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第七章 死力を尽くして

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   第七章  死力を尽くして

     一

 この時、安濃津城を攻略せんと兵を進めていた西軍諸将のうち、とりわけ高い戦意を持っていたのは、長束正家と安国寺恵瓊の両名であったろう。
 実はこのふたり、先に伊勢へ上陸し、安濃津城へ向かう信高らの軍勢を遠巻きに発見しながらこれを味方と早合点し、みすみす見逃すという醜態を演じてしまっていた。
なんとしても名誉挽回の機会を得たいと切に願うふたりであったが、その思いは些か強すぎたというべきかもしれない。
 八月二十三日の早暁、正家・恵瓊の両名は、前日の評議で決められた日取りをまったく無視して各々の手勢を動かした。このあたり、烏合の衆特有の身勝手さとしかいいようがなかったが、ともかく彼等はまったくの独断で、それぞれ愛宕山、薬師山方面へ兵を進めたのである。
 彼等の動きはしかし、たちまち城方の看過するところとなった。もともと戦慣れしていない文官のふたりである。その兵の動かしかたには、たぶんに迂闊さがあった。
「小賢しいことを」
 安濃津城内において、正家らの軽挙を口汚く罵ったのは、神戸友盛だった。
「これだから、戦を知らぬ奴は――」
 例の如く皮肉な調子で言いかけて、さすがに白けた場の雰囲気を読み取ったのか、 そこまでで口を噤む。
 ――戦を知らぬ
 という点にかけては、富田信高主従もさほど変わらないのである。
 友盛に対して注がれている数多の冷ややかな視線――彼等の目は、明らかにこう語っていた。
 ――おまえは戦を知っているとでもいうつもりか。負け犬の分際で、おこがましいにもほどがあろうぞ。
 友盛が沈黙した後を受けて、
「で、どうする」
 言葉を発したのは分部光嘉だった。彼はいつもどおりの落ち着き払った声音で、
「迎え撃つか、それとも――」
 と、上座にいる信高に問いかけた。
「静観するか」
「そうですね」
 信高はしばし考えた後、
「ここは、もう少し様子を見るべきでしょうか」
 と、答えた。
「あるいは、我等を誘い出すための罠かもしれませぬゆえ」
「なるほど」
 信高の出した結論に、光嘉は我が意を得たりと頷いて、
「信高殿は存外、戦というものをよくわかっておられる」
 さりげない口振りで褒めた。
「されば、いかがなさる」
 重ねて決断を促す光嘉に、信高はまた少し考えてから、
「綾井権之助、斎田隼人の両名、これへ」
 ふたりの家臣を指名した。
「はっ」
 名指しされた権之助と隼人は、肩を並べて信高の眼前に進み出るや、
「これに」
 と、主君の命を待つ。いずれも年若く、精悍な顔立ちをした武士である。
「そのほうらにいくらかの手勢を与えるゆえ、塔世川の手前辺りまで出張って敵軍の動きを視察してまいれ。ただし、よいか。そのほうらの役割はあくまでも視察のみぞ。たとえどのようなことがあろうとも、決してこちらから手を出してはならぬ」
「しかし、若殿」
「なんだ」
「もし敵が攻撃を仕掛けてきたら、いかがいたしましょうや」
「そのときは――」
 信高は腕組みをして、今日何度目かの熟考の後、
「できるかぎり退けて、そのまま帰城せよ」
 と、言いつけた。
「くれぐれも後を追ってはならぬぞ、よいな」
「はっ」
 権之助と隼人はともに平伏したが、どちらも表情には、かすかな不満の色を滲ませている。傍らでそれを見ていた光嘉は、そのことに気づき、
 ――こいつら、危ないな。
 そう思ったが、肝腎の信高はどうやらまるで気づいていない様子で、
「よし。わかったら、さっそくにも行くがよい」
 そう言って、彼等を送り出してしまった。
 ――あの者たち、下手なことをせねばよいが。
 去り際にふたりが見せた小さな含み笑いが、光嘉の脳裏にこびりついて離れなかった。
 
    二

 綾井権之助・斎田隼人の両名に率いられた百名足らずの小勢が塔世川の畔に辿り着いたのは、正午前のことだった。彼等は敵影が近くに見えないことを確認すると、信高の命を破って川を渡り、さらなる進軍を試みた。
