神様の許嫁

衣更月

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 何百年も昔、ここは落人おちうどが切り拓いた寒村だったという。
 山間の土地は落人が隠れ住むには適していたけど、作物を作るには厳しい土地だったそうだ。田畑を造るにも、大地に張り巡らされた木の根は強固で鋤を寄せ付けず。木の根を払えたかと思えば、大きな岩がゴロゴロと出てくる。
 夏は旱魃かんばつに苦しみ、冬は盆地特有の底冷えが弱者から命を奪った。
 粗末な神庫しんこに祀られていたのは、稲荷神でもあるウカノミタマノカミ。神庫を預かっていたのは、菖蒲あやめという巫女が一人。
 言い伝えによると、日照りが続いた夏の日、いよいよ人柱を立てなければと話が出始めた時、巫女が御神託を授かったのだと言う。
 地下水の場所を掘り当て井戸を造り、川から水路を巡らせ、田畑を生き返らせた。
 以来、村は”神の声”を意味する神籟しんらいを名乗るようになった。
 神籟村から神籟町へ。
 豊かになった町は、周囲を山々に囲われながらも城下町にまで成長したという歴史がある。
 久瀬家に伝わる話では、その菖蒲こそが我が家の先祖であるらしい。
 だったら菖蒲に御神託を授けたのが須久奈様なのかと言えば、神様の記録はない。なんとも消化不良の微妙な感じだ。そもそも話が脚色されている可能性だってある。
 どこまでが本当かは分からないけど、城下町にまで成長したのは事実だ。
 城下と言っても、城は疾うの昔に焼失してしまい、昭和の中頃に公園として整備された。今は小さなお堀と石垣だけが、城の名残りとなっている。
 公園にすべく重機が投入される前、どこかの大学の先生方が調査に来たらしい。学生からボランティアまで、年齢層も厚く発掘作業した結果、空振りだったのだろう。城跡には特筆するような案内板もなく、それ目当てに観光客が来ることもなく、子供の遊び場となっている。
 主な産業は昔から変わらずに林業。
 絵に描いたような盆地なので、広大な田畑はないけれど、農業も盛んだ。盆地の寒暖差という特性を生かし、梨や柿といったフルーツにも力を入れ始め、秋にはフルーツ狩りののぼり旗が目立つようになった。
 開拓時代の御神託の影響かは不明だけど、市のホームページでは”水の町”を謳っている。
 神籟町は網の目状に水路が流れ、川の上流には蛍の看板が目立つ。まぁ、水路については子供が落ちると危ないので、多くがコンクリートの蓋が被せてある。城下町らしい古い町並みを残す重要伝統的建造物群保存地区では、水路も観光の一環として開放してあるど、水量を調節して安全対策を講じていると聞く。
 観光地として村おこしが始まったのは戦後だ。江戸時代から続く商家や土蔵を観光の目玉に、近隣の温泉地へと赴く人たちにお金を落としてもらう作戦だ。
 その作戦は今も変わらない。
 古民家が建ち並ぶ御幸通りには、町の特産である杉を使った工芸品の店が軒を連ねる。昔は誰も買わないような古臭い工芸品ばかりだったらしいけど、今は若手作家としてUターンした職人が、お洒落なインテリア作りに尽力している。他にも空き家になった古民家をリノベーションしたカフェや和菓子屋もオープンした。
 旧屋敷や土蔵、資料館が建ち並ぶ商家町は、御幸通りから一本奥へ入った中道通りを起点に広がっている。建造物の多くが手つかずのままに保存されている一方で、重要伝統的建造物群保存地区を外れれば真新しいアパートが建ち、有名ドラッグストアがオープンしていたりする。
 一見して新旧が混在した町だけど、実際は新が入る余地はない。町を少し歩けば古い仕来りや因習が息づいているのを感じることができる。町で生まれ育てば、一度外に出たUターン者でも、時代錯誤の因習を素直に受け継ぐのだ。
 市では”水の町”を強調しているけど、町の人たちは”神様の住まう町”を自負している。
 有名神社はないけれど、ウカノミタマノカミを祭神とした稲荷神社や山神社、道祖神があちこちにある。町中を歩いていても、屋根付きの祠にお地蔵さんが鎮座していたり、庭木に柊や榊を植える家々が多い。
 とにかく、神様仏様への信仰心が篤いのだ。
