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5.百合の烙印
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リックは、自分の間違いに気づいた。
毎日、毎日、とにかく速さが求められる急行馬車である。
時間に遅れれば、まるで犯罪でも犯したかのような、冷ややかな眼でみられる。
マクファーレン商会の、急行馬車の御者として働き始めてからというもの、速さは、絶対必要条件だった。
その速さに対する、自分の感覚が間違いだということに、気づいたのだ。
リックにとっては、急行馬車のあの速さが、通常だった。
しかし、あれは、速すぎるのだ。
だから、今のこの、リックにしてみれば、馬上で昼寝できそうなくらいの進み具合が、ごく一般的なのだ。
そう思い当たると、不思議と昨日までの苛立ちが落ちついた。
そうすれば、見たことか。
昨日に比べて、すこぶる順調な旅だった。
天気はいい、空気もいい、アンジェラの体調も回復傾向、全てが順調だった。
このまま行けば、昨日の遅れは、十分取り戻せると、リックは思った。
それに加えて、昨日までと今日では、もう一つ違うことがあった。
それは、アンジェラだった。
昨日まで、アンジェラは、リックとまともに話すことが、なかった。
いつも、フィリップとレティシアの後ろに隠れるようにしていた。
思いがけず、昨夜の一件が、打ち解ける機会になったようで、アンジェラは、人懐こく、リックに話かけて来るようになった。
馬上にいる時は、付いて行くのに必死のアンジェラだったが、昼の小休止の時などは、リックの近くに寄って来て、何かと話かけては、昨晩納屋を貸してくれた農家の主人が、朝分けてくれたじゃがいもや、ゆで卵を頬張っていた。
リックには、八つも歳下の少女に、くったくなく懐かれるという、経験がなかった。
陽に当たって光る柔らかな巻き毛が、風にゆれ、大して面白くもない話にも、くすくす笑う。
まるで、甘い砂糖菓子みたいだ。
リックは、そう思った。
これは、俺もうっかりすると、フィリップの二の舞になりそうだと、リックは自分を戒めた。
そのフィリップはと言えば、明るい表情の妹を、嬉しそうに、見守っている。
そしてそれは、レティシアも同じだった。
アンヌは・・・、といえば、明らかに、リックとは距離を置いていた。
皆で昼食を取っている時も、一人だけ離れた場所で、黙って、口に運んでいた。
そして、用があれば、レティシアを呼んだ。
自分は、あなたたちとは違う、と言わんばかりだった。
そこまで、徹底されると、リックの方も怒る気が失せた。
アンヌは、同じ生き物ではないのだと、リックの方も割り切った。
夜が、押し迫っていた。
今日中に、この峠を越えてしまいたかったんだが。
リックは、空と、もうすぐ目の前にある山の頂をみつめた。
けれども、もう十分もすれば、あたりは真っ暗になるはずだった。
「仕方ない。今晩は、ここで泊りだ」
と、リックは、山小屋の前で馬から降りた。
狭い山道沿いにある山小屋は、旅人や山道に迷った者のための、避難所だった。
峠さえ超えてしまえば、すぐ小さな村があったのだが、リックは、夜の暗い山道を進むより、ここで夜明けを待つ方が安全だと判断した。
少し前、通り過ぎた小さな村で、昨夜のように、納屋を借りることも考えたのだが、まだ空は明るく、やはり少しでも距離を稼ぎたかった。
すると、その村の農民が、峠の手前に山小屋があることを教えてくれた。
馬たちの、水飲み場もあるという。
峠は越せなくとも、その山小屋までは何とか行けると、リックは判断して、先を急いだ。
そして、ぎりぎり日没前に、その山小屋へ辿り着いたのだった。
リックが、皆の顔を眺めると、一様に疲れた顔をしていた。
アルカンスィエルからの、気の張った逃避行の上、今日は、ほとんど早朝から夕暮れまで、 馬上にいた。