 権之助も隼人も、血気盛んな若者だった。彼等は戦というものをほとんど知らなかったが、それだけに勢いとやる気だけは人一倍強く持っていた。
 ただ、惜しむらくはふたりとも若さゆえの逸りがあり、それを制御するすべを何ひとつ持ち合わせていなかった。
 ――戦は先手を取ったほうが勝つ。
 経験に裏打ちされない知識だけの戦術論は、まさしく机上の空論に過ぎなかったが、ふたりは浅慮にも――ある意味、当然の帰結ともいえたが――、そのことに思い至らなかった。このあたり、やはり経験に乏しい信高の人選に誤りがあったとしかいいようがない。計らずも老練な光嘉が危惧したとおりの結果になってしまったのだ。
 権之助と隼人は長束・安国寺の両将が陣を張る愛宕山の麓まで兵を進めると、さらに愚かなことに、ここで手勢をふたつに割ってしまった。すなわち権之助らはひきつづき山上目指して進軍することとし、この場所に随身の弓削忠左衛門ら約三十名を予備隊として残したのである。
 ただでも少ない軍勢をさらに減らしてしまうのだから、これはもう油断以外の何物でもなかった。いや、油断や慢心というものはある程度、事情に通じた者でなければ生み出せない発想と考えるならば、無知ゆえの過ちと表現すべきかもしれない。
 実際、山の上に陣取っている相手を下から攻めるなどというのは下策中の下策である。おまけに権之助らには、わずか七十名足らずの軍兵しかいないのだ。ここまでくると無謀という以外の言葉が見つからない。 
 長束・安国寺の両名は、ともに根っからの吏僚であり、武事は決して得意ではなかったが、それでもこの権之助らの動きを知るや、たちまち攻勢に転じたのは、さすがに曲がりなりにも乱世を掻い潜ってきた男たちだったというべきであろう。
 長束・安国寺の軍勢は一斉に山を駆け下り、攻め寄せる権之助らを迎撃した。
 徹底的に叩きのめされた権之助らは、散り散りになって逃げた。
 やがて麓の弓削隊も合流し、決死の撤退を敢行する。
 やっとの思いで塔世川へ辿り着き、なんとか渡河し終えたとき、弓矢の上手として知られていた弓削忠左衛門が、敵将のひとりを射落とす手柄を立てた。長束正家に仕える武将で、名こそ知られていないが、そこそこ武勇に秀でた人物と見受けられた。
 将領級を討たれたことで浮き足立った長束軍は、追撃を止めた。既に壊滅的な打撃を与えた今、これ以上の深追いは無益と判断したのであれば、文官の長束正家のほうが綾井権之助・斎田隼人の両名よりもはるかに戦というものを知っていたというべきであろう。
 権之助と隼人はほうほうの態で城へ逃げ帰り、信高の前へ引き据えられるように出てきて、ひたすら頭を下げ、詫び言を述べ立てた。
 信高は特に表情を変えることなくその言い訳を聞いた。
 すべてを聞き終えるた後、彼はただひとこと、
「ご苦労だった。下がってゆっくり休め」
 そう言っただけだった。
 内心、信高は激しく後悔していた。大事な緒戦を彼等のような経験の乏しい若者に担わせたのは、紛れもなくおのれの過ちだった。綾井権之助と斎田隼人のふたりは、たしかに性格的に短慮なところも見られたが、これからの富田家にとってなくてはならぬ有為の人材である。だからこその抜擢だったのだが、結果として、彼等に無理な役割を課し、その武名に傷をつけてしまったことは、主として大いに恥ずべきことだと信高は自責した。
「まあ、気になさることはない」
 慰めるように声をかけてくれたのは、分部光嘉だった。
「若い彼等なれば、あれぐらいの覇気はむしろあったほうがよい」
「しかし、みすみす敵を勢いづかせてしまいました」
「心配は要らぬさ。長束正家も安国寺恵瓊も所詮は文官。この機を捉えるだけの器量は備わっておるまい。おおかたあのふたりを追い払ったことで満足しておるであろうよ」
「そうでしょうか」
「信高殿、戦というものはな」
 光嘉はここでニヤリと意味ありげに笑って、
「とにかく前向きに考えることが肝要なのだ」
 声を潜めて言った。
「此度、あのふたりはたしかに若さゆえの過ちを犯し、一敗地にまみれた。しかしながら、これで世人に対し――ひいては内府に対して、富田家は真剣に戦おうとしていると示すことができたではないか」
「なるほど」
「彼等が本気で戦い、本気で敗れてくれたおかげで、この先しばらくは我等も楽ができる」
