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第五章 その名は薙刀姫
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第五章 その名は薙刀姫
一
「お方さま」
鏡の前に座って、髪を整えるのを手伝いながら、侍女の楓は嬉しさを抑えきれぬといった口振りで告げた。
「もうすぐ殿がお戻りになられるそうですよ」
「そうですか」
「先程、使いの者がまいり、既にこの伊勢に入っておられると知らせてきたそうです。おそらく夕刻までには城へ入られることでしょう」
「ふうん」
お方さまと呼ばれた女性の返事は、どこかつれない。
端正な容姿である。切れ長の双眸はやや男性的だが、理知的な美しさを持っている。高く綺麗に通った鼻筋も、引き結ばれた薄めの唇も、すべてが輝いているようだ。
「しかし、皮肉なものですね」
楓はそんなあるじの様子になどおかまいなしで、
「お方さまの大好きな殿のお城を、よりによってあの八郎さまの軍勢が攻めてこられるとは。まるでふたりの殿方がお方さまを奪い合っているかのよう」
「楓」
お方さまは鋭い声で叱責する。
「これは戦です。馬鹿な冗談は慎みなさい」
「すみません」
楓はすぐさま詫びたが、その表情は明るいままだ。長い付き合いで、あるじが本気で怒っているわけではないとわかっているからだろう。その証拠に、
「でも、そうはお思いになりませぬか。お方さまは、まるでふたりの殿方の間で揺れるかぐや姫のよう」
と、話をつづけてみせた。
「やめなさいと言うのに」
後ろを振り返って、お方さまは楓を優しく睨みつける。その目にもしかし、どこか戯れるような気色がある。
「私と八郎殿とは、何もありませぬ。たしかに幼馴染で、よく剣の稽古を一緒にしたりはしていましたが、それだけのこと。いってみれば、親友同士のようなものです」
「と言ったって、そこは男と女ですもの。やはり、それなりに――」
「しつこいわね。本当に何もないのですよ」
「でも、お方さまはそうだったとしても、八郎さまも同じお気持ちであったかは、わからないでしょう」
楓は悪戯っぽく笑いながら、
「私は八郎さまには絶対にその気があったと思うのですよねえ」
そう言って、昔を懐かしむような目をしてみせた。
楓は、お方さまがまだほんの幼児の頃から側近くに仕えている。五つほど年上の楓にとって、お方さまはあるじであると同時に、妹のような存在でもあった。その気安い間柄が、主従といえどもこのように軽口を叩き合える関係性につながっている。
「富田家へ嫁ぐお方さまが宇喜多家をお出になる前の日、八郎さまと最後の稽古をなさいましたでしょう」
「ええ、そうでした。一刻以上も仕合いつづけましたが、結局は決着がつかなくて。いつかはあのつづきをと、願ってはいるのですが……」
「あの夜、八郎さまは部屋にひとり籠って、泣いておられたそうですよ」
「まさか」
お方さまは、大きな声を立てて笑う。
「なぜ八郎殿が泣くのです」
「決まっているではありませぬか。お方さまを他の殿方に取られることが口惜しくてでしょう」
「馬鹿馬鹿しい」
お方さまは、ふーっとひとつ溜息を吐いて、
「いいですか、楓。私と八郎殿とは本当にただの幼馴染なのです。そんな甘ったるい想いは、互いに一度として抱いたことがありませぬ。これ以上、下世話な勘繰りをするのは許しませぬ」
「はいはい」
「だいいち、今の八郎殿はわが富田家にとっては敵軍の総大将なのです。軽々しいことを口にしてはなりませぬ」
「承知しました」
反省の色など微塵も感じさせぬ口調で、楓は応えた。
「そもそも私にはわかっていますから。たとえ八郎さまがお方さまをどう思っておられようとも、今のお方さまには関係のないことだと」
「どういう意味です」
「だって、お方さまが本当にお好きなのは殿ただおひとりですもの」
「まったく……。あなたという人は昔からちっとも変りませんね」
「何がです」
「そういう軽口ばかり言うところです」
お方さまがぴしゃりと決めつけると、楓は可笑しそうに、
「お方さまだって、昔からちっとも変わっておられませぬよ」
と、切り返す。
「どういうところがです」
「わかりやすいところが」
「まあ」
むくれるお方さま。そのさまを、じっと見詰める楓。
やがて、どちらともなくくすくすと笑い出し、やがて大笑の合唱が始まる。
これが、いつもの調子だった。
二
安濃津城へ帰還した信高を悲壮感漂う顔で出迎えたのは、妹婿の富田主殿だった。
信高が関東へ出征する間、主殿は安濃津城の留守居役を任されていた。かつて富田家が朝鮮へ兵を出した際も、国元の留守を守る人員に含まれていた。どこかそういう役割を任せたくなる堅実さが、この若者には備わっている。
「大変なことになっておりますぞ」
開口一番、主殿は切迫した事態を、それを語るに相応しい面持ちで信高に伝えた。
主殿の話によれば、西軍は現在、安濃津城を目指して進軍中であるという。先頃、降伏開城を求める使者がやってきたが、留守居役たる主殿の一存にては如何とも決めがたいゆえ今しばらくのご猶予を賜りたいと、いったんこれを帰らせた。ただし、
――結論を先延ばしにするから攻撃を待つようになどと虫のよいことを言うのならば、それなりの誠意を見せてもらわねば、返答を持ち帰る自分の立場がない。
使者がそうごねたため、やむなく主殿は人質としてみずからの幼いひとり息子平七を預けたという。さすがに難しい決断を冷静に下してくれたと、改めて主殿を留守居役に選んだことが間違いではなかったと確信しつつ、
「そうか、それは済まぬことをしたな」
信高は神妙な顔で頭を下げた。人質に出された平七は、まだほんの幼児である。見知らぬ大人たちに囲まれて、どれほど不安な思いをしているだろうと、我知らず胸が詰まった。
「どうなさいますか」
問いかける主殿の目を、信高は見返すことができなかった。もしもここで、
――我等は東軍につく。
そう明言すれば、平七を見殺しにすることにつながる。わが妹婿にして忠実無比な家臣でもある主殿に対して、かわいい盛りの幼児の命を諦めろというのは、あまりにも酷であった。だが、そのために今さら西軍に鞍替えすることは不可能だ。
「どうすればよいのだ……」
呻くような呟きを、主殿は聞き咎めた。
「今さら何を迷うておられるのです、東軍におつきなされ」
「なんだと」
「そのおつもりで帰って来られたのでしょう」
「それは、そうだが……。まさか平七が人質に取られていようとは思わなかったのだ」
「此度の戦、最後には東軍が勝利をおさめるとそれがしは確信しております。石田治部には内府公を向こうに回し、戦うだけの器量はございますまい。殿、一時の情に流されて判断を誤ってはなりませぬぞ」
「主殿、そなた、それでいいのか」
「殿ッ!」
主殿の瞳にうっすらと光るものがある。充血した目を武骨な拳で荒々しく擦った後、彼は断固たる口振りで言った。
「わが子かわいさに御家の行く末を誤らせたとあっては、この富田主殿、終生の恥辱でございます。どうかそれがしに恥をかかせてくださいますな」
「主殿……」
「なあに、心配は要りませぬ。人質となった倅の身柄を預かるのは、宇喜多中納言さまと聞き及んでおります。中納言さまといえば我等にとっては御身内。たとえ敵味方に分かれたとて、決して悪いようにはなさいますまい」
「それは、そうかもしれぬが……」
信高は煮え切らない。主殿の言うとおり、わが妻の縁戚者である中納言――宇喜多八郎秀家という武将は清々しい心根を持つ好漢であり、年端もゆかぬ幼児に対して、それがたとえ人質であったとしても、乱暴に扱ったり、ましてや無慈悲に殺害したりなど絶対にしない人物であろう。
とはいっても、秀家は西軍の総大将ではない。いかに中納言の身分を有するとはいえ、此度の戦役においては、あくまでも一部将に過ぎないのだ。人質の処遇を決定する権利は彼にはないはずである。
西軍の総大将は地位や身代からいって、おそらく毛利輝元だろう。輝元は決して酷薄な性格の持ち主ではなかったが、大大名の跡取りとして大事に育てられたゆえか、気質的に芒洋としたところがある。他人に白だと強く言われれば、明らかに黒いものであっても、
――白なのかな。
そんなふうに思い込んでしまいかねない人物だ。
では、そんな輝元を陰で操る者がいるとすれば、それはいったい誰か。
いうまでもなく、石田三成である。
三成は怜悧きわまりない官僚だ。優れた官僚には情誼など期待できない。生かしておく価値がないと見なせば、彼は即座に人質の首を刎ねるだろう。たとえ、それがいたいけな幼児であったとしてもだ。
「殿」
そんな取り止めのない思考から現実世界へ呼び戻そうとするかのように、主殿は強い調子で呼びかけた。
「ひとまず奥へ入り、旅の疲れを落としてくださいませ。お方さまもお待ちかねでございます」
「ああ、お虎か……」
この瞬間、信高の表情がにわかに翳りを帯びた。
「あいつ、待っているかな」
小声で呟くのを、
「さあ」
主殿はどこか億劫そうな態度でいなした。
「殿はいつ戻られるかと、連日聞かれて正直うんざりしていたところです。早く顔を見せて差し上げていただければ、それがしも少し気が楽になります」
そんなふうに急かされて、
「まったく、そなたはお虎に冷たいなあ」
信高は苦笑交じりに立ち上がった。
「いつまでも根に持つなよ。たった一度、負かされたぐらいで」
「なんのことです」
主殿の憤然とした声が背中から聞こえる。
「言っておきますが、それがしはあの日のことなどいっさい根に持ってはおりませぬぞ。そのように料簡の狭い男と思われるのは、至極迷惑でござる」
「わかった、わかった」
信高は後ろを振り返らず、ひらひらと手だけを振ってみせた。
三
宇喜多家はもともと備前の国人領主であり、代々、守護代の浦上家に仕えていた。
天文年間(一五三二―一五五八)ごろに出た宇喜多能家は秀家の曽祖父に当たる人物だが、これがなかなかの器量人で、数々の軍功を挙げ、瞬く間に家中での地歩を固めた。しかし、その権勢に嫉妬した同僚の島村貫阿弥に嵌められ、謀叛人に仕立て上げられた末に謀殺の憂き目を見た。
能家の死後、宇喜多家は凋落した。能家の子興家は凡庸で、父が横死した後もひとり酒色に溺れ、家名の再興を果たそうとしなかった。さらにその子直家もまた父に輪をかけた愚物との評判であったから、世の人々は、
――宇喜多家はもはや滅んだも同然じゃ。
などと囁き合った。
ところが、直家は数年後に豹変した。それまでの愚鈍さが嘘のような俊英に成長し、仇敵島村貫阿弥を討ち滅ぼして祖父の恨みを晴らすことに成功したのである。実のところ、彼は仇討を恐れているであろう貫阿弥を油断させるために、あえて愚人のふりをしつづけていたのだった。
その間、実に十五年。とうてい尋常な神経の持ち主ではなかった。
その直家、やはり稀代の策士である。たちまち家中の混乱に乗じて勢力を伸ばし、ついには主君浦上宗景の居城天神山城を攻めて、これを陥落せしめた。宗景は命からがら城を抜け出し、流浪の末、安芸の毛利家に拾われて、その庇護を受けた。
かくて備前一国を領有するに至った直家だが、それだけでは飽き足らず、さらに野望の牙を研ぎつづけた。彼は毒殺、暗殺など、ありとあらゆる謀略を駆使して、ついには五十万石を超える大封を手にした。
