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9.You take my breath away
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レティシアの支度に、たっぷり一時間はかかった。
何故なら、酒に酔った女ふたりが、急に思いついた、めったとない、ささやかな悪戯を思い切り楽しむため、レティシアの支度に、十二分に手間をかけたからだった。
ローズの持参した柔らかく、真っ白で、ゆったりと流れるような、古代風ドレスを身に着けたレティシアは、ケイティによって、念入りに化粧が施され、紅を差し、仕上げに薔薇の香りをまとった。
つぎに、ローズは、普段なら、大人の女が長い髪をまとめずに、下したまま、人前に出ることなどまずなかったが、その衣装に身を包んだレティシアの美しさを、一層際立たせるため、背中まであるダークブロンドの豊かな髪を下ろした。
そして、髪が顔にかからないよう、両横の髪だけを三つ編みし、うしろで結び、中へ入れ込んでから、三つ編みを少し崩した。
編み上げブーツからレザーサンダルに履き替え、レティシアが、すっと立ち上がった時、
「まあ・・・、なんて綺麗なんでしょう」
ローズは、思わず、つぶやきを漏らした。
ローズは、レティシアの手を引くと、急いで、ケイティのもとへと連れて行った。
ケイティは、一階のダイニングで、子供たちに夕飯を取らせていた。
「ケイティ、できたわ」
ローズは、自分が先に立って、ダイニングの一同にそう告げると、顔を赤くして恥ずかしそうに下を向くレティシアを、みなの前に、押し出した。
「まあ、驚いた・・・。とっても、素敵」
「うわあ、お花みたいだよ、レティシア」
「どうしたの、レティシア。どうして、そんな格好をしてるの」
アンディとデイヴが、夕飯の手を止めて、口々に叫んだ。
最近、ようやく言葉を話し始めた小さなふたりも、きれい、きれい、と回らない口で、声を上げた。
それはまるで、女神が、その場に降り立ったようで、レティシアの立つ場所だけが、
異空間だった。
白い肌に、緩いウエーブのかかったダークブロンドが、柔らかに落ち、肘まである袖の下からは、たおやかな腕が伸びて、その清艶さに、みんな、息をのんだ。
何よりも、大きくはだけた胸の下の、薄手のモスリンの生地に包まれた、ふっくらとした乳房の丸みが、匂い立つような色香を放った。
胸の下から、ふわりと足首へ落ちる、真っ白なドレスの膝から下は、若干透けて見え、膝まであるレザーサンダルに包んだ、ほっそりとした長い脚が、しなやかにうつった。
整った輪郭の中にあるヘーゼルの瞳が、柔らかに優しい光を放ち、紅を乗せた、ふっくらとした艶のある唇が、みんなの称賛に、控えめに微笑めば、同じ女といえども、ケイティも、ローズも、もう、うっとりと見惚れるしかなかった。
「とっても綺麗だわ、レティシア・・・。本当に、美しいわ」
「本当に、想像以上よね、ローズ。神話に出てくる女神みたいよ」
ふたりとも、レティシアの間近に来て、有名な彫刻でも眺めるかのように、いろんな角度から、レティシアの姿を眺めた。
「みんな、褒めすぎ。私、恥ずかしい。でも、素敵にしてもらえて、少し、嬉しくなった」
「そう言ってもらえて、良かったわ。私たちも、楽しませてもらえた」
「そうそう、目の保養」
ケイティの、その言葉に、みんなで笑った。
「そろそろ、着替えてくる。急いで、子供たちの夕飯、終わらせないと」
「そうね、少し、もったいない気がするけれど。私も、ずいぶん遅くまで、お邪魔してしまって、ごめんなさいね」
時計を見ると、八時が近かった。
「めったにないことだもの。いいのよ、気にしないで。フランクは、まだ帰って来ないから」
と、ケイティが答えた時だった。