疲れていないはずはなかった。
特に、アンジェラの具合が心配だった。
アンジェラは、フィリップに抱きかかえられるようにして、馬から降りた。
けれども、リックと眼が会うと、例の砂糖菓子のような笑顔を見せたので、今のところ、問題はなさそうだった。
山小屋の中は、さほど広さがあるわけではなく、窮屈だった。
「男は外だ。女は中で寝ろ」
リックは、そう告げた。
さすがに、この山の中、外で夜を過ごすのは寒かったが、幸い山小屋の中には、十分な薪が用意されていた。
火が熾せることは、有り難かった。
リックは、念のため持参していた火打石と火打金を打ち合わせて、器用に火を起こし、薪をくべた。
そして、荷物を下ろすと、あとのことはフィリップとレティシアに任せて、馬の世話にかかった。
山小屋から少し下ると、小川があり、そこで馬に水を与えた。
火をランタンに入れ、その灯りひとつで、そこまで、馬たちを誘導し、水を与えるだけでも、ちょっとした労働だった。
馬たちはリックによくなついていて、声かけだけで、大人しくついて来た。
馬が水を飲んでいる間、リックは岩場で待っていた。
「お前らも大変だよな。こんなところまで連れてこられて」
リックは、馬を眺めながら、呟いた。
一頭が、顔を上げて、リックの方を見た。
全くだ、と言っているように思えた。
「リック、手伝うよ」
上から、フィリップが降りて来た。
「アンジェラは、大丈夫か?」
「今、横になってる。疲れてるけど、レティシアと話もしているから、大丈夫そうだよ」
アンヌのことは、聞く気にもならなかった。
「リックは、立派だね」
「何だ、急に」
「色々と迷惑をかけているのに、ちゃんと仕事をしてくれるから」
「金をもらうんだから、当たり前だろう」
「そうかもしれないけど、普通こんなこと、引き受けてくれないと思う」
「成り行きだ。今さら言っても仕方ない」
「やっぱり、立派だと思うよ」
フィリップは、自分より六つ年上の、無愛想な御者を慕い始めていた。
「私も、あなたのようになれるだろうか」
「俺みたいに?」
「頼りにされる人間に、なりたいんだ」
「頼りにされるかどうかは知らんが、俺みたいになりたいんだったら、バッカスへ来い。ジェフリーっていう強欲な経営者にこき使われて、猛スピードで馬車を走らせる。仕事が終わったら、バッカスで一杯やる。これで、俺と言う人間が出来上がる。どうだ、出来そうか?」
「楽しそうだ」
フィリップは、声をたてて笑った。
笑ってから、フィリップは、声を上げて笑ったのは、いつ以来だろう。
そう思った。
アルカンスィエルが落ちてから・・・、いや落ちる以前から、もう長いこと笑ってなかったような気がした。
そして、今、ひと時でも笑える瞬間があったのは、リックのおかげだと思った。
リックとフィリップは、山小屋へ戻り、馬たちに飼料を与えて、ようやく自分たちの食事の番になった。
「私たちも、まだいただいていないのよ。お兄様たちと一緒にいただこうと思って」
山小屋の中から、アンジェラとレティシアが顔を出した。
夕飯、と言っても、昼間通った村の農家に支払って分けてもらった、バター付きのパンに、ベーコン、じゃがいもという、代り映えのしないものだったのだが。
それでも、アンジェラの可愛らしい笑顔と、気は許せないにしろ、気遣い細やかな美しいレティシアと囲む夕食は、そう悪いものではなかった。
アンヌは、山小屋の中に入ったきり、出てくる気配すらなかった。
もちろん、リックにしてみれば、出てこないでくれた方が、有り難かったけれども。
「リックのお仕事は、旅をする人だけじゃくて、お手紙や荷物を届けたりもするのね」
すっかり打ち解けたアンジェラは、リックにあれこれ、尋ねて来る。
その瞳は、好奇心できらきら輝いていた。
病弱で、引っ込み思案のため、友達らしい友達がいなかったアンジェラは、リックを友達と言えるかどうかはともかく、信頼を寄せる年上の男に、大いに関心を示した。