直家が業病に罹り、五十三歳でこの世を去った時、ひとり息子の八郎秀家は未だ八歳の少年であった。
折しも織田信長の命を受けた羽柴秀吉が、毛利輝元と相対すべく中国筋を進軍するさなかだった。
宇喜多家の居城岡山城は秀吉軍の進路のど真ん中に位置している。直家はこれまで毛利家寄りだった方針を一変させて秀吉に接近を試みたが、その矢先に死病を患い、明日をも知れぬ命となった。
ここで直家は策士の名に相応しい窮余の一策に打って出た。
彼は愛妾の於福をなんと秀吉の夜伽に差し出したのである。
於福は秀家の生母であり、このとき既に三十代も半ばに差し掛かっていたが、その色香は些かも衰えていなかった。直家は秀吉が人並み外れて好色であることを知り、御家安泰を計るためにもっとも効果的な献上物として、彼女の肉体を選んだのだった。
この策は見事に当たった。秀吉は於福の熟れきった女体に惑溺し、その子秀家に対する庇護を確約したのである。
数年後、秀家は元服と同時に秀吉の猶子に叙せられた。彼は羽柴姓を与えられ、同時に岡山五十万石を安堵された。さらに秀吉は、養女となっていた朋友前田利家の娘豪姫を秀家に嫁がせた。実子のない秀吉は、ゆくゆくはこの秀家をみずからの後継者に据えようとさえ考えていたらしい。
秀家は亡父と異なり、律儀で誠実な好青年だった。学問の素養もあり、武技にも秀でているが、当の本人には、そうしたことを鼻にかける素振りは微塵も見られなかった。温和な性格で、人当たりもよい。そのため、誰からも好感を持たれている。要するに、根っからの御曹子気質なのだった。
その秀家の叔父に、忠家という人物がいた。亡き梟雄直家の実弟である。
忠家という人は甥の秀家同様、至極穏やかな気質の常識人であったが、あまりにも酷薄な兄を持ったことによって終生、気苦労が絶えなかった。兄の前へ出るときはつねに鎖帷子を着込んでいたというから、その気の配りようは尋常ではなかったであろう。実の弟すら謀殺の恐怖に駆られながら日々を過ごさねばならぬほど、直家という男は非情な側面を持っていたのである。その忠家のひとり娘が信高の妻お虎であった。
片や秀吉の猶子にして中納言の官職を持つ貴公子の縁者、片や五万石の小領主の倅である。このきわめて不釣り合いな両家の縁組がなぜ成立したのかについては、残念ながらよくわかっていない。ただ、信高の父一白はかつて秀吉の吏僚として活躍していたから、半ば左遷のような形で安濃津に封じられるに際し、その功に報いるために秀吉が取り計らったと考えるのが妥当かもしれない。
とはいえ、富田家にしてみれば、まさか宇喜多家のような大身の大名から嫁が来るなどとは思ってもみなかっただけに、婚礼の準備には四苦八苦させられた。
物慣れぬ家臣たちが困惑し、慌てふためくさまを横目に眺めながら、当の信高は、
――なんだか申し訳ないな。
と、甚だバツの悪い思いをしていた。
生来のほうけ者である彼は、気質的におよそ大名の倅らしからぬところがあり、このときにかぎらず、自分のために家臣たちがバタバタと慌しげに走り回る姿を見ては、いつもそう思っているのだった。
「すまぬなあ、俺なんかのために」
時折、家臣たちに向かってそんなふうに声をかけるのだが、その声音がなんともいえず間延びした感じで、いかにも呑気な響きを帯びており、みなの笑いを誘った。このような信高の温かい人柄は、富田家の家風をどこかのんびりとした、さながら長閑な田園風景を思わせる雰囲気に仕立て上げていた。ギラギラした野心や脂ぎった功名欲とは程遠い武士たちが、そこには数多くいた。
それは、さておき――。
富田家は宇喜多家との縁組に大わらわであったが、信高当人はというと、家臣たちへの申し訳なさはともかくとして、いたってのんびりしたものだった。自分自身の婚儀だというのに、まるで他人事のような緊張感のなさであった。さすがにこれには家臣たちも呆れ果て、伊藤仁左衛門などは、
――若殿は少しおつむの中身が足らぬのではあるまいか。
と、半ば本気で心配したほどである。
むろん、実際にはそんなことはなく、信高には信高なりの理屈というものがあった。
彼にとって――というよりも、およそ世間一般の大名の跡取り息子にとって、正室を迎えることは人生の通過儀礼のひとつに過ぎなかった。なぜなら多くの場合、結婚する男女の間には愛情、いや、それどころか相手に対する情報そのものがまったく欠落していたためである。すべては親同士、家同士で取り交わされる約束事であった。
現に信高の場合も、妻となるお虎という女性とは、これまでに一面識すらなかった。ただ世人の噂に、
――稀に見る美女であるらしい。ただし、ずいぶんと大柄なところが、玉に瑕だそうな。
などと聞かされて、なんとなく、
――ふうん、そうなのか。
と、思っているに過ぎない。仮にその女性が気に入らなければ、適当にどこかから側妾を見繕ってくればよい。後継ぎをもうけるという、ある意味では彼等にとって最大の使命を果たすために、そうすることの自由が公然と認められているのである。
是非善悪の問題ではない。つまりは、そういう時代なのだった。
婚礼当日、清楚な白無垢に身を包んだお虎は、ごく軽い気分で式に臨んだ信高の度肝を抜いた。
――なんという美しさだ……。
信高は呆然と口を開けて、その美貌に魅入った。傍らの仁左衛門がわざとらしく咳払いをしなければ、そのままいつまでも馬鹿みたいな顔をしつづけていたことだろう。
たしかに噂どおりお虎は大柄だった。痩せ型ではあったものの、背は高いし肩幅も広い。しかし、そんなことがまるで気にならぬほど整った顔立ちをしている。総体的にややきつい印象を与えるものの、そのぶん、なんともいえぬ華やかさを感じさせもした。
――まいったな……。
突如として襲ってきた強い緊張感に半ば震え、半ば困惑しながら、信高はなんとかこの日の式次第をこなした。
その夜、臥所の上で、ふたりははじめての会話を交わした。
「不束者ではございますが、末永くお願い申し上げます」
やや低いものの、お虎という名前、あるいは大柄な体躯からは想像もつかぬ細い声で、彼女はそう言った。少し震えているのは、やはり向こうも緊張しているためであろうか。
「ああ、こちらこそよろしく頼む」
信高がぎこちなく答える。こちらも心なしか声が上ずっている。婚礼の式中からずっと気を張りつづけているせいか、咽喉がカラカラに渇いているのだった。
傍らに置いてある酒杯に手を伸ばし、手酌で注いで一気に飲み干す。平素、どちらかというとあまり酒は嗜まぬほうであったが、今はただ咽喉を潤すことができれば、なんでもよいと思った。
そのまま、両者とも無言になる。
なんとも気まずい空気が、ふたりの間を流れる。
時折、信高は上目遣いで、恐る恐るお虎の顔を見た。そして、
――やはり、美しい……。
その都度、胸のうちでそう嘆息するのだった。
面長の瓜実顔で、いかにも気が強そうだ。鼻梁は高く、すっきりと真ん中に綺麗な筋が通っている。小さくて真っ直ぐな唇は引き締まっており、そこはかとない聡明さを漂わせている。いかにも気の強そうな顔立ちだが、そこがまた魅力的であった。
「聞けば――」
なんとか会話の糸口を探そうと考えを廻らせながら、とりあえず口を開く。
「そなたは女性ながら、武芸の達人だという」
お虎は特に謙遜するでもなく、ごく自然に頷いてみせた。
「宇喜多家には、そなたに勝てる者は男でもなかなかいなかったそうだな」
「そうですね。おそらく互角に渡り合えたのは、八郎殿ぐらいではないでしょうか」
「八郎殿?」
「中納言さまのことです」
「ああ、秀家さまか」
信高の脳裏に、かつて大坂城内で見た宇喜多秀家の秀麗な容姿が浮かぶ。
涼やかな外見と、それに似合う優雅な立ち居振る舞い、それでいて武将としての逞しさも兼ね備えた秀家は、女官たちの憧れの的になっていた。
「秀家さまとは……、その、近しい間柄なのか」
「従兄妹でございますから」
「ああ、そうか」
話しているうちに、急速に咽喉が乾きだした。
「素敵なお方だな」
「そうでしょうか」
お虎は首を傾げてみせる。
「そうは思わぬか」
「よくわかりませぬ」
「そうか」
いつの間にか信高の背には、うっすらと汗が浮かんでいる。薄暗がりの中にいるため、おそらく相手からは見て取ることができないだろうが、明らかに顔が火照っているのが、自分ではよくわかった。
――しっかりしろ、富田信高。
心のうちで、みずからを叱咤する。何をびくついているのだ。相手は自分の妻となる女ではないか。別段、深い仲だと決まったわけでもない男に嫉妬などしてどうする。
――ええい。
いたたまれなくなって、無言のまま押し倒す。
お虎は逆らわない。薄く目を開いたままではあるが、信高の意にしたがおうとする。その意外な従順さが、信高をいっそう昂ぶらせた。
――負けはせぬぞ。
そこから先は、もうほとんど記憶がない。
ただひとつ覚えているのは、何ひとつうまくいかず、まんじりともせず過ごした夜が白々と明けてきた時の、なんともいえないやるせなさだけだった。
四
その年の秋、富田家中で武芸大会が催された。
ここ数年、恒例行事になっているこの大会は、文官の身ゆえ武功に恵まれず、密かに軽視する向きがあることを敏感に察知した一白が、家中に尚武の気風を植え付けるため――そして、そのことを対外的に示すことを目的として始めたものである。
大会には家中の腕自慢が二十人ほど出場登録し、勝ち抜き戦の形式によって行われる。
まず最初に出てきたのは、伊藤仁左衛門だった。
相対するは百瀬某という若者で、なるほど筋骨隆々として、いかにも強そうな男である。
「いざ」
行司役の老武士がしわがれた声を発する。
「はじめい」
合図を聞くや否や、果敢に踏み出したのは百瀬某だった。
「きええええい」
凄まじい気迫を込めて、手にした木刀を振り下ろす。
風を切り、うなりをあげる剛剣を、仁左衛門はしかし、いとも容易くかわしてみせた。
「えっ」
驚いた表情の百瀬某は次の瞬間、
「うぐっ」
くぐもった呻き声を上げて膝から崩れ落ちる。
見ると、仁左衛門が繰り出した木刀がしたたかにその腰を打ち据えていた。
「勝負あり」
行司が手を上げる。
木刀を脇に抱え、深々と一礼する仁左衛門に向かって、
「見事」
信高が声を掛けた。
それにつづいて観衆たちもやんやと拍手喝采する。
照れ臭そうな笑みを浮かべて退いた仁左衛門に代わって、
「どれ、それがしも負けてはおられぬな」
ゆったりとした足取りで進み出たのは富田主殿である。
「おお、家中の双璧の肩割れが出て来たな」
一白が嬉しそうに笑う。
このところ、彼はずっと病で床に臥せっていた。今日は比較的気分がよいらしく、縁側まで起き出してきて仕合の様子を見物している。
「昨年の勝者仁左衛門が連覇いたすか、はたまた一昨年の勝者主殿が雪辱を果たすか、いずれにせよ、このふたりのいずれかが今年も勝者となるであろう」
一白はそんなふうに予想していた。その主殿と初戦で顔を合わせることになった不幸な対戦相手は、仁科某というずいぶんひょろ長い印象の男だった。
「あいつ、大丈夫か」
心配する一白の言葉が終わらぬうちに、
「うおおおっ」
主殿が発した気合いにつり出されるような格好で、仁科某は真正面から果敢に突っ掛かっていった。
「おお」
観衆がどよめいたのはしかし、一瞬だった。
次の瞬間には、主殿の繰り出した必殺の突きが、過たず仁科某の痩躯を捉えていた。
「ぐあっ」
二間(約三、六メートル)ほども吹っ飛ばされた仁科某は、そのまま失神してしまった。
