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まさぢ食堂
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穀雨の報告から、まさぢ食堂がジビエ料理店だということは知っていた。
そこから適当なイメージを膨らませ、山間部の限界集落という原風景を思い描いた。茅葺屋根の古民家に、薪の匂い。客席には囲炉裏があり、ぶら下がる鉄鍋で猪肉や山で採れた茸を味噌で煮込む。辛口の純米酒が合いそうな、粗野な猟師飯だ。
でも、そのイメージは古臭かったらしい。
まさぢ食堂は県境に位置する田舎ではあるが、限界集落ではない。
標高200メートルほどの低山の中腹に位置するも、20分ほど車を走らせれば海に出る。海沿いには線路が走り、小ぢんまりとした駅は、夏になると海水浴客で賑わうそうだ。海沿いというのはドライブコースにも最適らしく、洒落た飲食店や牡蠣小屋、道の駅も目についた。
都会に比べて不便さは否めないが、スーパーや大型チェーンのドラッグストアがあるので、驚くほど田舎でもない。
栄えているのは海側で、山側は田畑やビニールハウスが目立つ農村部だ。集落がぽつぽつと点在し、田畑に害獣除けネットが張られている。
まさぢ食堂は、そんな集落から外れた場所に、ぽつんと建っている。
依頼人の名は青砥真治郎。
何処から調べ上げて来るのか、穀雨の報告によれば、妻と子供3人の5人家族。祖父の代まで農家だったと言う。
青砥真治郎は、料理人兼猟師だ。地産地消をモットーとし、近隣で害獣指定される鹿と猪、鴨猟解禁の冬には鴨も狩っているそうだ。その猟には妻も同行し、共に猟銃を揮うというから大したものだ。
さらに元農家なので、青砥家は山腹でありながら広い敷地面積を有する。耕運機などの農機具を収容していた名残か、車庫も広々としている。そこに手を加えて壁を作り、獲った獣を捌く作業場としているほどだ。
前庭は80坪ほどある。
門の正面に位置する築山を残し、庭木は処分したのだろう。砂利を敷き詰めた客用の駐車場となっている。
築山の奥に建つ家は、僕がイメージした茅葺屋根ではなかった。
一般的な、特に田舎で見られる立派な2階建ての日本家屋だ。
まさぢ食堂は住宅兼店舗。
1階の座敷が客席となっている。
昔ながらの日本家屋というのは、冠婚葬祭を自宅で執り行っていた為、三間続きの座敷というのが主流だ。床の間や仏間のある南の間、中の間、北の間と、襖を隔てて座敷が連なる間取りとなる。襖を取り払えば広間となり、鴨居の上部には意匠を凝らした欄間がある場合が多い。
まさぢ食堂は、この間取りを生かしている。
玄関を上がって左手。築山に沿った幅広い廊下を進む。廊下の中央には対流型石油ストーブが置かれ、本格的な冬に備えている。
雪見障子を開ければ、そこが客席だ。
床の間と仏間のある南の間。その先は、裏庭を見渡せる北の間。南の間の右手側は中の間。L字の間取りとなっている。
ただ、一般的な座敷の趣ではない。
リフォームがされているのだ。仏間は撤去して客用クローゼットに変わり、中の間と北の間の押し入れを無くし、客用スペースを確保している。残された床の間には、生け花の代わりにメニュー板が飾られる。木製の画架に黒板。丸みを帯びた白い文字が、おすすめメニューを書き記す。
鹿肉のミートパイ、鹿肉の赤ワイン煮、猪肉のカイエット、ジビエのテリーヌ、おすすめ赤ワイン…。
僕が想像した猟師飯を掠りもしない、小洒落たメニューだ。
テーブルは8卓。
畳が傷つかないように、テーブルの下にはラグを敷いている。椅子は丸太を置いただけに見えるが、望海の反応を見るに、人間にはお洒落に映るらしい。
雪見障子を開いたままにしておけば、前庭の築山が正面に臨める。四季折々の植物が愉しめる趣向なのだろう。松に紅葉。躑躅に椿、山茶花。
築山の下には石灯籠が1基。その傍らに木瓜と木賊が植えられている。
今は紅葉が赤く色づき、山茶花が椿に似た花を咲かせている。
片や、北の間の窓から外を見れば、なんとも殺風景だ。
「裏庭も広いのに…勿体ない」
新が独り言ちた。
角隠しのキャスケットの鍔の下で、ぼんやりと裏庭を眺めている。
裏庭は敷地と山の境目が曖昧だからだろう。前庭よりも広く感じる。だからこそ、殺風景なのだ。客席から見えるのだから、花を植えるなり、石灯籠を置きなりすれば良いのに、冬枯れしたような景観をしている。
その視線を右手に向ければ、穀雨曰く「ヤバイ」白壁の土蔵が建つ。
名家にあるような立派な蔵とは違う。倒壊や雨漏りをしない、最低限のメンテナンスで済ませているのだろう。瓦は色褪せ、壁面には烏瓜が繁茂し、オレンジ色の実をぶら下げている。
と、体を引っ張られる感覚に後ろを向けば、望海が僕のジャケットの裾を握り締めている。
顔色が悪い。
「どうした?」と訊けば、「ここは怖いです」と答える。
挙動不審に視線を彷徨わせ、びくびくと体を震わせながら、僕と新の間に体を捻じ込む。
新が心配そうに望海の顔を覗き込んだ。
「何が怖いの?」
「この部屋に入ってから…なんだか見られてるような…そんな感じです。こんな怖いところ初めてかも…」
ぶるり、と望海が大きく身震いする。
「何処から視線を感じるんだ?」
「えっと…」
望海は怯えた視線を背後に走らせ、それから窓の外に向ける。
「あそこ」と、僕たちの正面を指さす。
奥まった、不自然なほどに枯れ草が茂る場所だ。ここからは距離もあるので、敷地外の可能性もある。
次いで、「あそこ」と右手奥の蔵を指さす。
「蔵の方は凄く怖いです」
望海は情けない顔で、僕と新を交互に見上げた。
「2人は感じないんですか?」
新は苦笑いで誤魔化し、僕は「ああ」と頷く。
「僕たちには、その恐怖は拾えない」
「え?」と、望海が首を傾げる。
「恐怖という感情は、人間の防衛本能だ。人間は弱いから、恐怖を感じやすい。恐怖を感じ、逃げる。そうしなければ、生き残れないからな」
「私たちはどちらかと言うと、その恐怖を与える側なんだよ」
新に至っては、食物連鎖の頂点だ。
鬼という種に於いて、恐怖を感じる対象は神くらいだ。新という個で見ても、恐怖のトリガーは多くはない。
僕にしたって新と同じだ。
「やはり望海を連れて来て正解だった」
僕がにやりと笑うと、新は何とも言えない表情で僕を見る。
「別に望海を餌にしてるわけじゃないだろ」
「私は何も言ってないよ」
「だったら、そんな目で見るな。鬼が出るか蛇が出るかは知れないが、ちゃんと守る」
望海の頭に手を置いて言えば、新は「鬼は出ないよ」と唇を尖らせる。
例え諺でも、鬼はNGワードらしい。
望海は不貞腐れてないかと見下ろせば、なぜか擽ったそうに口元を緩めている。
と、北の間にある引き戸が、ススス…、と開いた。「お茶が入りました」と、些か不愛想な声で北の間に入って来たのは、僕たちを出迎えた青砥家長女の青砥真麻だ。
高校生だという娘は、望海よりも大人びて見える。身長は望海より低いし、胸の膨らみもそこそこだが、化粧が上手いのだ。眉を整え、マスカラで睫毛にボリュームを持たせ、自然色に近い口紅を引いている。黒髪をポニーテールに結い、まさぢ食堂の、右胸に鹿の角のデザインをあしらった黒地のエプロンを着ていても、垢抜けた女子大生といった風情だ。
