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聖女(後編)
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カークの制止の合図に、慌てて手綱を引く。
「どうしたの?」
「血の臭いがします」
「血?」
くんかくんかと鼻孔を膨らませて臭いを嗅ぎ取ろうとしても、私の鼻には森の爽やかな香りしか嗅ぎ取れない。
アーサーは臭いを嗅ぎ取る仕草さえなく、腰に佩いた剣に手を添えている。
「場所は分かるか?」
「ああ、もちろん」
当たり前のように話しているけど、「ちょっと待って」と口を挟まずにはいられない。
「どうしてカークは分かるの?犬並みの嗅覚の持ち主なの?」
「違いますよ。俺の嗅覚は普通です。これは風の精霊シルフの加護なんです。風魔法の使い手であれば、精霊が遠くのニオイや声を届けてくれます」
なんですって!?
「シルフの加護があれば盗み聞きし放題じゃない!」
「悪しきことには精霊の加護は届きませんよ」
カークが呆れたように目玉を回し、アーサーは苦笑する。
「残念なことに、血の臭いは嗅ぎ取れるのですが、それが人なのか獣なのかは分かりません。シルヴィア様、いかがなさいますか?」
「いかがなさいますかって、確認しなきゃダメでしょ?」
「獣かもしれません。人であっても、盗賊の類かもしれません。安全を考えるなら、引き返すことが最良かと思います」
「盗賊だろうが、人であれば見殺しにするわけにはいかないわ。善良な旅人や村人の可能性だってあるんでしょう?案内してちょうだい」
「承知しました」
2人は苦笑しながら、カークを先頭に馬を走らせる。
殿はアーサーだ。
しばらく馬を走らせていると、私の耳にもサラサラと水の流れる音が聞こえてきた。
川が近い。
「いたわ!」
怪我人がいれば、聖女である私の方が探知が早い。
視覚に入るよりも先に、ビビッと直感が働くのだ。
「シルヴィア様!」
2人の制止の声を無視して、ノアの腹を蹴って速度を上げる。
ノアであれば、飛び越えられる川幅だ。例えジャンプに失敗しても、流れは穏やか。深みもない。
「ノア、飛んで」
ぎゅっと手綱を握って、前傾姿勢を取るのに合わせて、ノアが軽やかに川を飛び越えた。
初フェルスター皇国だ。
不法入国だけど、国境よりも人命の方が大事だもの。
後ろを見れば、2人も逡巡することなく追従するから優秀だ。
川から10メートルほど走ったところで、大木に寄り掛かるようにして倒れている男性を発見した。
失血死していてもおかしくない血溜まりができている。
男性の傍らには刃毀れた剣も転がっていて、周囲を見渡せば大型の虫型魔物、クリーピィが十数匹死んでいる。
クリーピィは子供の背丈ほどある巨大な蟻の魔物だ。
赤黒い甲殻に、毒を有する毒針がある。普通の蟻とは違って地中に巣は作らないし、有象無象の群れにはならない。
魔物学者によると、群れを作ってもせいぜい20個体前後。
記録では23個体が確認されているが、20個体を超す群れは数例しか報告されていない。
さらなる調査が必要らしいけど、魔素に晒され変態した蟻が個を確立したのではないか、と言われている。
魔素溜まりから生まれた魔物は極めて危険なので、見つけ次第の駆逐が推奨されている。
「クリーピィに遭遇したのか…」
アーサーが緊張に息を呑み、生き残りがいないか周囲を探る。
カークも風を集めて、異様な音や臭いがしないか探っている。
私はノアから飛び降りると、男性の傍に膝をついた。
首筋に指を添え、脈拍が確認出来て安堵の息が漏れる。
とりあえず生きてた。
傍に寄っても、首に触れても瞼が反応しないから死んでるのかと思ったわ。
「もう大丈夫よ。すぐに怪我を治してあげるからね」
クリーピィは牙のような大顎と鋭い鉤爪を有しているので、精霊の加護がなければ太刀打ちできない。その加護があっても、多勢に無勢。
男性の着衣は引き裂かれてボロボロだ。
胸には肉を抉るひと掻き。脇腹にもひと突き貰ったのか、穿たれた傷口からの出血が酷い。腕からも血が流れている。顔の擦り傷は逃げる際に、木々に擦ったのだろう。細かな擦り傷切り傷がある。
獅子奮迅。
最後まで戦い抜いたのは偉い!
