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まれびとの社(二部)
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空高くを旋回するカラスを追うのは2台の車。
先頭を走る車を運転するのは鬼頭さんで、鬼のポテンシャルを遺憾なく発揮して追跡してくれる。普通の人ならカラスを見失うか、事故って終わるような山道を、びゅんびゅん飛ばしている。
その後ろに続くのは、我が家の車だ。
当然、ハンドルを握るのは父で、緊張に顔を強張らせているから少し可哀想になる。間違いなく、神様の威圧的な命令に逆らえなかったのだ。
我が家の車は鬼頭さんの車みたいな大きなSUVではない。
蔵元として久瀬家所有の車は4台あって、1台は久瀬酒造のロゴがプリントされた配達用ワンボックスカー。2台が軽トラック。ワンボックスカーは天井が高いけど、社用車の括りになるので使えない。
最後の1台が自家用車になる。
ポピュラーな白いセダンは、日本人平均身長の5人家族が乗る分には問題がない。
残念ながら、大柄な3柱が乗ればぎゅうぎゅうだ。須久奈様の頭なんて天井に擦れてるし、長い足も窮屈そうだ。
助手席の方が、後部座席よりも余裕があるのだけど、須久奈様が私の隣以外は嫌だと拒絶した。珍しく父も拒絶した。土下座する勢いで、「それだけは…!」と涙声になっていた。
姿は見えないのに、須久奈様に対しての恐怖心が半端ない。
須久奈様が何をしたのだろうか…。
すったもんだの末、助手席には年神様が座り、後部座席の真ん中に須久奈様を挟んで私と神直日神が座している。
まぁ、須久奈様は元押入れの住人だったくらいだ。体を小さく丸めるテクニックが抜きん出ている。片や、神直日神は頭が天井に付くことはないけど、足の置き場に苦慮しているように見える。
助手席に座る年神様は、神直日神に座席を揺らされながらも笑顔をキープだ。しかも、父が信号やカーブでSUVを見失う度、的確な指示を飛ばす司令塔なのだから心強さしかない。
「なんだかグルグルしてますね」
SUVを見失ったかと思えば、対向車を走って来たりとUターンすることが多い。
特にカーブだらけの山中を、何度も行ったり来たりしている。
「先導しているのが烏だからね。車では目的地まで直線で行けないだろう?道を探しつつ案内してくれているんだと思うよ」
「これが八咫烏なら、素知らぬ顔で山を突っ切るな~」
「い、一花…八咫烏は知ってるか?」
「知ってますよ。三本足のカラスです。サッカー日本代表のシンボルですよね?」
胸を張って答えるのに、須久奈様は「さ…かぁ?しんぼる?」と首を傾げている。神直日神は嘆息して、年神様は朗らかに笑う。
「一花ちゃん。八咫烏は導きの神なんだよ。天照大神の遣いだね」
「分かりやすく言えば、ナビゲーションのプロフェッショナルだ」
神直日神の説明が分かりやすい。
「んでも、相手の都合なんて考えねぇからな~。障害物なんて考えなしに飛んでく。マジ、クソ烏」
いったい何があったのか。
神直日神は私怨を吐き捨てた。
「八咫烏とは違って、案内してくれている烏は野鳥だろう?人間に詳しい上に、ヤサカの意を汲んでいる。車という乗り物を把握し、どこなら通れるかと試行錯誤してくれているんだよ」
「私が思う以上にカラスって賢いんですね」
カラスに抱いていた怖いというイメージが薄れ、好感度が上がる。
「やっぱ目的地は山中かぁ」
辟易するとばかりに、神直日神が赤信号の先を見ている。
車通りの多い国道は、右折すれば市街地や温泉地に向かうと案内標識が出ている。一方、直進する場合の案内はない。細い道が田畑の間を縫って山へと続いている。カーナビを見ても、目印になりそうな建物は見当たらない。
神籟町も田舎だけど、田舎のレベルが違う。
神籟町は田舎とはいえ町だ。小さくても観光地なので、そこそこ活気がある。
でも、この区域は集落と言っていいのかさえ迷う。
遠くに民家がぽつぽつと点在していて、1軒1軒が隣家というには憚られるほどの距離感がある。
色褪せた屋根に、固く閉ざされた窓。
人の気配が希薄な仄暗い家々は、空き家のようにうらぶれて見える。
不思議なことに、田舎の必須アイテムである車が1台も走っていない。
まるで廃村の装いだが、田畑には人がいる。
頭に麦わら帽子。肩に手拭いをかけた野良着。足腰の曲がった佇まいから、みんなお年寄りのようだ。
よくある過疎が進む村の一つなのだと思う。
お年寄りたちは作業の手を止め、炎天下をものともせずに山を仰ぎ見ている。
山に何かあるのだろうか。
「い…い、一花…息を止めるな…」
そっと頬を撫でられて、詰まっていた息が肺から押し出された。
呼吸を止めていたなんて気が付かなかった。見下ろした手は微かに震えていて、心臓がばくばくと鼓膜を揺らす。
「幸輝くん。信号を渡った先でちょっと車を止めようか」
「…え?あ、はい」