ただ、客商売にあるまじき怪訝な表情が、内面の幼さを露呈させる。
青砥真麻は僕たちを無視するように、南の間に向かう。望海がトートバッグを置いているテーブルに、無言のままお茶を置く。
なんとも洒落た青いグラスだ。形はワイングラスの万能型に似ているが、ワイングラスのように脚が長くもない。そこを持つのではなく、単なるデザインなのだろう。
「ありがとうございます」
ぺこり、と望海が頭を下げた。
先ほどまでのびくつきを抑え込んで、人懐っこい笑顔を浮かべる。
自分の役割は心得ているとばかりに、率先して青砥真麻に歩み寄って行く。
「素敵なお店ですね。なんだか実家に帰った気分」
砕けた口調に、青砥真麻は「はぁ」と適当に相槌を打つ。
「今日が定休日で残念です。私、ジビエを食べたことがないから」
「そうなんですか」
青砥真麻は目を眇め、値踏みするように望海の童顔を見、色気のないパーカーとデニムパンツを見下ろした。足下まで見た後、視線は童顔に不釣り合いな胸に戻る。
着ぶくれなのか、巨乳なのか判断し辛い膨らみだが、顔の作りが子供っぽいので余計デカく見えるのだ。化粧をすれば化ける顔貌も、望海は化粧が好きではない。正確には、化粧が上手くないので、ノーメイクと思えるほど軽く白粉を叩き、リップを塗るくらいしかしない。
そのせいで、顔と体つきのアンバランスさが絶妙なエロスを醸し出す。
同性であり、初対面である青砥真麻さえ頬を染め、自身の体を隠すように胸の前で盆を抱きしめたくらいだ。
挑むような目つきで望海を見据えたところで、鈍感な望海に意味が伝わるはずもない。にこにこと邪気のない笑顔で、「お父さんは時間がかかりそうですか?」と訊かれて終わる。
「今戻ってるそうです」
不躾な視線が、望海の年齢を割り出そうと必死さを帯びている。
大学生に見えないのだから仕方ない。
望海は「じゃあ」と、一歩、青砥真麻のパーソナルスペースに踏み込んだ。
「お父さんが帰って来るまで、少しだけ話を訊いても良いかな?」
お願い、と両手を合わせて拝むと、青砥真麻の目が怯む。
警戒心を漲らせつつ、詰められた距離を開くため、一歩後退した。
だが、そんなことで遠慮するほど、この女は気が利くわけじゃない。
望海は屈託ない笑顔を浮かべている。良く言えば、人懐っこい。悪く言えば、神経が図太そうな笑顔だ。それは受け取り手の心持ち次第だが、どうやら余裕のない青砥真麻は後者として受け取ったようだ。
盆を抱きしめる手に力が籠り、警戒心が1段階上がった。
「訊きたいことって…なんですか?」
「それじゃあ、遠慮なく。鬼が出るって、本当?」
ストレートな質問に、新が「わぉ…」と声を零した。
僕はため息を堪え、青砥真麻に注視する。
青砥真麻は瞠目し、緩やかに目を細め、眉間に皺を刻んだ。鬼の話に食いつくことも、怯えることもない。むしろ、頭は大丈夫かと問いたげな目で望海を見ている。
「パパのお客って……お祓いの人だったんですか?」
「いえ、違います」
望海がきっぱりと頭を振った。
「青砥さんに遺品を引き取ってほしいと依頼されて来たの。その際に、鬼が出ると聞いて。好奇心」
にこり、と望海が肚の据わった笑顔を見せた。
これに青砥真麻が目を逸らす。
「私は見たことがないです。ただ、両親は気味が悪いと怖がってるのは事実です。鬼なのか、不審者なのかは知りませんが、夜中に出るらしいです。門の前に立ってるって聞きました」
青砥真麻が深々とため息を吐いて、ゆっくりと窓の外――築山へと目を向ける。
「あそこ」と、築山の中でひときわ立派な松を指さす。
「あまりにも鬼だ鬼だと言うから、弟…。弟は2人いるんですけど、上の、中2の弟が、松にカメラを括りつけたことがあったんです。不安がる両親には鬼を撮るって説明して、本命は不審者を撮ろうって感じで。不審者が撮れたら、警察にも相談しやすいでしょ?」
そう言って、青砥真麻は口角を歪める。
「2階から撮るよりも、そこの方が門から近い分、多少画像が荒くても大丈夫だろうってことで、試行錯誤したんですよ。一晩中カメラを回すから、夜中に雨が降ったらカメラが壊れるかもだけど、そこは鬼の証明になるからって、パパから許可を貰ったんです」
「それで撮れたの?鬼…」
ごくり、と望海が唾を嚥下する。
長女が頭を振った。
「家庭用の古いホームビデオだし、何度やっても上手くいかなかったんです。映像が荒れるっていうか…ブラックアウトするっていうか。それで弟も飽きちゃって。それっきりです」
「ブラックアウトする時間帯は決まっていたのか?」
2人に歩み寄り、望海の横で足を止める。
青砥真麻を見下ろせば、長女は顔を真っ赤に染めた。それからそわそわと俯き、ぎゅっと盆を抱きしめ、緩慢に頭を振る。
「か、確認してません。たぶん…深夜だとは思うんですけど…」
「どうしてご両親だけが目撃して、あなたたち子供は見ていないと思う?」
「わ…私は鬼とは思ってないですけど、両親が何かを見たのなら、それは部屋が南側……門の方に面した部屋だからだと思います。私の部屋は北側で、弟たちの部屋は東側なんです。あと…外を見るのが好きだからじゃないですか?仕事柄なのか、シカとかの鳴き声が聞こえると外を確認するんです。山の空気が好きだからと、夜でも窓を開けてたりするし…。鬼が出ると言うようになってからは、それもなくなりましたけど。私と弟は部屋に籠って勉強したり、スマホとかゲームで遊んで…一番下の弟は小学生で、9時頃には寝てるから…」
青砥真麻は嘆息して、自嘲気味に口元を歪める。
「一番下の弟は怖がってますが、言ったように私たちは鬼なんて信じてないんです。幽霊だと言われた方がマシです。でも、両親は夜になれば、家中の雨戸を閉めて、玄関に小魚をトゲトゲの植物と一緒に吊るしてるんです。鬼除けだって」
「なるほど」
顎を撫で、新に振り返る。
新は苦々しい顔つきで、頭を振った。
鬼の可能性はないという意味だ。
同意だと、頷き返す。
鬼であれば、門前で立ち止まることはない。人間が見ていると察すれば、躊躇いなく襲う。青砥真麻の言う小魚とトゲトゲの植物は、人間が昔から妄信する鬼除けの鰯と柊だ。鰯の臭いが鬼を寄せ付けず、柊の鋭利な葉が鬼を撃退すると信じられている。
実際に効果はない。
新は鰯の梅マヨネーズ焼きが好きだし、クリスマスには柊を模した葉が刺さるケーキを頬張っている。
「鬼が出る理由を聞いたことは?」
訊けば、青砥真麻は肩を竦めて僕を見上げる。
頬に朱を散らし、恥じらうように伏し目がちになりながらも、抵抗とばかりに唇を尖らせた。
「それを引き取りに来たんでしょう?おじいちゃんのコレクション」
と、北の間の先を指さす。
恐らく蔵の方を指しているのだろう。
「パパからは、それの回収業者が来るって聞いてたんです。違うんですか?」
「そうよ」
なぜなか誇らしげに、望海が胸を張る。
「コレクションというのが遺品なのか?」
「そう。裏にある蔵が、おじいちゃんのコレクションルーム。価値のある骨董品とかなら良いんだろうけど、気味の悪いものばかりだって。一貫性のないガラクタだってパパが言ってました」