「痛いの痛いの飛んでいけ~」
男性の胸をひと撫でして、空へと手を払う。
次に腹、腕、顔と傷のある個所を撫で、痛みを空へと払う。
「痛いの痛いの飛んでいけ~。遠いお空に飛んでいけ~」
払うたびに、淡い治癒の光が傷口を癒していく。
普通は感動の場面だと思うのよ。
なのに、静かに目を開いた男性は、私の呪文に唖然茫然としている。
よくよく見れば桃色の髪に水色の瞳をした精悍な面立ちの美丈夫。そんな彼が間抜け面を晒しているなんて、混乱しているのかもしれない。
念のためと、出血は見られない足にも「痛いの痛いの飛んでいけ~」と治癒を施す。
美丈夫の顔が若干嫌そうに歪んだ。
この私の治癒をもってしても取れない痛みがあるのかしら?
1等級聖女の治癒は、1回でも効果抜群なのに!
「はっ!クリーピィにはしつこい毒でもあるのかしら!」
「いや、違う」
ぴしゃり、と否定の声。
なかなか耳触りの良い低音ヴォイスだわ。朗読会に登壇すれば女性がヒーヒー言うこと間違いなし。
聖典を拝読する神官長の声が、この声なら居眠りしないのにね!
「その幼児をあやすようなアレに驚いただけだ」
「ああ、”痛いの痛いの”ね。私が治癒に目覚めた切っ掛けが、兄弟たちの怪我なの。弟が怪我をする度に、痛いの痛いの飛んでいけ~が常套句だったから、今も延長線上で使ってるのよ。私以外の聖女は”キュア”と唱えるけど、私は”痛いの痛いの”じゃないと100%の力が出ないから恥ずかしくても我慢してね」
大人の…見た目30歳前後の男性が恥ずかしいって言うのは分かるのよ。
私だって「キュア」で100%を引き出せたらって思うけど、なかなか上手くいかないのだから仕方ない。
男性は「ごほん」と咳払いし、静かに立ち上がった。
「聖女様。まずは、私の怪我を癒して頂いたことに感謝申し上げる」
立てば、これまた長身だ。
緩やかに頭を下げた様も絵になる。
以前、神殿を抜け出して見に行った観劇の俳優、エルリックみたいね。イザベラ様が「エル様ー!」って扇子にハートの飾りをつけて発狂してたわ。
男性は頭を上げた後、私の後ろに立つアーサーとカークを順に見、川向こうへと視線を投げた。
「あ!不法入国と言いたいのね!でも、人命優先の上の行動よ!すぐに戻るわ。あなたも、怪我を治してやったんだから他言無用。口止め料の代わりよ」
早口に捲くし立て、いそいそとノアに騎乗する。
アーサーとカークも無言のままに騎乗した。
「聖女様は、私が口を閉ざすだけで料金は取らないのか?」
「いらないわ。だって、あなたは”助けてくれ!金は払う!”って言ってないでしょう?治癒に関する契約書もないし、お互いにサインもしていない。だからタダよ。あ、でもこれは本当に内緒ね。タダ働きがバレると怒られるの」
「叱られるのか?」
「そ。聖女なら奉仕活動が当たり前だと思うでしょう?でも、それだと些細な怪我で聖女を酷使して、本当に必要な人たちに必要な治癒が施せなくなる。だから有料。1人でも無料にしたら、”あいつがタダなら俺もタダにしろ!”とか言って押しかけて来るから、基本は、どんな貧困層からでも小銅貨1枚は貰うように規則が作られてるの。現実は、聖女も人間。生きるにはお金が必要なのよ」
清廉潔白で奉仕活動する聖女なんて物語にしかいない。
聖女だって飲み食いするし、かわいい服やアクセサリーに憧れる。普通に食欲物欲があるので、生活のために料金が発生するのは当然だ。
「あ。でも、今回は私のお節介。じゃないと、意識のない人たちを次々に癒して、治療費を要求するなんて破落戸と変わらないじゃない」
聖女の破落戸。
ふふ、と笑えば、男性はぱちくりと瞬きした後、口元を綻ばせた。
イケメンが微笑むと、本当に眼福ね。
「だから、今回の治療費は沈黙。それを要求するわ」
手綱を握り直して、方向転換する。
「じゃあね、イケメンさん」
手を振って、本来の見回りに戻るべく母国に戻った。
まぁ、母国って言っても10メートルくらい先の川を飛び越えるだけだけどね!