 そのためか、町は大小合わせての祭りが年に4回もある。一番賑わうのが豊穣を感謝する秋の収穫祭だけど、一番力を入れているのが五穀豊穣を願う春の田植え祭り。観光客に人気の夏祭りも、疫病退散の意味の他に、実は山の神や田の神と深く関わっているらしい。もっとも質素でマイナーな農閑期の冬は、穢れを落とし新たな1年を始めるための水行祭が粛々と、人目を忍ぶように深夜に行われている。
 古い町なので、独自の神様を祀る家も多いと思う。うちのような特殊な事情を抱える所はないけど、友達の家にも屋敷神を祀っているし、神棚は大切されている。
 ただ、信仰の根付いた町に生まれ育ったからと言って、常に信仰心を抱いているわけじゃない。
 中学生頃には都会に憧れるし、高校生になれば町の古臭さに辟易する。大学進学や就職を機に都会に出て、初めて田舎のスローライフが懐かしくなる。他にはない因習の興味深さに気付いて出戻って来る人は珍しくはないのだ。
 私はどうだろうか。
 高校を卒業したら、町を出ることを念頭に置いていた。
 理由は一つ。
 久瀬家の跡継ぎは百花で、私は遅かれ早かれ独り立ちしなければならなかったからだ。
 友達と違って、都会への憧れは強くない。テレビで見るパンケーキや高級モンブランが食べたいな、くらいのものだ。
 そんな漠然とした将来設計が変わってしまった。
「やること、考えることがいっぱいありすぎる!」
 苛立ちを叫んで、自転車のペダルを踏み込む。
 汗だくになって自転車を漕いでいるのは、前輪がふらつくほどの急勾配だ。肩で息をして、白旗を振りながら自転車を下りる。視線を右手に走らせれば、神籟町が見渡せるほどの高台に来たのだと実感できる。
 住所による正確な神籟町は、北にある稲荷神社から南西へ伸びた区域だけど、地元民はここから見渡せる範囲を愛着を込めて神籟町と呼ぶ。
 神籟という呼称が重要なんだと思う。
 町のシンボルの城跡に視線を向ければ、既に山の影に覆われている。城跡の隣に並ぶ市立中学校と県立高校も翳り、古い外壁が黒ずんで見える。
 そこの高校は、家から自転車通学できるという安直な理由で、私と誓志が通う高校だ。
 私が入学した時は普通科と看護学科だけで、生徒数は400人前後だったのが、今は工芸科が新しくできて受験生が増えたらしい。部活動にも芸術面は進出し、若手作家が後進育成の作品作りを教えているのが物珍しく、それを目当てにうちの高校の見学希望が着実に増えているというから凄いと思う。
 結果、空き教室は満遍なく、工芸、彫刻用の教室となっている。体育館裏には木材が積まれ、それの保管、選別も生徒が行うのだから本格的だ。
 強豪とは程遠いけど、運動部も負けてはいない。
 田舎だけあってグラウンドは広い。
 ここからでも、ゴマ粒ほどの人影がグラウンドを駆け回っているのが見て取れる。
 誓志の所属するサッカー部の他にも、野球部と陸上部。学校を出て徒歩10分の場所にあるのは、テニス部のコートだ。
 たぶん、誓志はグラウンドのどこかにいるのだろう。
 観光地である重要伝統的建造物群保存地区は、城跡の手前に広がっている。位置的には稲荷神社の左手に城跡、正面に観光地と言った具合だ。ただ、観光地は支川しせんによって隔たっているので、ここから観光地を目指すなら城跡を目指す迂回ルートになる。2年前の豪雨で橋が流され、工事の目処が立っていないせいだ。不便ではあるけど、工事の優先度と予算は次の豪雨の備えに向けられているらしい。
 私の家は観光地から僅かに外れた場所に位置しているので、城跡を目指して大きく弧を描くように帰らなければならない。
 駅は稲荷神社の右手になる。
 学校からは徒歩20分ほど。線路は田畑を走り、山間を抜け、市街地へと向かうのだ。
「良い眺め」
 額の汗を手の甲で拭って、胸元の臙脂のリボンを外し、自転車のカゴに放り込む。
 プリーツスカートの裾を抓んで、ぱたぱたと風を送っても、誰も注意する人はいない。
「ふぅ」と大きく息を吐いて、ハンドルを握り直す。
 急勾配はひと段落している。
 あとは緩やかながらに長ったらしく蛇行した勾配を、自転車を押しながら登る。
 車一台がやっと通れるほどの細い道の右手は見晴らしの良い斜面。左手は杉林を伐採し、躑躅や紫陽花を植えている。躑躅は見頃を終えているけど、紫陽花が青赤紫と鮮やかに咲いている。ただ、遅れている梅雨のせいで元気が霞む。