「一貫性?」と、僕の横に並んだ新が首を傾げる。
「壷とか、掛け軸とか、昔の玩具とか、切手とか。コレクターって同じカテゴリーのものを集めるじゃないですか?でも、おじいちゃんは違うんです。般若のお面だったり、ひび割れた手鏡だったり、壊れた人形だったり…。そんなガラクタばかりだそうです」
「曖昧な言い方だな」
僕の問いに、青砥真麻は「蔵に入ったことはないんで」とあっさりと答えた。
「おじいちゃんが死んで、試しにとパパが掛け軸を鑑定に出したことがあるんですけど、無銘で…。千円とかそこらの金額でした。飾りたくなるような絵ならまだしも、不気味な幽霊画だったし…何が良くて集めていたのか謎なんです」
「そのコレクションが原因で鬼が出ると思っているのか…」
僕の独り言に、青砥真麻が「そうです」と頷いた。
それにしても、”おじいちゃんのコレクション”ルームとは、なかなか面白い響きがある。
他に何か面白そうなコレクションを見たのか聞こうとしたところで、車のエンジン音が聞こえた。タイヤが砂利を踏み、玄関前まで来るとエンジンが停止した。
「パパかも」
長女がくるりと踵を返し、ぱたぱたと座敷を出て行く。
窓の外を見れば、白い軽トラックから40代前半ほどの男が降りて来るところだった。
「依頼人かな?」と、望海が首を傾げる。
「そうだろうな」
車から降りた男は、浅黒い肌に短く刈った髪の角ばった顔立ちをしている。エラは張っているが、決して醜男ではない。黒いTシャツ越しからも見て取れる筋肉と相俟って、精悍さがある。
「武闘派って見た目の人間だね」
ぼそり、と新が呟く。
「猟師だからじゃないですか?猟師って、銃を手に山の中を駆け回ってるんですよね?ホームページだと、鹿や猪を解体して、皮とかお肉を他所のお店にも卸してるって紹介されてました。しかも麓に畑もあって、畑仕事もしてるそうです。魚介以外は殆ど青砥さんが収穫してるみたいですよ」
「ホームページを確認したのか?」
「当然です」
またもや望海が胸を張る。
玄関前では、青砥真麻が男と何やら言葉を交わしている。2人の身振り手振りから、やはり依頼人の青砥真治郎で間違いなさそうだ。
大方、僕たちのことを言っているのだろう。
その通りだと言わんばかりに、青砥真麻は不信感いっぱいの顔で僕たちを指さした。
「惟親くんの顔でも絆されなかったね」
揶揄うように新が笑う。
「もう少し物腰柔らかければ、絆されたんじゃないですか?頬を赤らめてたし。大神さん、空気が刺々しいから、プラマイゼロなんですよね。むしろマイナスかも」
「確かにマイナスだね」
好き勝手に言って笑う2人は無視する。
この手の依頼は、どうしても家族の結びつきを試される。神妙な面持ちで話し込む父娘を見るに、この依頼は両親の独断だったのだろう。
娘の方は胡散臭いと苦言を呈し、父親の方は頼みの綱なんだと拝み倒しているような構図だ。そう見えているのは、新も同じらしい。
「言い合ってるね」
「反故にされなければいいが」
「そんなことってあるんですか?」
望海が丸々と目を瞠って僕を見上げる。
それに答えたのは新だ。
「珍しくはないよ。特に憑き物は怪異と結びつくことが多いからね。依頼人は怪異を経験し、切羽詰まって連絡してくるけど、依頼人以外の家族が怪異を経験していない場合は、家族間に亀裂が…というケースをよく見るよ。霊感商法詐欺で高額請求とか、怪しい宗教と結び付けて考えちゃうんだろうね。被害に遭ってない家族にしてみれば、憑き物より僕らの方が危険なんだよ」
あははは、と新はキャスケット越しに頭を掻く。
「結局、人間というのは、目に見えるものが全てだ。例え同居家族が苦しもうが、自分が無事なら知ったことではないんだろ」
僕が言えば、「そんなことありませんっ」と望海が怒る。
頬を膨らませ、目尻を吊り上げるも、どう見てもハムスターかリスだ。新も同意なのだろう。くすくすと笑いながら、膨らんだ頬を突いている。
「真剣に怒ってるんですけど」
望海がぎろり、と新を睨みつければ、新は「ご、ごめん」と手を離した。
鬼だというのに情けない。
「お前は、家族に恵まれているんだろうな。こういう仕事をしていると、お前が否定するような家族は珍しくないんだ」
僕が言うと、望海はしょんぼりと眉尻を下げた。
まぁ、今回は一家の大黒柱が依頼人だ。反故にされる可能性はゼロに近い。
僕たちが見ている中で、父娘の討論は終わったらしい。娘は不貞腐れた顔で玄関に駆け込むと、真っすぐ2階へと駆け上がって行く。父親の方は苦く笑い、僕の方に目を向けると、慌てて玄関に飛び込んだ。
すぐに、「お待たせしました!」と声が飛んで来る。
ぱたぱたとスリッパを鳴らし、青砥真治郎が駆けて来た。
肩に提げたタオルで額の汗を拭い、「申し訳ありません」と深々と頭を下げる。
「今日いらっしゃると分かっていたのに、急遽、鹿肉の注文が入ってしまい…。妻も子供の……息子が野球をやっているんですが、それの試合の手伝いに行っているんです」
本当に申し訳ない、と青砥真治郎が再び頭を下げる。
「構いませんよ」
彼から見れば、僕など若造に見えるだろうが、素っ気ない返答にも気分を害した様子はない。
彼の気質が温和なのか、はたまた身に沁みついた客商売根性なのかは分からない。
「紹介が遅れました。青砥真治郎です」
「僕は大神惟親。こっちは鬼頭新です。で、うちのアルバイト。助手の日向望海です」
金銭的な意味での給金はないので、正確にはアルバイトではないのだろう。
それでも望海は「えへへ」と頬に手を当て、気恥ずかしそうに笑っている。
青砥真治郎は望海に微笑み、次いで新を見上げて「大きい」と瞠目しながらも、「よろしくお願いします」と頭を下げた。
「早速、お話を伺っても?」
「はい。お願いします」
お茶が置かれたテーブルにつく。
僕と新が隣り合わせで、僕の正面に青砥真治郎。その隣に望海が座る。
丸太の椅子に背凭れはないが、座り心地は悪くない。手作りなのだろう。丸太の直径に合わせた座布団が、ストレスなく尻にフィットする。
望海がグラスに口を付け、「ミントウォーター」と目を輝かせた。
その表情に和むように、青砥真治郎が口を開いた。
「大神さんに依頼したのは、遺品の引き取りなのですが、ひとつ問題があるんです。ご連絡差し上げた通り、その遺品の所在が分からないんです。それが何なのかも分かりません」
「何か分からないのに引き取って欲しいのですか?」
僕の問いに、青砥真治郎は情けない顔で首を窄める。
「鬼が来るとお伝えしたと思うのですが……その鬼が、その何かを求めているんです」
冗談ではないのだろう。
俯き、膝の上で握った拳を震わせている。
「頭がおかしいと思われるかもしれませんが…」
「いいえ。頭がおかしいと思っていれば、依頼を承諾していません」
僕が頭を振れば、青砥真治郎はほっと表情を緩めた。
鬼の件は、青砥真治郎にとって最大の難関だったのだろう。
「その鬼って、何かをくれ~とか言うんですか?」
望海が首を傾げて訊けば、青砥真治郎が眉根を寄せて考え込んだ。