「じゃあ、私がお手紙を書いたら、リックのようなお仕事をしている方が、運んでくれるのよね」
「一体、誰に書くんだい、アンジェラ?」
「お兄様・・・。ああでも、お兄様も、いらっしゃるし、レティシア・・・も、傍にいるのよね」
アンジェラは、がっかりした様子だったが、すぐ、思いついたように、
「じゃあ、私、リックに書くわ。ウッドフィールドから、ブリストンのリックに、きっと書くわ」
嬉しそうに、そう言った。
「俺に?何を書くんだ?」
「そうねえ、好きな食べ物は何ですかとか・・・」
「ビール。手紙の必要ないな」
フィリップもレティシアも、吹き出した。
アンジェラは、からかわれて頬を膨らませていた。
そこへ、冷たい声がふって来た。
「手紙は、どのように出すものですか?」
アンヌが、立っていた。
山小屋の中まで、リックたちの会話が聞こえていたようだった。
リックに瞳を向けているところからして、それは、リックへの質問だと思えた。
「手紙をだすつもりなのか?そんなものは、タヴァンの一階へ行けば、大抵受け付けてくれるさ。ただ、グラディウスに占領されているアルカンスィエルへは、今は無理だし、ユースティティアへは、しばらくちょっと難しいかもしれないな」
アンヌは、黙っていた。
リックは、アンヌが、ユースティティアの親しい者にでも、手紙を出そうとしているのだと、思った。
自分の親族や親戚が、どうなったのか、詳しく知りたいと思うのは、当然のことだろう。
とすれば、この氷のような女にも、人情はあったのか、と思う。
考えてみれば、この高慢な女も十八歳な訳で、親の死に目にも会えなかったのだと思うと、哀れなような気もした。
アンヌは、黙って、山小屋の中へ戻って行った。
簡単な夕飯が終わると、すぐに休むことにした。
明日もまた、早朝から旅が始まる。
夕飯の後、レティシアとアンジェラは、山小屋の中に戻り、夕刻、立ち寄った村で、このあたりは時折盗賊が出ると聞いたため、リックとフィリップは、万一に備えて銃を持ち、外で火の番をしながら、交代で仮眠を取った。
昨日に引き続き、静かな夜だった。
一度、草むらからガサガサッと、音がして出て来たのは、キツネだった。
リックより、キツネの方が驚いたと見えて、すぐに、草むらの中へ引っ込んだ。
時が過ぎ、夜明けが近くなって来た頃、山小屋のドアがキイッと音を上げて開いた。
「少しは眠れまして?」
出て来たのは、レティシアだった。
毛布をまとって、火の前に座っているリックを見つけて、声をかけて来た。
フィリップは、木にもたれて、眠りこんでいた。
話声にも、起きる気配はなかった。
リックは、レティシアの問いかけを無視したが、レティシアは、山小屋には戻らずに、火の前にそっと座った。
「夜は、少し冷えますね」
それにも、リックは答えなかったが、別段レティシアが気にする様子はなかった。
暗闇の中、炎に顔が明るく照らされ、頬にかかるほつれた髪のせいか、レティシアはいつもよりも艶っぽく見えた。
「お前・・・」
と、話し始めたリックに、レティシアは眼差しを向ける。
「お前、何故フィリップたちに付き合うんだ?」
「何故?どういう意味でしょうか?」
レティシアにしてみれば、思いがけない質問だった。
「心配する家族はいないのか?親や、兄弟は?」
「私に、兄弟はおりませんわ。両親も・・・、亡くなりました」
「それでも、ひとりぐらい誰かいるだろう。友達とか、男とか」
「男?」
レティシアは、驚いた。
「それだけ器量が良けりゃ、ひとりふたり、いるだろう」
レティシアは、笑いだした。
「何がおかしい」
「いいえ、いいえ、別に」
レティシアは、おかしかった。
リックにそう言われて、私くらいの年頃だと、恋人や、もしかしたら、夫がいたとしてもおかしくないのだと、初めて気付かされた。
そうして、そう見られていたのだと思うと、なんだかおかしかった。