「そういうものですか」
「ああ、そういうものだな」
 戦というやつは。
 豪快にそう言い放ち、からからと笑う。
 ――やはり「戦国生き残り」は考えることが違う。
 信高は感じ入ったが、同時に、おのれの心に何か靄のようなものが広がりつつあるのを感じていた。そんな彼に追い打ちをかけたのが、
「ただし、明日どれほどの軍勢が押し寄せてまいるかにもよるがな」
 ぽつりと呟くように光嘉が洩らした、次の言葉だった。
「長束や安国寺など、その気になれば、なんとでもあしらえるのじゃ。我等がほんとうに気にかけなければならぬのは、本物の武将たち――すなわち毛利や竜造寺、鍋島あたりの動静でござるぞ」
 思えば城へ戻って以来、信高の中に芽生え、我知らず醸成されつつあった茫漠とした心の靄――正体の判然としない厄介な感情を一気に爆発させるのにじゅうぶんな力を、この何気ない言葉は持っていた。
「本物の武将たち、ですか」
「さよう」
「長束正家や安国寺恵瓊は偽物だと?」
「いかにも」
 光嘉はごく自然な所作で頷く。信高の心の動きに、光嘉ほどの老練な男が、未だ気付いていない。
「彼等は所詮、文官であって、武将ではない」
「……光嘉殿」
 信高の声音がこれまでとは別人のような険しさを帯びた。
「ずっと気になっていたのですが」
「なんじゃな」
「文官は、本物の武将にはなれぬのでしょうか」
「さて……、どうであろうな」
 光嘉は返答に詰まった。
 彼は、今さらながらおのれの犯した過ちに気づいた。だが、もう遅い。
「まことに申し上げにくいことながら」
 怒りを含んだ信高の声。その口から次に出てくるであろう言葉は、光嘉にはあまりにも容易に推測できた。
「わが父一白は紛うことなき文官でございました」
 それは、肺腑の底から搾り出されたような、どこか悲痛さすら感じさせる声音だった。
「光嘉殿は、わが父一白をも所詮、文官と嘲っておいででしたか」
「勘違いなさるな、信高殿」
 光嘉は狼狽しつつ反駁する。
「儂は文官と武将とは本質的に成り立ちが違うと申しておるだけで、別にそのいずれかが優れ、いずれかが劣るという話をしておるのではない」
「詭弁でござるッ!」
 信高は喚いた。これまで一度として見せたことのない取り乱しようであった。
 驚き、たじろぐ光嘉に、信高は畳み掛ける。
「光嘉殿、あなたの心底は見えた。あなたは所詮、私のことも文官上がりの役立たずと蔑んでいるのでしょう」
「何を申される」
 光嘉の声が上ずる。
「落ち着かれよ、信高殿」
「落ち着いておりますとも。光嘉殿、話を逸らさないでいただきたい。あなたは私を内心では軽蔑している。そうではありませぬか」
「馬鹿馬鹿しい。いったい何を根拠に、そのような」
「では聞きますが、あなたはなぜ、此度の私の判断をお責めにならぬのです。綾瀬権之助や斎田隼人のような戦を知らぬ若僧を前線へ送り出した私の軽率さを」
「だから申したではないか。これはこれで悪くない結果を招いたのだと」
「ほほう」
 信高は鼻先で笑い、
「されば、光嘉殿にはこうなることがはじめからわかっていたというのですな」
 皮肉げに言った。
「さすがは光嘉殿。紛うことなき本物の武将であられる」
「信高殿、そのように物事を斜めから見てはならぬ」
 ほうけ者のそなたらしくもない。
 そう忠告した光嘉に、信高はいよいよ掴みかからんばかりの剣幕で、
「どういう意味ですか。私のように世間知らずの青二才は、ほうけた頭で、愚直に物事の表面ばかりを見ているのがお似合いということですかッ!」
 と、食って掛かる。
「たしかに、私はあなたのように厳しい乱世を経験してはいません。しかし、私にだって矜持もあれば意地もある。光嘉殿、あなたは結局、乱世を生き抜いた自分たちだけが偉いと思っているのでしょう。あなただけじゃない。みんな、そうだ。あなたぐらいの年齢の人たちは、みんなそう思っている。かつて朝鮮で私を助けた立花宗茂殿もそうだった。自分たちの過去を殊更に美化し、それを知らぬ私たちをひよっこだと侮る。なんて偏屈な、年寄りじみた考えかたなんだッ!」
 豹変したように捲し立てる信高。その姿は、日頃のほうけ者ぶりからは想像もつかぬほどに激越で、荒んでいた。
光嘉は目を細め、痛ましげにそんな信高を見つめている。