「それが…よく分からないんです。鬼が来て、返せと言うだけで…。何かを言っているとは思うのですが、よく聞き取れない。恐ろしくて、耳を澄ますこともできず…結果、何を返せばいいのか分からない。鬼が欲しがるものと言えば、父の遺品くらいしか思い当たる節はなくて……」
「真麻ちゃんが言ってました。”おじいちゃんのコレクション”ですね」
「ええ」と、青砥真治郎は口元を歪めるように微笑んだ。
「これを機に、全ての遺品を処分しようと思い立ったのですが、鬼が来るようなものを、廃品回収に出すのも怖い。かと言って、お寺に持って行くにも、量がありすぎるので断られるかもしれない…。色々と調べて、”憑き物回収賜ります”という《探し〼》という大神さんの回収所に辿り着いたというわけです」
《探し〼》というのは、穀雨が面白半分で付けたものだ。
僕は会社として起ち上げたつもりはない。必要な収入源を得る為に、暇潰しを兼ねて気楽に始めたものだ。雑多な作業を穀雨に任せ、蓋を開ければ《探し〼》という屋号が付いていた。
「最初、ホームページを見つけた時は、曰く付きの物を回収してくれる会社とは分からなくて…。社名と業務内容がちぐはぐですよね?よくよく見て、曰く付きの物を回収してくれる会社だと分かったんですが…。娘は依頼に反対しているんです」
「娘さんとお話をさせて頂きました。印象として、我々に宗教的な胡散臭さを抱いているようです」
僕が苦笑すると、青砥真治郎はバツの悪そうな顔をする。
「失礼なことを言っていたら申し訳ないです…」
「いえ、大丈夫ですよ。うちのホームページも親切丁寧な作りとは言えませんから、それは仕方のないことです」
検索エンジンに引っかからない地味なホームページは、派手さはなく、安心感を与えるような作りでもない。白い背景の中央に屋号。屋号の下にメールアドレスと携帯番号が掲載されている。
スクロールすれば、仕事案内と料金設定が出て来るが、こちらの基本情報はない。
この屋号にしても、人間ではなく幽世側にアピールしている。その為、”回収”ではなく”探す”としたらしい。
依頼に関して、割合で言えば幽世側と人間では半々だ。
「安心材料になるかは分かりませんが、うちは宗教団体とは一切関係ないので、お布施を請求することも、札を売りつけることもありません。逆に、お祓いをしてほしい、札がほしいという要求は受け付けていません。それらは神社仏閣でお願いして下さい」
「お祓いはしてくれないんですね」
「あくまで憑き物回収業なんです」
「そうでした」と、青砥真治郎は頭を掻く。
「とは言え、こちらも商売です。神社仏閣でお焚き上げを受けるよりも、料金設定が2割ほど割高になっています。その差額は何かといえば、アフターケア……つまり、保証期間が設定されているんです。その為、神社仏閣より我が社を選んでくれるお客様は多いんですよ」
にこりと微笑めば、望海が目を丸めて身震いした。
新は素知らぬ顔で、ミントウォーターを飲んでいる。
「アフターケアというのは?」
「怪異の対処です。憑き物には怪異が発生する事案が散見します。青砥さんに郵送して頂いた契約書類を確認しました。青砥さんは事象項目に”鬼が出る”と記入していましたね。実際に鬼かどうかはさておき、毎夜来る鬼が、憑き物――遺品のせいで起こる怪異となります。ですが、我々が全ての遺品を回収し終えても鬼が出るとしたらどうしますか?」
「え?」
青砥真治郎は、それを考慮していなかったようだ。
目を丸めて、おどおどと視線を泳がせる。
「憑き物回収後10日。契約書に記載された事象が続いた場合、アフターケアとして我々が無料で対処するというものです」
「そうなんですか!」
「ただし、契約書に記載されていない事象はアフターケアの対象外です」
僕の説明に、青砥真治郎は真顔で頷く。
望海に目配せすれば、望海はトートバックから茶封筒を取り出した。そこから契約書を引き抜き、青砥真治郎の前に置く。
契約者の名前と住所、依頼内容、事象項目の記入は済まされている。
あとは今日の日付と、契約者でもある青砥真治郎の承認サインと拇印で契約完了だ。
「最終確認です。このまま契約を進めて大丈夫であれば、契約日に本日の日付とサイン。その横に拇印をお願いします」
望海が慌ててボールペンと朱肉を置く。
「以上で正式契約となります」
じっと青砥真治郎の顔を見据える。
青砥真治郎はペンを取り、躊躇いなく日付と名前を書いた。次いで朱肉を手許に手繰り寄せ、強張った顔で唇を噛みしめる。真剣な双眸が、少しの焦りを見せながら、改めて契約書の内容を再確認している。
特に秘密保持と契約違反時の賠償責任、契約解除条件の欄は念入りだ。
「あ…あの」
「何か疑問でもありましたか?」
「疑問というより質問なのですが、追加料金が発生する場合などはありますか?」
「場合によります。基本料に含まれていない、交通費以外の出張費が発生することがあります。日帰りでは難しい遠方であったり、回収業務に日数を要する場合などに、ホテル滞在費が計上されます。危険手当などは発生しません」
「あ」と、新が声を上げた。
僕たちの目が新に集まると、新は「1つ」と人差し指を立てて青砥真治郎を見る。
「青砥さんのおじいさんのコレクションの数が不明なので、コレクション全てを処分したいとなった場合、車に入らない時はレンタカーを手配することになるんです。その費用は追加料金として、青砥さんにお支払い頂くことになります」
「はい」
青砥真治郎が何度も頷き、「大丈夫です」と納得する。
「追加費用が出て来ても、今のようなケースが殆どです。また、高額な追加費用が出る場合は、新たな本契約として契約書が必要になります。例えば、契約書に記載されていない、遺品とは別の回収物が出て来たといったケースです」
「なるほど。分かりました」
金銭面の不安は拭えたのか、安堵に口元が綻んでいる。
多くの人間が着目する部分だから不思議はない。案の定、青砥真治郎は朱肉に親指を付けた。
それを契約書に押せば契約となるのに、「青砥さん、鬼だけですか?」と望海が口を挟んだ。
思わず望海を睨めつける。
僕に睨まれて驚く望海に、新が苦笑する。青砥真治郎は拇印を押そうとした手を引っ込め、唸り声をあげて事象項目を見据えた。
この事象の欄は、言ってしまえばサービスだ。
依頼人が忌み物を手放してくれる確立を上げるためにと、穀雨が考えた撒き餌のようなものだ。多くの人間が忌み物を手放したがるが、中にはそうでもない人間もいる。恐怖よりも、転売時の儲けの計算に入るのだ。それを阻止する意味でも、怪異の存在を再確認してもらうことを前提にした欄だ。
青砥真治郎のように、憑き物を手放す意思のある者には極力、事象項目の欄に触れないようにしている。
面倒が増えるからだ。
なのに、この莫迦は…。
ぎりぎりと歯軋りしていると、新が苦笑しながら「まぁまぁ」と僕の肩を叩く。
「あの…追加しても大丈夫ですか?」
青砥真治郎が僕を見ている。こうなれば、愛想笑いで「構いませんよ」と応じるしかない。
責められていることだけを理解した望海が、しょんぼりと眉尻を下げている。その隣で青砥真治郎は、ボールペンを手に「火が怖い」と付け足した。