「私には、男も、恋人も、夫もおりませんわ」
「変わってるな」
「そうでしょうか?」
「言い寄って来る男は、いるだろう?」
「いいえ。アルカンスィエルのお屋敷では、フィリップ様が、士官学校に行かれていたので、アンジェラ様とピエールと、三人での暮らしでしたもの。そういう人はありません」
「つまり、身寄りがないから、それでフィリップたちと一緒に、ウッドフィールドへ向かうってことか」
「私がいることで、少しでもアンジェラ様やアンヌ様のお役にたてるのなら、そのようにしたいと思います。でも、ウッドフィールドへ着いたら、お暇をいただこうと思います」
レティシアは、少しうつむいて、スカートの埃を指で払った。
「暇を?暇をもらってどうする?」
「できれば、どこか小さなお屋敷を紹介していただいて、また御奉公したいと思っています」
「お前がいなくなると、アンジェラが哀しむんじゃないか?」
「リヴィングストン伯爵様のお屋敷は、大変立派で、お屋敷で働く使用人も、相当な数とお聞きします。私のような至らないものより、もっと行き届いた女中が、アンジェラ様をお世話できるでしょう」
アンジェラが、それに納得するとは思えなかった。
「お前もリヴィングストン伯爵の屋敷で、雇ってもらえばいいんじゃないのか?立派な屋敷で働かせてもらえるのなら、その方が、給料や待遇も良くなるだろう」
「私は、あまり人が多いところが好きではありません。できれば、この先も、どこかでひっそりと働いて、暮らしてゆきたいと思います」
不思議な女だと思った時、リックの耳が、小枝を踏みしめる音を捕えた。
「リック?」
急に表情の強張ったリックを、レティシアは不思議そうに見つめた。
「フィリップ、起きろ。お前は、すぐ中に入れっ!」
リックがそう怒鳴って、レティシアが弾かれたように、山小屋の中へ身を隠した瞬間、銃声が聞こえた。
毎日、毎日、とにかく速さが求められる急行馬車である。
時間に遅れれば、まるで犯罪でも犯したかのような、冷ややかな眼でみられる。
マクファーレン商会の、急行馬車の御者として働き始めてからというもの、速さは、絶対必要条件だった。
その速さに対する、自分の感覚が間違いだということに、気づいたのだ。
リックにとっては、急行馬車のあの速さが、通常だった。
しかし、あれは、速すぎるのだ。
だから、今のこの、リックにしてみれば、馬上で昼寝できそうなくらいの進み具合が、ごく一般的なのだ。
そう思い当たると、不思議と昨日までの苛立ちが落ちついた。
そうすれば、見たことか。
昨日に比べて、すこぶる順調な旅だった。
天気はいい、空気もいい、アンジェラの体調も回復傾向、全てが順調だった。
このまま行けば、昨日の遅れは、十分取り戻せると、リックは思った。
それに加えて、昨日までと今日では、もう一つ違うことがあった。
それは、アンジェラだった。
昨日まで、アンジェラは、リックとまともに話すことが、なかった。
いつも、フィリップとレティシアの後ろに隠れるようにしていた。
思いがけず、昨夜の一件が、打ち解ける機会になったようで、アンジェラは、人懐こく、リックに話かけて来るようになった。
馬上にいる時は、付いて行くのに必死のアンジェラだったが、昼の小休止の時などは、リックの近くに寄って来て、何かと話かけては、昨晩納屋を貸してくれた農家の主人が、朝分けてくれたじゃがいもや、ゆで卵を頬張っていた。
リックには、八つも歳下の少女に、くったくなく懐かれるという、経験がなかった。
陽に当たって光る柔らかな巻き毛が、風にゆれ、大して面白くもない話にも、くすくす笑う。
まるで、甘い砂糖菓子みたいだ。
リックは、そう思った。
これは、俺もうっかりすると、フィリップの二の舞になりそうだと、リックは自分を戒めた。
そのフィリップはと言えば、明るい表情の妹を、嬉しそうに、見守っている。
そしてそれは、レティシアも同じだった。
アンヌは・・・、といえば、明らかに、リックとは距離を置いていた。