信号が青に変わり、先頭を行くSUVが走り出す。
そこから数十メートル走った後に、父がクラクションを鳴らした。ゆるりと速度を落として止まったのは用水路の脇。
神籟町を巡る水路はコンクリートで作られているけど、ここの農業用水路は草が茫々と茂って小川のようにも見える。幅は2メートル近くもあり、たくさんのトンボが飛び交っている。
なんだろう…。
すごく怖い。
「一花、どうした?車に酔ったのか?」
心配そうに振り返ったのは父だ。
年神様や神直日神も気遣わしげに私を見ている。
「よく分かんない…」
お腹の底から、ぞわぞわとした恐怖がせり上がってくる。
何が怖いのかと、窓の外をぐるりと見渡しても答えは出ない。3柱から威圧的な空気は出ていないし、遠くから得体の知れない何かがこちらを窺っているわけでもない。
強いて言うなら、この場所、この一帯が怖い。
範囲が広すぎる。
「い…一花。な何が怖い?」
須久奈様が肩に腕を回し、ぎゅっと抱きしめてくれる。
よしよし、と肩を撫でられ、ちゅ、ちゅ、と頭部に唇が落ちてくる。
見えてはいないとは言え、親の前でキスされるのは猛烈に恥ずかしいし、2柱はがっつり見ている。…けど、同時に恐怖心が溶かされていく。
須久奈様の仄かに甘い匂いはリラックス効果があると思う。耳障りの良い低音ボイスにも同様の効果がありそうだ。
ばくばくとした心音が静まると、ようやく肩の力が抜けた。
「ありがとうございます。落ち着きました」
須久奈様の腕を解くと、コンコン、と窓が鳴った。
見れば大神さんが立っている。
父が窓を開けると、生温い空気が冷房をかき乱し、遠くからツクツクボウシの鳴き声が聞こえてきた。
「どうしました?」
「すみません。一花がちょっと…」
「中てられたんだよ」と年神様。
大神さんが眉根を寄せ、腰を屈めて父の肩越しに私の顔を見据える。
「顔色が悪いですね」
「そっちの日向さんはどうだい?」
「望海に変化はありません。感度が違います」
「まぁ、そうだろうね」
年神様は肩を竦める。
「んで、お前は何に中てられんだ?」
神直日神が眉宇を顰める。
全員が私に注目しているけど、私だって須久奈様に言われるまで気づかなかった。
精神安定剤のように須久奈様と手を繋いで、ゆるりと頭を振る。
「外を見てただけですよ。田舎だな…と。お年寄りたちが山を見上げてたから…山を見て…少し不安になって…」
「一花。お年寄りはいないよ?」
父が困惑気味に周囲を見渡しながら言う。
「どこで見ました?」と大神さん。
「えっと…向こうの畑の真ん中です。赤信号で止まっている時に見えました」
お年寄りたちを差そうとした指が、行き場をなくして膝の上に落ちた。
畔に立っていたお年寄りどころか、畑自体がない。正確には、元は畑だっただろうなと思える草むらが広がるだけで、人の手が入った土地がない。
遠くに見える民家は、ここから見ても半壊状態の空き家だ。
手入れを放棄された庭木が、鬱蒼と茂っている。
「一花。ここは過疎化が進んで廃村になっているんだよ。製材所が近くにあったと思うけど、住人は住んでいないんだ。殆どが空き家で、管理されていない家だと思う」
「幸輝くんは良く知ってるね」
にこにこ笑顔の年神様に、父は困惑気味に頭を掻いた。
「私は婿養子で、この地域に詳しくはないのですが、良くない噂ほど田舎では広まりやすいんです」
「良くない噂とは?」
「ここは元々、住んでいる人が少ない小さな村で、そこに他所から移住して来た人たちによって、辛うじて成り立っていたそうです。でも、若い者が居着かなかったそうで、残ったのは年寄りばかり。あっという間に過疎が進んだそうです…。そもそもが先祖代々の土地でもないので、移住してきた人たちも未練はなかったのでしょう。空き家も管理されずに朽ちるに任されていると聞きます。田舎は閉鎖的な人間が多いので、ここらのような移住者の寄せ集めの村は忌避されるんでしょう。私も田舎出身なので分かる気がします」
「他所から移住ね~」
神直日神が楽し気に声を弾ませる。
実に楽しそうだけど、私としては血の気が引く思いだ。
だって…私が見たのは幽霊ってことになる。
正直、初妖怪よりも初幽霊の方が恐ろしい。
「い…一花。大丈夫だ。俺がいる」
「はい。分かってます」
そこは素直に心強いと思っている。
「一花ちゃん。さっきから用水路を気にしているね」
助手席からじっとこちらを見ていた年神様が、首を傾げた。
口元は穏やかな笑みを浮かべているけど、目が笑っていない。
目が笑っていない年神様は、3柱の中でトップクラスに怖いと思う…。
「えっと…見てますか?」
「見てるね。ちらちらと視線が向いているよ」
全く意識していなかった。
「あ~…コレね」
神直日神が窓を下ろし、すぐ横を流れる用水路を見下ろす。
結構な水量があるのか、ジャブジャブと勢いのある音が聞こえてくる。
大神さんは口をへの字に曲げて、車の前を回って用水路を覗き込んだ。
