貌(かお)

もず りょう

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後編

貌(かお)後編

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     5

「あの時、私はそれ以上、弟にかけるべき言葉を持たなかった」
 範頼は訥々と語る。
 快実はあえて余分な言葉を挟まず、対手の話に耳を傾けている。もともとが聞き上手で通った男だった。彼に話を聞いてもらうと実に心地よく、それだけで悩みのいくらかは解消されるようだと、寺内でも評判であった。
「弟の考えていることが間違いだと思ったわけではない。たしかに兄者と弟は、まったく似ていなかった。そして、おそらく私も兄者とはまるで似ていまい。だが――」
 範頼はここで言葉を止め、しばらく何事かを考える素振りを見せていたが、やがて小さく首を振り、
「やはり、駄目だ」
 ひとりごちるように言った。
「駄目とは、いったい何がでございますか」
「私は気づいたのだ」
「何に、でございます」
「私は……、兄者の貌をはっきりと思い出すことができない」
「ほう」
「何度も顔を合わせてはいるのだ。すべての物事を独断で事を運んだ弟とは異なり、私はどんな些細なことでも屋形へ行って兄者の指示を仰いでいた。平家滅亡の後も鎌倉でのまつりごとに参画していた身だからな」
「そうでしょうな」
「にもかかわらず、こうして思い返してみても、頭に浮かんでくる兄者の貌は、つねにどこか茫漠としていて、明確な形にならないのだ。どんな目をしていたか、鼻は高かったのか、唇の厚さは、輪郭は……。すべてが曖昧模糊としている」
「なぜでございましょう」
「……認めたくはないが、私は知らず知らずのうちに恐れを抱くようになっていたのだ」
「恐れ、でございますか」
「あの時、弟に言われて私も考えたのだ。たしかに私も兄者とはまるで似ていない。目も、鼻も、口も、輪郭も。顔の造作において何ひとつ似通ったところがない」
「兄弟とはいえ母君が違っているのですから、そのようなこともあるのではないでしょうか」
「私もはじめはそう思った。だが、兄者が同じように感じているとはかぎらぬとも思った。これほど面差しの異なる相手に対して、はたして肉親の情など湧き起こるものであろうか。そう思った瞬間から、私は兄の貌をまともに見られなくなった。見るのが――それによって、辛い現実に直面するのが怖くて仕方なかったのだ」
「蒲殿はいかがでございます。まるで似ておられぬ兄君に対して、これまでどのような感情をお持ちでしたか」
「私は……」
 範頼は言葉を詰まらせ、静かに下を向いた。
 そもそも郷里を出て平家追討軍に加わろうと決めたのは、亡父義朝の仇を奉じるためでも源氏の名誉回復を図るためでもなく、ただひたすら兄頼朝に会いたいがためだった。あの時、自分でもはっきりとは感じられていなかったが、間違いなく範頼は肉親の情愛を求めていた。つながりを欲していた。
 だが、しかし――。
 初対面の時から微妙な違和感はあった。待ち望んだ兄との出会いは、あまりにもそうした実感に乏しいものだった。兄は苦労人ゆえ他者に心を許すことができにくくなっているのだと、強いてみずからを得心させたものの、少なからぬ落胆を味わったことは否定できなかった。
「何か違うと、つねに感じていた。心の奥底で引っかかりをずっと持ちつづけていたのだ。その思いがはっきりとした形を結んだのが、おそらくあの時だったのだ」
 範頼の脳裏に、義経の笑顔が浮かんだ。特徴的な八重歯を剥き出しにした、子どものような笑顔である。
 任官をめぐるいざこざ以来、どこかぎくしゃくしていた義経と頼朝の関係は、平家滅亡後も悪化の一途を辿った。やがて義経に謀叛の嫌疑がかけられ、義経が西国へ落ち延びるに至って両者の対立は決定的なものとなる。
 追っ手から逃れつづけ、最後には奥州平泉まで流れ着いた義経だが、頼朝の追跡は執拗をきわめ、ついにはその圧力に屈した奥州の支配者藤原泰衡の手にかかって若い命を散らした。平家追討の最大の功労者たる男の人生の、それはあまりにも悲劇的な幕切れであった。