「勝負あり」
行司の老武士が淡々と判定を告げる。
「やれやれ、奥へ連れて行って介抱してやれ」
信高に命じられた近習らが、仁科某の体を担ぎ上げて運んで行った。
「やはり強いのう、このふたりは」
感じ入ったように呟く一白は、満足げだ。
前年も、そのまた前年の大会でも、決勝の組み合わせはこのふたりだった。前年は主殿が仕合を制し、その前は仁左衛門が栄冠を勝ち取っていたが、どちらも手に汗握る接戦の末のことだった。今年もこのふたりが順当に勝ち進み、決勝で雌雄を決することになるだろう――ほとんどの者たちがそう予想していた。
大会はそんな大方の予想を裏切ることなく進み、決勝の舞台には主殿と仁左衛門のふたりが立つこととなったのだ。
家中きっての遣い手が対峙するそのさまを、みなが固唾を呑んで見守る。
どこか不気味なまでの静寂を、先に破ったのは仁左衛門のほうだった。
跳躍。そして、真っ向から木刀を振り下ろす。
主殿はその攻撃を読み切っていたかのように、しっかりと受け止める。
そのままいなすように刀身を横へすらし、一歩引いて仁左衛門の平衡を崩しにかかる。
仁左衛門は蹈鞴を踏んだ。
狙いどおりだ。
反撃に出る主殿。仁左衛門はかわしきれない。
懸命に身をよじらせたが、脛を浅く捉えられた。
「くそっ」
思わず膝をつく。それでも屈せず、突きに出た。
「うおっ」
予期していなかった攻め手に、主殿がよろめく。
「もらった」
躍り上がった仁左衛門はしかし、次の瞬間、
「うっ」
と、顔をしかめた。
先に打たれた脛の痛みが、俊敏な動きを阻んだのだ。
平衡を崩して、また大きく膝をつく。
――しまった。
思った時には、主殿の木刀が頭上に迫っていた。
「ま、まいった」
おおっという歓声が上がる。
「勝負あり」
行司の老武士が宣言すると、歓声はやんやの喝采に代わった。
「主殿の奴、見事に連覇を果たしおったか」
一白も嬉しそうに頬を緩める。
「仁左衛門の攻めもなかなかに鋭いものでした。並の相手であれば、最初の一撃で仕留めていたことでしょう」
信高の言葉に、小さく何度も頷く。
戦い終えた当のふたりは、既に肩を叩きながら互いの健闘を称え合っている。
清々しい雰囲気の中、
「どれ」
表彰のために一白が立ち上がろうとした、その時である。
「お待ちください」
奥から女性の声がした。
みなが一様に視線を送る。その先には――。
「お虎!」
信高の正室お虎が襷姿でそこに立っていた。手には薙刀を持っている。
「お虎、どうしたのだ、その恰好は」
「私にもやらせていただけませぬか」
「なに、何を言っているのだ」
驚く信高を尻目に、お虎は主殿のほうへ向き直り、
「そなたの戦いぶり、見せていただきました。なかなかの腕前、感心いたしましたよ」
「はあ、それはどうも」
不得要領な面持ちで、主殿が小さく頭を下げる。
「そなたと仕合がしたい。受けていただけますか」
「なんですと」
驚く主殿。
「今ここで、でござりまするか」
「もちろん」
お虎は淀みなく言い切った。
「そのつもりで、こうして出てまいったのです」
「なるほど」
いでたちを見れば、そのことはよくわかる。
「そうですな」
主殿はちらりと縁側のほうへ目を遣った。
信高は明らかに困惑している。だが、その横で一白が小さく頷くのが見えた。
――よし。
主殿は表情を引き締め、
「承知いたしました」
と、お虎に呼び掛けた。
「それがしでよければ、お相手仕りましょう。いざ、まいられませい」
みなが固唾を呑んで見守る中、両者は互いの得物を取って対峙する。
主殿は木刀を。そして、お虎は薙刀を。
「主殿、本当に大丈夫なのか」
信高が心配そうに声を掛ける。
「そなた、疲れているだろう。少し休んでからのほうがよくはないか」
「なんの」
主殿は笑って首を横に振る。
「せっかくお方さまおんみずからお申し出いただいた仕合ですからな。一刻も早うやりとうござるよ」
爛然と輝く相貌が、お虎の美貌を捉える。
――武芸の嗜みがあると、噂には聞いている。
だが、実際にどれほどの腕前なのか、目にする機会はこれまで一度もなかった。
――所詮は名家の姫君だ。おおかた周囲の者たちが気を使って褒めそやすうちに、すっかりその気になってしまったという程度のことだろう。ならば、ちょうどいい。この機会にその鼻をへし折って進ぜようぞ。
何しろ宇喜多家といえば今を時めく豊臣政権の中枢にいる家だ。富田家などという、取り立てて誇るだけの家柄も身代もないところへ嫁いできたことを少なからず不本意に思ってもいるだろう。
正直なところ、主殿はお虎のどこか取り澄ましたような冷ややかな立ち居振る舞いが、どうにも好きになれずにいた。仁左衛門などは、
――あの方はああいう顔だから、なんとなくつんけんした感じに見えるのだ。実際に話してみると、それほど悪いお方ではないぞ。
などと擁護するのだが、主殿にはそうは思えない。いつも冷ややかな目をこちらに向けて、軽口のひとつも叩かず、笑顔すら浮かべないお虎は、内心では俺たちのことを田舎の文弱武士と侮っているのだ、とぐらいに思っている。
実のところ、お虎に対してそういう目を向けていたのは、主殿だけではない。どこか冷たさを感じさせるお虎の美貌は、時として、
――お方さまは内心、このような小大名に嫁いできたことを心よく思われていないのだろう。我等のことも文弱と蔑んでおられるに違いない。
などといった被害妄想を搔き立てた。実際に本人がそう言ったわけではないから、これはもう「被害妄想」という以外にないのだが、ともあれそうした意識のせいで、日頃からあまりよい印象を持っていない者も少なくなかった。
主殿は今、そうした者たちを代表して戦うような気分になっている。
――富田武士の力を見せつけてやるのだ。
なんなら一撃でその自信を粉砕し、高い鼻をへし折ってやるのだ――ぐらいの気構えで、
「いざ、まいられよ」
主殿は気合いを発した。
「遠慮は要りませぬぞ」
沸々と湧き上がる闘志を押し殺して、誘いをかけるように軽く木刀を引く。
お虎は、乗ってこない。
――ならば、これではどうだ。
さらに無防備な態勢をわざと取ってみせたが、それでも動く素振りを見せない。
探り合うふたり。
どちらも仕掛ける機会をうかがっているのか、緊張感だけが高まる。
「どうなされた、お方さま」
焦れた主殿は、言葉でも誘いをかける。
お虎は動かない。それどころか、表情ひとつ変えようとはしないのだ。
薙刀を構えたまま、じっと鋭い眼差しで主殿を見据えている。
と――。
不意にその口元がかすかに動いた。
笑ったのだ。
「くそっ」
瞬間、主殿の心の箍が外れた。
「まいるッ!」
叫び声とともに、主殿は突進する。
力強く繰り出された木刀の一撃。ここまで何人もの敵をひれ伏させてきたその剣をしかし、お虎の薙刀はからめ取るようにして受け止めると、
「えいっ」
力強く払い除けた。
「ああっ」
主殿の体が泳いだ。
前のめりに倒れ込みながら、なんとか態勢を立て直そうとする。
が、次の瞬間――。
「覚悟ッ!」
お虎の凛然とした掛け声が、その場に響き渡った。そして、
「ま、まいった」
という主殿の悲痛な声も。
みな、はじめは何が起きたのか理解できていなかった。
だが、静寂の中で彼等の前に示されていたのは――。
跪く恰好になった主殿の頭上すれすれのところに、お虎の薙刀が振り下ろされているさまだった。
主殿は唇を噛み、無念の形相で俯いている。
そんな主殿を見下ろすお虎の表情は、対照的に晴れやかである。
「……し、勝負あり」
老行司が慌てて手を挙げる。
少しの間を置いて、どよめきともつかぬ声が、観衆の間から控えめに漏れ始めた。
信高は、呆気に取られたようにふたりを見詰めている。そんな中でただひとり、
「見事だ」
大きく手を打ったのは、一白だった。
「さすがは武名高き宇喜多家の姫君よ。よいものを見せてもらった」
この無邪気なまでの言葉が、ようやくみなの心を解き放ったらしい。
割れんばかりの拍手と喝采が沸き起こった。
それを浴びたお虎の顔には、いよいよ満足げな笑みが広がる。
俯いている主殿の表情は見えないが、両の拳は小刻みに震えていた。
かくして、この年の武芸大会は波乱のうちに幕を閉じた。
この日を境にお虎は家中の武士たちに対して、それまでとは打って変わって気さくな接し方をするようになった。
「これまでずっと素のおのれ自身を出すことができずに、どこか鬱屈した思いがあったのであろう。あの日の主殿との仕合で、おそらくそれが解放されたのに違いない」
一白はそんなふうに分析をしてみせた。信高は、
――なるほど、そんなものか。
と妙に納得したが、主殿の心にはこの日以来、お虎に対する「壁」ができてしまったらしい。それをなだめるためというわけではなかろうが、一白は自身の娘(信高の妹)を主殿に嫁がせることで、彼に対する信頼の厚さを改めて家中に示してみせた。
この主殿の縁組を誰よりも喜んだのがお虎だったのは、あるいはあの激闘を通じて、どこか彼女なりに主殿に心を通わせるところがあったせいかもしれなかった。もっとも、当の主殿はその厚意を素直に受け入れられず、
「ああ、どうも」
と、仏頂面で受け流しただけだったが。
ともあれお虎の武芸の腕前は、この日をきっかけとして富田家中に知れ渡ることになった。そして、付けられた仇名が、
――薙刀姫。
五
信高が安濃津城へ帰還した翌日、広間において催された評定では、城内の意見が真二つに割れ、まさしく喧々諤々の大激論となった。
徹底抗戦を唱えたのは、息子を人質に取られている富田主殿であった。愛息の命の危機に直面し、内心では大いに苦悩していたはずだが、少なくともそうした感情をまったく表には出さず、決然とした態度を、彼は示しつづけた。
「石田治部は頼むに足りませぬ」
評定の冒頭、主殿はきっぱりとそう言いきった。
「倅のみならず、上方にても治部は諸将の妻子を人質に取っておりますが、この蛮行こそ治部の自信のなさを裏づける何よりの証拠といえましょう。治部はそうすることによってしか諸将を味方につけることができぬと踏んでおるのです」
「しかし」
横合いから口を挟んだのは、伊藤仁左衛門である。
「それでは、平七君のお命が――」
「かまわぬ」
主殿は強い口調で仁左衛門の言葉を遮った。
「御家の命運がかかっておるのだ。幼な児ひとりの命を惜しんで、進むべき道を誤ってはなるまい」
「しかしながら、現状を見るかぎり――」
仁左衛門も譲らない。
「寄せ手の軍勢はおよそ三万。それも毛利・吉川・宇喜多など、戦慣れした連中ばかりでござる。抗戦したとて、とても我等の敵う相手ではないと存ずるが」
「たとえ我等が勝てずとも――」
すかさず主殿が反撃に出た。
「内府は必ず勝つ」
その口調は確信に満ちている。
「この戦、最後に笑うのは内府じゃ。戦国生き残りの老獪さ、豪胆さは石田治部ごとき青二才を寄せつけるものではない」
「で、あったとしても、我等はここで滅びます」
万が一、内府が援軍を寄越すとしてもとうてい間に合わぬ、と言葉に力を込めて、
「というより、内府にはもともと我等への援軍を間に合わせようという心積もりがないのではありますまいか」
とまで、仁左衛門は言った。
「我等は所詮、捨て石なのではないか」
奇しくも分部光嘉が信高に語ったのとまるで同じ見かただった。さすがは伊藤仁左衛門、名将と呼ばれた五郎右衛門の倅だけのことはあると、信高は妙なところで感心した。