「どうしたの?」
「血の臭いがします」
「血?」
くんかくんかと鼻孔を膨らませて臭いを嗅ぎ取ろうとしても、私の鼻には森の爽やかな香りしか嗅ぎ取れない。
アーサーは臭いを嗅ぎ取る仕草さえなく、腰に佩いた剣に手を添えている。
「場所は分かるか?」
「ああ、もちろん」
当たり前のように話しているけど、「ちょっと待って」と口を挟まずにはいられない。
「どうしてカークは分かるの?犬並みの嗅覚の持ち主なの?」
「違いますよ。俺の嗅覚は普通です。これは風の精霊シルフの加護なんです。風魔法の使い手であれば、精霊が遠くのニオイや声を届けてくれます」
なんですって!?
「シルフの加護があれば盗み聞きし放題じゃない!」
「悪しきことには精霊の加護は届きませんよ」
カークが呆れたように目玉を回し、アーサーは苦笑する。
「残念なことに、血の臭いは嗅ぎ取れるのですが、それが人なのか獣なのかは分かりません。シルヴィア様、いかがなさいますか?」
「いかがなさいますかって、確認しなきゃダメでしょ?」
「獣かもしれません。人であっても、盗賊の類かもしれません。安全を考えるなら、引き返すことが最良かと思います」
「盗賊だろうが、人であれば見殺しにするわけにはいかないわ。善良な旅人や村人の可能性だってあるんでしょう?案内してちょうだい」
「承知しました」
2人は苦笑しながら、カークを先頭に馬を走らせる。
殿はアーサーだ。
しばらく馬を走らせていると、私の耳にもサラサラと水の流れる音が聞こえてきた。
川が近い。
「いたわ!」
怪我人がいれば、聖女である私の方が探知が早い。
視覚に入るよりも先に、ビビッと直感が働くのだ。
「シルヴィア様!」
2人の制止の声を無視して、ノアの腹を蹴って速度を上げる。
ノアであれば、飛び越えられる川幅だ。例えジャンプに失敗しても、流れは穏やか。深みもない。
「ノア、飛んで」
ぎゅっと手綱を握って、前傾姿勢を取るのに合わせて、ノアが軽やかに川を飛び越えた。
初フェルスター皇国だ。
不法入国だけど、国境よりも人命の方が大事だもの。
後ろを見れば、2人も逡巡することなく追従するから優秀だ。
川から10メートルほど走ったところで、大木に寄り掛かるようにして倒れている男性を発見した。
失血死していてもおかしくない血溜まりができている。
男性の傍らには刃毀れた剣も転がっていて、周囲を見渡せば大型の虫型魔物、クリーピィが十数匹死んでいる。
クリーピィは子供の背丈ほどある巨大な蟻の魔物だ。
赤黒い甲殻に、毒を有する毒針がある。普通の蟻とは違って地中に巣は作らないし、有象無象の群れにはならない。
魔物学者によると、群れを作ってもせいぜい20個体前後。
記録では23個体が確認されているが、20個体を超す群れは数例しか報告されていない。
さらなる調査が必要らしいけど、魔素に晒され変態した蟻が個を確立したのではないか、と言われている。
魔素溜まりから生まれた魔物は極めて危険なので、見つけ次第の駆逐が推奨されている。
「クリーピィに遭遇したのか…」
アーサーが緊張に息を呑み、生き残りがいないか周囲を探る。
カークも風を集めて、異様な音や臭いがしないか探っている。
私はノアから飛び降りると、男性の傍に膝をついた。
首筋に指を添え、脈拍が確認出来て安堵の息が漏れる。
とりあえず生きてた。
傍に寄っても、首に触れても瞼が反応しないから死んでるのかと思ったわ。
「もう大丈夫よ。すぐに怪我を治してあげるからね」
クリーピィは牙のような大顎と鋭い鉤爪を有しているので、精霊の加護がなければ太刀打ちできない。その加護があっても、多勢に無勢。
男性の着衣は引き裂かれてボロボロだ。
胸には肉を抉るひと掻き。脇腹にもひと突き貰ったのか、穿たれた傷口からの出血が酷い。腕からも血が流れている。顔の擦り傷は逃げる際に、木々に擦ったのだろう。細かな擦り傷切り傷がある。
獅子奮迅。
最後まで戦い抜いたのは偉い!
