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閑話
デリカシー
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今日は朝の8時前に気温が30度を超えていた。
朝方は五月蠅く鳴いていたセミも、昼が近づくにつれて夏バテぎみに静まった。
天気予報を見たわけじゃないから詳しくは分からないけど、父曰く、最高気温は35度超えの酷暑になるとのこと。
茹だる暑さの中、両親は町内会の寄合に出かけて行った。仕出し弁当が出るらしく、帰りは1時過ぎになるという。姉の百花は酒販店で店番。弟の誓志は、熱中症対策に甘酒を飲み、氷水で冷やしたタオルを首に巻き付け、朝早くに部活へ行った。
私は朝から体調が芳しくはない。
女の子特有のものだ。友達と比べれば軽いから、病人みたいに寝ているというのも気が引ける。というか、じっと寝ているのが苦手なので、つい動き回ってしまう。
ただ、今日はいつもより重い。重いと、イライラが止まらなくなる。
そんな日に限って、我が家の常駐の神様――須久奈様が2割増しで鬱陶しく纏わりついて来るのだ。
罰当たりとは思っても、少しばかり塩対応になるのは仕方ない。
ただ、それをヨシと割り切れるほど、須久奈様を軽んじているわけじゃない。ちゃんと払うべき敬意は持っているし、時として畏れだって抱いている。
それでもイライラが止まらないのが生理だ。
改善させるには鎮痛薬だけど、生憎、薬箱には胃薬と鼻炎薬しかなかった。
「こんな時に薬が切れてるなんて…!」
お腹痛い、暑い、お腹痛い…、を呪詛のように呟き、必死で自転車を漕ぐ。
ほんのり涙ぐんだ須久奈様の制止を振り切り、これ以上の無礼を働く前に…と家を出たは10分前。
吹く風は熱風。
リュックを背負っているから、背中が蒸れて気持ち悪い。
頭から滝のような汗を流し、向かうは国道沿いのドラッグストア。有名チェーン店なので、品揃えはスーパー並みだ。
家から自転車で15分。
体調が底辺を彷徨っている今は、永遠とも思える距離だ。ドラッグストアの緑色の看板が見えた時、心の底から安堵の息が漏れた。
駐輪場に自転車を止め、急いで店内に駆け込む。
しばしの休憩は、強力な冷房が吹き付ける場所と決まっている。
汗が引くのを待って、お気に入りのミルクティーとチョコレート。ミニボトルの水と薬を買った。これ以上の八つ当たりは罰が下りそうだから、駐輪場で薬を服用する。
帰っているうちに効果が出て来るかもしれない。
うんざりと眩い太陽を睨みつけ、自転車に跨る。
高校卒業後の進路は未定だけど、ひとつ決まった。
速攻で車の免許を取る!
「ふぅ…」と息を吐いて、遠くにゆらめく逃げ水を追いかける。
炎天下、じりじりと肌を焼きながら自転車を漕いでいる人なんて、見渡す限りは誰もいない。歩いている人は、日傘とハンディ扇風機という対策をしつつ、木陰を選んで先を急いでいる。
山間部の田舎なのに、盆地という特性上、全く涼しくない。川や水路があったところで、得られる涼は限られる。
特に、土蔵造りの重要伝統的建造物群保存地区や古民家が建ち並ぶ御幸通りに面した飲食店は、観光客が相手だからか、目で楽しむ涼に力を入れている。店前の水路を活かし、笊に乗せたラムネ、ネットに入れたスイカやキュウリを清流に浸している。軒先の風鈴と相俟って、目と耳で涼を得られるが、体は正直なのだ。涼しくない。ラムネだって、冷蔵庫で冷やした物の方が美味しいのに、観光客は好んで川に浸かる方を選ぶ。
不思議な光景を横目で見ながら、のろのろとペダルを漕ぐ。
と、前方の人影から何かが落ちた。
ぽて…。
真っ赤に熟れたトマトが竹籠バッグから落ちて、熱気を放つアスファルトで潰れた。
せっかくの夏野菜をダメにしたおじさんが、しょんぼりと眉尻を下げてトマトを見下ろしている。手にした大きな竹籠バッグからは、トマトの他にキュウリやナスが覗いている。冷やして食べれば、きっと美味しいはずだ。
「ああ…勿体ないことをしてしまった」
おじさんが腰を折って拉げたトマトを拾い上げる姿は、何とも言えない哀愁がある。
思わず自転車を止める。
「あの。この袋を使って下さい」
余計なお世話かと思ったけど、声をかけずにいられなかった。
頬を伝う汗を拭い、背中のリュックを自転車のカゴに乗せる。そうして、ハンドルに提げたビニール袋の中身を、全てリュックに詰め直した。
空になったビニール袋を「どうぞ」と差し出せば、おじさんは驚いたように目を丸める。
色素の薄い琥珀色の瞳だ。
珍しい色だと思う。
髪は暗褐色で、寝癖なのか癖毛なのか。毛先がぴんぴんと跳ねている。背が高いけど、少し垂れ目の可愛い顔立ちのせいで威圧感はない。無精髭も不潔感はなく、「おじ様」と呼びたくなる雰囲気を醸し出す。これで草臥れたシャツではなく、スーツを着こなしていれば、社長といった感じかもしれない。
