々たる体躯はいかにも屈強な坂東武者そのものだ。
 伊三太の矮躯は抑え込まれて、なすすべもない。
「どけっ、放せっ」
 呻きながら這い出そうとするが、守時はそれを許さない。
「太守さま、お怪我は――」
 貞将がそう言って高時のもとへ歩み寄ろうとした、その時である。
 傍らを、黒い影がすり抜けて行った。
 丹次である。
「あっ」
 貞将が思わず声を上げたのは、その右手に煌めいた白刃の光を見たせいだった。
「高資、覚悟ッ!」
 丹次の口から、雄叫びが迸る。
 懸命に追いすがろうとする貞将。
 だが、追いつかない。
 後ろずさる高資に、丹次があと一歩のところまで迫る。
 その、背後から――。
「下郎ッ!」
 甲高い叫び声とともに、高時が刀を振り下ろした。
 丹次の背を、袈裟懸けに斬り裂く。
 言葉も立てず、のけぞる丹次。
 振り向いた面上には、驚きの色があった。
 高時は物も言わず、そんな丹次の胸を抉るように刺し貫いた。
 ごほっ。
 口から大量の血を吐き出して、丹次は体を痙攣させる。
 桔梗の悲鳴が屋敷中に響き渡る。
 高資は呆然自失して動けない。
 高時は肩で荒い呼吸をしている。
 その目は虚空を彷徨い、もはや常軌を逸しているかのようだ。
「丹次さんッ!」
 守時に組み敷かれた伊三太が叫ぶ。 
 同時に、また天を突くような桔梗の悲鳴が響いた。
「狼藉者どもめ、許さぬ。皆殺しにしてくれようぞ」
 喚く高時。
 その肩を、太くがっしりとした掌が叩いた。
「太守、狼狽えめさるな」
 ずっと端のほうで、ひとり静かに酒を呑んでいた長崎円喜が、穏やかだが威厳に満ちた声音で言う。
「殺してしまっては真相が闇の中へ消えてしまいまする。この者たちは生かして留め置き、今宵の凶変が何人の指図によるものかを吐かせなければなりませぬ」
「……さ、さようであるな」
「太守、この者たちの仕置きはそれがしにお任せいただけませぬか」
「な、なに。そのほうにか」
「いかにも、厳しく詮議いたし、事の次第を明らかにしてご覧に入れましょう」
「う、うむ……。そ、そうじゃな。そこもとならば、そ、それができるであろう。よかろう、その……その者たちを……連れて行け」
 高時の声が上ずる。
 双眸はいよいよ焦点が定まらず、危うく泳いでいる。
「御意」
 我が意を得たりとばかりに頷いた円喜は、みずからの郎党を促して、田楽一座の者たちをひとり残らず縛り上げさせた。伊三太も、むろん桔梗も例外ではない。
「引っ立てよ」
 そう命ずる円喜の目には、妖しい光が宿っていた。
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