「直接的に手を下したのは奥州の藤原氏だ。だが、彼等を使唆したのは間違いなく兄者だった。弟は兄者に殺されたのだ。あれほど身を粉にして兄者のために働いたのに、その功績には目もくれず、まるで虫けらのように追い回され、命まで奪われた」
 話しているうちに、範頼の目にうっすらと涙が滲み始めた。
 快実はそんな範頼を痛ましげな眼差しで見詰めている。
「私は兄が怖い。いかに母が違うととはいえ、実の弟に平然と死を与える兄が。だが、その一方で私はこうも思うのだ。弟は……、九郎はみずから兄との距離を広げて行った。おのれの立場も弁えず勝手に任官した挙句、それを咎められたことで一方的に恨みを深めて行ったのだ。兄者の立場にしてみれば、厳しく対処せねば示しがつかぬという側面もあったのに違いない。九郎はあまりにも兄者を知らな過ぎた。知ろうとする努力を怠っていた」
「……」
「私は兄者を知りたい。兄者のことをもっと深く知り、その貌をはっきりと思い出せるようになりたい。私がこの伊豆国へ――かつて兄者が二十余年に及ぶ長い雌伏の時を過ごし、挙兵の旗を掲げられたこの地へ配流されたこともまた何かの縁であろう。そう思って今日、そなたにこの蛭ヶ小島へ案内してもらったのだ」
「さようでございましたか」
 快実は深く頷いた。
 範頼の思いは痛いほど彼の胸に響いた。いつもどこか不安そうな、冴えないこの中年男の助けに、少しでもなることができたら――。
 そんなことをごく自然に思わせるあたりが、実は源範頼という人物が持つ大いなる魅力なのだろうと快実はこの時、初めて理解した。でなければ、頼朝ほどの政治感覚も、義経のような天才的戦術眼も持ち合わせていない範頼という平凡な男が、まがりなりにも平家追討軍の総大将という大役を果たしおおせるはずなどなかったのだ。
 はたして当人はそのことに気づいているだろうか。おそらく気づいていないだろうと快実は思い、範頼のためにそのことを惜しんだ。
 と――。
 彼等の目の前にふたりの少年が走り出てきた。
 前を行くのは五、六歳ぐらいの少年である。手には自分で作ったらしい竹蜻蛉を握り締めている。
 その後ろからついてきたのは十二、三歳の年嵩の少年だった。同じように竹蜻蛉を手に持っている。
 ふたりは兄弟だろうか。草むらを転がるようにじゃれ合いながら、それぞれの竹蜻蛉を飛ばす。
 どうやら兄よりも弟のほうがうまくできているらしい。明らかに飛行距離が長く、飛びかたも綺麗だった。兄の竹蜻蛉は一応、飛び上がるのだが、すぐにふらふらと揺れ出し、ポトリと落ちてしまう。それに比べ、弟の竹蜻蛉は軽やかに舞い上がり、しばらく遊泳を楽しんだ後、ゆっくりと着地するのだ。
「兄上は下手くそだな」
 弟と思しき少年は屈託のない笑顔で勝ち誇ると、年嵩のほうへ歩み寄って何事か囁いている。身振りを交えながら、どうやらうまく飛ばすコツを教えているらしい。
 兄は小さく頷き、もう一度、竹蜻蛉を飛ばす。
 さっきよりはいくらか距離が伸びたものの、やはり急に失速し、墜落してしまった。
 その様子を見て、弟がまた笑った。明るく伸びやかな笑い声だった。
 ずっとそれを眺めていた範頼の頬が、かすかに綻んだ。
「なんとも微笑ましい光景ですな」 
 快実もまた慈愛に満ちた眼差しを少年たちに向けている。
「兄弟でしょうか」
「で、あろうな」
「まことに仲睦まじき様子。見ているこちらまで楽しくなってまいりまする。元来、兄弟とはあのようなものであるはず。そうではございませぬか」
「そなたの申すとおりだ」
 範頼は大きく頷いた。
「私は今、兄者のことをもっと知りたいという思いを、いよいよ強くしたぞ」
 そう言って、ふたたび少年たちのほうへ視線を戻した時、彼の目に飛び込んできたのは目を疑いたくなるような光景だった。
 兄が弟を力任せに投げ飛ばし、その手から強引に竹蜻蛉を奪い取ると、くるりと踵を返し、倒れ伏した弟をその場に放置したまま、すたすたと歩き出したのである。
 範頼も快実も言葉を失った。
 大地に横臥した弟は顔だけを上げ、こちらへ歩いてくる兄の背中を恨めしげに見詰めている。
 範頼の目に、ふたりの面差しが横並びになった。
 兄弟の貌は、まるで似ていなかった。