そんなおじさんは、私を凝視した後、周囲に視線を巡らせた。
「あの…潰れたトマトに使って下さい」
反応のなさに困惑してしまう。
不審者と思われただろうかと怯んでいると、おじさんはぱちくりと瞬いた後に柔和な笑みを浮かべた。
「ありがとう。お嬢さん」
笑顔も素敵なら、声も穏やかで耳障りが良い。
ビニール袋を広げれば、おじさんは拉げたトマトを入れた。それからビニール袋を受け取り、丁寧に頭を下げてくれる。
「助かったよ。久方ぶりに挨拶へ行くお宅に、潰れたトマトを握って伺うのは拙いからね」
そう言って、おじさんは相好を崩す。
おじさんの穏やかな雰囲気もあってか、私のイライラが急速に萎むのを感じる。
「その野菜はお土産ですか?」
「私が丹精込めて育てたんだ。無農薬だよ」
おじさんは誇らしげだ。
「素敵なお土産ですね。きっと喜んでくれます」
「ありがとう」
にこり、と笑顔を交わして、「それじゃあ」と、ペダルに足を乗せたところで、「もしかして」と呼び止められる。
「お嬢さんは久瀬さんかな?」
「おじさん、うちのお客さんなの?」
父の客だろうか、と思ってみたけど父より10は年下に見える。そんな年齢差で”友人”と言うのだろうか。
大人の世界は分からないから、年齢は関係なく親しくなれば友人と言うのかもしれない。
でも、何か違和感が拭えない。
おじさんは少しだけ眉間に皺を刻み、「まぁ…そうだね」と躊躇いがちに頷いた。
「客と言えば客になるのかな?約束を取り付けているわけじゃないんだよ」
なるほど。
出がけに、父は何も言っていなかったはずだ。
「父は今、出かけているんです。帰りは昼過ぎだから、ちょっと待たせちゃうかも」
そう言えば、おじさんは「大丈夫」と頭を振った。
せっかく会いに来てくれたのだ。ここで追い返すのも申し訳ない。
私は自転車を下り、おじさんと並んで歩くことにした。「ご一緒します」と言えば、おじさんは嬉しそうに口元を綻ばせる。
「おじさん、背が高いですね」
「そうかな?」
「うちにも大きいのがいるけど、姿勢が悪いから…。だから、おじさんが余計大きく見えるんです。おじさん、すごく姿勢が良いもの」
背比べをするまでもなく、背丈で言えば須久奈様の方が無駄にデカい。
それでも、おじさんの歪みない背筋は見ているだけで気持ちが良い。
おじさんは、「初めて言われたよ」と破顔した。
「女の子に褒められると照れるね」
「またまた。イケおじなのに。絶対モテるでしょ?」
私が笑えば、おじさんは頭を振る。
「モテないよ。まぁ、私は畑で土いじりをしている方が性に合うからね」
おじさんの持つ竹籠バッグに目を向ける。
スーパーで並ぶ、サイズが均一の野菜とは違う。ナスは大きくても形はさはちぐはぐだし、キュウリは不格好に曲がっている。トマトもキレイな丸じゃない。それでも色合いが濃く、見るからに美味しそうなのだ。
よくよく見れば、野菜の隙間から、トウモロコシの黄金色の房が飛び出している。
竹籠バッグの底には、また違う野菜が隠れているらしい。
「おじさん、久しぶりにって言ってたけど、うちに遊びに来たことあるんですか?」
「数える程度だね。でも、来るなと突っ撥ねられたんだ」
再びしょんぼり、と眉尻が下がる。
「何それ。まさか、私のお父さんが言ったの?信じられない」
唇を尖らせれば、おじさんは苦笑する。
「喧嘩したのかは知らないけど、こうして来てくれたんだもん。おじさんは優しい人なんですね」
「そう思うかい?」
「だって、私なら絶対に会いに行こうなんて思わない。電話で謝られても、お前から来いって言っちゃうかも」
私が言えば、おじさんは声を出して笑った。
「それは名案だね。私にその度胸はないけど」
一緒に角を曲がり、現れた白い土塀に沿って歩く。壁の向こうは我が家だ。代々続く蔵元で、敷地内に酒蔵もあるので、他所の家よりも広々としている。ただ、家は古臭くて、私としてはリフォームを推奨したくなる。
数寄屋門の横に作られた車庫…というには簡易的な、ポリカーボネートの屋根があるだけのスペースに、自転車を止める。
リュックを手にして、門へと歩く。
隣近所に比べて仰々しい門構えだけど、鍵は夜しかかけていない。つまり、日中は誰でも行き来が自由なのだ。
カラカラ、と引き戸を開く。
おじさんは門前で足を止め、周囲を見渡した。
「どうぞ」と招けば、どこか緊張した顔つきで敷居を跨いで、また足を止める。
怪訝に目を細めれば、おじさんは庭の奥を見据えている。
庭木が目隠しとなっているけど、母屋の壁と松の木の間を抜け、左手に曲がれば裏庭へと行くことが出来る。前庭は若手の蔵人が、毎朝竹箒を手に掃いてくれているけど、裏庭は立ち入り禁止区域だ。
我が家の裏庭は神聖な神様の住まいとなっている。