ここまで信高はひとことも言葉を発していない。終始沈黙を保ったまま、家臣たちの激論に耳を傾けている。その表情はいつもどおりぼんやりとしていて掴みどころがなかったが、それでもさすがに緊張しているのか、何度となく舌で唇を舐めるような動作を見せた。
そんな主君を尻目に、主殿は難しい顔で腕組みをしている。
彼もまた仁左衛門の見解に反対でないことが、その仕種からはうかがえた。
それでもあえて強硬に抗戦を主張しつづける彼を駆り立てているものは、
――武門の意地
おそらくそれだけであったろう。
戦わずして膝を屈するなど、武士としての誇りが許さない。なまじ「戦国生き残り」ではないからこそ、こうした考えかたにかえって強い憧れを抱くのかもしれなかった。さらにいえば、ここで弱腰と取られるような意見を口にすると、
――いかに豪胆な主殿殿とても、やはり人の子。息子を人質に取られておっては強く出られぬのであろう。
そんなふうに見なされるかもしれない。誇り高き主殿には、それだけはどうしても我慢ならないのだろう。
「断固、戦うべきでござる」
主殿はふたたび轟然と胸を張って言った。
「そのために、もうひとつご提案したきことがござりまする」
「なんだ、申してみよ」
「お方さまを離縁なさるべきかと存じまする」
「なに」
驚きの声を上げる信高に向かって、
「お方さまは、宇喜多中納言さまと近しい間柄でござりましょう。そのようなお方を城内に留め置くのは、危のうござりまする」
主殿は強い口調で言った。
「無礼な」
激昂したのは仁左衛門である。
武芸大会の後、多くの家臣たちの心からお虎への偏見や心の壁が取り除かれ、好意的な接触を持つようになったが、この仁左衛門などもそのひとりで、最近では事ある毎に、
――殿は日の本一の奥方を持たれましたな。果報者でござるぞ。
などと言っているほどだ。
「主殿殿は、お方さまが敵に内通されると言われるのか」
「もとより、そのようなことはないと信じている。だが、お方さまが宇喜多家のご出身であることは紛れもない事実だ」
「主殿殿、そなたというお人は――」
仁左衛門は片膝を立てて主殿に詰め寄る。
「武芸大会で負けたこと、まだ根に持っておられるのか」
「なに」
これには主殿も気色ばんだ。
「今一度、申してみよ」
「あの一件以来、主殿殿がなんとなくお方さまを避けておられるのは、誰の目にも明らかでござった。家中随一の遣い手といわれた主殿殿にしてみれば、いかにお方さまがお強いとはいえ、女子に不覚を取ったことはさぞや心苦しかろうと察してはおりましたが、よもや事ここに至って離縁せよなどとは……。おのれ自身の逆恨みで、ようもそのような大それたことを申されましたな」
「誰が逆恨みしているというのだ」
「そうでなければ、いったいなぜあのお方さまを離縁せよなどと申されるのでござるかッ!」
詰め寄ろうとする仁左衛門を、
「よせ」
信高が押し止めた。
「主殿、そなたのことだ。いかに武芸大会に敗れて忸怩たる思いを抱いていたとしても、本気でお虎を疑うような愚かな考えは持つまい。むしろ、このまま戦が始まれば、敵方に身内がいるお虎の立場は難しいものとなる。そうなってしまう前にここから出してやるほうがいい。そう考えているのではないか」
「……はい」
「であれば、私も同じことを考えていた」
「殿!」
「たしかに、このまま戦が始まれば、お虎の居心地は悪くなるかもしれぬ。今はみなお虎に優しいが、気が立ってくれば、それとてどう変わるかわからぬ。だが、それを伝えたところで、大人しく出ていくお虎だと思うか」
「さあ、それは――」
「おそらく、お虎は聞き入れぬだろう。そして、最後まで俺たちとともに戦おうとするに違いない」
「……それがしも、そう思います」
主殿は項垂れて言った。
「お方さまは、ここでおひとりだけ城を抜けるようなことは、絶対に受け入れられますまい。そういうお方であると、むろんそれがしとて十分に知っておりまする。しかし、しかし……」
その双眸から、大粒の涙が溢れ出す。
「お方さまには、なんとしても生きていただきとうござりまする。たとえ我等がことごとく城を枕に討死することとなっても、お方さまだけは……」
周囲からもすすり泣きの声が聞こえ始めた。
先程、血相を変えて主殿を詰った仁左衛門も、目を真っ赤にして泣いている。
「主殿殿、すまぬ。儂はてっきりそなたがお方さまを心よく思うていないとばかり……」
「いや、正直に申せば、あの武芸大会で完膚なきまでに叩きのめされてからしばらく、お方さまのことをどこか斜めに見てしまう卑怯な自分がいたのは事実だ。しかし、お方さまは、そんな俺にも分け隔てなく接してくれた。此度、わが息子平七が人質となる折にも、ご縁戚の誼で秀家さまへ使者を送り、宇喜多家の庇護下に置かれるよう手を回してくださった。その御恩には、なんとしても報いたい」
「そうであったか」
信高の胸が一瞬、ちくりと痛んだ。
そうか。お虎は宇喜多秀家に使者を送ったのか。
ふたりは今もそんなふうにしてつながり合える間柄なのだな……。
心に兆したかすかな翳を、つとめて打ち消しながら、
「そなたたちも知ってのとおり――」
信高は、ひとりごちるように切り出した。
「俺は平凡な男だ。見た目も才覚も家柄も、どれを取っても人より優れたところがない。そんな俺がたったひとつ手にすることができた、非凡なもの――それが、お虎だった。俺はこれまでずっとお虎を大切にしてきたつもりだ。そうすることで、もしお虎が俺のことを認め、愛してくれるようになれば、俺自身もただの平凡な男から、少しばかり非凡な男になれるかもしれぬ。少なくとも非凡な女が惚れるだけの男ではあるのだと、胸を張ることができる。そんなふうに思っていた。それが叶わぬうちに手放してしまうのは断腸の思いだが、一方では、あいつの幸せを願うためにはそうしたほうがいいのだと、どこかでふんぎりをつけたがっている俺自身がいることもまた、たしかだ。そもそもお虎は、あまりにも非凡すぎて、平凡な俺などにはとても、とても……」
話しているうちに感情が激してきたのか、信高は声を震わせ、嗚咽し始めた。
「殿ッ!」
仁左衛門が叫ぶ。彼の双眸にもまた涙が溢れている。
「それは違いまするぞ。お方さまは殿を何よりも大切に思っておられまする。それがしは、お方さまから幾度となく聞かされました。あの武芸大会にあんなふうに出て行ったのは、自分の武芸がどれほどのものか知って欲しかったからだ。もしも今後、この城をめぐる戦が起きた時、殿をお守りできることを知って欲しかったからだと。お方さまは殿のを大切に思っておられるがゆえに、守られるのではなく、みずからが殿をお守りする道を――」
「申し上げます」
駆け込んできた近習の声が、その言葉を遮った。
「援軍です。援軍が参りましたッ!」
「なに、援軍とな」
勢いよく腰を浮かせたのは、仁左衛門だった。
「内府がはや援軍を……。いや、まさか」
「いったい誰なのじゃ、その援軍を率いておるのは」
代わって主殿が訊ねる。
近習は興奮気味に答えた。
「分部殿です。分部光嘉殿が手勢を率いて、駆けつけてくださったのです」
一同、驚きのあまり、しばし言葉を失った。
六
城門のところまで出迎えに現れた信高らの姿を見止めると、分部光嘉は身軽な動きで馬から下り、ゆっくりと歩み寄って、
「おう、信高殿。上野城は捨ててきた。我等もここで戦わせてくれ」
さらりとそう言ってのけた。
「えっ」
仰天する信高に、光嘉はからからと笑いながら告げる。
「あそこは小さすぎる。とてものこと、大軍を相手取って戦える代物ではないわ」
「はあ」
信高は呆気に取られてしまった。あまりにも唐突すぎて、かける言葉が見つからない。まさか、おのれの居城をこうも易々と捨ててくるとは……。
だが、言われてみればたしかに一理あるようにも思える。光嘉の居城上野城は規模が小さく、迫り来る大軍を相手取っての防衛戦には、どう考えても不向きだった。
「あのボロ城は敵方にくれてやる。我等はここで信高殿とともに戦うことにした」
豪快に笑い飛ばす光嘉を、富田家の者たちは呆然と眺めている。
ともに戦うといったところで、果たしてこの城にどれほどの兵力が収まりきれるものか。安濃津城とて所詮は五万石の居城。決して大きな城ではないのである。
光嘉の手勢を呑み込んだ場合、兵糧の蓄えは大丈夫なのか。また、今後の指揮権はいったい誰が持つことになるのか。
一応、信高の持ち城である以上、信高が全権を握ると解釈すべきのなのか。あるいは経歴からいって、ここは光嘉にすべてを委ねるのが妥当か。
いずれにせよ、互いの将士の間に多少の摩擦は生じるのではなかろうか。
さまざまな問題が起こりうるということに、光嘉ほどの男が気づかぬはずはないと心のどこかでは信を置きながら、あまりに突拍子もないこの申し出に対して、さすがにみな困惑した様子を隠しきれていない。ところが――。
「わかりました」
ただひとり嬉々として頷いた男がいる。
「光嘉殿ならば、この上なく心強き援軍でございます。そもそも私が無事にこの城へ帰り着くことができたのは、ひとえに九鬼嘉隆を向こうに回しての光嘉殿の機略の賜物。引きつづきこの安濃津城で、力を合わせて西軍と戦いましょう。いや、むしろこちらからお願いいたします」
信高はそう言って、光嘉に頭を下げた。
「どうか経験浅き我等に力と智恵をお貸しくだされ、光嘉殿」
「おう」
光嘉は満足げに頷くと、拳を高々と突き上げてみせた。
「任せておけ」
不思議なもので、この何気ない――しかし、実際にはじゅうぶんに計算されつくした所作ひとつ、あるいは言葉ひとつで、富田家の将士の心に、
――あるいはこの戦、勝てるのではないか。
そんな気分が芽生えはじめた。これこそまさに「戦国生き残り」の武将たる分部光嘉の面目躍如といったところであろうか。ともかくも修羅場を越えた男だけが持つ、一種特異な力なのかもしれなかった。
「ところで、そちらは――」
信高は、光嘉が傍らに連れている少年を指差してたずねた。
「どなたでございますか」
まだ十五歳にはいくらか間があるというところであろう。あどけない顔つきながらも、表情は引き締まっている。並々ならぬ意志の強さと聡明さを感じさせる少年だ。
「ああ、これか」
光嘉は破願して、
「儂の息子光信じゃよ」
と、面映げに紹介した。
「これ、光信。信高殿にご挨拶をせぬか」
父親に急かされて、少年はぺこりと頭を下げた。その愛らしい仕種に、信高はじめ富田家の将士の頬が緩む。
「光信殿は、おいくつかな」
屈み込んで少年の顔を覗き、優しい声音でたずねたのは主殿である。おのが息子の平七を人質に取られている身だけに、そのさまは見る者の心を打った。
「十歳に相成ります」
少年は健気に声を張る。
「ほう」
想像以上の幼さに、驚きの声が洩れた。
「父上とともに戦われるお覚悟で来られたのだな」
仁左衛門が問いかけると、少年はかすかに声を震わせて、
「はい」
と、頷いた。声音も細高く弱々しい様子ではあるが、どこか芯の通った強い意志を感じさせるその素振りに、一同は目を細めた。
「頼もしいな」
主殿がそう言って、少年の肩を叩く。
「武士の子は強くあらねばならぬ。光信殿、ご立派な覚悟でござるぞ」
「ありがとうございます」
褒められた嬉しさで、少年は頬を真っ赤に紅潮させた。
主殿がこの健気な少年に、人質となっているわが子の姿を重ね合わせていることは明らかだった。信高はそのさまを横目で眺めながら、胸の奥に刺すような痛みを覚えた。