意味が分からない。
眉宇を顰める僕たちを気にも留めず、青砥真治郎は拇印を押した。
そこから適当なイメージを膨らませ、山間部の限界集落という原風景を思い描いた。茅葺屋根の古民家に、薪の匂い。客席には囲炉裏があり、ぶら下がる鉄鍋で猪肉や山で採れた茸を味噌で煮込む。辛口の純米酒が合いそうな、粗野な猟師飯だ。
でも、そのイメージは古臭かったらしい。
まさぢ食堂は県境に位置する田舎ではあるが、限界集落ではない。
標高200メートルほどの低山の中腹に位置するも、20分ほど車を走らせれば海に出る。海沿いには線路が走り、小ぢんまりとした駅は、夏になると海水浴客で賑わうそうだ。海沿いというのはドライブコースにも最適らしく、洒落た飲食店や牡蠣小屋、道の駅も目についた。
都会に比べて不便さは否めないが、スーパーや大型チェーンのドラッグストアがあるので、驚くほど田舎でもない。
栄えているのは海側で、山側は田畑やビニールハウスが目立つ農村部だ。集落がぽつぽつと点在し、田畑に害獣除けネットが張られている。
まさぢ食堂は、そんな集落から外れた場所に、ぽつんと建っている。
依頼人の名は青砥真治郎。
何処から調べ上げて来るのか、穀雨の報告によれば、妻と子供3人の5人家族。祖父の代まで農家だったと言う。
青砥真治郎は、料理人兼猟師だ。地産地消をモットーとし、近隣で害獣指定される鹿と猪、鴨猟解禁の冬には鴨も狩っているそうだ。その猟には妻も同行し、共に猟銃を揮うというから大したものだ。
さらに元農家なので、青砥家は山腹でありながら広い敷地面積を有する。耕運機などの農機具を収容していた名残か、車庫も広々としている。そこに手を加えて壁を作り、獲った獣を捌く作業場としているほどだ。
前庭は80坪ほどある。
門の正面に位置する築山を残し、庭木は処分したのだろう。砂利を敷き詰めた客用の駐車場となっている。
築山の奥に建つ家は、僕がイメージした茅葺屋根ではなかった。
一般的な、特に田舎で見られる立派な2階建ての日本家屋だ。
まさぢ食堂は住宅兼店舗。
1階の座敷が客席となっている。
昔ながらの日本家屋というのは、冠婚葬祭を自宅で執り行っていた為、三間続きの座敷というのが主流だ。床の間や仏間のある南の間、中の間、北の間と、襖を隔てて座敷が連なる間取りとなる。襖を取り払えば広間となり、鴨居の上部には意匠を凝らした欄間がある場合が多い。
まさぢ食堂は、この間取りを生かしている。
玄関を上がって左手。築山に沿った幅広い廊下を進む。廊下の中央には対流型石油ストーブが置かれ、本格的な冬に備えている。
雪見障子を開ければ、そこが客席だ。
床の間と仏間のある南の間。その先は、裏庭を見渡せる北の間。南の間の右手側は中の間。L字の間取りとなっている。
ただ、一般的な座敷の趣ではない。
リフォームがされているのだ。仏間は撤去して客用クローゼットに変わり、中の間と北の間の押し入れを無くし、客用スペースを確保している。残された床の間には、生け花の代わりにメニュー板が飾られる。木製の画架に黒板。丸みを帯びた白い文字が、おすすめメニューを書き記す。
鹿肉のミートパイ、鹿肉の赤ワイン煮、猪肉のカイエット、ジビエのテリーヌ、おすすめ赤ワイン…。
僕が想像した猟師飯を掠りもしない、小洒落たメニューだ。
テーブルは8卓。
畳が傷つかないように、テーブルの下にはラグを敷いている。椅子は丸太を置いただけに見えるが、望海の反応を見るに、人間にはお洒落に映るらしい。
雪見障子を開いたままにしておけば、前庭の築山が正面に臨める。四季折々の植物が愉しめる趣向なのだろう。松に紅葉。躑躅に椿、山茶花。
築山の下には石灯籠が1基。その傍らに木瓜と木賊が植えられている。
今は紅葉が赤く色づき、山茶花が椿に似た花を咲かせている。
片や、北の間の窓から外を見れば、なんとも殺風景だ。
「裏庭も広いのに…勿体ない」
新が独り言ちた。
角隠しのキャスケットの鍔の下で、ぼんやりと裏庭を眺めている。
裏庭は敷地と山の境目が曖昧だからだろう。前庭よりも広く感じる。だからこそ、殺風景なのだ。客席から見えるのだから、花を植えるなり、石灯籠を置きなりすれば良いのに、冬枯れしたような景観をしている。
その視線を右手に向ければ、穀雨曰く「ヤバイ」白壁の土蔵が建つ。
名家にあるような立派な蔵とは違う。倒壊や雨漏りをしない、最低限のメンテナンスで済ませているのだろう。瓦は色褪せ、壁面には烏瓜が繁茂し、オレンジ色の実をぶら下げている。
と、体を引っ張られる感覚に後ろを向けば、望海が僕のジャケットの裾を握り締めている。
顔色が悪い。
「どうした?」と訊けば、「ここは怖いです」と答える。
挙動不審に視線を彷徨わせ、びくびくと体を震わせながら、僕と新の間に体を捻じ込む。
新が心配そうに望海の顔を覗き込んだ。
「何が怖いの?」
「この部屋に入ってから…なんだか見られてるような…そんな感じです。こんな怖いところ初めてかも…」
ぶるり、と望海が大きく身震いする。
「何処から視線を感じるんだ?」
「えっと…」
望海は怯えた視線を背後に走らせ、それから窓の外に向ける。
「あそこ」と、僕たちの正面を指さす。
奥まった、不自然なほどに枯れ草が茂る場所だ。ここからは距離もあるので、敷地外の可能性もある。
次いで、「あそこ」と右手奥の蔵を指さす。
「蔵の方は凄く怖いです」
望海は情けない顔で、僕と新を交互に見上げた。
「2人は感じないんですか?」
新は苦笑いで誤魔化し、僕は「ああ」と頷く。
「僕たちには、その恐怖は拾えない」
「え?」と、望海が首を傾げる。
「恐怖という感情は、人間の防衛本能だ。人間は弱いから、恐怖を感じやすい。恐怖を感じ、逃げる。そうしなければ、生き残れないからな」
「私たちはどちらかと言うと、その恐怖を与える側なんだよ」
新に至っては、食物連鎖の頂点だ。
鬼という種に於いて、恐怖を感じる対象は神くらいだ。新という個で見ても、恐怖のトリガーは多くはない。
僕にしたって新と同じだ。
「やはり望海を連れて来て正解だった」
僕がにやりと笑うと、新は何とも言えない表情で僕を見る。
「別に望海を餌にしてるわけじゃないだろ」
「私は何も言ってないよ」
「だったら、そんな目で見るな。鬼が出るか蛇が出るかは知れないが、ちゃんと守る」
望海の頭に手を置いて言えば、新は「鬼は出ないよ」と唇を尖らせる。
例え諺でも、鬼はNGワードらしい。
望海は不貞腐れてないかと見下ろせば、なぜか擽ったそうに口元を緩めている。
と、北の間にある引き戸が、ススス…、と開いた。「お茶が入りました」と、些か不愛想な声で北の間に入って来たのは、僕たちを出迎えた青砥家長女の青砥真麻だ。
高校生だという娘は、望海よりも大人びて見える。身長は望海より低いし、胸の膨らみもそこそこだが、化粧が上手いのだ。眉を整え、マスカラで睫毛にボリュームを持たせ、自然色に近い口紅を引いている。黒髪をポニーテールに結い、まさぢ食堂の、右胸に鹿の角のデザインをあしらった黒地のエプロンを着ていても、垢抜けた女子大生といった風情だ。
ただ、客商売にあるまじき怪訝な表情が、内面の幼さを露呈させる。