父は何も感じないし、何も見えないので、ひたすらオロオロしている。
「で、直日。どうだい?」
「あ~~~…良くはないな。てか、人間はすげぇわ。俺たちが見落とすような些細な穢れにも気づくんだからさ~」
「人間ではなく、一花ちゃんだからだろうね。もしくは、久瀬家限定で感度が良いのかな」
今まで、生活する中でこんなことはなかった。
神籟町から出ずに生活してきたわけじゃないんだから…。なんなら須久奈様の力が及ばないような他県にだって行ったことがある。修学旅行限定だけど。
なのに、幽霊も妖怪も見たことがない。
感度が良いと言われても、実感が伴わないどころか困惑しかない。
それ顔に出てたのか、年神様が正面を向いたまま肩を竦めた。
「須久奈の影響だろうね。誓志くんが良い例だよ。急激に能力値が上がっているから、今後からは気を付けたほうがいいね」
「…普段通りで良い。い一花が生まれた頃より…俺の加護は一花にある。問題ない…」
ちゅ、と何度目かも分からないキスが頭に落ちる。
どこか諦めの境地で須久奈様のキスを受け流し、用水路を覗き込む大神さんに目を向ける、
と、大神さんがざぶんと用水路に落ちた。
いや…自ら飛び込んだ。
ぎょっと驚いたのは私と父の2人だけ。
「おい。どうした~」と暢気な神直日神の声に、父が浮かしかけた腰を落とした。
ざぶざぶと用水路の中を、大神さんが平然と歩いてくる。
激しい水流でも足を掬われることなく、顔色一つ変えずにいるのを見ると、人間離れしていると思わざるを得ない。
ハーフらしいけど、人間部分はなさそうに見える。
大神さんは神直日神の前まで来ると、「引っかかってました」と掬い上げた葉っぱを見せた。
違う。
笹舟だ。
ぞく、と背筋に悪寒が走る。
神直日神はへらりと笑い、「へぇ~。さすが一花レーダー」と不名誉な呼び方だ。
笹舟を受け取ろうと伸ばした神直日神の手は、「直日」と低音ボイスの叱責によって阻まれた。
「よもや…そのような穢れたものを、ここに入れようとしているのじゃないだろうな?殺すぞ」
須久奈様の”殺すぞ”は口癖のようなものだけど、須久奈様ラブの神直日神としては洒落にならない。
飼い主に”ノー”を突き付けられた犬のように、しおしおと手を引っ込めた。
「その笹舟は人が作ったものですか?」
恐る恐るに訊けば、大神さんは目を眇めながら笹舟を見た後、ほんの少しだけ笹舟に鼻を近づけた。
ニオイを嗅ぐのは神様界隈では常識なのだろうか…。
そこにタオルを手に、「惟親くん!」と慌てた様子で鬼頭さんが駆けて来た。用水路に落ちたと思ったのか、手を伸ばそうとして、何かに気が付き仰け反った。
鬼頭さんのリアクションで、良くないものが流れてるのが分かる。
「これは人間が作ったものですが、他は違います」
用水路が見えなくて良かった。
大神さんは手にした笹舟を用水路に投げ捨て、鬼頭さんの手を借りて用水路から出た。
ズボンが黒いから分かりづらいけど、膝上まで濡れている。飛沫は腰上まで飛んでいて、用水路の流れの速さが伺える。もしかすると、夜の間に雨が降ったのかもしれない。
「幸輝くん。この用水路は川に合流しているのかな?」
「ちょっと待って下さい」
父が慌ててスマホを取り出す。
マップを開き、拡大し、細い水色の線を追うようにして用水路の終着点を探している。
後ろから覗き見ていると、用水路はかなりの距離を走っている。ぱっと見は道に沿って一直線な感じなのに、実際は道路の下を潜ったり、蛇行したりしている。
合流したのは伊呂波川の支流の白川だ。
本流である伊呂波川は神籟町に流れる川であり、私が葦舟を見た川でもある。そういえば、誓志が笹舟がたくさん流れてきたとも言っていた。
「白川です。本流は伊呂波川になります」
父の声が緊張に強張っている。
さすがに霊感ゼロでも、事態の深刻さには気づいたらしい。
葦舟を見た時は、父も一緒にいたのだから尚更だ。
「一花が葦舟を見て、弟が笹舟を目撃した川か~」
神直日神が感慨深げに呟き、タオルでズボンを拭きながら運転席側に回って来た大神さんに目を向ける。
「どうだった?」と質問を投げたのは年神様だ。
大神さんは窓から顔を覗かせ、「川守村とは比べるまでもありませんが穢れています」と渋面を作った。
「ここへ移住した人間は、川守村のクワアウ流しを踏襲していたようだね。直日は誓志くんと惟親くんを連れて川へ行っただろう?本流の方の穢れと同じかい?」
「あ~覚えてねぇや。高御産巣日神様と会ってテンション上がって、それどころじゃなかっただろ~?」
あっけらかんとした神直日神に、須久奈様がチッと舌打ちする。
「これは用水路なので、山へは繋がっていないと思います。直近で笹舟を流した人間がいたとしても、用水路を流れる穢れは外には出ないでしょう」
大神さんのスルースキルが凄い。
年神様も後部座席の2柱を無視して、大神さんに同意するように頷く。
「まぁ、こっちは須久奈がいるから大丈夫だよ。先を急ごうか」
「分かりました」