「開けてくれ、ここを、開けてくれよ!」
と、勢いよく、ドアをノックするものがあった。
その声に聞き覚えはなく、時間が時間だけあって、みな顔を見合わせた。
レティシアが、人前には出られない恰好をしていたので、ケイティは、レティシアに、キッチンに入っていてと、小声で言い、ローズには子供たちと、ダイニングにいるように指示して、
「どなた?」
玄関のドア越しに、声をかけた。
「バッカスのジミーだよ。レティシアいるか?早く、開けてくれよ。リックが、大変なんだ!」
そのジミーの大声は、キッチンのレティシアにも、届いた。
リックが大変、という言葉に、耳をそばだてた。
「どういうこと?」
ドアを開けたケイティの前には、走って来たのだろう、息をゼイゼイと言わせながら、ジミーが立っていた。
あまり、話す機会はなかったが、バッカスを訪れた時に、顔を合わせることがあったので、ケイティは、ジミーが、夫の兄ジェフリーが経営するタヴァン、バッカスの掃除夫だということは、知っていた。
「リックが・・・、リックが、頭を思い切り殴られて、ぶっ倒れたんだ!」
「何ですって?一体何があったの?」
「リックが、会社の人たちと、クレセントへ飲みに来てたんだよ。そしたら、蒸気機関車のことを良く思ってない、駅馬車の御者たちが、リックたちを襲ったんだ。このままだと、リック、やばいかも・・・」
「それ、どういうこと?リック、死ぬの・・・?」
強張った表情で、ジミーの前に姿を現したのは、レティシアだった。
「レティシア、どうしたんだ、その恰好・・・。すっげえな」
ジミーは、目を丸くして、モスリンのドレスをまとったレティシアを、頭のてっぺんからつま先まで、眺めまわした。
「リック、頭、殴られたって、どういうこと、ジミー」
レティシアは、ジミーに詰め寄った。
もうすでに、瞳には、涙が潤んでいた。
「いや、だから・・・、頭を殴られて、やばいんだ」
「リック、死ぬの、ねえ、そうなの?」
「いや、まあ、その・・・、そうかもしれない」
ジミーが、そう言い終わらないうちに、レティシアは、走り出していた。
ミルフェアストリートへ向けて。
バッカスへ、向けて。
ケイティが、レティシア、と大声で叫んだけれど、レティシアの耳には届かなかった。
リックは、酒場の床に、寝転がっていた。
倒れたテーブルに椅子、砕けたグラスの破片と、ぐちゃぐちゃに踏みつぶされた料理が、床にぶちまけられ、数名の男たちが、そのまま倒れ込んでいた。
警察が来たと言ったのは、そう言えば、男たちが殴り合いを止めて、逃げ出すと機転を利かせた者の言葉で、結局、その通りになったのだが、未だ、警察がやって来る気配はなかった。
先ほど、座り込んだリックの頭を、後方から椅子で狙ったデニスを、間一髪交わし、そこへ、ジミーのモップの見事な一突きが入って、デニスは腹を押さえてうずくまった。
「なあ、まずいんじゃないか?」
デニスが、腹を押さえたまま、動かなくなったのを見て、床に座ったリックは、傍に立つジミーを見上げた。
「俺は、どこをやったらやばいかぐらい、ちゃんとわかってるよ。なあ、あんた、そろそろ、立てよ」
モップの長柄に手を乗せて、デニスを、眺めていたジミーは、そう声をかけた。
「あんた、いつまでもここにいたら、まずいだろ。この騒ぎの張本人なんだからさ。警察が来る前に、さっさと、ここから出て行った方が、身のためだぜ」
ジミーとしても、これ以上、この騒動を続けたくなかった。
追い払うジミーを、憎しみの籠った眼で見上げるデニスだったが、もう拳を出す余力は残されていなかった。
前かがみで腹を押さえ、口から垂れる涎を拭いながら、クレセントを出て行った。
そして、リックは、酒場の床に、寝転がり、警察が来るのを待った。