青砥真麻は僕たちを無視するように、南の間に向かう。望海がトートバッグを置いているテーブルに、無言のままお茶を置く。
なんとも洒落た青いグラスだ。形はワイングラスの万能型に似ているが、ワイングラスのように脚が長くもない。そこを持つのではなく、単なるデザインなのだろう。
「ありがとうございます」
ぺこり、と望海が頭を下げた。
先ほどまでのびくつきを抑え込んで、人懐っこい笑顔を浮かべる。
自分の役割は心得ているとばかりに、率先して青砥真麻に歩み寄って行く。
「素敵なお店ですね。なんだか実家に帰った気分」
砕けた口調に、青砥真麻は「はぁ」と適当に相槌を打つ。
「今日が定休日で残念です。私、ジビエを食べたことがないから」
「そうなんですか」
青砥真麻は目を眇め、値踏みするように望海の童顔を見、色気のないパーカーとデニムパンツを見下ろした。足下まで見た後、視線は童顔に不釣り合いな胸に戻る。
着ぶくれなのか、巨乳なのか判断し辛い膨らみだが、顔の作りが子供っぽいので余計デカく見えるのだ。化粧をすれば化ける顔貌も、望海は化粧が好きではない。正確には、化粧が上手くないので、ノーメイクと思えるほど軽く白粉を叩き、リップを塗るくらいしかしない。
そのせいで、顔と体つきのアンバランスさが絶妙なエロスを醸し出す。
同性であり、初対面である青砥真麻さえ頬を染め、自身の体を隠すように胸の前で盆を抱きしめたくらいだ。
挑むような目つきで望海を見据えたところで、鈍感な望海に意味が伝わるはずもない。にこにこと邪気のない笑顔で、「お父さんは時間がかかりそうですか?」と訊かれて終わる。
「今戻ってるそうです」
不躾な視線が、望海の年齢を割り出そうと必死さを帯びている。
大学生に見えないのだから仕方ない。
望海は「じゃあ」と、一歩、青砥真麻のパーソナルスペースに踏み込んだ。
「お父さんが帰って来るまで、少しだけ話を訊いても良いかな?」
お願い、と両手を合わせて拝むと、青砥真麻の目が怯む。
警戒心を漲らせつつ、詰められた距離を開くため、一歩後退した。
だが、そんなことで遠慮するほど、この女は気が利くわけじゃない。
望海は屈託ない笑顔を浮かべている。良く言えば、人懐っこい。悪く言えば、神経が図太そうな笑顔だ。それは受け取り手の心持ち次第だが、どうやら余裕のない青砥真麻は後者として受け取ったようだ。
盆を抱きしめる手に力が籠り、警戒心が1段階上がった。
「訊きたいことって…なんですか?」
「それじゃあ、遠慮なく。鬼が出るって、本当?」
ストレートな質問に、新が「わぉ…」と声を零した。
僕はため息を堪え、青砥真麻に注視する。
青砥真麻は瞠目し、緩やかに目を細め、眉間に皺を刻んだ。鬼の話に食いつくことも、怯えることもない。むしろ、頭は大丈夫かと問いたげな目で望海を見ている。
「パパのお客って……お祓いの人だったんですか?」
「いえ、違います」
望海がきっぱりと頭を振った。
「青砥さんに遺品を引き取ってほしいと依頼されて来たの。その際に、鬼が出ると聞いて。好奇心」
にこり、と望海が肚の据わった笑顔を見せた。
これに青砥真麻が目を逸らす。
「私は見たことがないです。ただ、両親は気味が悪いと怖がってるのは事実です。鬼なのか、不審者なのかは知りませんが、夜中に出るらしいです。門の前に立ってるって聞きました」
青砥真麻が深々とため息を吐いて、ゆっくりと窓の外――築山へと目を向ける。
「あそこ」と、築山の中でひときわ立派な松を指さす。
「あまりにも鬼だ鬼だと言うから、弟…。弟は2人いるんですけど、上の、中2の弟が、松にカメラを括りつけたことがあったんです。不安がる両親には鬼を撮るって説明して、本命は不審者を撮ろうって感じで。不審者が撮れたら、警察にも相談しやすいでしょ?」
そう言って、青砥真麻は口角を歪める。
「2階から撮るよりも、そこの方が門から近い分、多少画像が荒くても大丈夫だろうってことで、試行錯誤したんですよ。一晩中カメラを回すから、夜中に雨が降ったらカメラが壊れるかもだけど、そこは鬼の証明になるからって、パパから許可を貰ったんです」
「それで撮れたの?鬼…」
ごくり、と望海が唾を嚥下する。
長女が頭を振った。
「家庭用の古いホームビデオだし、何度やっても上手くいかなかったんです。映像が荒れるっていうか…ブラックアウトするっていうか。それで弟も飽きちゃって。それっきりです」
「ブラックアウトする時間帯は決まっていたのか?」
2人に歩み寄り、望海の横で足を止める。
青砥真麻を見下ろせば、長女は顔を真っ赤に染めた。それからそわそわと俯き、ぎゅっと盆を抱きしめ、緩慢に頭を振る。
「か、確認してません。たぶん…深夜だとは思うんですけど…」
「どうしてご両親だけが目撃して、あなたたち子供は見ていないと思う?」
「わ…私は鬼とは思ってないですけど、両親が何かを見たのなら、それは部屋が南側……門の方に面した部屋だからだと思います。私の部屋は北側で、弟たちの部屋は東側なんです。あと…外を見るのが好きだからじゃないですか?仕事柄なのか、シカとかの鳴き声が聞こえると外を確認するんです。山の空気が好きだからと、夜でも窓を開けてたりするし…。鬼が出ると言うようになってからは、それもなくなりましたけど。私と弟は部屋に籠って勉強したり、スマホとかゲームで遊んで…一番下の弟は小学生で、9時頃には寝てるから…」
青砥真麻は嘆息して、自嘲気味に口元を歪める。
「一番下の弟は怖がってますが、言ったように私たちは鬼なんて信じてないんです。幽霊だと言われた方がマシです。でも、両親は夜になれば、家中の雨戸を閉めて、玄関に小魚をトゲトゲの植物と一緒に吊るしてるんです。鬼除けだって」
「なるほど」
顎を撫で、新に振り返る。
新は苦々しい顔つきで、頭を振った。
鬼の可能性はないという意味だ。
同意だと、頷き返す。
鬼であれば、門前で立ち止まることはない。人間が見ていると察すれば、躊躇いなく襲う。青砥真麻の言う小魚とトゲトゲの植物は、人間が昔から妄信する鬼除けの鰯と柊だ。鰯の臭いが鬼を寄せ付けず、柊の鋭利な葉が鬼を撃退すると信じられている。
実際に効果はない。
新は鰯の梅マヨネーズ焼きが好きだし、クリスマスには柊を模した葉が刺さるケーキを頬張っている。
「鬼が出る理由を聞いたことは?」
訊けば、青砥真麻は肩を竦めて僕を見上げる。
頬に朱を散らし、恥じらうように伏し目がちになりながらも、抵抗とばかりに唇を尖らせた。
「それを引き取りに来たんでしょう?おじいちゃんのコレクション」
と、北の間の先を指さす。
恐らく蔵の方を指しているのだろう。
「パパからは、それの回収業者が来るって聞いてたんです。違うんですか?」
「そうよ」
なぜなか誇らしげに、望海が胸を張る。
「コレクションというのが遺品なのか?」
「そう。裏にある蔵が、おじいちゃんのコレクションルーム。価値のある骨董品とかなら良いんだろうけど、気味の悪いものばかりだって。一貫性のないガラクタだってパパが言ってました」
「一貫性?」と、僕の横に並んだ新が首を傾げる。