 その眼差しが、信高の感情をいっそう逆撫でした。
「なぜ、そのように上から私を見下ろすのです。私が若僧だからでしょう。戦国生き残りの武将ではないからでしょう」
「落ち着け、信高殿」
 光嘉の口吻にも、苛立ちが込もりはじめる。
「そのように取り乱しておるときか、ここは戦場ぞ」
「取り乱してなどおりませぬッ!」
 癇癪を起こしたように叫ぶ信高。その目は真っ赤に充血し、憤怒の念が如実に現れ出ていた。その視線はもはや焦点が定まらず、明らかに平静さを失っている。
「もう、いい。よくわかりました」
 あなたの心底は見えました。そう言い捨てるなり、信高は勢いよく席を立った。

     三

 ささくれ立った気持ちというのは、どうやっても、よい方向には作用しないものであるらしい。
 その夜、信高は主殿と、かつてないほどの大喧嘩をした。
 きっかけは些細なことだった。ふたりで肩を並べて、城を取り囲む大軍を櫓の上から眺めながら、方策を練っている時のこと、主殿がぽつりとこう呟いたのだ。
「こんなときに五郎右衛門が生きていてくれればなあ」
 悪気などまったくなかっただろう。むしろ滅入りそうな気持ちをどうにか紛らわせるための何気ないひとことであったに違いない。
 ところが、これに信高が噛みついた。
「どういう意味だ」
 一瞬、わけがわからずきょとんとしていたところへ、信高の怒声がかぶさってきた。
「俺では不足だというのか」
「何を言うておられるのです」
 突然のことに、主殿は呆気に取られながらも弁解を試みる。
「そのようなつもりで申したのではございませぬ。ただ、戦慣れした五郎右衛門ならば、こういうとき、どのような智恵を出してくれたであろうかと思っただけのことで――」
 他意はございませぬ、と言おうとしたところを、
「黙れッ!」
 甲高い叫び声に遮られた。
「わかっているのだ。光嘉殿もおまえも、内心では俺のことを馬鹿にしているのだろう」
「断じてそのような――」
「おまえたちだけではない。兵たちのひとりひとりが、俺を侮っている。所詮は文官上がり。戦のいろはも知らぬ若僧よと」
「殿、光嘉殿と何かあったのですか」
「うるさい。いかにほうけ者の俺とて、もう騙されぬぞ。みな心の奥底では、恃むに足らぬ若僧とこの俺を思っている。このような男に仕えたことが、わが身の不幸とそなたも、そしてお虎の奴も、内心では――」
 次の瞬間、主殿の平手が信高の左頬をしたたかに捉えた。
 ――パン
 という鋭い音とともに、主殿の怒声が響く。
「お見苦しゅうございますぞッ!」
 叫ぶ主殿の表情は憤怒と哀しみに彩られていた。
「殿はたしかに世間知らずのほうけ者で、こと戦場においてはさほど頼みにならぬかもしれませぬ。しかしながら、我等に言わせれば、そんなことははじめからわかっておった話。今さら驚きも哀しみもいたしませぬ」
 ずいぶんと無礼な言いようだが、鋭い気迫に押されて、信高は反論できない。
「それでも我等は――兵たちも、こうして戦いつづけている。たとえどれほど非力であっても、せめてそうした兵たちを守るために死力を尽くす。それが無理なら、せめてその姿勢だけでも我等に示そうとする。それが、城主たる殿のつとめではございませぬか」
「……」 
「戦の駆け引きなどは、光嘉殿や友盛殿に一日の長があって当然のこと。それが殿の無能を裏付けることにはならぬと、なぜお気づきにならぬのです」
「……おまえにはわかるまい」
 信高は鋭い目で主殿を睨みつける。
「おまえはこの城の主ではない。この城に篭っている兵たちやその家族を守る責任を背負っていない」
「なんですと」
「主殿、そなたは朝鮮の戦に加わっていなかったな。あの時、俺はこの目で地獄を見た。あれ以上、無惨な光景を目の当たりにすることは生涯で二度とないだろうと思っていた」
「……」
「五郎右衛門はじめ多くの家臣たちが死んだ。俺の目の前で。みな俺や父上を守るために死んで行った。戦慣れしておらず、拙い采配を繰り返した俺や父上を守るためにだ。言ってみれば、みな俺たちが殺したようなものだ」
 信高の声が震える。
「俺はもう二度とこのような景色を見たくないと思った。大切な人々をおのれの無能さで殺したくはないと思った。なのに俺は……、俺はまた同じような――いや、あの時よりも、もっと惨い地獄を見ようとしている」