 吹く風は生温く、気温の割には頬を火照らせる。
 ゆっくりと見上げると、蛇行した勾配の先に赤い鳥居が見えた。
 ようやく見えて来た鳥居に、ほっと安堵の息が出る。
 稲荷神社の鳥居と言えば、朱色の鳥居が大量に並んでいるイメージだけど、ここには1基だけだ。
 それにしても、と思わず首を傾げる。
 微妙な違和感が胸に引っかかる。じっと鳥居を見上げても分からない。高難度の間違い探しをしているようだ。
「分からん」と呟いて、諦めの息を吐く。
 ぐるりとカーブを曲がり、ラストスパートとばかりに駆け足で自転車を押す。
 道は稲荷神社の前を過ぎると、坂道を上り下りしながら杉林の奥へと続く。稲荷神社より先には、森林組合のトラックが行き来する以外は見たことがない。
 ようやく目の前に見えた稲荷神社にひと息吐く。
 朱色の鳥居から続く参道は石畳で、参道の途中に門番のごとく鎮座する狐の像には、真新しい赤い前掛けが掛けられている。参道を真っ直ぐに進めば拝殿と本殿に到着する。その途中には、小さな手水舎ちょうずや、神楽殿がある。
 祭神は稲荷神であるウカノミタマノカミで、有名な狐は神使だ。
 ウカノミタマノカミは穀物や農耕の女神様で、今では商売繁盛の御利益もあると言われる。うちには須久奈様がいるから敷地内に稲荷神を祀ってはいないけど、農家や商家が屋敷神として祀っているところもある。それでも蔵元としては、五穀豊穣の祈りは欠かせない。その為、祭りとは別に、5月末の田植え時期に酒職人がここで参拝するのが習わしだ。
 幼い頃から神社に慣れ親しんでいるけど、ウカノミタマノカミも神使の狐も見たことはない。
 ちなみに、”神様の住まう町”と言ってはいるけど、ここの稲荷神社は無人神社になる。無人なので社務所や授与所なんかはない。
 管理は隣町の神社が担当し、清掃などは町内会や敬老会の人たちが行っている。常駐の神主や巫女がいない為、神事の巫女は代々久瀬家の女子が担う。
 生業が酒造りになっただけで、やっていることは菖蒲の頃から変わらないというわけだ。
 だからだろうか。神社で遊ぶと怒られた。
 ここは無人だから、小学生にとっては夕闇迫る神社での肝試しは魅力的なのだ。母にはめいっぱい怒られたけど、その遊びは今の小学生にも連綿と受け継がれている。
 別に幽霊がいるとか、いわくある神社ではない。
 ただ、黄昏時の朱色の鳥居と狐の像が子供心に気味が悪く、意味も分からず怖くて仕方なかったのを覚えている。友達の中にはコックリさんとイコールで考えていたりと、恐怖の度合いは様々だった気がする。
 改めて鳥居を見上げる。
 所々で朱色が剥げてはいるけど、改修が必要なほどの傷みは見られない。
 私が稲荷神社に来たのは元日以来だから、半年ぶりになる。春の田植え祭りの巫女役は、言い訳を連ねて仮病を使って逃げたのだ。
 正直、巫女役は好きではない。
 別に神様を疎かにしているわけではないけど、私に繊細な巫女役は不向きだと思っている。それを引け目に感じ、神社へ来る回数は格段に減った。
 遂に仮病まで使ってしまい、神様に対する後ろめたさは半端ない。
 それでも山道を苦労して登って来たのは、稲荷神社の噂を耳に挟んだからだ。
「…縁結びかぁ」
 聞くところによると、神社で告白すれば100%結ばれる。果ては、神社の敷地内で四つ葉のクローバーを見つけて願をかければ、縁結びの加護が宿るというものだ。
 眉唾すぎる。
 そもそも告白するのに汗水垂らして神社まで登らせてる男は、神社に誘った時点で無視されている。女の子から誘ったとしても、好意ありきの男子しか来てはくれない。つまり、両想いがベースにあってこその告白なのだ。
 元は中学生から始まった願掛けらしい。その内、暇を持て余した学生の間で、クリスマスやバレンタインが近づく度に、彼氏彼女を作ろうと盛り上がったのだ。
 そして、中高生の間で稲荷神社は縁結びスポットになった。
 別に信じてはいなけど、神社で拾った四つ葉のクローバーは特別な感じがする。それを押し花にして、百花にプレゼントするというのが目的だ。