いつの間にか、ジミーはどこかへ消え、眼の端で、ホイットマン製造会社の者たちが、みんな、散々な体で、その場に座り込んでいるのを見て、命には別条なさそうだ、と判断すると、頭の下で手を組んで、リックは、眼を閉じた。
どうぜ、警察が来たら、起きないわけにはいかないから、それまで束の間でも、休んでおこうと思った。
けれども、リックにしてみれば、気にかかるのは、警察よりもジェフリーで、忠告を聞き入れずに、この酷い事態を引き起こしたことに対して、激怒することがわかるだけに、頭が痛かった。
考えてみれば、トライアルの祝勝会で、バッカスへ来たはずなのに、たった二日前のトライアルが、遠い昔の出来事のように思えてきた。
疲れもあったせいで、リックは、そんなことを思いながら、目を閉じて、本当にまどろんでいた。
遠くで人のざわめきが、聞こえたような気がしたが、警察かなと、頭の片隅で思った。
すると、
「なんてこと・・・」
震えるような声が、聞こえた。
けれども、リックは、その声が、自分に向けられたものだとは、思わなかった。
次に、冷たい指先が、自分の頬を走り、髪に優しく触れられたかと思うと、涙の伝う柔らかな頬が、リックの頬に寄せられて、押し当てられた。
やわらかな乳房の丸みが、リックの胸板に寄せられ、薔薇の香りが、リックの鼻を甘やかにくすぐった。
「リック・・・」
聞き覚えのある声で名前を呼ばれて、リックはそれが、夢ではないのだと、ようやく眼を開けた。
けれども、女神は、床に横になったリックに、頬を寄せて、上半身を添わせているため、リックが眼を開いたことには、気づかなかった。
「ああ、一体誰が、こんなひどいことを・・・。お願いよ・・・、目を覚まして。ああ、神様、お願いです。どうか、この方の命を、お助けくださいませ。私、この方のためでしたら、どのようにでもいたします。ですから、私の愛する人を、どうか・・・、どうか、お助けくださいませ」
女神が滑らかに話す、ユースティティアの言葉が、リックには、よくわからなかった。
けれども、何かを、必死に祈っているのだということは、漠然と、わかった。
ただ、リックには、自分にすがりつく、モスリンの古代風の衣装を身に着けた、ダークブロンドの女神が、先日まで、毎日、昼飯を届けてくれた女だと、すぐには確信が持てなかった。
なぜなら、リックは、女神の後ろ髪しか眼に入らないわけで、リックの知る女は、決して、今、リックにすがりつく女神のような衣装を着る女では、なかったからだ。
リックは、尚も続くユースティティアの祈りのような言葉を、遮って、
「ちょっと、いいか?」
と、女神に声をかけた。
息をのむ音が聞こえて、女神は、リックから顔を上げた。
一瞬、リックは、探る様に、女神の顔を見つめた。
女神は、とても美しかった。
リックの知る女と、同等に。
いや、むしろ、それ以上だった。
だから、ほんのわずかに迷った。
けれども、そのヘーゼルの瞳を、リックが見間違うはずはなかった。
「レティシア・・・」
名前を呼ばれて、女神は、驚きで、大きく目を見開き、両手で口元を押さえた。
はっ、と、女神が、後ろを振り返ると、顔を腫らし、ひどい恰好の男たちが、みな呆気にとられた表情で、女神を見つめていた。
その中にはもちろん、女神をよく知る、ホイットマン製造会社の従業員たちもいた。
女神は、小さく叫び声を上げると、取り乱した様子で、駆けだした。
「レティシア、待て!いてっ・・・」
リックは、女神の後を追うために、立ち上がろうとしたが、先ほど勢いよく蹴られた背中に、ズキンとした痛みが、走って、起き上がれなかった。
ちょうどその時、クレセントの入り口に、ジミーの姿を見つけた。
リックと目が合うと、視線をそらせて、とぼけたような顔をしたので、あいつだな、と、今、起こった事態への、ジミーの関与を確信した。
ちょうどその時、
「警察が来たぞ」