大神さんは頷いて、鬼頭さんと一緒に車に戻った。
すぐにSUVが走り出す。
近くの木で羽を休めていたカラスも飛び立ち、先導を始めた。
「用心には越したことがないね。須久奈。車に結界を張ってくれるかい?」
「………なぜ?」
「一花ちゃんは須久奈の加護があるけど、幸輝くんは違うだろ?」
「そうなのか?須久奈は久瀬家に加護を与えてるんじゃねぇの?」
「須久奈の加護を受けるのは久瀬家。あの土地なんだよ。次いで、久瀬家に生まれる女児。そこに優劣は無かったんだろうけど、今は一花ちゃんだけ飛び抜けて手厚い加護がある。逆に久瀬家の男児への加護は薄い。ゼロではないけどね。でも、入り婿である幸輝くんへの加護はゼロだ。あの土地にいれば守護の対象だけど、離れれば対象から離れてしまう」
それは一大事だ。
須久奈様は優しくはあるけど、無条件で優しさを発揮するわけではない。神様らしいシビアな面も持ち合わせている。
それは祖母が口酸っぱく教えてくれたことの一つだ。
祖父は飲酒運転の車に轢かれ他界した。神様の加護はなかった。祖母は病気で他界した。神様の加護はあったはずなのに、神様は摂理を曲げない。映画やマンガみたいに、奇跡は起こさない。神様は不必要な”親愛の情”を抱かないと聞かされた。
祖母は須久奈様には縋らなかった。
自然災害も加護は発動せず、豪雨で浸水した。
母は離れに赴いて縋ることはなかったけど、仏壇で手を合わせて被害が小さいことを祈ってた。その願いが通じたのか、他所の家より被害が少なかったので控えめに守ってくれたのだと思う。特に酒蔵。
須久奈様の加護は、基本的にこの世の理を外れたものを対象としている。
今回はそれに当たると思うけど、父への加護は別かもしれない。
そっと須久奈様の袖を掴むと、須久奈様がぬっと私の顔を覗き込んできた。
「…い、一花。そんな顔するな。お俺は一花には甘いと自覚してる…」
ちゅ、と額に唇を落として、須久奈様はくるくると指を回し、何かしらの呪文を天井に押し付けた。
変化はないけど、安全性は確保されたのだろう。
年神様が満足そうににこにこして、「何があっても車から出てはいけないよ」と父にアドバイスしている。
父はきつくハンドルを握りしめ、こくこくと頷く。詳細を訊かないのは、進む道が小刻みにカーブが連続する山道だからだ。集中すべきは運転で、加護の詳細ではない。
「それにしても、鬼頭さんって結構飛ばしますね」
昨日は安全運転だったと思ったけど、今日はびゅんびゅん飛ばす。
「鬼は反射神経も動体視力も良いからね。昨日の運転と違って今回スピードを出しているのは、烏を見失わないように頑張っているからじゃないかな」
なるほど。
カラスを見失う失態を犯せば、須久奈様の怒りを買いかねない。
鬼頭さんは死ぬ気で頑張らなければならないのだ。
「お父さんは安全運転でお願いね」
「わ、分かってる」
こっちはこっちで神様を3柱乗せているプレッシャーがすごそうだ。
普段よりスピードが出ているように思う。
カーブの度に須久奈様に体重を預けること数回。一度は見失った黒光りのSUVが見えた。舗装された山道から、普段なら見落としそうな細い脇道に向けてハンドルを切っている。
たぶん、私たちを待っていたのだろう。
こちらを確認するようにして、SUVは走り出す。
がたん、とアスファルトの終わる振動で、こっちも脇道に入った。
がたがたと揺れはするけど、今も現役の道なのが分かる。砂防ダムもあるから、森林組合の人が来ているのだろう。道に突き出た枝は、全て切り落とされている。倒木もなければ、落石が道を塞いでいることもない。
「止まったね」
年神様の言葉で前を向けば、SUVが停車している。鬼頭さんが外に出ていて手を振っている。
でも、カーナビに目印となる建物表記はない。
「カラスを見失ったんですかね?」
「いや、杉の枝先に止まっているよ」
年神様が指さす方向を見れば、ぽつん、と黒い鳥が見えるような気がする。
やっぱり神様の視力はすごい。
ゆっくりと車が止まると、鬼頭さんが慌てて駆けて来た。
父が窓を開けた。
「ここが目的地ですか?」
父の困惑気味の質問に、鬼頭さんが「いえ…」とキャスケット越しに頭を掻く。
それから、すっと杉林の奥へと指を向けた。
「その先から、さらに脇道があるんです。車は入れないので、ここからは徒歩です」
「お父さんは待っててね」
私が外に出れば、須久奈様と神直日神も続いて降りる。助手席側は斜面になっているけど、年神様は苦も無く降りた。
「一花……気をつけなさい」
「大丈夫。須久奈様がいるし。年神様や神直日神様もいるから、心強さしかない!」
どん、とささなかな胸を叩いてみる。
実際は怖い。
神様が一緒にいたところで、恐怖心のような精神的な畏れは払拭できるものではない。須久奈様の畏れに中てられてひっくり返るのと同じだ。
反面、肉体的な不安はない。
かすり傷一つしない気がする。
「それじゃあ行ってくるね。お父さんは何があっても車から出ないでね」