一
「お方さま」
鏡の前に座って、髪を整えるのを手伝いながら、侍女の楓は嬉しさを抑えきれぬといった口振りで告げた。
「もうすぐ殿がお戻りになられるそうですよ」
「そうですか」
「先程、使いの者がまいり、既にこの伊勢に入っておられると知らせてきたそうです。おそらく夕刻までには城へ入られることでしょう」
「ふうん」
お方さまと呼ばれた女性の返事は、どこかつれない。
端正な容姿である。切れ長の双眸はやや男性的だが、理知的な美しさを持っている。高く綺麗に通った鼻筋も、引き結ばれた薄めの唇も、すべてが輝いているようだ。
「しかし、皮肉なものですね」
楓はそんなあるじの様子になどおかまいなしで、
「お方さまの大好きな殿のお城を、よりによってあの八郎さまの軍勢が攻めてこられるとは。まるでふたりの殿方がお方さまを奪い合っているかのよう」
「楓」
お方さまは鋭い声で叱責する。
「これは戦です。馬鹿な冗談は慎みなさい」
「すみません」
楓はすぐさま詫びたが、その表情は明るいままだ。長い付き合いで、あるじが本気で怒っているわけではないとわかっているからだろう。その証拠に、
「でも、そうはお思いになりませぬか。お方さまは、まるでふたりの殿方の間で揺れるかぐや姫のよう」
と、話をつづけてみせた。
「やめなさいと言うのに」
後ろを振り返って、お方さまは楓を優しく睨みつける。その目にもしかし、どこか戯れるような気色がある。
「私と八郎殿とは、何もありませぬ。たしかに幼馴染で、よく剣の稽古を一緒にしたりはしていましたが、それだけのこと。いってみれば、親友同士のようなものです」
「と言ったって、そこは男と女ですもの。やはり、それなりに――」
「しつこいわね。本当に何もないのですよ」
「でも、お方さまはそうだったとしても、八郎さまも同じお気持ちであったかは、わからないでしょう」
楓は悪戯っぽく笑いながら、
「私は八郎さまには絶対にその気があったと思うのですよねえ」
そう言って、昔を懐かしむような目をしてみせた。
楓は、お方さまがまだほんの幼児の頃から側近くに仕えている。五つほど年上の楓にとって、お方さまはあるじであると同時に、妹のような存在でもあった。その気安い間柄が、主従といえどもこのように軽口を叩き合える関係性につながっている。
「富田家へ嫁ぐお方さまが宇喜多家をお出になる前の日、八郎さまと最後の稽古をなさいましたでしょう」
「ええ、そうでした。一刻以上も仕合いつづけましたが、結局は決着がつかなくて。いつかはあのつづきをと、願ってはいるのですが……」
「あの夜、八郎さまは部屋にひとり籠って、泣いておられたそうですよ」
「まさか」
お方さまは、大きな声を立てて笑う。
「なぜ八郎殿が泣くのです」
「決まっているではありませぬか。お方さまを他の殿方に取られることが口惜しくてでしょう」
「馬鹿馬鹿しい」
お方さまは、ふーっとひとつ溜息を吐いて、
「いいですか、楓。私と八郎殿とは本当にただの幼馴染なのです。そんな甘ったるい想いは、互いに一度として抱いたことがありませぬ。これ以上、下世話な勘繰りをするのは許しませぬ」
「はいはい」
「だいいち、今の八郎殿はわが富田家にとっては敵軍の総大将なのです。軽々しいことを口にしてはなりませぬ」
「承知しました」
反省の色など微塵も感じさせぬ口調で、楓は応えた。
「そもそも私にはわかっていますから。たとえ八郎さまがお方さまをどう思っておられようとも、今のお方さまには関係のないことだと」
「どういう意味です」
「だって、お方さまが本当にお好きなのは殿ただおひとりですもの」
「まったく……。あなたという人は昔からちっとも変りませんね」
「何がです」
「そういう軽口ばかり言うところです」
お方さまがぴしゃりと決めつけると、楓は可笑しそうに、
「お方さまだって、昔からちっとも変わっておられませぬよ」
と、切り返す。
「どういうところがです」
「わかりやすいところが」
「まあ」
むくれるお方さま。そのさまを、じっと見詰める楓。
やがて、どちらともなくくすくすと笑い出し、やがて大笑の合唱が始まる。
これが、いつもの調子だった。
二
安濃津城へ帰還した信高を悲壮感漂う顔で出迎えたのは、妹婿の富田主殿だった。
信高が関東へ出征する間、主殿は安濃津城の留守居役を任されていた。かつて富田家が朝鮮へ兵を出した際も、国元の留守を守る人員に含まれていた。どこかそういう役割を任せたくなる堅実さが、この若者には備わっている。
「大変なことになっておりますぞ」
開口一番、主殿は切迫した事態を、それを語るに相応しい面持ちで信高に伝えた。
主殿の話によれば、西軍は現在、安濃津城を目指して進軍中であるという。先頃、降伏開城を求める使者がやってきたが、留守居役たる主殿の一存にては如何とも決めがたいゆえ今しばらくのご猶予を賜りたいと、いったんこれを帰らせた。ただし、
――結論を先延ばしにするから攻撃を待つようになどと虫のよいことを言うのならば、それなりの誠意を見せてもらわねば、返答を持ち帰る自分の立場がない。
使者がそうごねたため、やむなく主殿は人質としてみずからの幼いひとり息子平七を預けたという。さすがに難しい決断を冷静に下してくれたと、改めて主殿を留守居役に選んだことが間違いではなかったと確信しつつ、
「そうか、それは済まぬことをしたな」
信高は神妙な顔で頭を下げた。人質に出された平七は、まだほんの幼児である。見知らぬ大人たちに囲まれて、どれほど不安な思いをしているだろうと、我知らず胸が詰まった。
「どうなさいますか」
問いかける主殿の目を、信高は見返すことができなかった。もしもここで、
――我等は東軍につく。
そう明言すれば、平七を見殺しにすることにつながる。わが妹婿にして忠実無比な家臣でもある主殿に対して、かわいい盛りの幼児の命を諦めろというのは、あまりにも酷であった。だが、そのために今さら西軍に鞍替えすることは不可能だ。
「どうすればよいのだ……」
呻くような呟きを、主殿は聞き咎めた。
「今さら何を迷うておられるのです、東軍におつきなされ」
「なんだと」
「そのおつもりで帰って来られたのでしょう」
「それは、そうだが……。まさか平七が人質に取られていようとは思わなかったのだ」
「此度の戦、最後には東軍が勝利をおさめるとそれがしは確信しております。石田治部には内府公を向こうに回し、戦うだけの器量はございますまい。殿、一時の情に流されて判断を誤ってはなりませぬぞ」
「主殿、そなた、それでいいのか」
「殿ッ!」
主殿の瞳にうっすらと光るものがある。充血した目を武骨な拳で荒々しく擦った後、彼は断固たる口振りで言った。
「わが子かわいさに御家の行く末を誤らせたとあっては、この富田主殿、終生の恥辱でございます。どうかそれがしに恥をかかせてくださいますな」
「主殿……」
「なあに、心配は要りませぬ。人質となった倅の身柄を預かるのは、宇喜多中納言さまと聞き及んでおります。中納言さまといえば我等にとっては御身内。たとえ敵味方に分かれたとて、決して悪いようにはなさいますまい」
「それは、そうかもしれぬが……」
信高は煮え切らない。主殿の言うとおり、わが妻の縁戚者である中納言――宇喜多八郎秀家という武将は清々しい心根を持つ好漢であり、年端もゆかぬ幼児に対して、それがたとえ人質であったとしても、乱暴に扱ったり、ましてや無慈悲に殺害したりなど絶対にしない人物であろう。
とはいっても、秀家は西軍の総大将ではない。いかに中納言の身分を有するとはいえ、此度の戦役においては、あくまでも一部将に過ぎないのだ。人質の処遇を決定する権利は彼にはないはずである。
西軍の総大将は地位や身代からいって、おそらく毛利輝元だろう。輝元は決して酷薄な性格の持ち主ではなかったが、大大名の跡取りとして大事に育てられたゆえか、気質的に芒洋としたところがある。他人に白だと強く言われれば、明らかに黒いものであっても、
――白なのかな。
そんなふうに思い込んでしまいかねない人物だ。
では、そんな輝元を陰で操る者がいるとすれば、それはいったい誰か。
いうまでもなく、石田三成である。
三成は怜悧きわまりない官僚だ。優れた官僚には情誼など期待できない。生かしておく価値がないと見なせば、彼は即座に人質の首を刎ねるだろう。たとえ、それがいたいけな幼児であったとしてもだ。
「殿」
そんな取り止めのない思考から現実世界へ呼び戻そうとするかのように、主殿は強い調子で呼びかけた。
「ひとまず奥へ入り、旅の疲れを落としてくださいませ。お方さまもお待ちかねでございます」
「ああ、お虎か……」
この瞬間、信高の表情がにわかに翳りを帯びた。
「あいつ、待っているかな」
小声で呟くのを、
「さあ」
主殿はどこか億劫そうな態度でいなした。
「殿はいつ戻られるかと、連日聞かれて正直うんざりしていたところです。早く顔を見せて差し上げていただければ、それがしも少し気が楽になります」
そんなふうに急かされて、
「まったく、そなたはお虎に冷たいなあ」
信高は苦笑交じりに立ち上がった。
「いつまでも根に持つなよ。たった一度、負かされたぐらいで」
「なんのことです」
主殿の憤然とした声が背中から聞こえる。
「言っておきますが、それがしはあの日のことなどいっさい根に持ってはおりませぬぞ。そのように料簡の狭い男と思われるのは、至極迷惑でござる」
「わかった、わかった」
信高は後ろを振り返らず、ひらひらと手だけを振ってみせた。
三
宇喜多家はもともと備前の国人領主であり、代々、守護代の浦上家に仕えていた。
天文年間(一五三二―一五五八)ごろに出た宇喜多能家は秀家の曽祖父に当たる人物だが、これがなかなかの器量人で、数々の軍功を挙げ、瞬く間に家中での地歩を固めた。しかし、その権勢に嫉妬した同僚の島村貫阿弥に嵌められ、謀叛人に仕立て上げられた末に謀殺の憂き目を見た。
能家の死後、宇喜多家は凋落した。能家の子興家は凡庸で、父が横死した後もひとり酒色に溺れ、家名の再興を果たそうとしなかった。さらにその子直家もまた父に輪をかけた愚物との評判であったから、世の人々は、
――宇喜多家はもはや滅んだも同然じゃ。
などと囁き合った。
ところが、直家は数年後に豹変した。それまでの愚鈍さが嘘のような俊英に成長し、仇敵島村貫阿弥を討ち滅ぼして祖父の恨みを晴らすことに成功したのである。実のところ、彼は仇討を恐れているであろう貫阿弥を油断させるために、あえて愚人のふりをしつづけていたのだった。
その間、実に十五年。とうてい尋常な神経の持ち主ではなかった。
その直家、やはり稀代の策士である。たちまち家中の混乱に乗じて勢力を伸ばし、ついには主君浦上宗景の居城天神山城を攻めて、これを陥落せしめた。宗景は命からがら城を抜け出し、流浪の末、安芸の毛利家に拾われて、その庇護を受けた。
かくて備前一国を領有するに至った直家だが、それだけでは飽き足らず、さらに野望の牙を研ぎつづけた。彼は毒殺、暗殺など、ありとあらゆる謀略を駆使して、ついには五十万石を超える大封を手にした。
直家が業病に罹り、五十三歳でこの世を去った時、ひとり息子の八郎秀家は未だ八歳の少年であった。
折しも織田信長の命を受けた羽柴秀吉が、毛利輝元と相対すべく中国筋を進軍するさなかだった。