 散々百花に甘えたのだから、これくらいのプレゼントは贈ってやりたいのだ。
「縁結びに効果がなくても、気持ちだしね」
 ため息を吐いて、自転車のスタンドに足を掛けた時、うなじの毛がぞわりと逆立った。
 ―――――――――空気が変わった。
 固唾を呑んで沈黙を保っていると、ふふふ…と、微かな笑い声が耳元を掠めた。
 視線を足元に落としたまま、スタンドに掛けた足をゆっくりと元に戻す。
 急激に呼吸が苦しくなり、頭から滝のように汗が流れた。気を抜けば膝から崩れ落ちそうになるほど震えが走り、込み上げる吐き気に怖気立つ。
 ナニかいる。
 視界の隅だ。鳥居に回された浅黒い手が、ギリギリと爪を立てている。
 直感的に、それは見てはいけないモノだと分かる。
「わ、わ、忘れ物!」
 いけない、いけない、と自転車をUターンさせる。
 態とらしさ全開だけど、気づかないふりで努めて明るい声を張り上げる。背中に感じる視線から一刻も早く逃れるために、急いで自転車に跨った。あとは下り坂を味方に、全力でペダルを漕ぐだけだ。
 頭の中はパニックだ。
 久瀬家の女子が受け継ぐのは、神様を見る能力で、幽霊を見る能力ではない。実際、幽霊は見たことがない。心霊番組を見たって、どれがリアルかフェイクかなんて見分けがつかない。
 だったら、今のは神様じゃないのかと言われれば、あんな禍々しものを神様とは認めたくはない。
 須久奈様だって後光がさしてるわけじゃないし、おどろおどろしく押し入れから登場したりするけど、アレと同一に語ってはダメだ。
 禍々しさの種類が違う。
 悲鳴も、後ろを振り向きたい衝動も、何もかもを我慢して山道を下る。転ばないように、追って来れないように、きつくハンドルを握りしめてペダルを漕ぐ。ロードレースの選手なみのコーナリングで車道に出ると、一気に通学路まで滑り込んだ。心臓が爆発しそうなほど早鐘を打ち、全身に汗が噴き出す。鼓膜に張り付いた不気味な笑い声のせいで、悪寒が止まらない。深い呼吸で吐き気をやり過ごしながら、緩やかに速度を落とす。
 賑やかに下校する中高生が見えると、少しだけ安堵の息が零れた。
 昨日のアニメの話に盛り上がる男の子たちに、新しくオープンするという雑貨屋の情報交換をする女の子たち。アイドルの話に、早くも返って来た中間テストの点数の愚痴と様々な話題の中、やっぱり稲荷神社の縁結びジンクスの話が交じって聞こえてくる。
 橋を渡って御幸通りに入ると、通学路とは違うのんびりとした時間が流れる。
 帰路につく学生も夕飯の買い出しに急ぐ主婦もいない。近隣の温泉地に行く前の、ほんの暇つぶしに立ち寄った観光客が、掘り出し物と出会えればラッキーていどの散策を楽しんでいる。都会のような呼び込みも、鳴り響く音楽もない。観光客にとっては、さらさらと流れる水路の水音が、ヒーリングミュージックになっているらしい。水路を泳ぐ小魚にカメラを向ける観光客は珍しくないのだ。
 私は平常心を心掛け、御幸通りを通り抜けた。
 うちは商家町から少し外れた場所にある。石垣を基礎にした白壁塀に囲われているだけに、観光客は武家屋敷と勘違いする。杉玉を見つけて始めて、酒蔵だと気づくのだ。
 酒職人たちは酒蔵の宣伝も兼ねて、杉玉の吊るされた正面口を出入りするけれど、景観との兼ね合いで派手な看板がないので分かり辛い。酒蔵の隣、母屋の続きに増設させた酒販店の戸を叩くのは、もっぱらリピーターだ。
 私が向かっている門は、さらに分かり辛い裏口だ。
 従業員駐車場の裏手になり、久瀬家の駐車場ではない。正門から入れば、母屋を回って離れに行くしかないけど、裏口を使えば離れは近い。
 従業員の車の間を縫い、手狭な裏門を潜ると、騒々しく裏庭に自転車を停めた。
 カゴにカバンもリボンも放置したまま、転がるように離れに飛び込む。どたばたと廊下を走り、台所の棚を漁り、塩を一袋取り出してお風呂場に直行する。
 押し入れの隙間から須久奈様が顔を出したけど、頭を下げて帰宅した旨を告げるような余裕はない。
 浴室に飛び込むと、制服を着たままに塩を体に擦り付けた。皮膚がヒリヒリするし、制服の繊維に塩が絡んでジャリジャリとする。
 足元に塩を投げつけ、髪に揉み込む。
 塩が無くなると、あとはシャワーの冷水をひたすら浴びる。