つまり、須久奈様が住む離れだ。
「おじさん?」
首を傾げておじさんを見上げれば、「一花…」と身の毛の弥立つ声が聞こえて来た。
その声に、ぞわわっと鳥肌が立つ。
声の方向に振り向けば、須久奈様がホラー映画さながらのどす黒いオーラを纏い、松の木の影に立っていた。
「ひっ」と、引き攣った悲鳴が漏れるのは許してほしい。
白藍色の着物は爽やかなのに、目元を覆う前髪は陰気で、猫背と胸の前で垂らした手が幽霊のそれを演出しているのだ。
神々しいどころか、逆に呪われそうな雰囲気が漂う。
ただ、前髪を払い除ければ、絶世の美貌を拝むことが出来る。
今は貴重な御尊顔は鳴りを潜め、真夏の青空が霞むほどのおどろおどろしさが満ちている。普段は根暗コミュ障の無益無害の神様だけど、怒らせると非常に畏ろしいのだ。
朝のことを根に持っているに違いない。
でも、体調不良なところにベタベタとして来たら、誰だってイライラする。
神様に対する振る舞いではなかったと後悔しても遅い。明らかに、須久奈様の御機嫌は斜めどころか急降下している。急激に暑さが遠ざかり、背筋を悪寒が撫で続ける。
ゆっくりと歩んで来る須久奈様を見、それからおじさんに目を向ける。
気のせいか、おじさんの目は須久奈様に向けられている。
神様というのは、万人が目にできる訳じゃない。神様自身が姿を見せようとしない限り、極一部の人しか見ることが出来ないのだと聞く。私は……というか、久瀬家の女子は、そんな稀有な目を持っている。ただ、勘が鋭い人は、神様が近くにいれば気付くらしいことを、弟の誓志で実証済みだ。
特に、今の須久奈様みたいに不機嫌な神様が傍にいると、恐怖で卒倒してしまう。
おじさんも誓志タイプなのかも知れない。
「あ…あの、おじさん?家じゃなくて、えっと…酒販店の方に行きましょう。冷やしてある甘酒があるので…」
くるり、と踵を返して、おじさんの腕を取ろうとしたところで、私の方が須久奈様に捕まった。
そのまますっぽりと、須久奈様の腕の中だ。ぎゅっと抱きしめられ、着物の袖で視界を塞がれる。
「何しに来た?」
威嚇を込めた声は、私に向けられたものじゃない。
頭の中でクエスチョンマークが飛び交う。
「酷いな…。この前、君から会いに来てくれた時は嬉しかったのに」
「会いに行ったんじゃない。伝言を頼んだんだ」
何がなんだか頭が追いつかない。
どうやら、須久奈様は私に腹を立てているわけじゃないらしい。
須久奈様が怒っているのは、おじさんだ。
私が感じた怖気は、流れ弾が当たった感じ…なのだろう。
「…おじさん?」
怖々と、邪魔な袖を捲り上げる。
「人じゃ…ないの?」
丸々と目を見開けば、おじさんは無精髭を掻きながら苦笑する。
「いっ…い、い一花。目を見るなと…な、何度も言ってるだろ…!」
須久奈様が歯軋りしながら、ぎゅうぎゅうと抱きしめる。
恐怖が去れば、暑苦しさが戻って来る。
汗だくだから恥ずかしいのに、須久奈様は構わないらしい。汗の流れる首筋に鼻を近づけ、すんすん、とニオイを嗅いで来るから気持ち悪い。
身を捩って抵抗しても、私の力じゃ太刀打ちできない。
「嗅ぐの止めて下さいっ」
「へ、変な臭いをつけて帰ってないかのチェックだろ…。お、おおおお俺がしっかりしなきゃ…一花…すぐに変な臭いを付けて帰るから…」
須久奈様は言って、おじさん――神様(仮)をじっとりと見据える。
「臭いどころか…連れて帰るなよな…。なんで拾って来るんだ…」
ぎりぎりと歯噛みする須久奈様とは対照的に、神様(仮)は穏やかに微笑んでいる。
須久奈様や神直日神とは全く雰囲気が違うけれど、神様(仮)だと思って観察して見れば、抱き続けていた違和感の正体が理解できる。
須久奈様と同じで、炎天下でも汗一つ掻いていない。纏う気配も人とは違う。穏やかで、濁りがない。傍にいるだけで、負の感情を浄化するような包容力を感じるのだ。
私が描き続けた神様像に一番近い。
須久奈様には口が裂けても言えないけれど…。
「私、神様とは知らずに失礼なことを言い続けてたんですね」
それも、傍から見れば盛大な独り言を呟き続けていたのだ。
私は独り言が凄い可哀想な子として、近所に噂されるかも知れない。
ぞっとする…。
神様(仮)は苦笑し、「私こそ悪かったね」と頭を掻いた。
「私の目を見て話すから、驚いたんだ。久瀬家の人間と知って、得心がいったが…。そうか。この子が須久奈の許嫁か」
にこにことした笑顔の神様(仮)に、須久奈様は途端に顔を真っ赤にした。気恥ずかし気に身を捩り、「へへへ…」と不気味な笑い声を立てる。
機嫌が直ったのは良いことだけど、笑い方が実に気持ち悪い。
「私、久瀬一花と言います」
須久奈様に抱きつかれているので、頭を下げるのは難しい。
怖ず怖ずと、目礼だけで済ませる。
「初めまして、一花ちゃん。私は年神と言うんだ」
「と…!」
年神様!