宇喜多家の居城岡山城は秀吉軍の進路のど真ん中に位置している。直家はこれまで毛利家寄りだった方針を一変させて秀吉に接近を試みたが、その矢先に死病を患い、明日をも知れぬ命となった。
ここで直家は策士の名に相応しい窮余の一策に打って出た。
彼は愛妾の於福をなんと秀吉の夜伽に差し出したのである。
於福は秀家の生母であり、このとき既に三十代も半ばに差し掛かっていたが、その色香は些かも衰えていなかった。直家は秀吉が人並み外れて好色であることを知り、御家安泰を計るためにもっとも効果的な献上物として、彼女の肉体を選んだのだった。
この策は見事に当たった。秀吉は於福の熟れきった女体に惑溺し、その子秀家に対する庇護を確約したのである。
数年後、秀家は元服と同時に秀吉の猶子に叙せられた。彼は羽柴姓を与えられ、同時に岡山五十万石を安堵された。さらに秀吉は、養女となっていた朋友前田利家の娘豪姫を秀家に嫁がせた。実子のない秀吉は、ゆくゆくはこの秀家をみずからの後継者に据えようとさえ考えていたらしい。
秀家は亡父と異なり、律儀で誠実な好青年だった。学問の素養もあり、武技にも秀でているが、当の本人には、そうしたことを鼻にかける素振りは微塵も見られなかった。温和な性格で、人当たりもよい。そのため、誰からも好感を持たれている。要するに、根っからの御曹子気質なのだった。
その秀家の叔父に、忠家という人物がいた。亡き梟雄直家の実弟である。
忠家という人は甥の秀家同様、至極穏やかな気質の常識人であったが、あまりにも酷薄な兄を持ったことによって終生、気苦労が絶えなかった。兄の前へ出るときはつねに鎖帷子を着込んでいたというから、その気の配りようは尋常ではなかったであろう。実の弟すら謀殺の恐怖に駆られながら日々を過ごさねばならぬほど、直家という男は非情な側面を持っていたのである。その忠家のひとり娘が信高の妻お虎であった。
片や秀吉の猶子にして中納言の官職を持つ貴公子の縁者、片や五万石の小領主の倅である。このきわめて不釣り合いな両家の縁組がなぜ成立したのかについては、残念ながらよくわかっていない。ただ、信高の父一白はかつて秀吉の吏僚として活躍していたから、半ば左遷のような形で安濃津に封じられるに際し、その功に報いるために秀吉が取り計らったと考えるのが妥当かもしれない。
とはいえ、富田家にしてみれば、まさか宇喜多家のような大身の大名から嫁が来るなどとは思ってもみなかっただけに、婚礼の準備には四苦八苦させられた。
物慣れぬ家臣たちが困惑し、慌てふためくさまを横目に眺めながら、当の信高は、
――なんだか申し訳ないな。
と、甚だバツの悪い思いをしていた。
生来のほうけ者である彼は、気質的におよそ大名の倅らしからぬところがあり、このときにかぎらず、自分のために家臣たちがバタバタと慌しげに走り回る姿を見ては、いつもそう思っているのだった。
「すまぬなあ、俺なんかのために」
時折、家臣たちに向かってそんなふうに声をかけるのだが、その声音がなんともいえず間延びした感じで、いかにも呑気な響きを帯びており、みなの笑いを誘った。このような信高の温かい人柄は、富田家の家風をどこかのんびりとした、さながら長閑な田園風景を思わせる雰囲気に仕立て上げていた。ギラギラした野心や脂ぎった功名欲とは程遠い武士たちが、そこには数多くいた。
それは、さておき――。
富田家は宇喜多家との縁組に大わらわであったが、信高当人はというと、家臣たちへの申し訳なさはともかくとして、いたってのんびりしたものだった。自分自身の婚儀だというのに、まるで他人事のような緊張感のなさであった。さすがにこれには家臣たちも呆れ果て、伊藤仁左衛門などは、
――若殿は少しおつむの中身が足らぬのではあるまいか。
と、半ば本気で心配したほどである。
むろん、実際にはそんなことはなく、信高には信高なりの理屈というものがあった。
彼にとって――というよりも、およそ世間一般の大名の跡取り息子にとって、正室を迎えることは人生の通過儀礼のひとつに過ぎなかった。なぜなら多くの場合、結婚する男女の間には愛情、いや、それどころか相手に対する情報そのものがまったく欠落していたためである。すべては親同士、家同士で取り交わされる約束事であった。
現に信高の場合も、妻となるお虎という女性とは、これまでに一面識すらなかった。ただ世人の噂に、
――稀に見る美女であるらしい。ただし、ずいぶんと大柄なところが、玉に瑕だそうな。
などと聞かされて、なんとなく、
――ふうん、そうなのか。
と、思っているに過ぎない。仮にその女性が気に入らなければ、適当にどこかから側妾を見繕ってくればよい。後継ぎをもうけるという、ある意味では彼等にとって最大の使命を果たすために、そうすることの自由が公然と認められているのである。
是非善悪の問題ではない。つまりは、そういう時代なのだった。
婚礼当日、清楚な白無垢に身を包んだお虎は、ごく軽い気分で式に臨んだ信高の度肝を抜いた。
――なんという美しさだ……。
信高は呆然と口を開けて、その美貌に魅入った。傍らの仁左衛門がわざとらしく咳払いをしなければ、そのままいつまでも馬鹿みたいな顔をしつづけていたことだろう。
たしかに噂どおりお虎は大柄だった。痩せ型ではあったものの、背は高いし肩幅も広い。しかし、そんなことがまるで気にならぬほど整った顔立ちをしている。総体的にややきつい印象を与えるものの、そのぶん、なんともいえぬ華やかさを感じさせもした。
――まいったな……。
突如として襲ってきた強い緊張感に半ば震え、半ば困惑しながら、信高はなんとかこの日の式次第をこなした。
その夜、臥所の上で、ふたりははじめての会話を交わした。
「不束者ではございますが、末永くお願い申し上げます」
やや低いものの、お虎という名前、あるいは大柄な体躯からは想像もつかぬ細い声で、彼女はそう言った。少し震えているのは、やはり向こうも緊張しているためであろうか。
「ああ、こちらこそよろしく頼む」
信高がぎこちなく答える。こちらも心なしか声が上ずっている。婚礼の式中からずっと気を張りつづけているせいか、咽喉がカラカラに渇いているのだった。
傍らに置いてある酒杯に手を伸ばし、手酌で注いで一気に飲み干す。平素、どちらかというとあまり酒は嗜まぬほうであったが、今はただ咽喉を潤すことができれば、なんでもよいと思った。
そのまま、両者とも無言になる。
なんとも気まずい空気が、ふたりの間を流れる。
時折、信高は上目遣いで、恐る恐るお虎の顔を見た。そして、
――やはり、美しい……。
その都度、胸のうちでそう嘆息するのだった。
面長の瓜実顔で、いかにも気が強そうだ。鼻梁は高く、すっきりと真ん中に綺麗な筋が通っている。小さくて真っ直ぐな唇は引き締まっており、そこはかとない聡明さを漂わせている。いかにも気の強そうな顔立ちだが、そこがまた魅力的であった。
「聞けば――」
なんとか会話の糸口を探そうと考えを廻らせながら、とりあえず口を開く。
「そなたは女性ながら、武芸の達人だという」
お虎は特に謙遜するでもなく、ごく自然に頷いてみせた。
「宇喜多家には、そなたに勝てる者は男でもなかなかいなかったそうだな」
「そうですね。おそらく互角に渡り合えたのは、八郎殿ぐらいではないでしょうか」
「八郎殿?」
「中納言さまのことです」
「ああ、秀家さまか」
信高の脳裏に、かつて大坂城内で見た宇喜多秀家の秀麗な容姿が浮かぶ。
涼やかな外見と、それに似合う優雅な立ち居振る舞い、それでいて武将としての逞しさも兼ね備えた秀家は、女官たちの憧れの的になっていた。
「秀家さまとは……、その、近しい間柄なのか」
「従兄妹でございますから」
「ああ、そうか」
話しているうちに、急速に咽喉が乾きだした。
「素敵なお方だな」
「そうでしょうか」
お虎は首を傾げてみせる。
「そうは思わぬか」
「よくわかりませぬ」
「そうか」
いつの間にか信高の背には、うっすらと汗が浮かんでいる。薄暗がりの中にいるため、おそらく相手からは見て取ることができないだろうが、明らかに顔が火照っているのが、自分ではよくわかった。
――しっかりしろ、富田信高。
心のうちで、みずからを叱咤する。何をびくついているのだ。相手は自分の妻となる女ではないか。別段、深い仲だと決まったわけでもない男に嫉妬などしてどうする。
――ええい。
いたたまれなくなって、無言のまま押し倒す。
お虎は逆らわない。薄く目を開いたままではあるが、信高の意にしたがおうとする。その意外な従順さが、信高をいっそう昂ぶらせた。
――負けはせぬぞ。
そこから先は、もうほとんど記憶がない。
ただひとつ覚えているのは、何ひとつうまくいかず、まんじりともせず過ごした夜が白々と明けてきた時の、なんともいえないやるせなさだけだった。
四
その年の秋、富田家中で武芸大会が催された。
ここ数年、恒例行事になっているこの大会は、文官の身ゆえ武功に恵まれず、密かに軽視する向きがあることを敏感に察知した一白が、家中に尚武の気風を植え付けるため――そして、そのことを対外的に示すことを目的として始めたものである。
大会には家中の腕自慢が二十人ほど出場登録し、勝ち抜き戦の形式によって行われる。
まず最初に出てきたのは、伊藤仁左衛門だった。
相対するは百瀬某という若者で、なるほど筋骨隆々として、いかにも強そうな男である。
「いざ」
行司役の老武士がしわがれた声を発する。
「はじめい」
合図を聞くや否や、果敢に踏み出したのは百瀬某だった。
「きええええい」
凄まじい気迫を込めて、手にした木刀を振り下ろす。
風を切り、うなりをあげる剛剣を、仁左衛門はしかし、いとも容易くかわしてみせた。
「えっ」
驚いた表情の百瀬某は次の瞬間、
「うぐっ」
くぐもった呻き声を上げて膝から崩れ落ちる。
見ると、仁左衛門が繰り出した木刀がしたたかにその腰を打ち据えていた。
「勝負あり」
行司が手を上げる。
木刀を脇に抱え、深々と一礼する仁左衛門に向かって、
「見事」
信高が声を掛けた。
それにつづいて観衆たちもやんやと拍手喝采する。
照れ臭そうな笑みを浮かべて退いた仁左衛門に代わって、
「どれ、それがしも負けてはおられぬな」
ゆったりとした足取りで進み出たのは富田主殿である。
「おお、家中の双璧の肩割れが出て来たな」
一白が嬉しそうに笑う。
このところ、彼はずっと病で床に臥せっていた。今日は比較的気分がよいらしく、縁側まで起き出してきて仕合の様子を見物している。
「昨年の勝者仁左衛門が連覇いたすか、はたまた一昨年の勝者主殿が雪辱を果たすか、いずれにせよ、このふたりのいずれかが今年も勝者となるであろう」
一白はそんなふうに予想していた。その主殿と初戦で顔を合わせることになった不幸な対戦相手は、仁科某というずいぶんひょろ長い印象の男だった。
「あいつ、大丈夫か」
心配する一白の言葉が終わらぬうちに、
「うおおおっ」
主殿が発した気合いにつり出されるような格好で、仁科某は真正面から果敢に突っ掛かっていった。
「おお」
観衆がどよめいたのはしかし、一瞬だった。
次の瞬間には、主殿の繰り出した必殺の突きが、過たず仁科某の痩躯を捉えていた。
「ぐあっ」
二間(約三、六メートル)ほども吹っ飛ばされた仁科某は、そのまま失神してしまった。
「勝負あり」
行司の老武士が淡々と判定を告げる。
「やれやれ、奥へ連れて行って介抱してやれ」
信高に命じられた近習らが、仁科某の体を担ぎ上げて運んで行った。
