東雲色のロマンス

海子

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11.Darling

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 翌日の早朝、薄明りの中、レティシアはリックに送られて、フランクの家へ帰った。 
そうっと、玄関のドアを引くと、鍵は、かかっていなかった。 
家の中は、まだ、夜明け前の静けさで、レティシアは、できるだけ足音を立てないように、二階への階段を上がる。 
ゆっくり、リビングのドアを開けると、ソファに身を沈めて、眠り込んでいる、ケイティとフランクの姿が目に入った。
その途端、人の気配を感じたのか、ケイティが、眠気に顔をしかめながら瞼を開いた。
同じように、フランクも、眼を擦ってから、開いた。 
ふたりとも、寝間着ではなく、昨日の洋服のままだった。 
レティシアを心配して、ベッドに入らずに、夜通し、その帰宅を待っていたのだということは、すぐにわかった。 
「あの・・・私」
「もう・・・、朝?いけない、私ったら、つい、こんなところで、眠ってしまっていたのね。私、ずいぶん、疲れていたんだわ。あら、おはよう、レティシア」
「奇遇だね、ケイティ。私も、今朝に限って、リビングで、夜を明かしてしまった。そうだ、今日は、朝一番で、ラムゼイ市長と、約束があるんだった。ケイティ、髭を剃りたいので、お湯を頼めるかな?少し早いが、支度をするとしよう」 
と、ふたりとも、まるで、何事もなかったかのように、そそくさと、ソファから立ち上がる。
「あの、ケイティ、フランクさん、私・・・」
「レティシア、私、お湯を沸かすから、先に下へ行くわね」
「私も出かける前に、少し確認しておきたい書類が」 
と、それぞれが、キッチンと書斎へ、向かう。 
ふたりとも、レティシアの朝帰りを、見て見ぬふりをしていてくれているのだということは、すぐにわかった。 
レティシアの帰りを、心配して待っていながら、咎めだてするようなことは、一言も言わなかった。 
未婚の女が朝帰りをするなど、本当なら、家を放り出されても仕方のないことだったが、 ふたりとも、いつもと同じ、当たり前の朝を作ってくれた。 
レティシアは、ケイティの後から、階段を降りた。 
先に下に降りていたケイティは、お湯を沸かすため、キッチン・ストーブに火を入れる用意をしていた。
「ケイティ・・・」 
レティシアは、ケイティの背中から、そっと声をかけ、 
「ごめんなさい、心配かけて」
そう謝った。
「ああ、いいのよ、そんなこと」 
何でもないわ、という風に答えて、そのまま、ケイティは、炉に石炭を放り込んだ。 
けれども、ふと、真顔で、
「レティシア・・・」
と、振り返った。 
「レティシア、今・・・、幸せ?」 
そのケイティの問いに、レティシアは、顔を赤らめながらも、はっきりと、頷いた。
何度も、頷いた。 
「そう・・・、それは、よかったわね」
レティシアを見つめるケイティの眼差しは、温かかった。



 ふたりの二度目の逢瀬は、ふたりで過ごした初めての夜から十日後の、八月の土曜日の夜だった。 
初めてふたりで夜を明かした翌日からも、それまでと同じように、レティシアは、ホイットマン製造会社のリックに、昼食を届けた。
リックも、それまでと同じように、レティシアから昼食を受け取った。 
ふたりとも、それまでと同じように振る舞いつつも、当然のことながら、それまでと同じようではいられなかった。
昼食を受け渡しする僅かな時間、顔を合わせれば、眼差しを交わす度、先夜の狂おしい時間が、甦った。 
抱きしめあった時の息遣い、触れる指の感触、恍惚に漏れる声を思い出せば、互いに、今すぐにでも触れたい、もう一度、先日の夜のような時を迎えたいという、焦りにも似た気持ちが込み上げた。 
だから、木曜日、いつものように昼食を手渡したレティシアの耳元で、明後日の夜、十時に迎えに行くと、リックが囁いた時、レティシアは頬を染めつつ、ためらうことなく頷いた。