緊張に、「ひゅ」と喉が鳴る。
年神様と言えば、メジャー中のメジャーな神様だ。稲荷神である宇迦之御魂神様と兄妹で、須久奈様の数少ない「嫌いじゃない」神様の1柱。お正月に来訪する縁起の良い神様であり、宇迦之御魂神様と同様に穀物の神様……………だった気がする。
つまり、私は年神様に向かって”おじさん”を連呼していたのだ。
「すごい神様に失礼してた…」
ぽつりと零れた独り言に、須久奈様がむっと顔を顰めた。
年神様は困惑気味に須久奈様を見ている。
「須久奈は自分のことを教えてないのかい?」
「必要ない」
不愛想な声が一蹴する。
「必要なことだよ。恥を掻くのは君かもしれないけど、他の者に不敬だと咎められるのは一花ちゃんだ。何より、自分を蔑ろにされて不貞腐れるくらいなら、きちんと説明すべきじゃないかな」
年神様の苦言に、須久奈様は「五月蠅い」と苛立つ。
「で、何しに来た?来るなと言ったはずだ」
「寂しいことを言わないでくれ。どうせ直日に居所がバレたんだから、もう意味はないよ」
年神様は肩を竦める。
意味が分からず、身動ぎしながら須久奈様を見上げれば、なんともバツの悪そうな顔だ。
沈黙する須久奈様に代わり、年神様が説明してくれる。
「須久奈はね、とある神と一悶着…というか、彼のトラブルに巻き込まれ続けて、ある日、我慢の限界を迎えてね。雲隠れしたんだよ。須久奈の居場所を知っているのは、限られた者だけだから、多くの神が須久奈は死んだと考えるようになったんだ。私たちとしては本意ではなかったけれど、須久奈が黙っていろと言えば、誰もそれに逆らえない」
年神様は眉を八の字にして、深々とため息を吐いた。
「昔の須久奈は、不愛想ではあったけど、比較的社交的だったよ」
なんと!
根暗コミュ障は生まれつきじゃなくて、人間不信ならぬ神様不信に陥った原因があったのか…。
口を半開きに須久奈様を見上げれば、須久奈様はついっと目を逸らした。
年神様が苦笑する。
「須久奈。直日は酒が進めば口を滑らせ易い。須久奈が現世にいることは、今や公然の秘密になっているんだよ」
「よし…やっぱり、あの莫迦は殺そう」
「殺しては駄目だよ?」
まるで大人が子供を諭すような口調だ。
須久奈様は仏頂面のまま、ふん、と鼻を鳴らす。
「まぁ、そう言うわけだから、疎遠にしている意味がないんだ。須久奈も会いに来てくれたから、今度は私からと思ってね。こうして自慢の野菜を持って来た次第だ」
「そうか…。なら、それを置いて帰れ」
須久奈様は「しっ、しっ」と手を振り、「一花は体調が良くないんだ」と付け加える。
私をダシにする気なのか、せっかく会いに来てくれた年神様を追い返そうとするなんて呆れてしまう。
須久奈様の腕からすり抜け、「病気なのかい?」と心配そうな年神様に頭を振る。
「病気じゃありません」
「あ、あ朝、腹を押さえて呻いてただろ……」
唇を尖らせ、猫背をさらに丸めて私の顔を覗き込んで来る。
もっさりとした前髪の奥で、鳶色の双眸が非難めいた色で私を見ている。「寝ていろと制止したのに…」とか「お、俺の…そそそそ添い寝付きだぞ…」とか、ぶつぶつと五月蠅い。しかも、自分で言って、自分で照れて、息を荒げながら見て来るから怖い。
「もう大丈夫です」
そう言えば、「な、な…なんで嘘を言うんだよ」と迫力ゼロに責めてくる。
「あれは違います。病気とは無関係です」
「お、俺は…病気とは言ってない。た、た体調が…優れないと…言ったんだ」
須久奈様は過保護…いや、過干渉と言うのかもしれない。
ため息を呑み込んで、真っすぐに須久奈様の目を見返せば、もじもじ指を絡ませながら目を逸らす。
耳どころか首元まで真っ赤だ。
そろそろ馴れてくれても良さそうなのに…。
「とにかく、私は病気じゃありません」
ここで立ち話している方が、熱中症で倒れそうだ。
頬を伝う汗を拭い、「年神様」と玄関を手で示す。
「大したおもてなしは出来ませんが、どうぞ上がって下さい」
「しかし…本当に大丈夫かい?」
私にというより、須久奈様に配慮した顔つきだ。
「年神。帰るんだ」
「須久奈様」
呆れる。
ぐるりと目玉を回して空を仰げば、須久奈様が力を込めて叫んだ。
「つ!”月のもの”で辛いんだから大人しくしてろ!ニオイで分かるんだからな!」
気付いた時、私の手は須久奈様の頬にクリーンヒットしていた。
今生で一番の不敬だけど、絶っ対に後悔のない一発だ。
この神様にデリカシーを説いたところで、きっと無駄なのだと思う。それでも、これだけは言いたい。
「神様だからって、何言っても許されるわけじゃないんですよっ」
「え?な…なななんで?」と、頬に手を当て呆然とする須久奈様の肩を、年神様が優しく叩いた。
「今のは須久奈が悪い」
優しい口調で説教している年神様の声を聞きながら、私は燦然と輝く太陽を仰ぐ。
