Joker

海子

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20.初雪

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 「ようこそ、アンジュ・オ・スリール、微笑みの天使・・・」 
ラングラン公爵は、屋敷の召使いに案内されて、広間に入って来たレティシアを、満面の笑みで見つめた。
グラディウスの王都、セヴェロリンスクの郊外の森の中にある、ミラージュの隠れ家は、古城を改装したものだった。
その古城の広間で、今、レティシアは、ラングラン公爵に対峙していた。
髪の色こそ、白いものが混じっているものの、その面ざしは、アンヌに良く似ていた。 
緑色の瞳も、引き締まった体つきも。 
ラングラン公爵は、黒のイヴニング・コートに身を包んでいた。
袖には、プラチナに黒真珠が埋め込まれた、洒落たカフスボタンが、光っていた。
それは、まるで、レティシアを迎えるための正装のようだった。
アルカンスィエルのフィリップの屋敷で働いていた時、レティシアはアンジェラと共に、ラングラン家に招待されたことがあった。 
ラングラン公爵に会ったのは、その一度きりだった。
その時、レティシアは、歳若く人見知りのアンジェラに優しく話しかける、ラングラン公爵を、素晴らしい紳士だと思った。
思いやりの深いアンヌの父親だけあって、本当に温かな方だと思った。
その、全てがまやかしだったというの・・・。 
レティシアはまだ、その現実を受け止めきれないでいた。 
「そんなところに立っていないで、火の傍へ。ここの寒さは、ユースティティアの寒さとは、比べ物にならないからね。アンヌは、一緒ではないのかな?まあいい、君さえ戻って来たのなら」 
ラングラン公爵は、笑って、レティシアを、ソファへ誘った。
「コニャックを?」 
「いえ・・・、結構です」 
レティシアの声は、震えていた。
「とても、緊張しているようだ」 
ラングラン公爵は、レティシアの傍らに自分も座ると、テーブルのコニャックのグラスを、口にした。
「お尋ねしたいことが・・・、ございます」
「何だね?」 
「何故、私を、ミラージュに?一体、どのような理由があって、このようなことを・・・?」 
「何故?それは、ミラージュに不要な言葉だ」
「理由なく、私にこのような扱いを強いるのですか?」 
「よろしい。知りたいと言うならば、教えてやろう。君には、君の母親の償いをしてもらった」 
「私の・・・、お母様?」 
レティシアにとって、思いがけない話だった。 
「そう。君の母親は、淫売だ。私が、眼をかけてやったのに、裏切った」
「裏切った?」 
「そうだ、君の母親は、この私が・・・、あれほど面倒を見てやったというのに、あろうことか男と逃げた。そして君と言う娘まで、産んだ。これを裏切りと言わずに、何と言う?」
「あなたが、お母様を殺したのですか?」 
「察しがいい、ブロンディーヌ。父親も一緒にね」 
「なんてこと・・・」 
レティシアは、声を詰まらせた。
「君は、誤解している。私が、あの女に、どれほどの贅沢をさせてやったかわかるかね?王妃ですら溜息を漏らしそうな、流行りの豪華なドレスの数々、素晴らしい輝きのダイヤモンドに真珠・・・、この世の贅沢という贅沢を、全て与えた。私の愛情全てを、与えた。それを、裏切ったのだ。最も残酷な女だ」 
「だから、私に、罰を与えたのですか?幼い私に、あんな・・・、あんなひどいことをさせて・・・」
「その通りだ。母親の罪は、君が贖うのだ。だが・・・、もう、いい」 
ラングラン公爵は、レティシアの頬に手をやった。 
「母親と同じように、いや、母親以上に、美しくなった。償いは、済んだ、ブロンディーヌ・・・。これからは、君の母親と同じように、私が眼をかけてやろう」 
「それでは、私に・・・、これから、あなたの意のままに生きろと?」 
「難しく考える必要はない。私は、君に最高の贅沢をさせてやる。私には、それが可能だ。こんなみすぼらしい服は、直ぐに脱ぎ捨てて、素晴らしいドレスを纏うのだ。華やかに着飾り、眩い宝石を身に着け、最高級のワインを日々味わい、美食を口にする。君は、女たちの羨望の的だ・・・」 
ラングラン公爵は、堰を切ったように、レティシアを抱きしめ、喉に唇を押しあてた。
「止めて・・・」 
レティシアは、悲鳴のような声を上げた。 
涙が、頬を伝っていった。 
「恥ずかしがることはない」 
「豪華なドレスも、高価な宝石も、私は望んでいないの・・・」 
「君は、わかっていない」 
「何も、わかっていないのは、あなたですわ」 
叫ぶようにそう言うと、レティシアは、ラングラン公爵を押し戻して、ソファから、さっと立ちあがった。
「ブロンディーヌ・・・」 
ラングラン公爵の瞳に、怒りの色が滲んだ。
「わかっていないのは、あなたの方ですわ。私は、贅沢な暮らしなど、何ひとつ望んでいません。お母様が、望んでいなかったように・・・」 
「では、君の望みは何だ?」 
ラングラン公爵は、吐き捨てるように言った。 
そのぎらつくような怒りが、手に取る様に分かった。
けれども、レティシアは、ひるまなかった。
「自由ですわ・・・」 
「何?」 
「私の望みは、自由です。ただ、自由になりたいの。ミラージュからも、あなたからも」 
「嘘だ!」 
「私は、ルションヌで捕まった十四歳まで、自分の、本当の人生を歩んではいませんでした。ダニエルのいいなりに生きて、着飾った人形のようでしたわ。拒否することもできず、自分の意思もないままに、生きていました。それが、当たり前だと思っていました。でも、私は、もう十四歳のブロンディーヌではありません。二十歳のレティシアです。自分の人生は自分で決めます。あなたにも・・・、誰にも、邪魔させたりしない」 
「言わせておけば・・・」 
と、にじり寄るラングラン公爵から、レティシアは身をかわした。
「では、何故、ここへ来た!」 
ラングラン公爵は、大声を上げた。 
貴族の品格は、ひとかけらもなく、その忌まわしい本性が姿を現した。
「あなたに、伝えるためですわ。あなたに、思い知らせるためです。私は、あなたの所有物じゃない、って」 
ラングラン公爵は、笑いだした。
「面白い。ただし、思い知るのは、君の方だ」 
ラングラン公爵は、その手から逃れようとするレティシアのスカートを掴むと、乱暴に引き倒した。
そして、その髪を鷲掴みにし、頬に平手打ちをした。 
レティシアは、鼻から、生温かい血が上がって来るのを感じた。
ラングラン公爵は、レティシアの服のボタンを引きちぎると、傍らのステッキを取って、床に倒れ込んだレティシアに、にじり寄って来た。 
「まだまだ・・・、お楽しみはこれからだっ・・・!」
ラングラン公爵は、ステッキを振り上げた。 
その一瞬の隙をついて、レティシアは、渾身の力で、ラングラン公爵の脛に、体当たりした。 
不意を突かれて、ラングラン公爵がよろめいた瞬間、レティシアは、隠し持っていたナイフで切り付けた。
「この・・・」 
掴みかかろうとするラングラン公爵の手をわずかに逃れ、レティシアは駆け出した。 
「誰か、誰かいないか!」 
主の声を聞きつけた、屋敷に滞在する護衛の兵士たちが、すぐに集まった。
「女を捕えろ。絶対に殺すな。殺さずに、必ず捕えろ。追え!」 
その命令で、護衛たちは、すぐさまレティシアの後を追った。
「一生、私の手の中だ・・・、ブロンディーヌ」 
男は、狂犬のような眼をしていた。 