 我が家は井戸水を利用しているから、冷たさは尋常じゃない。
 寒さに奥歯を打ち鳴らし、胸の前で手を合わせ、テレビで見た滝行を模倣する。こういう時、何か呪文があった気がするけど、南無阿弥陀仏くらいしか思いつかない。神様のいる場所で、仏様に縋っても良いのか迷い、無言でシャワーに打たれることを選択する。
 すると、怪訝な表情の須久奈様が浴室の戸を開いた。
 女の子のシャワーを覗くなど言語道断。私が裸だったらどうするんだと注意したいところだけど、凍える顔は無になったまま須久奈様を見返すことしかできない。
「な…なな何…してるの?」
 須久奈様がなんとも奇異な目で私を見ている。
「おおおお清め……」
 奥歯をガチガチ震わせた不明瞭な口調に、須久奈様の眉間が僅かに寄った。
「か、風邪をひく」
 須久奈様は着物の袖をたくし上げ、着物が濡れるのも厭わず浴室に入って来た。
 シャワーのハンドルを捻って水を止め、ため息を一つ落とす。
「こ…こ、こんなことして風邪でもひいたらどうする。人間は…か、風邪でも死ぬ」
 須久奈様は言って、シャワーヘッドを手する。
 給湯のスイッチを押し、ハンドルを捻って水が温まったのを確認する。「め…目、閉じて」と言われるままに、目を瞑ると、温かなシャワーが頭から降り注ぐ。
 寒さに震える体が、徐々に温まってくる。
「し…塩も擦り込んで……肌が赤らんでる……」
 呆れた口調で、須久奈様は私の髪を指で梳く。
「か…かなり…塩、揉み込んだな…」
 嘆息混じりに声は、私の短絡的な行動に呆れているのだろう。
 いつもの吃音ながらに言葉に棘を感じる。
 体の震えも治まる頃には、須久奈様の手も髪から離れた。「ん」と差し出されるままにシャワーヘッドを受け取り、体の塩は自分で洗い流す。
 制服は改めて揉み洗いが必要かもしれない。
「も、もう…冷水なんて浴びる馬鹿な真似はするな……」
 叱責を孕んだ口調に、思わず首を窄める。
 お湯を止め、シャワーヘッドをフックに戻し、須久奈様に向き直る。
 着物が水浸しだ。
「……ごめんさない」と俯く私に、須久奈様は「ん?」と唸った。
 徐に私の肩に手を置き、腰を屈めて顔を近づけて来る。
「はひっ」と変な声が零れたのは仕方ない。顔を上げれば、目と鼻の先に須久奈様の顔があったのだ。
 普通に驚く。
 薄々、須久奈様は距離感がおかしいとは思っていたけど、これは近すぎる。
 根暗でも、神様でも、顔が国宝級に良いのだ。そんな顔が迫ってきて、冷静でいられるほど私には恋愛スキルがない。
 さっきとは違う意味で、心臓がばくばくと破裂しそうに走っている。
 顔が熱くなって、緊張に目を瞑る。
「あ…あ…あの…須久奈様?」
 喘ぐように訊く私を無視して、すん、と須久奈様が鼻を鳴らした。
 額、米神、首筋に鼻を近づけ、すんすん、と鼻が鳴る。
 これは……少女漫画にありがちのラブラブシチュエーションではなく、もっと別の何かじゃないだろうか。
 瞬間、ハンドラーと共に犯人を追跡する警察犬が頭を駆け抜けた。
 緊張感も羞恥心も急速冷凍する。
「えっと、須久奈様?何をしているんですか?」
 思いのほか、冷え冷えとした声が出たと思う。
 鼻と鼻が触れ合いそうな距離で、須久奈様はようやく失態に気付いたらしい。頬を上気させると、びくんと肩を跳ね上げて足を滑らせた。豪快に尻餅をつき、脱衣所に転がり出ると洗濯機に抱きついた。
「わっ…悪い。あ…その…に、臭い。変な臭いがして………」
「汗臭いってことですね。ええ、分かってます」
 根暗な上にデリカシーもないのかと、じっとりと須久奈様を見据えれば、須久奈様は頭を振る。
「ち、違う!そ…そうじゃなくて……悪い臭い。け、気配…。そ、そういうの!と、とにかく、感じたんだ」
 真っ赤な顔で捲し立てられると、言い訳じみて聞こえる。
 須久奈様は洗濯機から離れると、のそのそと立ち上がった。
 長身と根暗オーラが相俟って圧迫感を生む。
 もっさりとした前髪の隙間から覗く瞳は、微かに潤みながら動揺している。相変わらず、指をもじもじと絡めて、「う~」とか「あ~」とか唸ってる。
「そ、その…… だ、だから……な、何か、変なのと遭遇したのかなって…」 