という、大きな声が聞こえて、今度こそ本当に、警官がはいってきた。
リックは、大きく息を吐いて、そのまま床に、倒れ込んだ。
何故なら、酒に酔った女ふたりが、急に思いついた、めったとない、ささやかな悪戯を思い切り楽しむため、レティシアの支度に、十二分に手間をかけたからだった。
ローズの持参した柔らかく、真っ白で、ゆったりと流れるような、古代風ドレスを身に着けたレティシアは、ケイティによって、念入りに化粧が施され、紅を差し、仕上げに薔薇の香りをまとった。
つぎに、ローズは、普段なら、大人の女が長い髪をまとめずに、下したまま、人前に出ることなどまずなかったが、その衣装に身を包んだレティシアの美しさを、一層際立たせるため、背中まであるダークブロンドの豊かな髪を下ろした。
そして、髪が顔にかからないよう、両横の髪だけを三つ編みし、うしろで結び、中へ入れ込んでから、三つ編みを少し崩した。
編み上げブーツからレザーサンダルに履き替え、レティシアが、すっと立ち上がった時、
「まあ・・・、なんて綺麗なんでしょう」
ローズは、思わず、つぶやきを漏らした。
ローズは、レティシアの手を引くと、急いで、ケイティのもとへと連れて行った。
ケイティは、一階のダイニングで、子供たちに夕飯を取らせていた。
「ケイティ、できたわ」
ローズは、自分が先に立って、ダイニングの一同にそう告げると、顔を赤くして恥ずかしそうに下を向くレティシアを、みなの前に、押し出した。
「まあ、驚いた・・・。とっても、素敵」
「うわあ、お花みたいだよ、レティシア」
「どうしたの、レティシア。どうして、そんな格好をしてるの」
アンディとデイヴが、夕飯の手を止めて、口々に叫んだ。
最近、ようやく言葉を話し始めた小さなふたりも、きれい、きれい、と回らない口で、声を上げた。
それはまるで、女神が、その場に降り立ったようで、レティシアの立つ場所だけが、
異空間だった。
白い肌に、緩いウエーブのかかったダークブロンドが、柔らかに落ち、肘まである袖の下からは、たおやかな腕が伸びて、その清艶さに、みんな、息をのんだ。
何よりも、大きくはだけた胸の下の、薄手のモスリンの生地に包まれた、ふっくらとした乳房の丸みが、匂い立つような色香を放った。
胸の下から、ふわりと足首へ落ちる、真っ白なドレスの膝から下は、若干透けて見え、膝まであるレザーサンダルに包んだ、ほっそりとした長い脚が、しなやかにうつった。
整った輪郭の中にあるヘーゼルの瞳が、柔らかに優しい光を放ち、紅を乗せた、ふっくらとした艶のある唇が、みんなの称賛に、控えめに微笑めば、同じ女といえども、ケイティも、ローズも、もう、うっとりと見惚れるしかなかった。
「とっても綺麗だわ、レティシア・・・。本当に、美しいわ」
「本当に、想像以上よね、ローズ。神話に出てくる女神みたいよ」
ふたりとも、レティシアの間近に来て、有名な彫刻でも眺めるかのように、いろんな角度から、レティシアの姿を眺めた。
「みんな、褒めすぎ。私、恥ずかしい。でも、素敵にしてもらえて、少し、嬉しくなった」
「そう言ってもらえて、良かったわ。私たちも、楽しませてもらえた」
「そうそう、目の保養」
ケイティの、その言葉に、みんなで笑った。
「そろそろ、着替えてくる。急いで、子供たちの夕飯、終わらせないと」
「そうね、少し、もったいない気がするけれど。私も、ずいぶん遅くまで、お邪魔してしまって、ごめんなさいね」
時計を見ると、八時が近かった。
「めったにないことだもの。いいのよ、気にしないで。フランクは、まだ帰って来ないから」
と、ケイティが答えた時だった。
「開けてくれ、ここを、開けてくれよ!」
と、勢いよく、ドアをノックするものがあった。
その声に聞き覚えはなく、時間が時間だけあって、みな顔を見合わせた。
