東雲色のロマンス

海子

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9.You take my breath away

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 午後からの、ホイットマン製造会社は、ようやくいつもと変わらない落ち着きを、取り戻しつつあった。 
ブラッドは外出中で、作業員たちは近くの鉄工所に赴いており、事務所では、エドガーと、リックと、ボブの三人が、机に向かっていた。 
近々、線路敷設の工事のために、しばらくブリストンを離れることになるため、今のうちにやっておかなければならないことは、山ほどあった。 
けれども、リックは、全く手につかなかった。
俺は、何をやっているんだ?
トライアルで優勝して、ブリストンに帰ったら、真っ先に、レティシアに会いに行くつもりだった。
おめでとう。 
おめでとう、リック。 
そう言って、笑顔で迎えてもらうはずだったのに。 
それが、トライアルを終えて、三日を経ても、まだ、そう言ってもらっていなかった。 
走れば、十分とかからない距離にいるというのに。
おととい、見慣れない姿のレティシアに、ひととき触れはしたものの、ああいったことでは、全く、満足できなかった。 
リックが、フランクの家のドアに、紐を括り付けた日は、トライアルまで、欠かさず昼食を運んでくれた、レティシアだった。
どれほど吹雪こうが、自分の具合が悪かろうが、それは、欠かすことなく、続いた。
「リック、蒸気機関車、頑張ってね」 
昼食と共に届けられる、優しい笑顔が、どれほど励みになったことだろう。 
それが、今、キッチンの椅子に座り、じっと、俯いているのだという。 
瞳に涙を浮かべ、小さく背中を丸めて、しょんぼりと椅子に座るその姿が、目に浮かぶようだった。 
一体、俺は、何をやっているんだ!
リックは、突如、椅子から立ち上がった。
そうして、勢いよく事務所のドアを開けると、そのまま駆けだした。
「あいつ・・・、頭、大丈夫かな」 
ボブは、いきなり立ち上がったかと思うと、そのまま駆け出すリックを見て、一昨日の乱闘で、頭を殴られて、おかしくなったのではないかと、本気で心配した。



 一体、何をやっているのかしら、私。 
キッチンの椅子に座って、レティシアは、ぼんやりとそう思った。 
ケイティは、四人の子供たちの世話に、追われていた。
レティシアが、キッチンを離れないせいで、ケイティの忙しさは、普段とは比べ物にならなかった。 
そう考えると、責任の一端を感じているせいか、ケイティはレティシアに一言も文句を言わず、目の前の家事をてきぱきこなしていたが、キッチンを出て、家事も、育児も、手伝わなければならなかった。 
でも、どうしても、気持ちが前を向かなかった。 
子供たちと話そうとすれば、涙が溢れて言葉が続かなくなり、洗濯を干すために、中庭に出て誰かと顔を合わせれば、一昨日のバッカスでの一件が、もしかしたらブリストン中に知られていて、後ろ指をさされているのではないかと、ありもしない想像で胸がいっぱいになって、何も手がつかなくなった。
ケイティも、ローズも、ジミーも、心から謝ってくれたのだが、悪いのは、どのような事情があるにせよ、あのような格好で、家から飛び出した私なのだと、自分を責めた。 
バッカスの酒場で、みんなが見ている前で、あんな恰好で、リックに抱き着いて・・・。
そこまで、考えると、あまりの恥ずかしさで、顔を覆った。 
今すぐ、消えてなくなりたいような気持ちになった。 
こんなことになるくらいなら、トライアルの結果をきいてすぐ、ブリストンを離れ、聖ラファエラ女子修道院に帰るべきだった。 
そうしたら、こんなことにならずに、済んだのに。
レティシアは、顔を覆ったまま、大きなため息をついた。 
ただ、おめでとうって、言いたかっただけなのに。
トライアルから戻ったリックに会って、一言、おめでとう、リック、お疲れ様、って、言いさえしたら、心おきなく、聖ラファエラ女子修道院へ帰るつもりだったのに。
それが、何故、こんなことになってしまったのか・・・。 
レティシアがそこまで考えた時、玄関のドアを、コンコンと、ノックする音が聞こえた。 
レティシアは、そっと、椅子から立ち上がって、玄関の様子を伺った。
誰にも、会いたくなかった。 
だから、ケイティを、呼びに行こうかしら、と二階を見上げた。
そうするうちにも、再び、コンコン、と、ノックの音が聞こえた。
「はい・・・、どなた?」 
レティシアは、消え入りそうなほど、小さな声でそう尋ねた。
「レティシア、俺だ」 
リック! 
レティシアは、飛び上がりそうなほど驚いて、慌ててドアの前を、離れた。 
どうしましょう、どうしましょう! 
うろたえて、何でもないような場所で、躓いて、膝をついた。
「レティシア、ここを開けてくれ、レティシア!」 
ノックの音がだんだん大きくなって、終いには、ドンドンと、ドアをたたき出した。
「はあい、どなた?」 
流石に、二階のケイティも、一階の物音に気付いて、階段を降りてくる。 
「ダメ、ケイティ、来ないで、ケイティ!」 
レティシアは、思わず、そう叫んだ。 
そうする間も、レティシアを呼ぶリックの声と、勢いよくドアを叩く音は、絶え間なく続く。
「一体、どうしたの。何の騒ぎ?リック?」 
その物音に、慌てて二階から降りて来たケイティが、すぐ、レティシアを呼ぶリックの声に、気づいた。
ケイティが、玄関のドアの鍵を開けた瞬間、リックが駆け込んできた。 
「レティシア!」 
レティシアの姿は、そこにはなかった。
リックは、レティシアの姿を探して、急いで、キッチンに駆け込む。 
ケイティも、その後に、続いた。
けれども、やはりレティシアの姿はなく、開いたままの、中庭へと続くドアが目に入った。
レティシアは、逃げ出していた。 