暑い…。
お腹痛い…イライラする…。
とりあえず、生理が終わるまで、生活の拠点は母屋にすることに決めた。
朝方は五月蠅く鳴いていたセミも、昼が近づくにつれて夏バテぎみに静まった。
天気予報を見たわけじゃないから詳しくは分からないけど、父曰く、最高気温は35度超えの酷暑になるとのこと。
茹だる暑さの中、両親は町内会の寄合に出かけて行った。仕出し弁当が出るらしく、帰りは1時過ぎになるという。姉の百花は酒販店で店番。弟の誓志は、熱中症対策に甘酒を飲み、氷水で冷やしたタオルを首に巻き付け、朝早くに部活へ行った。
私は朝から体調が芳しくはない。
女の子特有のものだ。友達と比べれば軽いから、病人みたいに寝ているというのも気が引ける。というか、じっと寝ているのが苦手なので、つい動き回ってしまう。
ただ、今日はいつもより重い。重いと、イライラが止まらなくなる。
そんな日に限って、我が家の常駐の神様――須久奈様が2割増しで鬱陶しく纏わりついて来るのだ。
罰当たりとは思っても、少しばかり塩対応になるのは仕方ない。
ただ、それをヨシと割り切れるほど、須久奈様を軽んじているわけじゃない。ちゃんと払うべき敬意は持っているし、時として畏れだって抱いている。
それでもイライラが止まらないのが生理だ。
改善させるには鎮痛薬だけど、生憎、薬箱には胃薬と鼻炎薬しかなかった。
「こんな時に薬が切れてるなんて…!」
お腹痛い、暑い、お腹痛い…、を呪詛のように呟き、必死で自転車を漕ぐ。
ほんのり涙ぐんだ須久奈様の制止を振り切り、これ以上の無礼を働く前に…と家を出たは10分前。
吹く風は熱風。
リュックを背負っているから、背中が蒸れて気持ち悪い。
頭から滝のような汗を流し、向かうは国道沿いのドラッグストア。有名チェーン店なので、品揃えはスーパー並みだ。
家から自転車で15分。
体調が底辺を彷徨っている今は、永遠とも思える距離だ。ドラッグストアの緑色の看板が見えた時、心の底から安堵の息が漏れた。
駐輪場に自転車を止め、急いで店内に駆け込む。
しばしの休憩は、強力な冷房が吹き付ける場所と決まっている。
汗が引くのを待って、お気に入りのミルクティーとチョコレート。ミニボトルの水と薬を買った。これ以上の八つ当たりは罰が下りそうだから、駐輪場で薬を服用する。
帰っているうちに効果が出て来るかもしれない。
うんざりと眩い太陽を睨みつけ、自転車に跨る。
高校卒業後の進路は未定だけど、ひとつ決まった。
速攻で車の免許を取る!
「ふぅ…」と息を吐いて、遠くにゆらめく逃げ水を追いかける。
炎天下、じりじりと肌を焼きながら自転車を漕いでいる人なんて、見渡す限りは誰もいない。歩いている人は、日傘とハンディ扇風機という対策をしつつ、木陰を選んで先を急いでいる。
山間部の田舎なのに、盆地という特性上、全く涼しくない。川や水路があったところで、得られる涼は限られる。
特に、土蔵造りの重要伝統的建造物群保存地区や古民家が建ち並ぶ御幸通りに面した飲食店は、観光客が相手だからか、目で楽しむ涼に力を入れている。店前の水路を活かし、笊に乗せたラムネ、ネットに入れたスイカやキュウリを清流に浸している。軒先の風鈴と相俟って、目と耳で涼を得られるが、体は正直なのだ。涼しくない。ラムネだって、冷蔵庫で冷やした物の方が美味しいのに、観光客は好んで川に浸かる方を選ぶ。
不思議な光景を横目で見ながら、のろのろとペダルを漕ぐ。
と、前方の人影から何かが落ちた。
ぽて…。
真っ赤に熟れたトマトが竹籠バッグから落ちて、熱気を放つアスファルトで潰れた。
せっかくの夏野菜をダメにしたおじさんが、しょんぼりと眉尻を下げてトマトを見下ろしている。手にした大きな竹籠バッグからは、トマトの他にキュウリやナスが覗いている。冷やして食べれば、きっと美味しいはずだ。
「ああ…勿体ないことをしてしまった」
おじさんが腰を折って拉げたトマトを拾い上げる姿は、何とも言えない哀愁がある。
思わず自転車を止める。
「あの。この袋を使って下さい」
余計なお世話かと思ったけど、声をかけずにいられなかった。
頬を伝う汗を拭い、背中のリュックを自転車のカゴに乗せる。そうして、ハンドルに提げたビニール袋の中身を、全てリュックに詰め直した。
空になったビニール袋を「どうぞ」と差し出せば、おじさんは驚いたように目を丸める。
色素の薄い琥珀色の瞳だ。
珍しい色だと思う。
髪は暗褐色で、寝癖なのか癖毛なのか。毛先がぴんぴんと跳ねている。背が高いけど、少し垂れ目の可愛い顔立ちのせいで威圧感はない。無精髭も不潔感はなく、「おじ様」と呼びたくなる雰囲気を醸し出す。これで草臥れたシャツではなく、スーツを着こなしていれば、社長といった感じかもしれない。