レティシアが、人前には出られない恰好をしていたので、ケイティは、レティシアに、キッチンに入っていてと、小声で言い、ローズには子供たちと、ダイニングにいるように指示して、
「どなた?」
玄関のドア越しに、声をかけた。
「バッカスのジミーだよ。レティシアいるか?早く、開けてくれよ。リックが、大変なんだ!」
そのジミーの大声は、キッチンのレティシアにも、届いた。
リックが大変、という言葉に、耳をそばだてた。
「どういうこと?」
ドアを開けたケイティの前には、走って来たのだろう、息をゼイゼイと言わせながら、ジミーが立っていた。
あまり、話す機会はなかったが、バッカスを訪れた時に、顔を合わせることがあったので、ケイティは、ジミーが、夫の兄ジェフリーが経営するタヴァン、バッカスの掃除夫だということは、知っていた。
「リックが・・・、リックが、頭を思い切り殴られて、ぶっ倒れたんだ!」
「何ですって?一体何があったの?」
「リックが、会社の人たちと、クレセントへ飲みに来てたんだよ。そしたら、蒸気機関車のことを良く思ってない、駅馬車の御者たちが、リックたちを襲ったんだ。このままだと、リック、やばいかも・・・」
「それ、どういうこと?リック、死ぬの・・・?」
強張った表情で、ジミーの前に姿を現したのは、レティシアだった。
「レティシア、どうしたんだ、その恰好・・・。すっげえな」
ジミーは、目を丸くして、モスリンのドレスをまとったレティシアを、頭のてっぺんからつま先まで、眺めまわした。
「リック、頭、殴られたって、どういうこと、ジミー」
レティシアは、ジミーに詰め寄った。
もうすでに、瞳には、涙が潤んでいた。
「いや、だから・・・、頭を殴られて、やばいんだ」
「リック、死ぬの、ねえ、そうなの?」
「いや、まあ、その・・・、そうかもしれない」
ジミーが、そう言い終わらないうちに、レティシアは、走り出していた。
ミルフェアストリートへ向けて。
バッカスへ、向けて。
ケイティが、レティシア、と大声で叫んだけれど、レティシアの耳には届かなかった。
リックは、酒場の床に、寝転がっていた。
倒れたテーブルに椅子、砕けたグラスの破片と、ぐちゃぐちゃに踏みつぶされた料理が、床にぶちまけられ、数名の男たちが、そのまま倒れ込んでいた。
警察が来たと言ったのは、そう言えば、男たちが殴り合いを止めて、逃げ出すと機転を利かせた者の言葉で、結局、その通りになったのだが、未だ、警察がやって来る気配はなかった。
先ほど、座り込んだリックの頭を、後方から椅子で狙ったデニスを、間一髪交わし、そこへ、ジミーのモップの見事な一突きが入って、デニスは腹を押さえてうずくまった。
「なあ、まずいんじゃないか?」
デニスが、腹を押さえたまま、動かなくなったのを見て、床に座ったリックは、傍に立つジミーを見上げた。
「俺は、どこをやったらやばいかぐらい、ちゃんとわかってるよ。なあ、あんた、そろそろ、立てよ」
モップの長柄に手を乗せて、デニスを、眺めていたジミーは、そう声をかけた。
「あんた、いつまでもここにいたら、まずいだろ。この騒ぎの張本人なんだからさ。警察が来る前に、さっさと、ここから出て行った方が、身のためだぜ」
ジミーとしても、これ以上、この騒動を続けたくなかった。
追い払うジミーを、憎しみの籠った眼で見上げるデニスだったが、もう拳を出す余力は残されていなかった。
前かがみで腹を押さえ、口から垂れる涎を拭いながら、クレセントを出て行った。
そして、リックは、酒場の床に、寝転がり、警察が来るのを待った。
いつの間にか、ジミーはどこかへ消え、眼の端で、ホイットマン製造会社の者たちが、みんな、散々な体で、その場に座り込んでいるのを見て、命には別条なさそうだ、と判断すると、頭の下で手を組んで、リックは、眼を閉じた。
どうぜ、警察が来たら、起きないわけにはいかないから、それまで束の間でも、休んでおこうと思った。