     6

 それからしばらくふたりは無言のままであった。
 重苦しい空気が流れている。さっき見た兄弟のことがふたりの脳裏に焼き付いて離れなかった。
「兄君は……、この伊豆でずいぶんと苦しい日々を過ごされたと聞き及びまする」
 探るように切り出したのは、快実なりの気配りであったろう。閉塞した空気感をなんとか打破しようとの心算であったに違いない。
 範頼はしかし、依然として無言のまま、何かに打ちひしがれたように沈鬱な面持ちを浮かべている。
 快実はかまわずつづけた。
「ご存知でございますか。かつてまだ兄君が今の御台所政子さまと一緒になられるよりも前、兄君が当地の実力者伊東祐親殿の娘御八重殿と恋仲であったことを」
「……いや、初めて聞いた」
「八重殿は気丈な政子さまとは異なり、しとやかでやさしいお方でした。兄君はそんな八重殿の手弱女ぶりをことのほか愛され、やがておふたりの間には男子がお生まれになった。ところが、それを知った祐親殿はたいそうなご立腹。何しろ平家全盛の折、流人の身である源氏の御曹司の子種を宿すなど何事かと、烈火の如くお怒りになったと申しまする。結局、生まれた男子は祐親殿の手の者に連れ去られ、哀れにもお命を奪われてしまいました」
「……」
「生きておわせば今ごろ三十歳を過ぎておいででした。今ごろ、兄君には初孫ができていたかもしれませぬな。ちょうど、そう。先程の童どもぐらいの年恰好でございましょうか」
 範頼は苦いものを飲み込んだような顔で快実の話を聞いていた。
 兄は平素、流人時代のことをあまり語りたがらなかった。むろん話していて愉しい話題ではないに違いなかったが、宿願だった平家討滅を果たし、過去のことなど笑い話と流せる境遇となった今、なぜそれほどまでに拘りを見せるのかと、時に訝しんだものだった。その理由がようやくわかったような気がして、範頼はかすかな戸惑いを覚えた。何か触れてはいけないものに触れてしまったような、そんな気がしたのである。
 そうした気分をみずから打ち消すべく、つとめて明るい声音で範頼は言った。
「御台所は異常なまでに嫉妬深いお方だ。その昔、兄者が手を出した亀の前なる女子を憎み、ひどい恥辱を与えたと噂で聞き知っている。今、仮に伊東の娘に生ませた子が生きておったならば、かえって酷い目に遭わされていたかもしれぬ。物心つかぬうちに殺されたのは、むしろ幸せであったかもしれぬぞ」
「たしかにそうかもしれませぬ。しかしながら、人は生きておればこそでござりまする」
「なるほど、人は生きておればこそか」
 範頼は、バツの悪そうな顔で微苦笑を浮かべてみせた。
「そなたの言うとおりだな」
 やがて、ふたりの目の前にみすぼらしい庵が姿を現した。一見して誰も住んでいないとわかる荒れ具合である。
「快実殿、よもやあれではあるまいな」
「あれでござりまする」
 範頼は驚きの表情を隠さなかった。頼朝はこれほど小さな庵で二十余年もの歳月を過ごしてきたというのか。
 身近には数名の家人しかおらず、かしずく者とてない境遇で、ひたすら読経に勤しみ、亡き父や兄たちの供養を行うばかりの日々を送っていた頼朝。その心に明るい未来など微塵も見出せなかったであろう。彼が平素、ほとんど感情を表に出さず、いかなる相手に対しても猜疑心を捨てられぬ性質になったのも無理からぬことと、範頼ははっきり得心した。
「入ってみよう」
 そう言って範頼は馬から飛び降りた。
 しっかりとした足取りで、庵の中へ一歩踏み込む。
 中は真っ暗だった。
 がらんとして何もない部屋だった。明り取りの窓と、あとは小さな文机がひとつあるだけだった。
 いかに流人の配流先とはいえ、ちょっとこれはひど過ぎるな、と範頼は思い、いよいよ兄に同情した。