そんなおじさんは、私を凝視した後、周囲に視線を巡らせた。
「あの…潰れたトマトに使って下さい」
反応のなさに困惑してしまう。
不審者と思われただろうかと怯んでいると、おじさんはぱちくりと瞬いた後に柔和な笑みを浮かべた。
「ありがとう。お嬢さん」
笑顔も素敵なら、声も穏やかで耳障りが良い。
ビニール袋を広げれば、おじさんは拉げたトマトを入れた。それからビニール袋を受け取り、丁寧に頭を下げてくれる。
「助かったよ。久方ぶりに挨拶へ行くお宅に、潰れたトマトを握って伺うのは拙いからね」
そう言って、おじさんは相好を崩す。
おじさんの穏やかな雰囲気もあってか、私のイライラが急速に萎むのを感じる。
「その野菜はお土産ですか?」
「私が丹精込めて育てたんだ。無農薬だよ」
おじさんは誇らしげだ。
「素敵なお土産ですね。きっと喜んでくれます」
「ありがとう」
にこり、と笑顔を交わして、「それじゃあ」と、ペダルに足を乗せたところで、「もしかして」と呼び止められる。
「お嬢さんは久瀬さんかな?」
「おじさん、うちのお客さんなの?」
父の客だろうか、と思ってみたけど父より10は年下に見える。そんな年齢差で”友人”と言うのだろうか。
大人の世界は分からないから、年齢は関係なく親しくなれば友人と言うのかもしれない。
でも、何か違和感が拭えない。
おじさんは少しだけ眉間に皺を刻み、「まぁ…そうだね」と躊躇いがちに頷いた。
「客と言えば客になるのかな?約束を取り付けているわけじゃないんだよ」
なるほど。
出がけに、父は何も言っていなかったはずだ。
「父は今、出かけているんです。帰りは昼過ぎだから、ちょっと待たせちゃうかも」
そう言えば、おじさんは「大丈夫」と頭を振った。
せっかく会いに来てくれたのだ。ここで追い返すのも申し訳ない。
私は自転車を下り、おじさんと並んで歩くことにした。「ご一緒します」と言えば、おじさんは嬉しそうに口元を綻ばせる。
「おじさん、背が高いですね」
「そうかな?」
「うちにも大きいのがいるけど、姿勢が悪いから…。だから、おじさんが余計大きく見えるんです。おじさん、すごく姿勢が良いもの」
背比べをするまでもなく、背丈で言えば須久奈様の方が無駄にデカい。
それでも、おじさんの歪みない背筋は見ているだけで気持ちが良い。
おじさんは、「初めて言われたよ」と破顔した。
「女の子に褒められると照れるね」
「またまた。イケおじなのに。絶対モテるでしょ?」
私が笑えば、おじさんは頭を振る。
「モテないよ。まぁ、私は畑で土いじりをしている方が性に合うからね」
おじさんの持つ竹籠バッグに目を向ける。
スーパーで並ぶ、サイズが均一の野菜とは違う。ナスは大きくても形はさはちぐはぐだし、キュウリは不格好に曲がっている。トマトもキレイな丸じゃない。それでも色合いが濃く、見るからに美味しそうなのだ。
よくよく見れば、野菜の隙間から、トウモロコシの黄金色の房が飛び出している。
竹籠バッグの底には、また違う野菜が隠れているらしい。
「おじさん、久しぶりにって言ってたけど、うちに遊びに来たことあるんですか?」
「数える程度だね。でも、来るなと突っ撥ねられたんだ」
再びしょんぼり、と眉尻が下がる。
「何それ。まさか、私のお父さんが言ったの?信じられない」
唇を尖らせれば、おじさんは苦笑する。
「喧嘩したのかは知らないけど、こうして来てくれたんだもん。おじさんは優しい人なんですね」
「そう思うかい?」
「だって、私なら絶対に会いに行こうなんて思わない。電話で謝られても、お前から来いって言っちゃうかも」
私が言えば、おじさんは声を出して笑った。
「それは名案だね。私にその度胸はないけど」
一緒に角を曲がり、現れた白い土塀に沿って歩く。壁の向こうは我が家だ。代々続く蔵元で、敷地内に酒蔵もあるので、他所の家よりも広々としている。ただ、家は古臭くて、私としてはリフォームを推奨したくなる。
数寄屋門の横に作られた車庫…というには簡易的な、ポリカーボネートの屋根があるだけのスペースに、自転車を止める。
リュックを手にして、門へと歩く。
隣近所に比べて仰々しい門構えだけど、鍵は夜しかかけていない。つまり、日中は誰でも行き来が自由なのだ。
カラカラ、と引き戸を開く。
おじさんは門前で足を止め、周囲を見渡した。
「どうぞ」と招けば、どこか緊張した顔つきで敷居を跨いで、また足を止める。
怪訝に目を細めれば、おじさんは庭の奥を見据えている。
庭木が目隠しとなっているけど、母屋の壁と松の木の間を抜け、左手に曲がれば裏庭へと行くことが出来る。前庭は若手の蔵人が、毎朝竹箒を手に掃いてくれているけど、裏庭は立ち入り禁止区域だ。
我が家の裏庭は神聖な神様の住まいとなっている。
つまり、須久奈様が住む離れだ。
「おじさん?」