 無情なまでに蒼く澄み渡る空を、信高は見上げた。
「多くの兵がこの空の下で死んで行くのだ。彼等はみな、俺の不甲斐なさを怨んで死んで行くに違いない。仕え甲斐のない主君であったと……。ならば、いっそ誰よりも先にこの俺が死んでしまいたい。そうすれば、彼等の恨み言を聞かずに済むからな」
「……本気ですか」
 主殿の声が、凄味を増した。
「本気で言っているのですか」
「ああ」
「見くびるなッ!」
 主殿は咽喉も張り裂けんばかりに絶叫した。
「それでは、俺がここまで死ぬ思いで……息子を人質に差し出してまで守ろうとしたものは、いったいなんだったというのだ。いったい俺はなんのために今日まで戦ってきたというのだ。言え、言ってみろッ!」
 髪を振り乱し、涙を流しながら、信高の胸倉に掴みかかる。
「おのれだけが悩んでいると思うなよ。俺だって兵たちだって、みんな苦しいのだ。苦しみ、悩みながらも、なんとか明日を迎えるために戦っているのではないか。光嘉殿も友盛殿も、それぞれ他人には絶対に明かせぬ思いを胸のうちに秘めながら戦っている。それをなぜわかろうとしない。なぜ、おのれひとりですべてを背負い込んでいるような顔をするのだッ!」
「放せッ!」
 信高は主殿の手を強引に胸元から剥がした。
「おまえに俺の何がわかる。俺はほうけ者、ほうけ者と呼ばれつづけ、馬鹿丸出しで呆けた面をしていた。好きでそんなことをしていたと思うか」
「……」
「俺はな、怖いのだ。俺自身の無能がみなを不幸にしていくのが。主は家来を選べないが、同じように家来も主を選べない。俺なんかの下に仕えてしまったばっかりに、不幸な目に遭う人間を、俺は見ていたくないのだ。それは、何も戦場においてばかりじゃない。この国には俺なんかよりも優れた武将があまたいる。朝鮮で五郎右衛門を弔ってくれた立花宗茂殿や、あの内府に敢然と立ち向かった石田三成殿……、それに此度、寄せ手の一角に加わっている宇喜多秀家殿だってそうだ。秀家殿がどれほど優れた武将であるかを、俺は何度、お虎の口から聞かされたことか。そのたびに俺は、表面上は呆けたような笑顔を取り繕いながら、心の奥底を火箸で掻き回されるような痛みと苦しみを味わっていたのだ。そんな俺の気持ちが、おまえにわかるものか」
 乾いた捨て台詞を残して、信高は足音も激しく、その場から去って行った。

 翌朝、両軍の間で本格的な戦闘が始まった。
 前日に富田勢の先鋒を撃破して意気上がる長束正家・安国寺恵瓊の両名に毛利勝永・長宗我部盛親ら諸将を加えた軍勢が愛宕山を下り、麓の納所村・刑部村・神納村などを焼き払って、北から城へ攻め寄せる。
 東からは毛利秀元の軍勢が襲来。迎え撃つは援軍に馳せ参じた松阪城主古田重勝の手勢である。古田家でも指折りの猛者連――林宗左衛門・森次郎兵衛・津田左兵衛・人見伊右衛門・児玉仁兵衛らは懸命に戦ったが、衆寡敵せずして敗れ、潰走した。
 ――御味方、苦戦しております。
 との報せを受けた信高は、光嘉らの制止を振り切って単身騎馬に跨り、わずかな手勢を率いて城を打って出た。彼は城から少し離れた古刹西来寺に着陣し、毛利・長束・安国寺ら西軍の軍勢を迎え撃つ構えを見せた。
半田・神戸方面から岩田川を渡河し、押し寄せる西軍と信高軍が激突したのは巳の刻(午前十時)過ぎのことである。
 兵の数では圧倒的に西軍が優勢であった。信高たちは奮闘し、しばらく持ち応えたが、やがて敗色が濃厚になり、逃走せざるを得ない状況に追い込まれた。
 敵の総大将を逐い、ますます士気を高めた西軍は、西来寺に火を放つと、一気に城を目指して突進した。
 やがて竜造寺高房に率いられた一隊が城門へ辿り着き、その門を押し破ると、それにつづく鍋島勝茂らも一斉に城内へ雪崩れ込んだ。
 疲弊していた富田勢は、それでも死力を振り絞り、ひとたびは侵入を許した敵軍をなんとか城外へと押し戻した。まさしく信じがたいほどの勇猛な戦ぶりに、後続の長束・安国寺らは怖気づき、なかなか前へ進むことができなかった。
 結局、城を目前にした野原で、西軍の主力部隊は足踏みを余儀なくされた。
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