「壷とか、掛け軸とか、昔の玩具とか、切手とか。コレクターって同じカテゴリーのものを集めるじゃないですか?でも、おじいちゃんは違うんです。般若のお面だったり、ひび割れた手鏡だったり、壊れた人形だったり…。そんなガラクタばかりだそうです」
「曖昧な言い方だな」
僕の問いに、青砥真麻は「蔵に入ったことはないんで」とあっさりと答えた。
「おじいちゃんが死んで、試しにとパパが掛け軸を鑑定に出したことがあるんですけど、無銘で…。千円とかそこらの金額でした。飾りたくなるような絵ならまだしも、不気味な幽霊画だったし…何が良くて集めていたのか謎なんです」
「そのコレクションが原因で鬼が出ると思っているのか…」
僕の独り言に、青砥真麻が「そうです」と頷いた。
それにしても、”おじいちゃんのコレクション”ルームとは、なかなか面白い響きがある。
他に何か面白そうなコレクションを見たのか聞こうとしたところで、車のエンジン音が聞こえた。タイヤが砂利を踏み、玄関前まで来るとエンジンが停止した。
「パパかも」
長女がくるりと踵を返し、ぱたぱたと座敷を出て行く。
窓の外を見れば、白い軽トラックから40代前半ほどの男が降りて来るところだった。
「依頼人かな?」と、望海が首を傾げる。
「そうだろうな」
車から降りた男は、浅黒い肌に短く刈った髪の角ばった顔立ちをしている。エラは張っているが、決して醜男ではない。黒いTシャツ越しからも見て取れる筋肉と相俟って、精悍さがある。
「武闘派って見た目の人間だね」
ぼそり、と新が呟く。
「猟師だからじゃないですか?猟師って、銃を手に山の中を駆け回ってるんですよね?ホームページだと、鹿や猪を解体して、皮とかお肉を他所のお店にも卸してるって紹介されてました。しかも麓に畑もあって、畑仕事もしてるそうです。魚介以外は殆ど青砥さんが収穫してるみたいですよ」
「ホームページを確認したのか?」
「当然です」
またもや望海が胸を張る。
玄関前では、青砥真麻が男と何やら言葉を交わしている。2人の身振り手振りから、やはり依頼人の青砥真治郎で間違いなさそうだ。
大方、僕たちのことを言っているのだろう。
その通りだと言わんばかりに、青砥真麻は不信感いっぱいの顔で僕たちを指さした。
「惟親くんの顔でも絆されなかったね」
揶揄うように新が笑う。
「もう少し物腰柔らかければ、絆されたんじゃないですか?頬を赤らめてたし。大神さん、空気が刺々しいから、プラマイゼロなんですよね。むしろマイナスかも」
「確かにマイナスだね」
好き勝手に言って笑う2人は無視する。
この手の依頼は、どうしても家族の結びつきを試される。神妙な面持ちで話し込む父娘を見るに、この依頼は両親の独断だったのだろう。
娘の方は胡散臭いと苦言を呈し、父親の方は頼みの綱なんだと拝み倒しているような構図だ。そう見えているのは、新も同じらしい。
「言い合ってるね」
「反故にされなければいいが」
「そんなことってあるんですか?」
望海が丸々と目を瞠って僕を見上げる。
それに答えたのは新だ。
「珍しくはないよ。特に憑き物は怪異と結びつくことが多いからね。依頼人は怪異を経験し、切羽詰まって連絡してくるけど、依頼人以外の家族が怪異を経験していない場合は、家族間に亀裂が…というケースをよく見るよ。霊感商法詐欺で高額請求とか、怪しい宗教と結び付けて考えちゃうんだろうね。被害に遭ってない家族にしてみれば、憑き物より僕らの方が危険なんだよ」
あははは、と新はキャスケット越しに頭を掻く。
「結局、人間というのは、目に見えるものが全てだ。例え同居家族が苦しもうが、自分が無事なら知ったことではないんだろ」
僕が言えば、「そんなことありませんっ」と望海が怒る。
頬を膨らませ、目尻を吊り上げるも、どう見てもハムスターかリスだ。新も同意なのだろう。くすくすと笑いながら、膨らんだ頬を突いている。
「真剣に怒ってるんですけど」
望海がぎろり、と新を睨みつければ、新は「ご、ごめん」と手を離した。
鬼だというのに情けない。
「お前は、家族に恵まれているんだろうな。こういう仕事をしていると、お前が否定するような家族は珍しくないんだ」
僕が言うと、望海はしょんぼりと眉尻を下げた。
まぁ、今回は一家の大黒柱が依頼人だ。反故にされる可能性はゼロに近い。
僕たちが見ている中で、父娘の討論は終わったらしい。娘は不貞腐れた顔で玄関に駆け込むと、真っすぐ2階へと駆け上がって行く。父親の方は苦く笑い、僕の方に目を向けると、慌てて玄関に飛び込んだ。
すぐに、「お待たせしました!」と声が飛んで来る。
ぱたぱたとスリッパを鳴らし、青砥真治郎が駆けて来た。
肩に提げたタオルで額の汗を拭い、「申し訳ありません」と深々と頭を下げる。
「今日いらっしゃると分かっていたのに、急遽、鹿肉の注文が入ってしまい…。妻も子供の……息子が野球をやっているんですが、それの試合の手伝いに行っているんです」
本当に申し訳ない、と青砥真治郎が再び頭を下げる。
「構いませんよ」
彼から見れば、僕など若造に見えるだろうが、素っ気ない返答にも気分を害した様子はない。
彼の気質が温和なのか、はたまた身に沁みついた客商売根性なのかは分からない。
「紹介が遅れました。青砥真治郎です」
「僕は大神惟親。こっちは鬼頭新です。で、うちのアルバイト。助手の日向望海です」
金銭的な意味での給金はないので、正確にはアルバイトではないのだろう。
それでも望海は「えへへ」と頬に手を当て、気恥ずかしそうに笑っている。
青砥真治郎は望海に微笑み、次いで新を見上げて「大きい」と瞠目しながらも、「よろしくお願いします」と頭を下げた。
「早速、お話を伺っても?」
「はい。お願いします」
お茶が置かれたテーブルにつく。
僕と新が隣り合わせで、僕の正面に青砥真治郎。その隣に望海が座る。
丸太の椅子に背凭れはないが、座り心地は悪くない。手作りなのだろう。丸太の直径に合わせた座布団が、ストレスなく尻にフィットする。
望海がグラスに口を付け、「ミントウォーター」と目を輝かせた。
その表情に和むように、青砥真治郎が口を開いた。
「大神さんに依頼したのは、遺品の引き取りなのですが、ひとつ問題があるんです。ご連絡差し上げた通り、その遺品の所在が分からないんです。それが何なのかも分かりません」
「何か分からないのに引き取って欲しいのですか?」
僕の問いに、青砥真治郎は情けない顔で首を窄める。
「鬼が来るとお伝えしたと思うのですが……その鬼が、その何かを求めているんです」
冗談ではないのだろう。
俯き、膝の上で握った拳を震わせている。
「頭がおかしいと思われるかもしれませんが…」
「いいえ。頭がおかしいと思っていれば、依頼を承諾していません」
僕が頭を振れば、青砥真治郎はほっと表情を緩めた。
鬼の件は、青砥真治郎にとって最大の難関だったのだろう。
「その鬼って、何かをくれ~とか言うんですか?」
望海が首を傾げて訊けば、青砥真治郎が眉根を寄せて考え込んだ。
「それが…よく分からないんです。鬼が来て、返せと言うだけで…。何かを言っているとは思うのですが、よく聞き取れない。恐ろしくて、耳を澄ますこともできず…結果、何を返せばいいのか分からない。鬼が欲しがるものと言えば、父の遺品くらいしか思い当たる節はなくて……」