首を傾げておじさんを見上げれば、「一花…」と身の毛の弥立つ声が聞こえて来た。
その声に、ぞわわっと鳥肌が立つ。
声の方向に振り向けば、須久奈様がホラー映画さながらのどす黒いオーラを纏い、松の木の影に立っていた。
「ひっ」と、引き攣った悲鳴が漏れるのは許してほしい。
白藍色の着物は爽やかなのに、目元を覆う前髪は陰気で、猫背と胸の前で垂らした手が幽霊のそれを演出しているのだ。
神々しいどころか、逆に呪われそうな雰囲気が漂う。
ただ、前髪を払い除ければ、絶世の美貌を拝むことが出来る。
今は貴重な御尊顔は鳴りを潜め、真夏の青空が霞むほどのおどろおどろしさが満ちている。普段は根暗コミュ障の無益無害の神様だけど、怒らせると非常に畏ろしいのだ。
朝のことを根に持っているに違いない。
でも、体調不良なところにベタベタとして来たら、誰だってイライラする。
神様に対する振る舞いではなかったと後悔しても遅い。明らかに、須久奈様の御機嫌は斜めどころか急降下している。急激に暑さが遠ざかり、背筋を悪寒が撫で続ける。
ゆっくりと歩んで来る須久奈様を見、それからおじさんに目を向ける。
気のせいか、おじさんの目は須久奈様に向けられている。
神様というのは、万人が目にできる訳じゃない。神様自身が姿を見せようとしない限り、極一部の人しか見ることが出来ないのだと聞く。私は……というか、久瀬家の女子は、そんな稀有な目を持っている。ただ、勘が鋭い人は、神様が近くにいれば気付くらしいことを、弟の誓志で実証済みだ。
特に、今の須久奈様みたいに不機嫌な神様が傍にいると、恐怖で卒倒してしまう。
おじさんも誓志タイプなのかも知れない。
「あ…あの、おじさん?家じゃなくて、えっと…酒販店の方に行きましょう。冷やしてある甘酒があるので…」
くるり、と踵を返して、おじさんの腕を取ろうとしたところで、私の方が須久奈様に捕まった。
そのまますっぽりと、須久奈様の腕の中だ。ぎゅっと抱きしめられ、着物の袖で視界を塞がれる。
「何しに来た?」
威嚇を込めた声は、私に向けられたものじゃない。
頭の中でクエスチョンマークが飛び交う。
「酷いな…。この前、君から会いに来てくれた時は嬉しかったのに」
「会いに行ったんじゃない。伝言を頼んだんだ」
何がなんだか頭が追いつかない。
どうやら、須久奈様は私に腹を立てているわけじゃないらしい。
須久奈様が怒っているのは、おじさんだ。
私が感じた怖気は、流れ弾が当たった感じ…なのだろう。
「…おじさん?」
怖々と、邪魔な袖を捲り上げる。
「人じゃ…ないの?」
丸々と目を見開けば、おじさんは無精髭を掻きながら苦笑する。
「いっ…い、い一花。目を見るなと…な、何度も言ってるだろ…!」
須久奈様が歯軋りしながら、ぎゅうぎゅうと抱きしめる。
恐怖が去れば、暑苦しさが戻って来る。
汗だくだから恥ずかしいのに、須久奈様は構わないらしい。汗の流れる首筋に鼻を近づけ、すんすん、とニオイを嗅いで来るから気持ち悪い。
身を捩って抵抗しても、私の力じゃ太刀打ちできない。
「嗅ぐの止めて下さいっ」
「へ、変な臭いをつけて帰ってないかのチェックだろ…。お、おおおお俺がしっかりしなきゃ…一花…すぐに変な臭いを付けて帰るから…」
須久奈様は言って、おじさん――神様(仮)をじっとりと見据える。
「臭いどころか…連れて帰るなよな…。なんで拾って来るんだ…」
ぎりぎりと歯噛みする須久奈様とは対照的に、神様(仮)は穏やかに微笑んでいる。
須久奈様や神直日神とは全く雰囲気が違うけれど、神様(仮)だと思って観察して見れば、抱き続けていた違和感の正体が理解できる。
須久奈様と同じで、炎天下でも汗一つ掻いていない。纏う気配も人とは違う。穏やかで、濁りがない。傍にいるだけで、負の感情を浄化するような包容力を感じるのだ。
私が描き続けた神様像に一番近い。
須久奈様には口が裂けても言えないけれど…。
「私、神様とは知らずに失礼なことを言い続けてたんですね」
それも、傍から見れば盛大な独り言を呟き続けていたのだ。
私は独り言が凄い可哀想な子として、近所に噂されるかも知れない。
ぞっとする…。
神様(仮)は苦笑し、「私こそ悪かったね」と頭を掻いた。
「私の目を見て話すから、驚いたんだ。久瀬家の人間と知って、得心がいったが…。そうか。この子が須久奈の許嫁か」
にこにことした笑顔の神様(仮)に、須久奈様は途端に顔を真っ赤にした。気恥ずかし気に身を捩り、「へへへ…」と不気味な笑い声を立てる。
機嫌が直ったのは良いことだけど、笑い方が実に気持ち悪い。
「私、久瀬一花と言います」
須久奈様に抱きつかれているので、頭を下げるのは難しい。
怖ず怖ずと、目礼だけで済ませる。
「初めまして、一花ちゃん。私は年神と言うんだ」
「と…!」
年神様!