「気をつけて」
小さく頷いて、重い足を引きずるように鬼頭さんの背中を追った。
先頭を走る車を運転するのは鬼頭さんで、鬼のポテンシャルを遺憾なく発揮して追跡してくれる。普通の人ならカラスを見失うか、事故って終わるような山道を、びゅんびゅん飛ばしている。
その後ろに続くのは、我が家の車だ。
当然、ハンドルを握るのは父で、緊張に顔を強張らせているから少し可哀想になる。間違いなく、神様の威圧的な命令に逆らえなかったのだ。
我が家の車は鬼頭さんの車みたいな大きなSUVではない。
蔵元として久瀬家所有の車は4台あって、1台は久瀬酒造のロゴがプリントされた配達用ワンボックスカー。2台が軽トラック。ワンボックスカーは天井が高いけど、社用車の括りになるので使えない。
最後の1台が自家用車になる。
ポピュラーな白いセダンは、日本人平均身長の5人家族が乗る分には問題がない。
残念ながら、大柄な3柱が乗ればぎゅうぎゅうだ。須久奈様の頭なんて天井に擦れてるし、長い足も窮屈そうだ。
助手席の方が、後部座席よりも余裕があるのだけど、須久奈様が私の隣以外は嫌だと拒絶した。珍しく父も拒絶した。土下座する勢いで、「それだけは…!」と涙声になっていた。
姿は見えないのに、須久奈様に対しての恐怖心が半端ない。
須久奈様が何をしたのだろうか…。
すったもんだの末、助手席には年神様が座り、後部座席の真ん中に須久奈様を挟んで私と神直日神が座している。
まぁ、須久奈様は元押入れの住人だったくらいだ。体を小さく丸めるテクニックが抜きん出ている。片や、神直日神は頭が天井に付くことはないけど、足の置き場に苦慮しているように見える。
助手席に座る年神様は、神直日神に座席を揺らされながらも笑顔をキープだ。しかも、父が信号やカーブでSUVを見失う度、的確な指示を飛ばす司令塔なのだから心強さしかない。
「なんだかグルグルしてますね」
SUVを見失ったかと思えば、対向車を走って来たりとUターンすることが多い。
特にカーブだらけの山中を、何度も行ったり来たりしている。
「先導しているのが烏だからね。車では目的地まで直線で行けないだろう?道を探しつつ案内してくれているんだと思うよ」
「これが八咫烏なら、素知らぬ顔で山を突っ切るな~」
「い、一花…八咫烏は知ってるか?」
「知ってますよ。三本足のカラスです。サッカー日本代表のシンボルですよね?」
胸を張って答えるのに、須久奈様は「さ…かぁ?しんぼる?」と首を傾げている。神直日神は嘆息して、年神様は朗らかに笑う。
「一花ちゃん。八咫烏は導きの神なんだよ。天照大神の遣いだね」
「分かりやすく言えば、ナビゲーションのプロフェッショナルだ」
神直日神の説明が分かりやすい。
「んでも、相手の都合なんて考えねぇからな~。障害物なんて考えなしに飛んでく。マジ、クソ烏」
いったい何があったのか。
神直日神は私怨を吐き捨てた。
「八咫烏とは違って、案内してくれている烏は野鳥だろう?人間に詳しい上に、ヤサカの意を汲んでいる。車という乗り物を把握し、どこなら通れるかと試行錯誤してくれているんだよ」
「私が思う以上にカラスって賢いんですね」
カラスに抱いていた怖いというイメージが薄れ、好感度が上がる。
「やっぱ目的地は山中かぁ」
辟易するとばかりに、神直日神が赤信号の先を見ている。
車通りの多い国道は、右折すれば市街地や温泉地に向かうと案内標識が出ている。一方、直進する場合の案内はない。細い道が田畑の間を縫って山へと続いている。カーナビを見ても、目印になりそうな建物は見当たらない。
神籟町も田舎だけど、田舎のレベルが違う。
神籟町は田舎とはいえ町だ。小さくても観光地なので、そこそこ活気がある。
でも、この区域は集落と言っていいのかさえ迷う。
遠くに民家がぽつぽつと点在していて、1軒1軒が隣家というには憚られるほどの距離感がある。
色褪せた屋根に、固く閉ざされた窓。
人の気配が希薄な仄暗い家々は、空き家のようにうらぶれて見える。
不思議なことに、田舎の必須アイテムである車が1台も走っていない。
まるで廃村の装いだが、田畑には人がいる。
頭に麦わら帽子。肩に手拭いをかけた野良着。足腰の曲がった佇まいから、みんなお年寄りのようだ。
よくある過疎が進む村の一つなのだと思う。
お年寄りたちは作業の手を止め、炎天下をものともせずに山を仰ぎ見ている。
山に何かあるのだろうか。
「い…い、一花…息を止めるな…」
そっと頬を撫でられて、詰まっていた息が肺から押し出された。
呼吸を止めていたなんて気が付かなかった。見下ろした手は微かに震えていて、心臓がばくばくと鼓膜を揺らす。
「幸輝くん。信号を渡った先でちょっと車を止めようか」
「…え?あ、はい」
信号が青に変わり、先頭を行くSUVが走り出す。
そこから数十メートル走った後に、父がクラクションを鳴らした。ゆるりと速度を落として止まったのは用水路の脇。