「真麻ちゃんが言ってました。”おじいちゃんのコレクション”ですね」
「ええ」と、青砥真治郎は口元を歪めるように微笑んだ。
「これを機に、全ての遺品を処分しようと思い立ったのですが、鬼が来るようなものを、廃品回収に出すのも怖い。かと言って、お寺に持って行くにも、量がありすぎるので断られるかもしれない…。色々と調べて、”憑き物回収賜ります”という《探し〼》という大神さんの回収所に辿り着いたというわけです」
《探し〼》というのは、穀雨が面白半分で付けたものだ。
僕は会社として起ち上げたつもりはない。必要な収入源を得る為に、暇潰しを兼ねて気楽に始めたものだ。雑多な作業を穀雨に任せ、蓋を開ければ《探し〼》という屋号が付いていた。
「最初、ホームページを見つけた時は、曰く付きの物を回収してくれる会社とは分からなくて…。社名と業務内容がちぐはぐですよね?よくよく見て、曰く付きの物を回収してくれる会社だと分かったんですが…。娘は依頼に反対しているんです」
「娘さんとお話をさせて頂きました。印象として、我々に宗教的な胡散臭さを抱いているようです」
僕が苦笑すると、青砥真治郎はバツの悪そうな顔をする。
「失礼なことを言っていたら申し訳ないです…」
「いえ、大丈夫ですよ。うちのホームページも親切丁寧な作りとは言えませんから、それは仕方のないことです」
検索エンジンに引っかからない地味なホームページは、派手さはなく、安心感を与えるような作りでもない。白い背景の中央に屋号。屋号の下にメールアドレスと携帯番号が掲載されている。
スクロールすれば、仕事案内と料金設定が出て来るが、こちらの基本情報はない。
この屋号にしても、人間ではなく幽世側にアピールしている。その為、”回収”ではなく”探す”としたらしい。
依頼に関して、割合で言えば幽世側と人間では半々だ。
「安心材料になるかは分かりませんが、うちは宗教団体とは一切関係ないので、お布施を請求することも、札を売りつけることもありません。逆に、お祓いをしてほしい、札がほしいという要求は受け付けていません。それらは神社仏閣でお願いして下さい」
「お祓いはしてくれないんですね」
「あくまで憑き物回収業なんです」
「そうでした」と、青砥真治郎は頭を掻く。
「とは言え、こちらも商売です。神社仏閣でお焚き上げを受けるよりも、料金設定が2割ほど割高になっています。その差額は何かといえば、アフターケア……つまり、保証期間が設定されているんです。その為、神社仏閣より我が社を選んでくれるお客様は多いんですよ」
にこりと微笑めば、望海が目を丸めて身震いした。
新は素知らぬ顔で、ミントウォーターを飲んでいる。
「アフターケアというのは?」
「怪異の対処です。憑き物には怪異が発生する事案が散見します。青砥さんに郵送して頂いた契約書類を確認しました。青砥さんは事象項目に”鬼が出る”と記入していましたね。実際に鬼かどうかはさておき、毎夜来る鬼が、憑き物――遺品のせいで起こる怪異となります。ですが、我々が全ての遺品を回収し終えても鬼が出るとしたらどうしますか?」
「え?」
青砥真治郎は、それを考慮していなかったようだ。
目を丸めて、おどおどと視線を泳がせる。
「憑き物回収後10日。契約書に記載された事象が続いた場合、アフターケアとして我々が無料で対処するというものです」
「そうなんですか!」
「ただし、契約書に記載されていない事象はアフターケアの対象外です」
僕の説明に、青砥真治郎は真顔で頷く。
望海に目配せすれば、望海はトートバックから茶封筒を取り出した。そこから契約書を引き抜き、青砥真治郎の前に置く。
契約者の名前と住所、依頼内容、事象項目の記入は済まされている。
あとは今日の日付と、契約者でもある青砥真治郎の承認サインと拇印で契約完了だ。
「最終確認です。このまま契約を進めて大丈夫であれば、契約日に本日の日付とサイン。その横に拇印をお願いします」
望海が慌ててボールペンと朱肉を置く。
「以上で正式契約となります」
じっと青砥真治郎の顔を見据える。
青砥真治郎はペンを取り、躊躇いなく日付と名前を書いた。次いで朱肉を手許に手繰り寄せ、強張った顔で唇を噛みしめる。真剣な双眸が、少しの焦りを見せながら、改めて契約書の内容を再確認している。
特に秘密保持と契約違反時の賠償責任、契約解除条件の欄は念入りだ。
「あ…あの」
「何か疑問でもありましたか?」
「疑問というより質問なのですが、追加料金が発生する場合などはありますか?」
「場合によります。基本料に含まれていない、交通費以外の出張費が発生することがあります。日帰りでは難しい遠方であったり、回収業務に日数を要する場合などに、ホテル滞在費が計上されます。危険手当などは発生しません」
「あ」と、新が声を上げた。
僕たちの目が新に集まると、新は「1つ」と人差し指を立てて青砥真治郎を見る。
「青砥さんのおじいさんのコレクションの数が不明なので、コレクション全てを処分したいとなった場合、車に入らない時はレンタカーを手配することになるんです。その費用は追加料金として、青砥さんにお支払い頂くことになります」
「はい」
青砥真治郎が何度も頷き、「大丈夫です」と納得する。
「追加費用が出て来ても、今のようなケースが殆どです。また、高額な追加費用が出る場合は、新たな本契約として契約書が必要になります。例えば、契約書に記載されていない、遺品とは別の回収物が出て来たといったケースです」
「なるほど。分かりました」
金銭面の不安は拭えたのか、安堵に口元が綻んでいる。
多くの人間が着目する部分だから不思議はない。案の定、青砥真治郎は朱肉に親指を付けた。
それを契約書に押せば契約となるのに、「青砥さん、鬼だけですか?」と望海が口を挟んだ。
思わず望海を睨めつける。
僕に睨まれて驚く望海に、新が苦笑する。青砥真治郎は拇印を押そうとした手を引っ込め、唸り声をあげて事象項目を見据えた。
この事象の欄は、言ってしまえばサービスだ。
依頼人が忌み物を手放してくれる確立を上げるためにと、穀雨が考えた撒き餌のようなものだ。多くの人間が忌み物を手放したがるが、中にはそうでもない人間もいる。恐怖よりも、転売時の儲けの計算に入るのだ。それを阻止する意味でも、怪異の存在を再確認してもらうことを前提にした欄だ。
青砥真治郎のように、憑き物を手放す意思のある者には極力、事象項目の欄に触れないようにしている。
面倒が増えるからだ。
なのに、この莫迦は…。
ぎりぎりと歯軋りしていると、新が苦笑しながら「まぁまぁ」と僕の肩を叩く。
「あの…追加しても大丈夫ですか?」
青砥真治郎が僕を見ている。こうなれば、愛想笑いで「構いませんよ」と応じるしかない。
責められていることだけを理解した望海が、しょんぼりと眉尻を下げている。その隣で青砥真治郎は、ボールペンを手に「火が怖い」と付け足した。
意味が分からない。
眉宇を顰める僕たちを気にも留めず、青砥真治郎は拇印を押した。
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