皆で昼食を取っている時も、一人だけ離れた場所で、黙って、口に運んでいた。
そして、用があれば、レティシアを呼んだ。
自分は、あなたたちとは違う、と言わんばかりだった。
そこまで、徹底されると、リックの方も怒る気が失せた。
アンヌは、同じ生き物ではないのだと、リックの方も割り切った。
夜が、押し迫っていた。
今日中に、この峠を越えてしまいたかったんだが。
リックは、空と、もうすぐ目の前にある山の頂をみつめた。
けれども、もう十分もすれば、あたりは真っ暗になるはずだった。
「仕方ない。今晩は、ここで泊りだ」
と、リックは、山小屋の前で馬から降りた。
狭い山道沿いにある山小屋は、旅人や山道に迷った者のための、避難所だった。
峠さえ超えてしまえば、すぐ小さな村があったのだが、リックは、夜の暗い山道を進むより、ここで夜明けを待つ方が安全だと判断した。
少し前、通り過ぎた小さな村で、昨夜のように、納屋を借りることも考えたのだが、まだ空は明るく、やはり少しでも距離を稼ぎたかった。
すると、その村の農民が、峠の手前に山小屋があることを教えてくれた。
馬たちの、水飲み場もあるという。
峠は越せなくとも、その山小屋までは何とか行けると、リックは判断して、先を急いだ。
そして、ぎりぎり日没前に、その山小屋へ辿り着いたのだった。
リックが、皆の顔を眺めると、一様に疲れた顔をしていた。
アルカンスィエルからの、気の張った逃避行の上、今日は、ほとんど早朝から夕暮れまで、 馬上にいた。
疲れていないはずはなかった。
特に、アンジェラの具合が心配だった。
アンジェラは、フィリップに抱きかかえられるようにして、馬から降りた。
けれども、リックと眼が会うと、例の砂糖菓子のような笑顔を見せたので、今のところ、問題はなさそうだった。
山小屋の中は、さほど広さがあるわけではなく、窮屈だった。
「男は外だ。女は中で寝ろ」
リックは、そう告げた。
さすがに、この山の中、外で夜を過ごすのは寒かったが、幸い山小屋の中には、十分な薪が用意されていた。
火が熾せることは、有り難かった。
リックは、念のため持参していた火打石と火打金を打ち合わせて、器用に火を起こし、薪をくべた。
そして、荷物を下ろすと、あとのことはフィリップとレティシアに任せて、馬の世話にかかった。
山小屋から少し下ると、小川があり、そこで馬に水を与えた。
火をランタンに入れ、その灯りひとつで、そこまで、馬たちを誘導し、水を与えるだけでも、ちょっとした労働だった。
馬たちはリックによくなついていて、声かけだけで、大人しくついて来た。
馬が水を飲んでいる間、リックは岩場で待っていた。
「お前らも大変だよな。こんなところまで連れてこられて」
リックは、馬を眺めながら、呟いた。
一頭が、顔を上げて、リックの方を見た。
全くだ、と言っているように思えた。
「リック、手伝うよ」
上から、フィリップが降りて来た。
「アンジェラは、大丈夫か?」
「今、横になってる。疲れてるけど、レティシアと話もしているから、大丈夫そうだよ」
アンヌのことは、聞く気にもならなかった。
「リックは、立派だね」
「何だ、急に」
「色々と迷惑をかけているのに、ちゃんと仕事をしてくれるから」
「金をもらうんだから、当たり前だろう」
「そうかもしれないけど、普通こんなこと、引き受けてくれないと思う」
「成り行きだ。今さら言っても仕方ない」
「やっぱり、立派だと思うよ」
フィリップは、自分より六つ年上の、無愛想な御者を慕い始めていた。
「私も、あなたのようになれるだろうか」
「俺みたいに?」
「頼りにされる人間に、なりたいんだ」
「頼りにされるかどうかは知らんが、俺みたいになりたいんだったら、バッカスへ来い。ジェフリーっていう強欲な経営者にこき使われて、猛スピードで馬車を走らせる。仕事が終わったら、バッカスで一杯やる。これで、俺と言う人間が出来上がる。どうだ、出来そうか?」