神籟町を巡る水路はコンクリートで作られているけど、ここの農業用水路は草が茫々と茂って小川のようにも見える。幅は2メートル近くもあり、たくさんのトンボが飛び交っている。
なんだろう…。
すごく怖い。
「一花、どうした?車に酔ったのか?」
心配そうに振り返ったのは父だ。
年神様や神直日神も気遣わしげに私を見ている。
「よく分かんない…」
お腹の底から、ぞわぞわとした恐怖がせり上がってくる。
何が怖いのかと、窓の外をぐるりと見渡しても答えは出ない。3柱から威圧的な空気は出ていないし、遠くから得体の知れない何かがこちらを窺っているわけでもない。
強いて言うなら、この場所、この一帯が怖い。
範囲が広すぎる。
「い…一花。な何が怖い?」
須久奈様が肩に腕を回し、ぎゅっと抱きしめてくれる。
よしよし、と肩を撫でられ、ちゅ、ちゅ、と頭部に唇が落ちてくる。
見えてはいないとは言え、親の前でキスされるのは猛烈に恥ずかしいし、2柱はがっつり見ている。…けど、同時に恐怖心が溶かされていく。
須久奈様の仄かに甘い匂いはリラックス効果があると思う。耳障りの良い低音ボイスにも同様の効果がありそうだ。
ばくばくとした心音が静まると、ようやく肩の力が抜けた。
「ありがとうございます。落ち着きました」
須久奈様の腕を解くと、コンコン、と窓が鳴った。
見れば大神さんが立っている。
父が窓を開けると、生温い空気が冷房をかき乱し、遠くからツクツクボウシの鳴き声が聞こえてきた。
「どうしました?」
「すみません。一花がちょっと…」
「中てられたんだよ」と年神様。
大神さんが眉根を寄せ、腰を屈めて父の肩越しに私の顔を見据える。
「顔色が悪いですね」
「そっちの日向さんはどうだい?」
「望海に変化はありません。感度が違います」
「まぁ、そうだろうね」
年神様は肩を竦める。
「んで、お前は何に中てられんだ?」
神直日神が眉宇を顰める。
全員が私に注目しているけど、私だって須久奈様に言われるまで気づかなかった。
精神安定剤のように須久奈様と手を繋いで、ゆるりと頭を振る。
「外を見てただけですよ。田舎だな…と。お年寄りたちが山を見上げてたから…山を見て…少し不安になって…」
「一花。お年寄りはいないよ?」
父が困惑気味に周囲を見渡しながら言う。
「どこで見ました?」と大神さん。
「えっと…向こうの畑の真ん中です。赤信号で止まっている時に見えました」
お年寄りたちを差そうとした指が、行き場をなくして膝の上に落ちた。
畔に立っていたお年寄りどころか、畑自体がない。正確には、元は畑だっただろうなと思える草むらが広がるだけで、人の手が入った土地がない。
遠くに見える民家は、ここから見ても半壊状態の空き家だ。
手入れを放棄された庭木が、鬱蒼と茂っている。
「一花。ここは過疎化が進んで廃村になっているんだよ。製材所が近くにあったと思うけど、住人は住んでいないんだ。殆どが空き家で、管理されていない家だと思う」
「幸輝くんは良く知ってるね」
にこにこ笑顔の年神様に、父は困惑気味に頭を掻いた。
「私は婿養子で、この地域に詳しくはないのですが、良くない噂ほど田舎では広まりやすいんです」
「良くない噂とは?」
「ここは元々、住んでいる人が少ない小さな村で、そこに他所から移住して来た人たちによって、辛うじて成り立っていたそうです。でも、若い者が居着かなかったそうで、残ったのは年寄りばかり。あっという間に過疎が進んだそうです…。そもそもが先祖代々の土地でもないので、移住してきた人たちも未練はなかったのでしょう。空き家も管理されずに朽ちるに任されていると聞きます。田舎は閉鎖的な人間が多いので、ここらのような移住者の寄せ集めの村は忌避されるんでしょう。私も田舎出身なので分かる気がします」
「他所から移住ね~」
神直日神が楽し気に声を弾ませる。
実に楽しそうだけど、私としては血の気が引く思いだ。
だって…私が見たのは幽霊ってことになる。
正直、初妖怪よりも初幽霊の方が恐ろしい。
「い…一花。大丈夫だ。俺がいる」
「はい。分かってます」
そこは素直に心強いと思っている。
「一花ちゃん。さっきから用水路を気にしているね」
助手席からじっとこちらを見ていた年神様が、首を傾げた。
口元は穏やかな笑みを浮かべているけど、目が笑っていない。
目が笑っていない年神様は、3柱の中でトップクラスに怖いと思う…。
「えっと…見てますか?」
「見てるね。ちらちらと視線が向いているよ」
全く意識していなかった。
「あ~…コレね」
神直日神が窓を下ろし、すぐ横を流れる用水路を見下ろす。
結構な水量があるのか、ジャブジャブと勢いのある音が聞こえてくる。
大神さんは口をへの字に曲げて、車の前を回って用水路を覗き込んだ。
父は何も感じないし、何も見えないので、ひたすらオロオロしている。
「で、直日。どうだい?」
「あ~~~…良くはないな。てか、人間はすげぇわ。俺たちが見落とすような些細な穢れにも気づくんだからさ~」