「やはり強いのう、このふたりは」
感じ入ったように呟く一白は、満足げだ。
前年も、そのまた前年の大会でも、決勝の組み合わせはこのふたりだった。前年は主殿が仕合を制し、その前は仁左衛門が栄冠を勝ち取っていたが、どちらも手に汗握る接戦の末のことだった。今年もこのふたりが順当に勝ち進み、決勝で雌雄を決することになるだろう――ほとんどの者たちがそう予想していた。
大会はそんな大方の予想を裏切ることなく進み、決勝の舞台には主殿と仁左衛門のふたりが立つこととなったのだ。
家中きっての遣い手が対峙するそのさまを、みなが固唾を呑んで見守る。
どこか不気味なまでの静寂を、先に破ったのは仁左衛門のほうだった。
跳躍。そして、真っ向から木刀を振り下ろす。
主殿はその攻撃を読み切っていたかのように、しっかりと受け止める。
そのままいなすように刀身を横へすらし、一歩引いて仁左衛門の平衡を崩しにかかる。
仁左衛門は蹈鞴を踏んだ。
狙いどおりだ。
反撃に出る主殿。仁左衛門はかわしきれない。
懸命に身をよじらせたが、脛を浅く捉えられた。
「くそっ」
思わず膝をつく。それでも屈せず、突きに出た。
「うおっ」
予期していなかった攻め手に、主殿がよろめく。
「もらった」
躍り上がった仁左衛門はしかし、次の瞬間、
「うっ」
と、顔をしかめた。
先に打たれた脛の痛みが、俊敏な動きを阻んだのだ。
平衡を崩して、また大きく膝をつく。
――しまった。
思った時には、主殿の木刀が頭上に迫っていた。
「ま、まいった」
おおっという歓声が上がる。
「勝負あり」
行司の老武士が宣言すると、歓声はやんやの喝采に代わった。
「主殿の奴、見事に連覇を果たしおったか」
一白も嬉しそうに頬を緩める。
「仁左衛門の攻めもなかなかに鋭いものでした。並の相手であれば、最初の一撃で仕留めていたことでしょう」
信高の言葉に、小さく何度も頷く。
戦い終えた当のふたりは、既に肩を叩きながら互いの健闘を称え合っている。
清々しい雰囲気の中、
「どれ」
表彰のために一白が立ち上がろうとした、その時である。
「お待ちください」
奥から女性の声がした。
みなが一様に視線を送る。その先には――。
「お虎!」
信高の正室お虎が襷姿でそこに立っていた。手には薙刀を持っている。
「お虎、どうしたのだ、その恰好は」
「私にもやらせていただけませぬか」
「なに、何を言っているのだ」
驚く信高を尻目に、お虎は主殿のほうへ向き直り、
「そなたの戦いぶり、見せていただきました。なかなかの腕前、感心いたしましたよ」
「はあ、それはどうも」
不得要領な面持ちで、主殿が小さく頭を下げる。
「そなたと仕合がしたい。受けていただけますか」
「なんですと」
驚く主殿。
「今ここで、でござりまするか」
「もちろん」
お虎は淀みなく言い切った。
「そのつもりで、こうして出てまいったのです」
「なるほど」
いでたちを見れば、そのことはよくわかる。
「そうですな」
主殿はちらりと縁側のほうへ目を遣った。
信高は明らかに困惑している。だが、その横で一白が小さく頷くのが見えた。
――よし。
主殿は表情を引き締め、
「承知いたしました」
と、お虎に呼び掛けた。
「それがしでよければ、お相手仕りましょう。いざ、まいられませい」
みなが固唾を呑んで見守る中、両者は互いの得物を取って対峙する。
主殿は木刀を。そして、お虎は薙刀を。
「主殿、本当に大丈夫なのか」
信高が心配そうに声を掛ける。
「そなた、疲れているだろう。少し休んでからのほうがよくはないか」
「なんの」
主殿は笑って首を横に振る。
「せっかくお方さまおんみずからお申し出いただいた仕合ですからな。一刻も早うやりとうござるよ」
爛然と輝く相貌が、お虎の美貌を捉える。
――武芸の嗜みがあると、噂には聞いている。
だが、実際にどれほどの腕前なのか、目にする機会はこれまで一度もなかった。
――所詮は名家の姫君だ。おおかた周囲の者たちが気を使って褒めそやすうちに、すっかりその気になってしまったという程度のことだろう。ならば、ちょうどいい。この機会にその鼻をへし折って進ぜようぞ。
何しろ宇喜多家といえば今を時めく豊臣政権の中枢にいる家だ。富田家などという、取り立てて誇るだけの家柄も身代もないところへ嫁いできたことを少なからず不本意に思ってもいるだろう。
正直なところ、主殿はお虎のどこか取り澄ましたような冷ややかな立ち居振る舞いが、どうにも好きになれずにいた。仁左衛門などは、
――あの方はああいう顔だから、なんとなくつんけんした感じに見えるのだ。実際に話してみると、それほど悪いお方ではないぞ。
などと擁護するのだが、主殿にはそうは思えない。いつも冷ややかな目をこちらに向けて、軽口のひとつも叩かず、笑顔すら浮かべないお虎は、内心では俺たちのことを田舎の文弱武士と侮っているのだ、とぐらいに思っている。
実のところ、お虎に対してそういう目を向けていたのは、主殿だけではない。どこか冷たさを感じさせるお虎の美貌は、時として、
――お方さまは内心、このような小大名に嫁いできたことを心よく思われていないのだろう。我等のことも文弱と蔑んでおられるに違いない。
などといった被害妄想を搔き立てた。実際に本人がそう言ったわけではないから、これはもう「被害妄想」という以外にないのだが、ともあれそうした意識のせいで、日頃からあまりよい印象を持っていない者も少なくなかった。
主殿は今、そうした者たちを代表して戦うような気分になっている。
――富田武士の力を見せつけてやるのだ。
なんなら一撃でその自信を粉砕し、高い鼻をへし折ってやるのだ――ぐらいの気構えで、
「いざ、まいられよ」
主殿は気合いを発した。
「遠慮は要りませぬぞ」
沸々と湧き上がる闘志を押し殺して、誘いをかけるように軽く木刀を引く。
お虎は、乗ってこない。
――ならば、これではどうだ。
さらに無防備な態勢をわざと取ってみせたが、それでも動く素振りを見せない。
探り合うふたり。
どちらも仕掛ける機会をうかがっているのか、緊張感だけが高まる。
「どうなされた、お方さま」
焦れた主殿は、言葉でも誘いをかける。
お虎は動かない。それどころか、表情ひとつ変えようとはしないのだ。
薙刀を構えたまま、じっと鋭い眼差しで主殿を見据えている。
と――。
不意にその口元がかすかに動いた。
笑ったのだ。
「くそっ」
瞬間、主殿の心の箍が外れた。
「まいるッ!」
叫び声とともに、主殿は突進する。
力強く繰り出された木刀の一撃。ここまで何人もの敵をひれ伏させてきたその剣をしかし、お虎の薙刀はからめ取るようにして受け止めると、
「えいっ」
力強く払い除けた。
「ああっ」
主殿の体が泳いだ。
前のめりに倒れ込みながら、なんとか態勢を立て直そうとする。
が、次の瞬間――。
「覚悟ッ!」
お虎の凛然とした掛け声が、その場に響き渡った。そして、
「ま、まいった」
という主殿の悲痛な声も。
みな、はじめは何が起きたのか理解できていなかった。
だが、静寂の中で彼等の前に示されていたのは――。
跪く恰好になった主殿の頭上すれすれのところに、お虎の薙刀が振り下ろされているさまだった。
主殿は唇を噛み、無念の形相で俯いている。
そんな主殿を見下ろすお虎の表情は、対照的に晴れやかである。
「……し、勝負あり」
老行司が慌てて手を挙げる。
少しの間を置いて、どよめきともつかぬ声が、観衆の間から控えめに漏れ始めた。
信高は、呆気に取られたようにふたりを見詰めている。そんな中でただひとり、
「見事だ」
大きく手を打ったのは、一白だった。
「さすがは武名高き宇喜多家の姫君よ。よいものを見せてもらった」
この無邪気なまでの言葉が、ようやくみなの心を解き放ったらしい。
割れんばかりの拍手と喝采が沸き起こった。
それを浴びたお虎の顔には、いよいよ満足げな笑みが広がる。
俯いている主殿の表情は見えないが、両の拳は小刻みに震えていた。
かくして、この年の武芸大会は波乱のうちに幕を閉じた。
この日を境にお虎は家中の武士たちに対して、それまでとは打って変わって気さくな接し方をするようになった。
「これまでずっと素のおのれ自身を出すことができずに、どこか鬱屈した思いがあったのであろう。あの日の主殿との仕合で、おそらくそれが解放されたのに違いない」
一白はそんなふうに分析をしてみせた。信高は、
――なるほど、そんなものか。
と妙に納得したが、主殿の心にはこの日以来、お虎に対する「壁」ができてしまったらしい。それをなだめるためというわけではなかろうが、一白は自身の娘(信高の妹)を主殿に嫁がせることで、彼に対する信頼の厚さを改めて家中に示してみせた。
この主殿の縁組を誰よりも喜んだのがお虎だったのは、あるいはあの激闘を通じて、どこか彼女なりに主殿に心を通わせるところがあったせいかもしれなかった。もっとも、当の主殿はその厚意を素直に受け入れられず、
「ああ、どうも」
と、仏頂面で受け流しただけだったが。
ともあれお虎の武芸の腕前は、この日をきっかけとして富田家中に知れ渡ることになった。そして、付けられた仇名が、
――薙刀姫。
五
信高が安濃津城へ帰還した翌日、広間において催された評定では、城内の意見が真二つに割れ、まさしく喧々諤々の大激論となった。
徹底抗戦を唱えたのは、息子を人質に取られている富田主殿であった。愛息の命の危機に直面し、内心では大いに苦悩していたはずだが、少なくともそうした感情をまったく表には出さず、決然とした態度を、彼は示しつづけた。
「石田治部は頼むに足りませぬ」
評定の冒頭、主殿はきっぱりとそう言いきった。
「倅のみならず、上方にても治部は諸将の妻子を人質に取っておりますが、この蛮行こそ治部の自信のなさを裏づける何よりの証拠といえましょう。治部はそうすることによってしか諸将を味方につけることができぬと踏んでおるのです」
「しかし」
横合いから口を挟んだのは、伊藤仁左衛門である。
「それでは、平七君のお命が――」
「かまわぬ」
主殿は強い口調で仁左衛門の言葉を遮った。
「御家の命運がかかっておるのだ。幼な児ひとりの命を惜しんで、進むべき道を誤ってはなるまい」
「しかしながら、現状を見るかぎり――」
仁左衛門も譲らない。
「寄せ手の軍勢はおよそ三万。それも毛利・吉川・宇喜多など、戦慣れした連中ばかりでござる。抗戦したとて、とても我等の敵う相手ではないと存ずるが」
「たとえ我等が勝てずとも――」
すかさず主殿が反撃に出た。
「内府は必ず勝つ」
その口調は確信に満ちている。
「この戦、最後に笑うのは内府じゃ。戦国生き残りの老獪さ、豪胆さは石田治部ごとき青二才を寄せつけるものではない」
「で、あったとしても、我等はここで滅びます」
万が一、内府が援軍を寄越すとしてもとうてい間に合わぬ、と言葉に力を込めて、
「というより、内府にはもともと我等への援軍を間に合わせようという心積もりがないのではありますまいか」
とまで、仁左衛門は言った。
「我等は所詮、捨て石なのではないか」
奇しくも分部光嘉が信高に語ったのとまるで同じ見かただった。さすがは伊藤仁左衛門、名将と呼ばれた五郎右衛門の倅だけのことはあると、信高は妙なところで感心した。
ここまで信高はひとことも言葉を発していない。終始沈黙を保ったまま、家臣たちの激論に耳を傾けている。その表情はいつもどおりぼんやりとしていて掴みどころがなかったが、それでもさすがに緊張しているのか、何度となく舌で唇を舐めるような動作を見せた。