 リックに抱かれた夜から、レティシアは、虜になっていた。 
リックの虜になっていた。 
もちろん、それまで、リックのことを好きだと言う自覚が、なかったわけではなかった。 
けれども、昨日までと、今日。 
抱かれるまでと、抱かれてからでは、想いが、全く違った。 
これまでは、肩に刻まれる刻印のせいで、いつも、気持ちを抑えていた。
恋してはいけないのだと、好きになってはいけないのだと、気持ちに、どこか逃げ場を作っていた。
それが、全てを受け入れられた今、逃げ場が必要なくなった。 
恋い慕う気持ちを包み隠さず全部、リックに委ねることが、叶った。 
一途なレティシアの気持ちは、今、全て、リックに向かっていた。
料理をしている時、掃除をしている時、洗濯をしている時・・・、離れてはいても、呼吸をしている時間、心はずっと、愛しい男を想っていた。 
恋に溺れている。
私、今、彼に溺れている。 
レティシアは、自分でも、浮足立つような、地に足のつかない自分に、気づかないわけではなかった。
それでも、気持ちを抑えることが、出来なかった。
胸の内にあふれる恋慕は、百合の烙印という堰がなくなった今、愛しい男へ向けて、ただ、溢れだすばかりだった。
レティシアの中で、聖ラファエラ女子修道院が、遠くかすんでいった。 



 約束の土曜日の夜、十時を少し過ぎて、レティシアは表に出ると、音が響かないように、静かに鍵をかけた。
日中は、汗ばむ陽気の続くブリストンだったが、日が沈むと、涼しい風が吹いて、肌に心地よかった。
「遅い」 
灯りを手に、いきなり物陰から現れたリックに、レティシアは、はっと息をのんだ。 
「・・・驚いた。驚かせないで。心臓が驚く」 
そうは言いつつ、暗闇の中に、愛しい男の姿を見つけて、レティシアは笑顔になった。
「遅刻だ」 
「ほんの少しだけ。支度に、時間かかった」 
これから肌を重ねることは百も承知で、昼間の汗や埃を拭っておきたかったし、少しでも、綺麗に見せたくて、身だしなみを整えたり、わざわざ新しく買ったリボンで、髪を結び直したりしていると、時間があっという間に過ぎて、待ちわびていたにもかかわらず、表に出た時には、約束の時間を少し過ぎていた。 
そんな女心がわかるはずもなく、少しでも早く会いたい、一瞬でも早く、素肌を抱きしめたいと願うリックには、今、一秒が一時間のようにも思えた。 
リックは、灯りを、レティシアにかざした。 
優しく微笑んで、自分の顔を見上げる、信頼しきったレティシアの表情が、これまでよりも数段、色っぽく、艶めかしく映り、
「行こう」 
リックは、上ずった声でそう言って、レティシアの手を引くのが、精いっぱいだった。
レティシアは、その腕に身体を寄せるようにして、歩いた。
灯り一つを手に、街灯のない暗い夜道を、ふたりは身を寄せ合うようにして、先を急いだ。 