 そのまま中へ入って行こうとした時、
「……誰だ」
 範頼は小声で誰何した。庵の中に人の気配を感じ取ったのだ。
 快実も入ってきて、同じほうへ視線を凝らす。
 ゴソリと何かが動いた。さらに目を凝らすと、暗がりの中に蠢く影が見える。
 範頼は警戒し、腰の刀に手を添えた。
 と、その時――。
 雲間から太陽が顔を覗かせたらしい。明かり取りの窓を通じて、白い光が差し込んできた。
 光は容赦なく影の正体を暴いた。
 影がその全貌を曝け出される。
 刹那、範頼はハッと息を呑んだ。
 そこにいたのは十二、三歳の少年であった。
「おまえは、さっきの――」
 言ったのは快実である。少年は先程、彼等が見た兄弟の片割れだった。手にはしっかりと竹蜻蛉を握り締めている。弟から強引に奪い取ったものだ。
「そこで何をしている」
 快実の問いに、少年は答えない。無表情のまま、鋭い目で快実を見返している。
「ここへ入ってはならぬ。早く立ち去るのじゃ」
 やさしく諭すようなに快実は言い、何気なく範頼のほうを振り返った。
 範頼は――。
 彼は言葉を失い、その場に立ち尽くしていた。顔色は蒼白になっている。
「蒲殿」
 快実の声も届いていないが如く、範頼は茫然自失している。虚ろな目は少年の顔面に注がれていた。
 ――私は、この少年を知っている。
 範頼はそう感じていた。いったい誰だったろうか。懸命に思考を廻らせ、記憶を手繰り寄せようとする。
 数瞬の後――。
 範頼は我知らず「あっ」と声を上げていた。
 改めて凝視する。
 眉は太く、精悍だった。目は大きく、涼やかで切れ長だ。鼻は高く、綺麗に筋が通っている。唇は薄く、品がある反面、やや酷薄そうな印象……。
 兄だ。兄頼朝の貌だ。
 あれほど思い出せなかった貌が今、目の前にある。あれほど長くまともに見ることさえできなかった貌を今、自分は凝視している。
「咎めるつもりはないのだ。ただ、ここへは勝手に立ち入ることまかりならぬ。早う外へ出よ」
 さらにやわらかくなった快実の声が、どこか遠くのほうから聞こえてくるような感じがした。
「ささ、早う、早う」
 快実はなおも言い聞かせる。
 不意に少年が表情を変えた。
 笑った――のだろうか。
 熟しきった無花果の実のように紅い歯茎を剥き出しにして、カッと目を見開く。端正な風貌が、一変して醜悪きわまりないものに変質を遂げていた。
 範頼の背筋を鋭い悪寒が走った。体中が小刻みに震えているのを、止めることができなかった。
「……帰ろう」
 咽喉の奥から絞り出したような声で言うと、範頼は足早に庵の外へ出た。
「蒲殿、いかがなされました。蒲殿」
 すぐさま快実がその後を追いかける。
 修善寺へ帰着するまで、ふたりはほとんど言葉を交わさなかった。範頼は生気を失ったまま、悄然たる面持ちで馬の背に揺られつづけた。ひどく憔悴した様子で、時折、何事かひとりで呟いていたが、快実の耳は彼がなんと言っているのかまで聞き取ることができなかった。
 寺へ戻った後も、範頼の脳裏から少年の貌が離れようとしなかった。
 それは禍々しいまでの醜悪さに満ちていた。範頼は思い出すたび激しい恐怖に打ち震えた。
 不意に外でムクドリが鳴いた。独特の濁りを持つ、なんとも不愉快な鳴き声に、範頼は怯えた。
 この日の夜、範頼は一睡もできなかった。何か見てはいけないものを見てしまったような、そんな思いに彼は一晩中、苛まれつづけた。

 数日の後、修善寺は頼朝が送り込んだ討手の襲撃に遭い、範頼は無残な死を遂げた。
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