「人間ではなく、一花ちゃんだからだろうね。もしくは、久瀬家限定で感度が良いのかな」
今まで、生活する中でこんなことはなかった。
神籟町から出ずに生活してきたわけじゃないんだから…。なんなら須久奈様の力が及ばないような他県にだって行ったことがある。修学旅行限定だけど。
なのに、幽霊も妖怪も見たことがない。
感度が良いと言われても、実感が伴わないどころか困惑しかない。
それ顔に出てたのか、年神様が正面を向いたまま肩を竦めた。
「須久奈の影響だろうね。誓志くんが良い例だよ。急激に能力値が上がっているから、今後からは気を付けたほうがいいね」
「…普段通りで良い。い一花が生まれた頃より…俺の加護は一花にある。問題ない…」
ちゅ、と何度目かも分からないキスが頭に落ちる。
どこか諦めの境地で須久奈様のキスを受け流し、用水路を覗き込む大神さんに目を向ける、
と、大神さんがざぶんと用水路に落ちた。
いや…自ら飛び込んだ。
ぎょっと驚いたのは私と父の2人だけ。
「おい。どうした~」と暢気な神直日神の声に、父が浮かしかけた腰を落とした。
ざぶざぶと用水路の中を、大神さんが平然と歩いてくる。
激しい水流でも足を掬われることなく、顔色一つ変えずにいるのを見ると、人間離れしていると思わざるを得ない。
ハーフらしいけど、人間部分はなさそうに見える。
大神さんは神直日神の前まで来ると、「引っかかってました」と掬い上げた葉っぱを見せた。
違う。
笹舟だ。
ぞく、と背筋に悪寒が走る。
神直日神はへらりと笑い、「へぇ~。さすが一花レーダー」と不名誉な呼び方だ。
笹舟を受け取ろうと伸ばした神直日神の手は、「直日」と低音ボイスの叱責によって阻まれた。
「よもや…そのような穢れたものを、ここに入れようとしているのじゃないだろうな?殺すぞ」
須久奈様の”殺すぞ”は口癖のようなものだけど、須久奈様ラブの神直日神としては洒落にならない。
飼い主に”ノー”を突き付けられた犬のように、しおしおと手を引っ込めた。
「その笹舟は人が作ったものですか?」
恐る恐るに訊けば、大神さんは目を眇めながら笹舟を見た後、ほんの少しだけ笹舟に鼻を近づけた。
ニオイを嗅ぐのは神様界隈では常識なのだろうか…。
そこにタオルを手に、「惟親くん!」と慌てた様子で鬼頭さんが駆けて来た。用水路に落ちたと思ったのか、手を伸ばそうとして、何かに気が付き仰け反った。
鬼頭さんのリアクションで、良くないものが流れてるのが分かる。
「これは人間が作ったものですが、他は違います」
用水路が見えなくて良かった。
大神さんは手にした笹舟を用水路に投げ捨て、鬼頭さんの手を借りて用水路から出た。
ズボンが黒いから分かりづらいけど、膝上まで濡れている。飛沫は腰上まで飛んでいて、用水路の流れの速さが伺える。もしかすると、夜の間に雨が降ったのかもしれない。
「幸輝くん。この用水路は川に合流しているのかな?」
「ちょっと待って下さい」
父が慌ててスマホを取り出す。
マップを開き、拡大し、細い水色の線を追うようにして用水路の終着点を探している。
後ろから覗き見ていると、用水路はかなりの距離を走っている。ぱっと見は道に沿って一直線な感じなのに、実際は道路の下を潜ったり、蛇行したりしている。
合流したのは伊呂波川の支流の白川だ。
本流である伊呂波川は神籟町に流れる川であり、私が葦舟を見た川でもある。そういえば、誓志が笹舟がたくさん流れてきたとも言っていた。
「白川です。本流は伊呂波川になります」
父の声が緊張に強張っている。
さすがに霊感ゼロでも、事態の深刻さには気づいたらしい。
葦舟を見た時は、父も一緒にいたのだから尚更だ。
「一花が葦舟を見て、弟が笹舟を目撃した川か~」
神直日神が感慨深げに呟き、タオルでズボンを拭きながら運転席側に回って来た大神さんに目を向ける。
「どうだった?」と質問を投げたのは年神様だ。
大神さんは窓から顔を覗かせ、「川守村とは比べるまでもありませんが穢れています」と渋面を作った。
「ここへ移住した人間は、川守村のクワアウ流しを踏襲していたようだね。直日は誓志くんと惟親くんを連れて川へ行っただろう?本流の方の穢れと同じかい?」
「あ~覚えてねぇや。高御産巣日神様と会ってテンション上がって、それどころじゃなかっただろ~?」
あっけらかんとした神直日神に、須久奈様がチッと舌打ちする。
「これは用水路なので、山へは繋がっていないと思います。直近で笹舟を流した人間がいたとしても、用水路を流れる穢れは外には出ないでしょう」
大神さんのスルースキルが凄い。
年神様も後部座席の2柱を無視して、大神さんに同意するように頷く。
「まぁ、こっちは須久奈がいるから大丈夫だよ。先を急ごうか」
「分かりました」
大神さんは頷いて、鬼頭さんと一緒に車に戻った。
すぐにSUVが走り出す。
近くの木で羽を休めていたカラスも飛び立ち、先導を始めた。
「用心には越したことがないね。須久奈。車に結界を張ってくれるかい?」