 これには私の方が、うっ、と怯んでしまう。
「………………………会いました」
 ニオイで嗅ぎ分けるなんて、神様とは犬に近いのだろうか……。
 嗅覚の優れた男の人って、神様とか別にしてストレートに気持ち悪い。
 もちろん、そんなことはおくびにも出さない。
「だから塩と冷水で体を清めてたんです。テレビで得た知識ですけど…。もしかして、変なのを見ただけで穢れを貰って来たことになるんですか?ここに戻って来たのが間違いですか?須久奈様も穢れを受ける的な?」
 何も考えずに離れに飛び込んだけど、外のホースで水を浴びて、母にヘルプを出す方が良かったのかもしれない。
 もしくは父に車を出してもらって、近場の滝に連れて行ってもらって、リアル滝行を行うのが正解だった気もする。
「須久奈様、怒ってますか?」
 訊けば、須久奈様が頭を振り、バスタオルを差し出してくれる。
「べ、別に怒ってるわけじゃない。い…一花が無事で良かったんだ。憑いてる様子もないから……あ、安心した」
 須久奈様は言って、脱衣所から出て行った。
 戻って来た手には、私の部屋着だ。
「ありがとうございます」と受け取れば、須久奈様は真っ赤な顔を俯かせたまま戸を閉めた。
「いっ……い、い、一花……そ、の……あの……」
 戸の前で、しどろもどろの声が聞こえる。
 もう少し声を張ってくれると嬉しいけど、それは高望みなのかもしれない。押し入れから出て来てくれただけでも良しとしなければならない。
 バスタオルで頭を拭きながら、須久奈様のペースに合わせて言葉を待つ。
 まずブラウスを洗濯機の放り込み、塩がこびりついたスカートは揉み洗いの為に浴槽に引っ掛けた。
 Tシャツとパンツを履き終わる頃に、ようやく須久奈様が声を張った。
「も!も…もし…また…きょ、今日みたいなことがあれば…俺に言えば良い。さ、障りを祓うくらいは…俺にも出来る。い…一花が…そ、その……望むような派手さはないけど…い、一応、俺も神の端くれだから……今度からは、一人で対処しようとしないで……お、俺…俺を頼ってほしい……」
 もしかして、と思う。
 戸を開けると、須久奈様がもじもじと立っていた。表情を隠そうと俯いているけど、身長差の前には意味がない。真っ赤な顔も、潤んだ瞳も、恥ずかしさに唇を噛みしめている様子も丸見えだ。
「若干、機嫌が悪そうに見えたのって、私が須久奈様に頼らずに対処しようとしたからですか?」
 じっと須久奈様を見つめると、須久奈様は視線を逸らしながらも小さく頷いた。
「確かに困った時は神頼みなんて言うけど、それは打つ手がないくらいに追い詰められた時の手段かなって思ったんです。なんでもかんでも須久奈様に頼ったらダメな気がしたので、まずは自力で対処しようとしました」
 そう言うと、須久奈様は緩く頭を振る。
「そ、それの意味は…ふ…不信心な人間が、困窮した時にだけ頼ってくるやつだから……い、一花は違うだろ?だ、だから…俺は、頼ってくれた方が…う、嬉しいから…」
 須久奈様は不器用に笑って、「それから」と頭を掻いた。
「…く、苦しい時の神頼み…だから…」
 きゅんとしそうになった胸が一瞬で通常運行に戻る。
「訂正ありがとうございます」
 ため息混じりに言えば、須久奈様は照れたように身を捩る。
 嫌味が通じない。
「今度から何かあれば、須久奈様に相談します」
「…ん」
 須久奈様は嬉しそうに頷き、ふっと頭を上げた。
 首を傾げ、目を眇めて玄関を見ること3秒。ビクッと身震いすると、慌てて居間へと駆けて行った。襖の開閉音が聞こえてすぐに、玄関の引き戸が開いた。
「一花ちゃん」
 驚いた顔を覗かせたのは百花だ。
 頭にタオルを引っ掛けた私を見て、「どうしたの?」と目を丸めている。
「自転車も置きっぱなしだし…何かあったの?」
 生成の着物に、鴬色のかすり格子の帯。
 夏らしい涼やかな出で立ちで、百花は憂い気味に表情を曇らせている。
 百花の手には、自転車のカゴに放置したままのカバンとリボンだ。何か不測の事態が起こったんじゃないかと勘繰られても致し方ない。
 私は頭のタオルを肩にかけ直すと、タオルの端っこで額を拭く。
「あ…うん。学校でめちゃくちゃ汗掻いちゃったんだよね。汗だくで神様の前に行くのも失礼じゃない?だから慌ててシャワー浴びてたんだ」