「楽しそうだ」
フィリップは、声をたてて笑った。
笑ってから、フィリップは、声を上げて笑ったのは、いつ以来だろう。
そう思った。
アルカンスィエルが落ちてから・・・、いや落ちる以前から、もう長いこと笑ってなかったような気がした。
そして、今、ひと時でも笑える瞬間があったのは、リックのおかげだと思った。
リックとフィリップは、山小屋へ戻り、馬たちに飼料を与えて、ようやく自分たちの食事の番になった。
「私たちも、まだいただいていないのよ。お兄様たちと一緒にいただこうと思って」
山小屋の中から、アンジェラとレティシアが顔を出した。
夕飯、と言っても、昼間通った村の農家に支払って分けてもらった、バター付きのパンに、ベーコン、じゃがいもという、代り映えのしないものだったのだが。
それでも、アンジェラの可愛らしい笑顔と、気は許せないにしろ、気遣い細やかな美しいレティシアと囲む夕食は、そう悪いものではなかった。
アンヌは、山小屋の中に入ったきり、出てくる気配すらなかった。
もちろん、リックにしてみれば、出てこないでくれた方が、有り難かったけれども。
「リックのお仕事は、旅をする人だけじゃくて、お手紙や荷物を届けたりもするのね」
すっかり打ち解けたアンジェラは、リックにあれこれ、尋ねて来る。
その瞳は、好奇心できらきら輝いていた。
病弱で、引っ込み思案のため、友達らしい友達がいなかったアンジェラは、リックを友達と言えるかどうかはともかく、信頼を寄せる年上の男に、大いに関心を示した。
「じゃあ、私がお手紙を書いたら、リックのようなお仕事をしている方が、運んでくれるのよね」
「一体、誰に書くんだい、アンジェラ?」
「お兄様・・・。ああでも、お兄様も、いらっしゃるし、レティシア・・・も、傍にいるのよね」
アンジェラは、がっかりした様子だったが、すぐ、思いついたように、
「じゃあ、私、リックに書くわ。ウッドフィールドから、ブリストンのリックに、きっと書くわ」
嬉しそうに、そう言った。
「俺に?何を書くんだ?」
「そうねえ、好きな食べ物は何ですかとか・・・」
「ビール。手紙の必要ないな」
フィリップもレティシアも、吹き出した。
アンジェラは、からかわれて頬を膨らませていた。
そこへ、冷たい声がふって来た。
「手紙は、どのように出すものですか?」
アンヌが、立っていた。
山小屋の中まで、リックたちの会話が聞こえていたようだった。
リックに瞳を向けているところからして、それは、リックへの質問だと思えた。
「手紙をだすつもりなのか?そんなものは、タヴァンの一階へ行けば、大抵受け付けてくれるさ。ただ、グラディウスに占領されているアルカンスィエルへは、今は無理だし、ユースティティアへは、しばらくちょっと難しいかもしれないな」
アンヌは、黙っていた。
リックは、アンヌが、ユースティティアの親しい者にでも、手紙を出そうとしているのだと、思った。
自分の親族や親戚が、どうなったのか、詳しく知りたいと思うのは、当然のことだろう。
とすれば、この氷のような女にも、人情はあったのか、と思う。
考えてみれば、この高慢な女も十八歳な訳で、親の死に目にも会えなかったのだと思うと、哀れなような気もした。
アンヌは、黙って、山小屋の中へ戻って行った。
簡単な夕飯が終わると、すぐに休むことにした。
明日もまた、早朝から旅が始まる。
夕飯の後、レティシアとアンジェラは、山小屋の中に戻り、夕刻、立ち寄った村で、このあたりは時折盗賊が出ると聞いたため、リックとフィリップは、万一に備えて銃を持ち、外で火の番をしながら、交代で仮眠を取った。
昨日に引き続き、静かな夜だった。
一度、草むらからガサガサッと、音がして出て来たのは、キツネだった。
リックより、キツネの方が驚いたと見えて、すぐに、草むらの中へ引っ込んだ。
時が過ぎ、夜明けが近くなって来た頃、山小屋のドアがキイッと音を上げて開いた。