 レティシアは、走って、ミルフェアストリートまで出た。 
五月になったばかり、午後四時のミルフェアストリートは、天気も良く、暖かいせいもあって、人出は多かった。 
五月に入って、ずいぶん日は長くなり、夕暮れまでには、まだまだ時間があった。
時折、後ろを振り返って、リックが追って来ないことを確認しつつ、人ごみにまぎれた。
細い路地に入っては、別の通りへと抜け、次第に、自分でも、どこを走っているのかわからなくなった。
走りながら、レティシアは、思い出していた。
一昨日、モスリンのドレスで、バッカスに行った日、レティシアが一番傷ついたのは、大きく胸の開いた、薄手のドレスで、ミルフェアストリートを走ったことでも、みんなの前で、リックに縋り付いたことでもなかった。
「ちょっと、いいか?」 
リックは、モスリンのドレスを着て縋り付くレティシアに、そう声をかけた。 
驚いて、顔を上げたレティシアを、リックは、怪訝そうな顔で、見つめた。 
お前、一体誰だ?
リックの表情は、そう語っていた。
あの日、何よりも、リックのその表情が、レティシアを傷つけた。
知らない人を見るような、いぶかしげな眼で見られたことは、何よりもショックだった。 
あんなひどい恰好で、きっと、なんて、情けない女だと思われた。 
そう考えると、やはり、涙がこみ上げて来る。 
レティシアは、どこをどう走ったのかはわからなかったが、気が付けば、目の前にハロルド河が現れた。 
後ろを振り返ってみても、リックの姿はなかった。
これだけ逃げれば、誰も、追ってくることなど、できるはずない。 
そう思って、レティシアは、走るのをやめた。
そして、馬車の行き交う道幅の広い石畳を渡って、ハロルド河にたどり着くと、穏やかな川面を、じっと、眺め続けた。
早く、聖ラファエラ女子修道院に帰らないと・・・。 
心の奥底から、じわっと、そんな思いが湧き出た。 
その時、いきなり、後ろから、ぐいっと、肩をひかれた。 
リック! 
咄嗟にそう思ったレティシアは、きゃっと、声を上げて、後ろを振り返ったが、立っていたのは、リックではなく、背の高い無精ひげを生やした、身だしなみの悪い、見知らぬ男だった。 
男は、鼻がひどく腫れていた。
それは、デニスだった。 
デニスは、仲間がひとり一緒だった。
「あんた、ひとりか?」 
デニスは、にやにや笑って、レティシアの前に立った。
まだ日は高いというのに、酒臭かった。 
レティシアは、話してはいけない人たちだ、と、すぐ判断して、黙って、立ち去ろうとしたが、デニスは、レティシアの前に立ちはだかった。
「さっきから見てたんだけど、いい女だよなあ、あんた」 
デニスは、まじまじと、レティシアの顔を眺めて、そう言った。
「ほんと、別嬪だ」 
隣にいた、歯並びの悪い男も、にやにや笑いながら、デニスに同意した。 
「なあ、時間あるんだろ?ちょっと、付き合えよ」
「私、急ぐ」 
「いい店、知ってんだ。一緒に、行こうぜ」 
と、無理やり、デニスは、レティシアの腕を取った。 
「放して」 
レティシアは、腕を払おうとしたが、がっちりと、デニスに腕を掴まれていて、逃げられなかった。 
酒臭い息が、レティシアの頬にかかった。 
「やめて!」 
「そう言うなよ。これから、楽しもうぜ」 
そう言って、デニスが、さらに、レティシアに顔を寄せて来た次の瞬間、ぐえっ、と奇妙な声を上げた。
後ろから、急に、シャツの襟首を引き上げられて、息が詰まったのだった。 
レティシアは、その隙に、デニスから逃げ出した。
「何すんだ、この野郎!」 
デニスが、喉元を抑えながら、振り返ると、立っていたのは、リックだった。
「前からクソだとは思ってたが、やっぱりお前は、クソ野郎だ」 
「何だと?」 
デニスが、気色ばんだ。 
「おとといのケリつけるのに、ちょうどよかったぜ、デニス。あのままじゃあ、お互い中途半端だよなあ」 
リックは、デニスを睨んでそう言うと、ジャケットを放り投げて、身構えた。 
一昨日の一件を、凝りている様子は、全くなかった。