 レティシアは、駆けた。
追っ手から逃れるために。 
「では、何故、ここへ来た!」 
ラングラン公爵は、先ほど、レティシアにそう尋ねた。 
あなたに、思い知らせるために。 
あなたの所有物じゃないって。 
レティシアは、そう答えた。 
でも、本当は、違う。 
ここへ来た本当の理由は・・・、全てを終わらせるため。
身体が、酷く重かった。 
「いたぞ、こっちだ!」 
追っ手の声が、耳に入った。
レティシアは、古城の石の階段を駆け降り、逃げた。
けれども、レティシアには、どこをどう走っているのかわからなかった。 
凍えそうなほど寒いはずなのに、寒さは気にならなかった。 
中庭が眼に入った。
さほど、広い庭ではなかったが、身を隠せそうな木々があった。
レティシアは、そこへ身体を滑り込ませた。 
レティシアを探す足音と、怒声が聞こえた。
逃げ切れないことは、良く分かっていた。
時間は、必要なかった。 
もう後は・・・、このナイフで胸を突くだけ。 
レティシアは、ほうっと、息を吐いた。 
息が、白い。 
夜空から、レティシアの肩に、落ちてくるものがあった。 
触れると、すぐに溶けた。 
初雪・・・。 
リックも、どこかでこの雪を見ているのだろうか。 
ウッドフィールドで、リックと別れてから二十日が過ぎていた。
別れの朝、リックは、私のことをとても心配していた。 
迎えに行くと・・・、セヴェロリンスクまで、きっと迎えに行くから待っているようにと、約束させられた。 
何かあれば、必ず連絡するようにと、ひとりで、勝手をしてはいけないと、約束させられた。 
あの人は、私の死を知って、悲しむだろうか。
ああ・・・、でも強いあの人は、立ち直って、きっと幸せに生きてくれる。
レティシアは、満たされて過ごしたわずかな時間を、愛しく思い返して、微笑んだ。 
後悔はなかった。
むしろ、リックを巻き込まずに終わることに、安堵をおぼえていた。 
そうだった・・・。 
レティシアは、小さな息をもらした。 
私は、一度も彼に愛していると、告げなかった。
愛していると告げなかったのは・・・、心のどこかで、ふたりの将来を信じなかったから。 
リックと、ブリストンで幸せになれる確信が、持てなかったから。
最初の悲しみが去って、少し落ち着いたなら、疑ってほしい。 
ミラージュのブロンディーヌに、騙されたのかもしれない、と。 
レティシアは、愛するだけの価値が無かったのかもしれない、と。 
そうすれば、早く私を忘れることができるから・・・。
ポケットをさぐると、手に触れるものがあった。 
指先で、そっとなぞってみた。
あの日、ラッセルで初めて口づけを交わした日に、買ってもらった子猫のバッジ・・・。
下腹部が、ひどく痛んだ。 
痛みに、うめき声が漏れる。 
太腿を、生温かいものが伝った。 
血だった。 
「ごめんね・・・」 
レティシアは、優しく下腹部をさすった。 
瞳から、涙があふれた。 
レティシアを探す、兵士たちの声が近くなる。 
レティシアは、ナイフを握る手に力を込めて、胸を突いた。 
ポケットから、子猫のバッジが滑り落ちた。 



 小枝を踏みしめる音が、鋭く響く。 
アンヌだった。 
その手には、鋭いナイフがあった。
そして、倒れているレティシアの姿を、氷のような冷たい眼差しで見つめていた。 
  
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