 その小さな灯りを、二階の窓から、見下ろす人影があった。 
ケイティだった。 
ふっと、ため息を漏らす。
「心配?」
「あなた・・・」 
ケイティの背後に、そっと近寄ったのは、フランクだった。 
フランクの眼にも、夜道を行く小さな灯りが眼に入ったが、それはまもなく、視界から消えた。 
「私、どうしたらいいのか、迷っていて・・・。もし、相手がリックでないのなら、こういったことは、すぐにでも止めさせた方がいいのでしょうけれど」 
まだまだ、モリーとデボラのような、保守的な考えの者が多いこのフォルティスで、結婚前に、女が、男と身体の結びつきを持つことには、厳しい目が向けられた。 
こういうことが、近所の者の口の端に上るようなことになれば、非難され、傷つくのは、レティシアだった。
「リックは、無責任なことをするような男ではないよ。それは、君もよく知っているだろう」 
「もちろんよ、フランク。私も、彼のことを信用しているわ。彼が、レティシアのことを、心から愛しているのだということも、わかってる。でも、だからって、世間は、こういったことを許してはくれないもの。心無い人に、何かを言われて傷つくのは、レティシアだわ」
「君は、賢い。そして、優しい」 
フランクは、愛情をこめて、妻の髪に、そっと唇を当てた。
「私は、どうするべきなのかしら、フランク」
「何が正しいのか、明確な答えはないのかもしれない。ただ、今は、ふたりのことを、そっとしておいた方が、いいのだと思う」 
「レティシアのためにならないとしても?」 
「私も、ふたりの詳しい事情を知っているわけじゃない。だけど、これまでに、色んな哀しい出来事を、乗り越えてきたようだ。今、ようやく幸せな時間を迎えたのなら、しばらくそのままで、いさせてあげたいと思う。温かく、見守ってあげたい。そして、もし、彼らに、困難なことが起こったなら、その時は、私たちが盾となったらいいのだと思う」 
「あなたって・・・、本当に、気持ちの大きな人ね」 
ケイティは、窓にうつる自分と夫の顔を見つめながら、フランクの胸に頭を寄せた。
「少し前から思っていたんだが、君は、ずいぶん、レティシアのことを気にかけているようだね」 
「ええ、そうね。自分でも、そうだと思うわ。そう、何て言うか・・・、心当たりがないわけじゃないの」
 「心当たり?」 
 「ええ。でも、それは、私の心の奥底にしまっておくわ。誰かに話して、幸せになる人がいないのなら、それは、永久に口をつぐんでおくべきでしょう」 
ケイティは、先日の、ある一場面を脳裏に思い浮かべて、そう言った。 
「私は、聡明な妻の判断を、尊重するよ。それに、彼女はきっと、いずれ、君の妹になる人だからね。少しくらいかまいすぎても、きっとわかってくれるはずだよ」
「妹?・・・ああ、そうね、私、気がつかなかったわ、フランク。リックとレティシアが結婚すれば、レティシアは、妹になるんだわ」 
驚きと、そして、喜びで、ケイティの声が、高くなる。 
フランクとリックは、親友であり、かつ、兄弟のような結びつきがあった。 
リックがレティシアと結婚すれば、レティシアは、ケイティにとって、妹のような立場になるといって、間違いなかった。
「嬉しそうだね」 
「それは、そうだわ。可愛い妹が、出来るんですもの。私、末娘だから、妹って、とても新鮮なの」
「やはり、ご両親から、連絡はないのかな?」 
家族の話に及ぶとすぐ、フランクがそう切り出したので、家族の大反対を振りきって、フランクと結婚したせいで、音信の途絶えたケイティの家族について、フランクが今もずっと胸を痛めているのだということが、ケイティにはよくわかった。
「そのことは、もう気にしないで。私は、今、とても幸せだし、父や母も、二人きりじゃない。近くに、兄や姉がいるんですもの。きっと、みんな、元気で、幸せに暮らしているはずよ」 
「一度、こちらから連絡を取ってみてはどうだろうか。ずいぶん時間も過ぎたことだし、四人も孫が出来た訳だし、おふたりの気持ちも、変わっているかもしれない。一度、タリスまで、会いに行くということを、考えてみては」 
「残念だけど、それは出来ないわ。正直に言うと、許せないのは、私の方」 
ここまで育ててあげた挙句に、この仕打ち!
何て、恩知らずな娘! 
お前なんか、もう娘でもなんでもない。
今すぐ、出てゆきなさい! 
自分に向けられた、父の、母の、叱りつけるような厳しい言葉は、まだ昨日のことのように、ケイティの耳に、くっきりと残っていた。 
「あなたにまで、嫌な思いをさせてしまって・・・」
「いけないのは、ご両親の信頼を得ることが出来なかった、私の方だ。どうか、謝らないでほしい」 
フランクは、ケイティに最後まで、謝罪の言葉を述べさせなかった。 
「フランク・・・」
「君の言う通り、ご両親との関係修復には、もう少し時間をかけよう。私は、いつかきっと、分かり合える日が来ると、希望を持っているよ」 
フランクは、ケイティの手を取ると、その手の甲に、そっと唇を当ててから、優しく抱き寄せた。
「私たち、あのふたりに影響されているのかしら?」 
ケイティは、今夜、このまますぐ眠ることにはならないだろうという予想が、ついた。 
「そうだとすると、私は、彼らに、感謝しないといけないね。・・・今夜は、誘っても?」 
「もちろんだわ。今夜、あなたに誘ってもらえないと、私、がっかりするもの」 
「どうやら、私たちは、本当にあのふたりにあてられたようだ」
ふたりは、瞳を重ねて、ふふっと微笑んだ。 
フランクが、ケイティの腰に手を回して、ひとつ上の階にある、寝室へと誘う。
そうして、四人の子供たちの、安らかな眠りを妨げないように、フランクは寝室のドアを、そっと閉めた。

 
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