凝りていたのは、むしろ、デニスの方だった。
「いいのか、お前。今度、コトを起こしたら・・・、仕事が、まずいんじゃないのか?」 
「リック・・・、お願い、止めて。こんなことで、仕事、失くすの、ダメ」 
レティシアは、何とかして引き留めなければならないと、リックのシャツを掴んだ。
レティシアには、こんなことで・・・、自分のせいで、せっかく掴んだ夢が潰えるなど、耐えられないことだった。
リックは、先に帰ってろと、小声でレティシアに促すと、
「デニス、お前に教えてやる。男には、譲れることと、絶対に譲れないことがあるんだよ。来いよ、デニス。今度こそ、その鼻、二度と使い物にならないようにしてやる」
と、デニスの鼻に、狙いを定めた。 
デニスは、思わず、折れた・・・、ではなく、打撲した鼻に、手をやった。 
既に、戦闘態勢に入っていた、深い怒りの籠ったリックの眼を見て、デニスは、明らかにひるんだ。 
リックにとって、デニスは、たちの悪い男だった。 
けれども、デニスもその時になって、ようやく気付いた。 
デニスにとっても、リックは、たちの悪い男だということに。 
「お、おい、行こうぜ、こんな奴、相手になんかしてられっか」 
デニスは、隣にいた歯並びの悪い男に、そう声をかけると、酒のせいか、動揺したせいか、もつれる足で立ち去った。 
「大丈夫か?」 
リックは、先ほど放り投げたジャケットを拾って着ると、レティシアに、そう声をかけた。
一昨日、バッカスでの一件を除けば、約半月ぶりに会う、レティシアだった。
「大丈夫・・・」 
レティシアは、俯いたまま、囁くような声で、そう言った。
今、リックに、何といえば、いいのかわからなかった。 
でも、一番伝えたかった言葉だけは、どうしても伝えなければならないと思った。 
「リック、トライアル、おめでとう。・・・本当に、おめでとう」 
笑顔はなく、俯いたままで、小さな声だった。 
しばらく、リックは黙って、そのレティシアを眺めていたが、やがて、その頬に、そっと手を触れた。
驚いて、レティシアが顔を上げると、先ほど、デニスを恐ろしいほどの迫力で睨んだ眼は、すっかり消え去り、穏やかな眼差しで、じっと、レティシアを見つめていた。
「レティシア」 
リックは、そう言いながら、長い角ばった指で、慈しむように、レティシアの頬を撫でる。 
「お前だと、気づかなかった。あまりにも、綺麗だったから・・・」 
レティシアは、バッカスでのことを言われているのだと気づくまでに、数秒かかった。 
「見違えて・・・、誰だか、分からなかった」 
そう告げる、真摯な黒い瞳は、レティシアをとらえて離さなかった。
「お前が、好きだ」 
一瞬、何を言われたのか分からずに、問い返すような眼をしたレティシアに、リックは、そのまま、唇を重ねた。
リックの温かな唇の感触が、レティシアの唇に、そっと落ちた。 
唇から伝わる温もりは、受けてはならない温もりなのだと、頭をよぎった。
けれども今、想いを寄せる男からの、熱のこもった口づけを受けて、これまでずっと長い間、押し殺してきた本心を、これ以上偽ることは、難しいことだった。
この人は、固く結んだはずの心の紐を、するりとほどいて、たやすく私の心に手を伸ばし、翻弄する・・・。
レティシアが、そのまま目を閉じると、すぐに、身体ごと抱きしめられた。 
ブリストンの街を流れる、穏やかなハロルド河両岸の石畳には、荷と人を積んだ馬車が行き交い、人々が行き過ぎ、時が過ぎてった。 
けれども、今、ふたりには、触れ合う互い以外に、存在するものはなかった。 


モスリンのドレスも、バッカスも、何もかも・・・、もう、どうだっていいの。
そう、目の前の、あなた以外は。
あなたが好き。 
あなたが、好き。 
息を忘れるくらい、あなたのことが、好きなの。 


 次第に熱を帯びる、いつ終わるとも知れない口づけに、今はただふたり、時を忘れ、酔いしれた。 

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