「痛いの痛いの飛んでいけ~」
男性の胸をひと撫でして、空へと手を払う。
次に腹、腕、顔と傷のある個所を撫で、痛みを空へと払う。
「痛いの痛いの飛んでいけ~。遠いお空に飛んでいけ~」
払うたびに、淡い治癒の光が傷口を癒していく。
普通は感動の場面だと思うのよ。
なのに、静かに目を開いた男性は、私の呪文に唖然茫然としている。
よくよく見れば桃色の髪に水色の瞳をした精悍な面立ちの美丈夫。そんな彼が間抜け面を晒しているなんて、混乱しているのかもしれない。
念のためと、出血は見られない足にも「痛いの痛いの飛んでいけ~」と治癒を施す。
美丈夫の顔が若干嫌そうに歪んだ。
この私の治癒をもってしても取れない痛みがあるのかしら?
1等級聖女の治癒は、1回でも効果抜群なのに!
「はっ!クリーピィにはしつこい毒でもあるのかしら!」
「いや、違う」
ぴしゃり、と否定の声。
なかなか耳触りの良い低音ヴォイスだわ。朗読会に登壇すれば女性がヒーヒー言うこと間違いなし。
聖典を拝読する神官長の声が、この声なら居眠りしないのにね!
「その幼児をあやすようなアレに驚いただけだ」
「ああ、”痛いの痛いの”ね。私が治癒に目覚めた切っ掛けが、兄弟たちの怪我なの。弟が怪我をする度に、痛いの痛いの飛んでいけ~が常套句だったから、今も延長線上で使ってるのよ。私以外の聖女は”キュア”と唱えるけど、私は”痛いの痛いの”じゃないと100%の力が出ないから恥ずかしくても我慢してね」
大人の…見た目30歳前後の男性が恥ずかしいって言うのは分かるのよ。
私だって「キュア」で100%を引き出せたらって思うけど、なかなか上手くいかないのだから仕方ない。
男性は「ごほん」と咳払いし、静かに立ち上がった。
「聖女様。まずは、私の怪我を癒して頂いたことに感謝申し上げる」
立てば、これまた長身だ。
緩やかに頭を下げた様も絵になる。
以前、神殿を抜け出して見に行った観劇の俳優、エルリックみたいね。イザベラ様が「エル様ー!」って扇子にハートの飾りをつけて発狂してたわ。
男性は頭を上げた後、私の後ろに立つアーサーとカークを順に見、川向こうへと視線を投げた。
「あ!不法入国と言いたいのね!でも、人命優先の上の行動よ!すぐに戻るわ。あなたも、怪我を治してやったんだから他言無用。口止め料の代わりよ」
早口に捲くし立て、いそいそとノアに騎乗する。
アーサーとカークも無言のままに騎乗した。
「聖女様は、私が口を閉ざすだけで料金は取らないのか?」
「いらないわ。だって、あなたは”助けてくれ!金は払う!”って言ってないでしょう?治癒に関する契約書もないし、お互いにサインもしていない。だからタダよ。あ、でもこれは本当に内緒ね。タダ働きがバレると怒られるの」
「叱られるのか?」
「そ。聖女なら奉仕活動が当たり前だと思うでしょう?でも、それだと些細な怪我で聖女を酷使して、本当に必要な人たちに必要な治癒が施せなくなる。だから有料。1人でも無料にしたら、”あいつがタダなら俺もタダにしろ!”とか言って押しかけて来るから、基本は、どんな貧困層からでも小銅貨1枚は貰うように規則が作られてるの。現実は、聖女も人間。生きるにはお金が必要なのよ」
清廉潔白で奉仕活動する聖女なんて物語にしかいない。
聖女だって飲み食いするし、かわいい服やアクセサリーに憧れる。普通に食欲物欲があるので、生活のために料金が発生するのは当然だ。
「あ。でも、今回は私のお節介。じゃないと、意識のない人たちを次々に癒して、治療費を要求するなんて破落戸と変わらないじゃない」
聖女の破落戸。
ふふ、と笑えば、男性はぱちくりと瞬きした後、口元を綻ばせた。
イケメンが微笑むと、本当に眼福ね。
「だから、今回の治療費は沈黙。それを要求するわ」
手綱を握り直して、方向転換する。
「じゃあね、イケメンさん」
手を振って、本来の見回りに戻るべく母国に戻った。
まぁ、母国って言っても10メートルくらい先の川を飛び越えるだけだけどね!
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