けれども、リックにしてみれば、気にかかるのは、警察よりもジェフリーで、忠告を聞き入れずに、この酷い事態を引き起こしたことに対して、激怒することがわかるだけに、頭が痛かった。
考えてみれば、トライアルの祝勝会で、バッカスへ来たはずなのに、たった二日前のトライアルが、遠い昔の出来事のように思えてきた。
疲れもあったせいで、リックは、そんなことを思いながら、目を閉じて、本当にまどろんでいた。
遠くで人のざわめきが、聞こえたような気がしたが、警察かなと、頭の片隅で思った。
すると、
「なんてこと・・・」
震えるような声が、聞こえた。
けれども、リックは、その声が、自分に向けられたものだとは、思わなかった。
次に、冷たい指先が、自分の頬を走り、髪に優しく触れられたかと思うと、涙の伝う柔らかな頬が、リックの頬に寄せられて、押し当てられた。
やわらかな乳房の丸みが、リックの胸板に寄せられ、薔薇の香りが、リックの鼻を甘やかにくすぐった。
「リック・・・」
聞き覚えのある声で名前を呼ばれて、リックはそれが、夢ではないのだと、ようやく眼を開けた。
けれども、女神は、床に横になったリックに、頬を寄せて、上半身を添わせているため、リックが眼を開いたことには、気づかなかった。
「ああ、一体誰が、こんなひどいことを・・・。お願いよ・・・、目を覚まして。ああ、神様、お願いです。どうか、この方の命を、お助けくださいませ。私、この方のためでしたら、どのようにでもいたします。ですから、私の愛する人を、どうか・・・、どうか、お助けくださいませ」
女神が滑らかに話す、ユースティティアの言葉が、リックには、よくわからなかった。
けれども、何かを、必死に祈っているのだということは、漠然と、わかった。
ただ、リックには、自分にすがりつく、モスリンの古代風の衣装を身に着けた、ダークブロンドの女神が、先日まで、毎日、昼飯を届けてくれた女だと、すぐには確信が持てなかった。
なぜなら、リックは、女神の後ろ髪しか眼に入らないわけで、リックの知る女は、決して、今、リックにすがりつく女神のような衣装を着る女では、なかったからだ。
リックは、尚も続くユースティティアの祈りのような言葉を、遮って、
「ちょっと、いいか?」
と、女神に声をかけた。
息をのむ音が聞こえて、女神は、リックから顔を上げた。
一瞬、リックは、探る様に、女神の顔を見つめた。
女神は、とても美しかった。
リックの知る女と、同等に。
いや、むしろ、それ以上だった。
だから、ほんのわずかに迷った。
けれども、そのヘーゼルの瞳を、リックが見間違うはずはなかった。
「レティシア・・・」
名前を呼ばれて、女神は、驚きで、大きく目を見開き、両手で口元を押さえた。
はっ、と、女神が、後ろを振り返ると、顔を腫らし、ひどい恰好の男たちが、みな呆気にとられた表情で、女神を見つめていた。
その中にはもちろん、女神をよく知る、ホイットマン製造会社の従業員たちもいた。
女神は、小さく叫び声を上げると、取り乱した様子で、駆けだした。
「レティシア、待て!いてっ・・・」
リックは、女神の後を追うために、立ち上がろうとしたが、先ほど勢いよく蹴られた背中に、ズキンとした痛みが、走って、起き上がれなかった。
ちょうどその時、クレセントの入り口に、ジミーの姿を見つけた。
リックと目が合うと、視線をそらせて、とぼけたような顔をしたので、あいつだな、と、今、起こった事態への、ジミーの関与を確信した。
ちょうどその時、
「警察が来たぞ」
という、大きな声が聞こえて、今度こそ本当に、警官がはいってきた。
リックは、大きく息を吐いて、そのまま床に、倒れ込んだ。
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