そんな主君を尻目に、主殿は難しい顔で腕組みをしている。
彼もまた仁左衛門の見解に反対でないことが、その仕種からはうかがえた。
それでもあえて強硬に抗戦を主張しつづける彼を駆り立てているものは、
――武門の意地
おそらくそれだけであったろう。
戦わずして膝を屈するなど、武士としての誇りが許さない。なまじ「戦国生き残り」ではないからこそ、こうした考えかたにかえって強い憧れを抱くのかもしれなかった。さらにいえば、ここで弱腰と取られるような意見を口にすると、
――いかに豪胆な主殿殿とても、やはり人の子。息子を人質に取られておっては強く出られぬのであろう。
そんなふうに見なされるかもしれない。誇り高き主殿には、それだけはどうしても我慢ならないのだろう。
「断固、戦うべきでござる」
主殿はふたたび轟然と胸を張って言った。
「そのために、もうひとつご提案したきことがござりまする」
「なんだ、申してみよ」
「お方さまを離縁なさるべきかと存じまする」
「なに」
驚きの声を上げる信高に向かって、
「お方さまは、宇喜多中納言さまと近しい間柄でござりましょう。そのようなお方を城内に留め置くのは、危のうござりまする」
主殿は強い口調で言った。
「無礼な」
激昂したのは仁左衛門である。
武芸大会の後、多くの家臣たちの心からお虎への偏見や心の壁が取り除かれ、好意的な接触を持つようになったが、この仁左衛門などもそのひとりで、最近では事ある毎に、
――殿は日の本一の奥方を持たれましたな。果報者でござるぞ。
などと言っているほどだ。
「主殿殿は、お方さまが敵に内通されると言われるのか」
「もとより、そのようなことはないと信じている。だが、お方さまが宇喜多家のご出身であることは紛れもない事実だ」
「主殿殿、そなたというお人は――」
仁左衛門は片膝を立てて主殿に詰め寄る。
「武芸大会で負けたこと、まだ根に持っておられるのか」
「なに」
これには主殿も気色ばんだ。
「今一度、申してみよ」
「あの一件以来、主殿殿がなんとなくお方さまを避けておられるのは、誰の目にも明らかでござった。家中随一の遣い手といわれた主殿殿にしてみれば、いかにお方さまがお強いとはいえ、女子に不覚を取ったことはさぞや心苦しかろうと察してはおりましたが、よもや事ここに至って離縁せよなどとは……。おのれ自身の逆恨みで、ようもそのような大それたことを申されましたな」
「誰が逆恨みしているというのだ」
「そうでなければ、いったいなぜあのお方さまを離縁せよなどと申されるのでござるかッ!」
詰め寄ろうとする仁左衛門を、
「よせ」
信高が押し止めた。
「主殿、そなたのことだ。いかに武芸大会に敗れて忸怩たる思いを抱いていたとしても、本気でお虎を疑うような愚かな考えは持つまい。むしろ、このまま戦が始まれば、敵方に身内がいるお虎の立場は難しいものとなる。そうなってしまう前にここから出してやるほうがいい。そう考えているのではないか」
「……はい」
「であれば、私も同じことを考えていた」
「殿!」
「たしかに、このまま戦が始まれば、お虎の居心地は悪くなるかもしれぬ。今はみなお虎に優しいが、気が立ってくれば、それとてどう変わるかわからぬ。だが、それを伝えたところで、大人しく出ていくお虎だと思うか」
「さあ、それは――」
「おそらく、お虎は聞き入れぬだろう。そして、最後まで俺たちとともに戦おうとするに違いない」
「……それがしも、そう思います」
主殿は項垂れて言った。
「お方さまは、ここでおひとりだけ城を抜けるようなことは、絶対に受け入れられますまい。そういうお方であると、むろんそれがしとて十分に知っておりまする。しかし、しかし……」
その双眸から、大粒の涙が溢れ出す。
「お方さまには、なんとしても生きていただきとうござりまする。たとえ我等がことごとく城を枕に討死することとなっても、お方さまだけは……」
周囲からもすすり泣きの声が聞こえ始めた。
先程、血相を変えて主殿を詰った仁左衛門も、目を真っ赤にして泣いている。
「主殿殿、すまぬ。儂はてっきりそなたがお方さまを心よく思うていないとばかり……」
「いや、正直に申せば、あの武芸大会で完膚なきまでに叩きのめされてからしばらく、お方さまのことをどこか斜めに見てしまう卑怯な自分がいたのは事実だ。しかし、お方さまは、そんな俺にも分け隔てなく接してくれた。此度、わが息子平七が人質となる折にも、ご縁戚の誼で秀家さまへ使者を送り、宇喜多家の庇護下に置かれるよう手を回してくださった。その御恩には、なんとしても報いたい」
「そうであったか」
信高の胸が一瞬、ちくりと痛んだ。
そうか。お虎は宇喜多秀家に使者を送ったのか。
ふたりは今もそんなふうにしてつながり合える間柄なのだな……。
心に兆したかすかな翳を、つとめて打ち消しながら、
「そなたたちも知ってのとおり――」
信高は、ひとりごちるように切り出した。
「俺は平凡な男だ。見た目も才覚も家柄も、どれを取っても人より優れたところがない。そんな俺がたったひとつ手にすることができた、非凡なもの――それが、お虎だった。俺はこれまでずっとお虎を大切にしてきたつもりだ。そうすることで、もしお虎が俺のことを認め、愛してくれるようになれば、俺自身もただの平凡な男から、少しばかり非凡な男になれるかもしれぬ。少なくとも非凡な女が惚れるだけの男ではあるのだと、胸を張ることができる。そんなふうに思っていた。それが叶わぬうちに手放してしまうのは断腸の思いだが、一方では、あいつの幸せを願うためにはそうしたほうがいいのだと、どこかでふんぎりをつけたがっている俺自身がいることもまた、たしかだ。そもそもお虎は、あまりにも非凡すぎて、平凡な俺などにはとても、とても……」
話しているうちに感情が激してきたのか、信高は声を震わせ、嗚咽し始めた。
「殿ッ!」
仁左衛門が叫ぶ。彼の双眸にもまた涙が溢れている。
「それは違いまするぞ。お方さまは殿を何よりも大切に思っておられまする。それがしは、お方さまから幾度となく聞かされました。あの武芸大会にあんなふうに出て行ったのは、自分の武芸がどれほどのものか知って欲しかったからだ。もしも今後、この城をめぐる戦が起きた時、殿をお守りできることを知って欲しかったからだと。お方さまは殿のを大切に思っておられるがゆえに、守られるのではなく、みずからが殿をお守りする道を――」
「申し上げます」
駆け込んできた近習の声が、その言葉を遮った。
「援軍です。援軍が参りましたッ!」
「なに、援軍とな」
勢いよく腰を浮かせたのは、仁左衛門だった。
「内府がはや援軍を……。いや、まさか」
「いったい誰なのじゃ、その援軍を率いておるのは」
代わって主殿が訊ねる。
近習は興奮気味に答えた。
「分部殿です。分部光嘉殿が手勢を率いて、駆けつけてくださったのです」
一同、驚きのあまり、しばし言葉を失った。
六
城門のところまで出迎えに現れた信高らの姿を見止めると、分部光嘉は身軽な動きで馬から下り、ゆっくりと歩み寄って、
「おう、信高殿。上野城は捨ててきた。我等もここで戦わせてくれ」
さらりとそう言ってのけた。
「えっ」
仰天する信高に、光嘉はからからと笑いながら告げる。
「あそこは小さすぎる。とてものこと、大軍を相手取って戦える代物ではないわ」
「はあ」
信高は呆気に取られてしまった。あまりにも唐突すぎて、かける言葉が見つからない。まさか、おのれの居城をこうも易々と捨ててくるとは……。
だが、言われてみればたしかに一理あるようにも思える。光嘉の居城上野城は規模が小さく、迫り来る大軍を相手取っての防衛戦には、どう考えても不向きだった。
「あのボロ城は敵方にくれてやる。我等はここで信高殿とともに戦うことにした」
豪快に笑い飛ばす光嘉を、富田家の者たちは呆然と眺めている。
ともに戦うといったところで、果たしてこの城にどれほどの兵力が収まりきれるものか。安濃津城とて所詮は五万石の居城。決して大きな城ではないのである。
光嘉の手勢を呑み込んだ場合、兵糧の蓄えは大丈夫なのか。また、今後の指揮権はいったい誰が持つことになるのか。
一応、信高の持ち城である以上、信高が全権を握ると解釈すべきのなのか。あるいは経歴からいって、ここは光嘉にすべてを委ねるのが妥当か。
いずれにせよ、互いの将士の間に多少の摩擦は生じるのではなかろうか。
さまざまな問題が起こりうるということに、光嘉ほどの男が気づかぬはずはないと心のどこかでは信を置きながら、あまりに突拍子もないこの申し出に対して、さすがにみな困惑した様子を隠しきれていない。ところが――。
「わかりました」
ただひとり嬉々として頷いた男がいる。
「光嘉殿ならば、この上なく心強き援軍でございます。そもそも私が無事にこの城へ帰り着くことができたのは、ひとえに九鬼嘉隆を向こうに回しての光嘉殿の機略の賜物。引きつづきこの安濃津城で、力を合わせて西軍と戦いましょう。いや、むしろこちらからお願いいたします」
信高はそう言って、光嘉に頭を下げた。
「どうか経験浅き我等に力と智恵をお貸しくだされ、光嘉殿」
「おう」
光嘉は満足げに頷くと、拳を高々と突き上げてみせた。
「任せておけ」
不思議なもので、この何気ない――しかし、実際にはじゅうぶんに計算されつくした所作ひとつ、あるいは言葉ひとつで、富田家の将士の心に、
――あるいはこの戦、勝てるのではないか。
そんな気分が芽生えはじめた。これこそまさに「戦国生き残り」の武将たる分部光嘉の面目躍如といったところであろうか。ともかくも修羅場を越えた男だけが持つ、一種特異な力なのかもしれなかった。
「ところで、そちらは――」
信高は、光嘉が傍らに連れている少年を指差してたずねた。
「どなたでございますか」
まだ十五歳にはいくらか間があるというところであろう。あどけない顔つきながらも、表情は引き締まっている。並々ならぬ意志の強さと聡明さを感じさせる少年だ。
「ああ、これか」
光嘉は破願して、
「儂の息子光信じゃよ」
と、面映げに紹介した。
「これ、光信。信高殿にご挨拶をせぬか」
父親に急かされて、少年はぺこりと頭を下げた。その愛らしい仕種に、信高はじめ富田家の将士の頬が緩む。
「光信殿は、おいくつかな」
屈み込んで少年の顔を覗き、優しい声音でたずねたのは主殿である。おのが息子の平七を人質に取られている身だけに、そのさまは見る者の心を打った。
「十歳に相成ります」
少年は健気に声を張る。
「ほう」
想像以上の幼さに、驚きの声が洩れた。
「父上とともに戦われるお覚悟で来られたのだな」
仁左衛門が問いかけると、少年はかすかに声を震わせて、
「はい」
と、頷いた。声音も細高く弱々しい様子ではあるが、どこか芯の通った強い意志を感じさせるその素振りに、一同は目を細めた。
「頼もしいな」
主殿がそう言って、少年の肩を叩く。
「武士の子は強くあらねばならぬ。光信殿、ご立派な覚悟でござるぞ」
「ありがとうございます」
褒められた嬉しさで、少年は頬を真っ赤に紅潮させた。
主殿がこの健気な少年に、人質となっているわが子の姿を重ね合わせていることは明らかだった。信高はそのさまを横目で眺めながら、胸の奥に刺すような痛みを覚えた。
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