「少しは眠れまして?」
出て来たのは、レティシアだった。
毛布をまとって、火の前に座っているリックを見つけて、声をかけて来た。
フィリップは、木にもたれて、眠りこんでいた。
話声にも、起きる気配はなかった。
リックは、レティシアの問いかけを無視したが、レティシアは、山小屋には戻らずに、火の前にそっと座った。
「夜は、少し冷えますね」
それにも、リックは答えなかったが、別段レティシアが気にする様子はなかった。
暗闇の中、炎に顔が明るく照らされ、頬にかかるほつれた髪のせいか、レティシアはいつもよりも艶っぽく見えた。
「お前・・・」
と、話し始めたリックに、レティシアは眼差しを向ける。
「お前、何故フィリップたちに付き合うんだ?」
「何故?どういう意味でしょうか?」
レティシアにしてみれば、思いがけない質問だった。
「心配する家族はいないのか?親や、兄弟は?」
「私に、兄弟はおりませんわ。両親も・・・、亡くなりました」
「それでも、ひとりぐらい誰かいるだろう。友達とか、男とか」
「男?」
レティシアは、驚いた。
「それだけ器量が良けりゃ、ひとりふたり、いるだろう」
レティシアは、笑いだした。
「何がおかしい」
「いいえ、いいえ、別に」
レティシアは、おかしかった。
リックにそう言われて、私くらいの年頃だと、恋人や、もしかしたら、夫がいたとしてもおかしくないのだと、初めて気付かされた。
そうして、そう見られていたのだと思うと、なんだかおかしかった。
「私には、男も、恋人も、夫もおりませんわ」
「変わってるな」
「そうでしょうか?」
「言い寄って来る男は、いるだろう?」
「いいえ。アルカンスィエルのお屋敷では、フィリップ様が、士官学校に行かれていたので、アンジェラ様とピエールと、三人での暮らしでしたもの。そういう人はありません」
「つまり、身寄りがないから、それでフィリップたちと一緒に、ウッドフィールドへ向かうってことか」
「私がいることで、少しでもアンジェラ様やアンヌ様のお役にたてるのなら、そのようにしたいと思います。でも、ウッドフィールドへ着いたら、お暇をいただこうと思います」
レティシアは、少しうつむいて、スカートの埃を指で払った。
「暇を?暇をもらってどうする?」
「できれば、どこか小さなお屋敷を紹介していただいて、また御奉公したいと思っています」
「お前がいなくなると、アンジェラが哀しむんじゃないか?」
「リヴィングストン伯爵様のお屋敷は、大変立派で、お屋敷で働く使用人も、相当な数とお聞きします。私のような至らないものより、もっと行き届いた女中が、アンジェラ様をお世話できるでしょう」
アンジェラが、それに納得するとは思えなかった。
「お前もリヴィングストン伯爵の屋敷で、雇ってもらえばいいんじゃないのか?立派な屋敷で働かせてもらえるのなら、その方が、給料や待遇も良くなるだろう」
「私は、あまり人が多いところが好きではありません。できれば、この先も、どこかでひっそりと働いて、暮らしてゆきたいと思います」
不思議な女だと思った時、リックの耳が、小枝を踏みしめる音を捕えた。
「リック?」
急に表情の強張ったリックを、レティシアは不思議そうに見つめた。
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ファンタジー
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しかも、その双子姉妹レイラとカンナは、2人とも王妃の美貌を引き継ぎ、学問にも武術にも優れている。
甲乙つけがたい実力を持つ2人に、国王は、相談してどちらが女王になるか決めるよう命じる。
2人の相談は決裂し、体を使った激しいバトルで決着を図ろうとするのだった。
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