緊張に、「ひゅ」と喉が鳴る。
年神様と言えば、メジャー中のメジャーな神様だ。稲荷神である宇迦之御魂神様と兄妹で、須久奈様の数少ない「嫌いじゃない」神様の1柱。お正月に来訪する縁起の良い神様であり、宇迦之御魂神様と同様に穀物の神様……………だった気がする。
つまり、私は年神様に向かって”おじさん”を連呼していたのだ。
「すごい神様に失礼してた…」
ぽつりと零れた独り言に、須久奈様がむっと顔を顰めた。
年神様は困惑気味に須久奈様を見ている。
「須久奈は自分のことを教えてないのかい?」
「必要ない」
不愛想な声が一蹴する。
「必要なことだよ。恥を掻くのは君かもしれないけど、他の者に不敬だと咎められるのは一花ちゃんだ。何より、自分を蔑ろにされて不貞腐れるくらいなら、きちんと説明すべきじゃないかな」
年神様の苦言に、須久奈様は「五月蠅い」と苛立つ。
「で、何しに来た?来るなと言ったはずだ」
「寂しいことを言わないでくれ。どうせ直日に居所がバレたんだから、もう意味はないよ」
年神様は肩を竦める。
意味が分からず、身動ぎしながら須久奈様を見上げれば、なんともバツの悪そうな顔だ。
沈黙する須久奈様に代わり、年神様が説明してくれる。
「須久奈はね、とある神と一悶着…というか、彼のトラブルに巻き込まれ続けて、ある日、我慢の限界を迎えてね。雲隠れしたんだよ。須久奈の居場所を知っているのは、限られた者だけだから、多くの神が須久奈は死んだと考えるようになったんだ。私たちとしては本意ではなかったけれど、須久奈が黙っていろと言えば、誰もそれに逆らえない」
年神様は眉を八の字にして、深々とため息を吐いた。
「昔の須久奈は、不愛想ではあったけど、比較的社交的だったよ」
なんと!
根暗コミュ障は生まれつきじゃなくて、人間不信ならぬ神様不信に陥った原因があったのか…。
口を半開きに須久奈様を見上げれば、須久奈様はついっと目を逸らした。
年神様が苦笑する。
「須久奈。直日は酒が進めば口を滑らせ易い。須久奈が現世にいることは、今や公然の秘密になっているんだよ」
「よし…やっぱり、あの莫迦は殺そう」
「殺しては駄目だよ?」
まるで大人が子供を諭すような口調だ。
須久奈様は仏頂面のまま、ふん、と鼻を鳴らす。
「まぁ、そう言うわけだから、疎遠にしている意味がないんだ。須久奈も会いに来てくれたから、今度は私からと思ってね。こうして自慢の野菜を持って来た次第だ」
「そうか…。なら、それを置いて帰れ」
須久奈様は「しっ、しっ」と手を振り、「一花は体調が良くないんだ」と付け加える。
私をダシにする気なのか、せっかく会いに来てくれた年神様を追い返そうとするなんて呆れてしまう。
須久奈様の腕からすり抜け、「病気なのかい?」と心配そうな年神様に頭を振る。
「病気じゃありません」
「あ、あ朝、腹を押さえて呻いてただろ……」
唇を尖らせ、猫背をさらに丸めて私の顔を覗き込んで来る。
もっさりとした前髪の奥で、鳶色の双眸が非難めいた色で私を見ている。「寝ていろと制止したのに…」とか「お、俺の…そそそそ添い寝付きだぞ…」とか、ぶつぶつと五月蠅い。しかも、自分で言って、自分で照れて、息を荒げながら見て来るから怖い。
「もう大丈夫です」
そう言えば、「な、な…なんで嘘を言うんだよ」と迫力ゼロに責めてくる。
「あれは違います。病気とは無関係です」
「お、俺は…病気とは言ってない。た、た体調が…優れないと…言ったんだ」
須久奈様は過保護…いや、過干渉と言うのかもしれない。
ため息を呑み込んで、真っすぐに須久奈様の目を見返せば、もじもじ指を絡ませながら目を逸らす。
耳どころか首元まで真っ赤だ。
そろそろ馴れてくれても良さそうなのに…。
「とにかく、私は病気じゃありません」
ここで立ち話している方が、熱中症で倒れそうだ。
頬を伝う汗を拭い、「年神様」と玄関を手で示す。
「大したおもてなしは出来ませんが、どうぞ上がって下さい」
「しかし…本当に大丈夫かい?」
私にというより、須久奈様に配慮した顔つきだ。
「年神。帰るんだ」
「須久奈様」
呆れる。
ぐるりと目玉を回して空を仰げば、須久奈様が力を込めて叫んだ。
「つ!”月のもの”で辛いんだから大人しくしてろ!ニオイで分かるんだからな!」
気付いた時、私の手は須久奈様の頬にクリーンヒットしていた。
今生で一番の不敬だけど、絶っ対に後悔のない一発だ。
この神様にデリカシーを説いたところで、きっと無駄なのだと思う。それでも、これだけは言いたい。
「神様だからって、何言っても許されるわけじゃないんですよっ」
「え?な…なななんで?」と、頬に手を当て呆然とする須久奈様の肩を、年神様が優しく叩いた。
「今のは須久奈が悪い」
優しい口調で説教している年神様の声を聞きながら、私は燦然と輝く太陽を仰ぐ。
暑い…。
お腹痛い…イライラする…。
とりあえず、生理が終わるまで、生活の拠点は母屋にすることに決めた。
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