 こんな部屋着を着て失礼も何もないけど、適当な嘘が見つからなかったのだから仕方ない。
 そもそも部屋着を渡して来たのは須久奈様だ。
 ちらり、と百花を見れば、百花は深々とため息を吐いた。
「そうね。今日は少し蒸すものね。だからと言って、自転車や荷物を放置して良いということにはならないわよ」
「はぁい。反省します」
 ぺこり、と頭を下げる。
「で、どうかしたの?」
 百花からカバンとリボンを受け取り、ぎこちない笑いで居間へと向かう。
 居間の掃除は朝、私なりにしっかりしている。
 なのに、昨日の今日でかなり生活感が漂い始めている。台所の流しには洗ったまま放置しているマグカップ。冷蔵庫の上には、水に溶かすと美味しい粉末レモンティーの缶。座卓は居間の真ん中に出しっ放しだし、その上には片付け忘れた漫画が放置。扇風機も出しているし、いつでも使えるようにエアコンの埃除けカバーは取り外した。
 百花は部屋を隅々まで見渡し、二つ折りの座布団を見て小さく息を吐いた。
「一花ちゃん。座布団を折って枕にしてはダメよ」
 百花は畳に上がると、二つ折りにした座布団の前で腰を下ろした。
 丁寧に座布団を広げ、型崩れしていないか撫でて確認している。だが、それは私じゃない。
「一花ちゃん。無理してる?」
「え?」と首を傾げ、百花の傍らに座る。
「こんなところに寝転がるくらい疲れているんでしょ?だから無理が体に出てるのかなって…」
 消沈する百花には悪いけど、こんなことろに寝転がっていたのは私ではない。
 神様である。
「私が……ちょっとバカなことをしたから……」
 家出とは言わずに、百花は押し入れを気にして口籠った。
「昨晩、ずっと考えて……やっぱり私が嫁ぐべきだと思ったの。未熟な私のせいで、母にも一花ちゃんにも迷惑をかけてしまった。ごめんなさい。もう迷わないし、パニックになったりしないわ」
 背筋を伸ばした百花は顔を強張らせ、押し入れに向き直って深々と頭を下げた。
「須久奈様。昨日は失望させてしまい申し訳ございません。どうかお許し下さい。妹の一花に代わり、私を娶って頂けますようお願い申し上げます」
 重い!
 押し入れを注視していれば、襖が僅かに開いた。ぬっ、と出てきた白い手は、わたわたと戸惑ったみたいに指を動かすだけだ。
 百花は頭を下げたまま、須久奈様のパニックに気付いてもいない。
 思えば、母も平伏しきりだった。
 須久奈様の手が力なく引っ込んで、襖は音もなく閉まった。
「百花ちゃん。無理してるのは百花ちゃんだよね?長女だから久瀬家を継がないといけないとか、神様の御加護を受けるために嫁がなきゃとか。重責に苦しんで見えるよ。昔からそう思ってた。百花ちゃん、息苦しそうだって」
 そう言えば、百花はゆっくりと頭を上げた。
 震える唇をきつく結び、真っすぐに私と向き合う。
「正直に言えば、子供の頃は百花ちゃんが羨ましかったんだ。お父さんもお母さんも、百花ちゃん優先だったでしょ?別に無下にされてきた訳じゃないけど、子供の頃は特別感が欲しかったというか……本当に子供だったの」
 長女の重責なんて何も知らず、我儘な子供だったと苦笑が漏れる。
「長女の意味が分かってくると、次女で良かったって思った。心に余裕が出るとね、周りのことも良く見えるようになるんだ。両親と百花ちゃんしか見えてなかった視界がね、急に開けたの。視界が開けたら、百花ちゃんを見ているのが辛くなった。百花ちゃんは習い事ばかりで、いつも息苦しそうだって気づいたの…」
 友達と遊んでいるのを見たことがなかった。
 だらだらとゲームしている姿も、テレビを見て腹を抱えて笑っている顔も、苛立って親に口答えしているところも見たことがない。
 淑やかな子であることを強要された、とても可哀想な子に見えた。
「百花ちゃん。もう少し気楽にいこ?別に神様の相手は長女じゃなくてもいいんじゃない?神様とフィーリングが合った方が、嫁げばいいと思う。まぁ、久瀬家のために嫁げ嫁げって言われてるけどさ、須久奈様にも選ぶ権利はあるよね。今は私なんかが押掛女房してるけど、本心では人間なんて願い下げって思ってるかもよ?」
 大口を開けて笑うと、百花も泣き笑いの顔で目尻の涙を拭った。