「………なぜ?」
「一花ちゃんは須久奈の加護があるけど、幸輝くんは違うだろ?」
「そうなのか?須久奈は久瀬家に加護を与えてるんじゃねぇの?」
「須久奈の加護を受けるのは久瀬家。あの土地なんだよ。次いで、久瀬家に生まれる女児。そこに優劣は無かったんだろうけど、今は一花ちゃんだけ飛び抜けて手厚い加護がある。逆に久瀬家の男児への加護は薄い。ゼロではないけどね。でも、入り婿である幸輝くんへの加護はゼロだ。あの土地にいれば守護の対象だけど、離れれば対象から離れてしまう」
それは一大事だ。
須久奈様は優しくはあるけど、無条件で優しさを発揮するわけではない。神様らしいシビアな面も持ち合わせている。
それは祖母が口酸っぱく教えてくれたことの一つだ。
祖父は飲酒運転の車に轢かれ他界した。神様の加護はなかった。祖母は病気で他界した。神様の加護はあったはずなのに、神様は摂理を曲げない。映画やマンガみたいに、奇跡は起こさない。神様は不必要な”親愛の情”を抱かないと聞かされた。
祖母は須久奈様には縋らなかった。
自然災害も加護は発動せず、豪雨で浸水した。
母は離れに赴いて縋ることはなかったけど、仏壇で手を合わせて被害が小さいことを祈ってた。その願いが通じたのか、他所の家より被害が少なかったので控えめに守ってくれたのだと思う。特に酒蔵。
須久奈様の加護は、基本的にこの世の理を外れたものを対象としている。
今回はそれに当たると思うけど、父への加護は別かもしれない。
そっと須久奈様の袖を掴むと、須久奈様がぬっと私の顔を覗き込んできた。
「…い、一花。そんな顔するな。お俺は一花には甘いと自覚してる…」
ちゅ、と額に唇を落として、須久奈様はくるくると指を回し、何かしらの呪文を天井に押し付けた。
変化はないけど、安全性は確保されたのだろう。
年神様が満足そうににこにこして、「何があっても車から出てはいけないよ」と父にアドバイスしている。
父はきつくハンドルを握りしめ、こくこくと頷く。詳細を訊かないのは、進む道が小刻みにカーブが連続する山道だからだ。集中すべきは運転で、加護の詳細ではない。
「それにしても、鬼頭さんって結構飛ばしますね」
昨日は安全運転だったと思ったけど、今日はびゅんびゅん飛ばす。
「鬼は反射神経も動体視力も良いからね。昨日の運転と違って今回スピードを出しているのは、烏を見失わないように頑張っているからじゃないかな」
なるほど。
カラスを見失う失態を犯せば、須久奈様の怒りを買いかねない。
鬼頭さんは死ぬ気で頑張らなければならないのだ。
「お父さんは安全運転でお願いね」
「わ、分かってる」
こっちはこっちで神様を3柱乗せているプレッシャーがすごそうだ。
普段よりスピードが出ているように思う。
カーブの度に須久奈様に体重を預けること数回。一度は見失った黒光りのSUVが見えた。舗装された山道から、普段なら見落としそうな細い脇道に向けてハンドルを切っている。
たぶん、私たちを待っていたのだろう。
こちらを確認するようにして、SUVは走り出す。
がたん、とアスファルトの終わる振動で、こっちも脇道に入った。
がたがたと揺れはするけど、今も現役の道なのが分かる。砂防ダムもあるから、森林組合の人が来ているのだろう。道に突き出た枝は、全て切り落とされている。倒木もなければ、落石が道を塞いでいることもない。
「止まったね」
年神様の言葉で前を向けば、SUVが停車している。鬼頭さんが外に出ていて手を振っている。
でも、カーナビに目印となる建物表記はない。
「カラスを見失ったんですかね?」
「いや、杉の枝先に止まっているよ」
年神様が指さす方向を見れば、ぽつん、と黒い鳥が見えるような気がする。
やっぱり神様の視力はすごい。
ゆっくりと車が止まると、鬼頭さんが慌てて駆けて来た。
父が窓を開けた。
「ここが目的地ですか?」
父の困惑気味の質問に、鬼頭さんが「いえ…」とキャスケット越しに頭を掻く。
それから、すっと杉林の奥へと指を向けた。
「その先から、さらに脇道があるんです。車は入れないので、ここからは徒歩です」
「お父さんは待っててね」
私が外に出れば、須久奈様と神直日神も続いて降りる。助手席側は斜面になっているけど、年神様は苦も無く降りた。
「一花……気をつけなさい」
「大丈夫。須久奈様がいるし。年神様や神直日神様もいるから、心強さしかない!」
どん、とささなかな胸を叩いてみる。
実際は怖い。
神様が一緒にいたところで、恐怖心のような精神的な畏れは払拭できるものではない。須久奈様の畏れに中てられてひっくり返るのと同じだ。
反面、肉体的な不安はない。
かすり傷一つしない気がする。
「それじゃあ行ってくるね。お父さんは何があっても車から出ないでね」
「気をつけて」
小さく頷いて、重い足を引きずるように鬼頭さんの背中を追った。
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