「一花ちゃんはそれでいいの?」
「もう引っ越しちゃったしね。須久奈様から出て行けって言われるまでは、ここに居座るつもり」
「でも…」と、百花の視線は押し入れに向かう。
 もしかすると、百花は須久奈様が押し入れから出て来ない、コミュニケーションが取り辛い神様だと思っているのかもしれない。
 単に人見知りの引きこもりなのだけど。
「一花ちゃん。須久奈様と対話はできてる?」
「大丈夫」
「須久奈様を怒らせるような粗相はしていない?」
 粗相は分からないけど、須久奈様から怒られていないから大丈夫なのだろう。
「私の心配より、百花ちゃんは自分のことをしっかりしてよね」
 これ見よがしにため息を吐く。
「秋一くんにはお礼は言った?」
 じっと百花を見れば、百花は仄かに頬を染めた。
「どうして秋一さんが出てくるの?」
「だって、昨日は朝からずっと百花ちゃんを捜し回ってたんだから。ひと言くらい声をかけても良いんじゃない?」
「あ…うん。そうね…。秋一さんにも迷惑をかけてしまったわ…」
 百花がしゅんと項垂れた。 
「迷惑じゃなくて心配ね」
 私が訂正すれば、百花ちゃんは眉尻を下げて苦笑する。
「どちらが姉か分からないわね」
「何言ってんの」
「本当よ。私なんかより、一花ちゃんの方がずっとしっかりしてるわ」
 百花は言って、ゆっくりと押し入れに向き直った。両手を膝の前に揃え、頭を下げる。
「お邪魔いたしました」と、片足を軽く後ろに引き、姿勢を崩すことなく立ち上がる。
「一花ちゃん。頼りない姉だけど、何かあれば相談してね。あと、お母さんに怒られる前に、自転車は片付けなさいね」
 そう言って、百花は母屋に戻って行った。
 やっぱり、あの2人は神頼みするしかない気がする。
 私は深く息を吐き、膝立ちで押し入れに歩み寄る。さっと襖を開けば、窮屈そうに膝を抱えた須久奈様と目が合った。その目もすぐに逸らされたけど、いちいち気にしてたらキリがない。
「須久奈様。着物が濡れてます。着替えましょう」
「……………………………ない」
「え?」
 ぼそぼそもごもごと喋られても、何を言ってるのか聞き取れない。
 須久奈様は唇を尖らせ、顔を逸らし、「べ、べ別に何も…」と頬を染める。
「ハキハキ喋ってくれないと聞こえませんよ。言葉が届かないと、伝わるものも伝わりません」
 私は腰に手を当て、微動だにしない須久奈様にため息を吐く。
「出て来ないのなら、襖を外します」
「そっ、そそそれは困る…!」
 四つん這いで押し入れから抜け出す須久奈様に道を開け、替えの着物を取りに行こうと立ち上がろうとした時、須久奈様に手を掴まれた。
 須久奈様は真っ赤な顔を伏せたまま、「や…その…」と口籠る。
 立てた膝を元に戻し、改めて座り直しても、手は掴まれたままだ。
 こういうタイプは急かすとダメなのを知っている。
 じっと須久奈様の発言を待っていると、須久奈様が気恥ずかしげに、ちらちらと視線を寄越す。私が外方を向けば、じぃ~っと注視する。視線を合わせようとすると俯いて、もぞもぞと体を揺らす。その繰り返しだ。
 さすがに待ちくたびれた。
「須久奈様。用がないのなら手を離してくれませんか?着物の替えを取って来るんで」
 桐箪笥を指さす。
「あ…いや……あの……その、お……おおおお俺は別に…願い下げとか…お、思ってない」
 急にどうしたと首を傾げてしまう。
 意味が分からず須久奈様を見ていると、「さ、さっきの…」と言い淀む。
 もしかして、私が”人間なんて願い下げって思ってるかもよ?”と言ったことへの返答だろうか。
 須久奈様は「俺は」と上目遣いに私を見た。
「いっ…い…いいいい一花で……い、一花が許嫁で……良かった……」
 その台詞に驚いて固まったのは一瞬。すぐに笑いが込み上げてきた。
「須久奈様。それって聞きようによっては告白ですよ」
 けらけらと笑う私の前で、俯いたままの須久奈様は、耳まで真っ赤に茹で上がって小さく頷いた。
 …………………………………え?
 花嫁候補2日目。
 私のどこがお気に召したのか、どうやら神様に惚れられたようだ。
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