東雲色のロマンス

海子

文字の大きさ
上 下
34 / 74
8.Trial

しおりを挟む
 レティシアは、リビングの置き時計を振り返った。 
時刻は、五時に近かった。
今日は、一体、何度時刻を確認したかわからなかった。 
それは、ケイティも同じで、レティシアほどではないにせよ、時間を気にして、何度も時計に目をやった。
「遅いわね」 
洗濯物を畳むレティシアの隣で、アイロンをかけながら、ため息交じりに、ケイティが呟いた。 
四人の子供たちは、積み木遊びに熱中していた。
トライアルは、今日の午前中にも、終了しているはずだった。
トライアルの地ロングヒルまでは、馬車で、三時間ほどの距離で、ジェフリー指示の下、マクファーレン商会の者数名が、トライアルに赴いていて、初日から毎夜、トライアルの結果を、ホイットマン製造会社へ報告していた。
ホイットマン製造会社には、トライアルの行方を、祈るような思いで見守る家族たちが、時間を見計らって集まり、その結果を、食い入るように聞いた。 
そして、その結果を聞いた、リックの同僚、ボブ・カーティスの弟サムが、毎夜、フランクの家まで、知らせに来てくれるのだった。 
昨夜遅く、サムは、トライアル三日目の結果を伝えた。 
それによると、トライアルは、八回目を終了し、インスパイア号と、ジェネシス号の一騎打ちで、七分の差で負けていること、そして、明日、四日目の午前中、九回目と十回目の行程が行われ、勝負がつくと知らされた。
そして、結果がホイットマン製造会社に届き次第、すぐ、フランクの家に知らせに来ると、約束してくれたのだった。 
午前中に、トライアルが終わっていたとしたら、もうホイットマン製造会社に、結果が届いていたとしても、おかしくない時間だった。
五時前になっても、何の知らせもないことが、レティシアには、不吉に思えて、ならなかった。
もしかしたら、サムは、トライアルの残念な結果を、伝えるのが忍びなくて、ここへやって来るのを、わざと先延ばしにしているのかもしれない・・・。 
そう思うと、レティシアは、胸が押しつぶされそうな不安で、居ても立ってもいられなくなった。 
「ケイティ、私、会社、行ってくる」 
「そうね・・・、その方がいいかもしれないわね」 
心配だったのはケイティも同じで、レティシアの意見に、すぐ賛成した。
気をつけて行くのよ、というケイティの声を、背に受けながら、レティシアは家を飛び出した。
どうか、インスパイア号が、一番でありますように。
彼が、笑顔で、ブリストンに帰ってきますように。
もう結果は、決まっているのだとは思いながらも、レティシアは、そう祈らずにはいられなかった。 
レティシアは、通りを駆け抜け、ホイットマン製造会社を目指した。 
息を切らせながら、ホイットマン製造会社に着くと、結果を待つ家族たちが、集まって来ていた。
「あの、トライアルの、結果・・・」 
レティシアは、その中の若い女に、息を切らせながら、尋ねた。 
「それが、まだなのよ。私たちも、随分と長い間、ここで待っているのだけれど・・・」 
ホイットマン製造会社の、従業員の妻女なのか、不安そうな面持ちをしていた。 
「まだ・・・」
レティシアは、一縷の望みが出来たような気がした。 
ああ、神様、どうか、どうか・・・。 
レティシアが、胸の前で手を組んで、そう祈り始めた時、ハロルド川沿いの石畳を駆けてくる、一台の馬車が眼に入った。
「来たぞ、あの馬車だ!」 
家族たちが、一斉に、馬車に目を向けた。
馬車は、ホイットマン製造会社の前に、滑り込んできた。 
そして、完全に馬車が止まるより前に、車室のドアが開き、叫んだ。
「インスパイア号が、一番だ。我々の勝利だ!」 
拍手と、歓声が、一気に上がる。 
レティシアは、小さな叫び声を上げて、口元を両手で押さえた。
思わず、瞳からは、涙が溢れ出た。 
先ほど声をかけた若い女も、頬に涙を伝わらせ、感極まった様子で、両手を合わせていた。 
「良かったわ・・・、ああ、本当に良かった」 
若い女は、レティシアと目が合うと、そう言いながら、レティシアを抱きしめた。
おめでとう、リック。
本当に、おめでとう。
レティシアは、滲む空を眺めながら、遠いロングヒルにいるリックに、そう呼びかけた。



 ジェネシス号は、ゴール手前、残すところあと五百メートルで、配管が、壊滅的に破損。
走行不能となった。
よって、ロングヒルトライアルの勝者は、インスパイア号に決定。 
トライアルを終え、最高時速四十八キロ、平均時速十九キロ、故障・破損なしの結果は、他の蒸気機関車を圧倒しており、鉄道会社も、文句のつけようがなかった。 
後日、世界初の蒸気機関車として、インスパイア号の採用が正式に決定、公表された。



 レティシアの帰りを、自宅で待ちかねていたケイティは、知らせを聞くやいなや、レティシアを抱きしめた。 
ケイティの眼にも、光るものがあった。 
「ねえ、どうしたの、おかあさん?リックの蒸気機関車、勝ったの?」 
涙を浮かべて、抱きしめあうふたりを見て、トライアルのことを知っていたデイヴが、そう尋ねて来た。
「ええ、そうよ、デイヴ。リックの蒸気機関車が、一番になったの」 
「やったあ!」
デイヴが、両手を突き上げて、声を上げ、アンディも、よしっ、と、拳を握った。 
みんなの興奮が伝わるのか、小さなふたりも、声を上げながら、ぴょんぴょん、飛び跳ねた。 
その時ちょうど、階下のドアが開く音がして、ケイティの名を呼びながら、急いで、階段を上がって来る足音が、聞こえた。 
フランクだった。
その上気したフランクの表情から、トライアルの結果がすでに耳に入っていることは、すぐにわかった。
「先ほど、兄さんに聞いた」
「ああ、あなた・・・」 
ケイティは、フランクに抱き着いた。
「良かった、本当に良かった・・・」
フランクも、ケイティを抱き締め返して、感に堪えない様子で、呟いた。
レティシアは、静かにその場を離れて、屋根裏の自分の部屋に上がった。 
そして、チェストの引き出しを開けると、先日、玄関のドアに括り付けられていた包みを取り出し、机の上に置いた。 
レティシアは、椅子に座ると、包みを開いて、琥珀色のファッジを眺めた。 
そして、ひとつ指でつまんで、口の中に入れた。
「甘い・・・」
思わず、そう声に出るほど、ファッジは、濃厚で甘かった。
ファッジは、口の中で、すぐに溶けた。 
そうして、リックと始めて会った時のことを、思い出した。
何て、不愛想で傲慢そうな人かしら。 
黒い瞳の、笑わない男に、敵対心を持った。
ふたつめのファッジを、口に入れる。
「本当に、甘い・・・」 
その強い甘みに、思わずレティシアは、笑った。
いなくなったデイヴを探して、取り乱すレティシアの背にあてられたリックの手は、とても温かかった。
三つ目のファッジは、甘みに慣れて、舌が鈍くなった。
ふたりで過ごしたクリスマスイブは、きらきらと輝くような時間だった。 
時間を忘れて、語り合い、笑いあった、かけがえのない時も、ファッジと共に、溶けていった。
四つ目のファッジは、その甘さを、ただ噛みしめた。 
ホイットマン製造会社で、蒸気機関車を見た時。 
あの時、彼の夢が、私の夢になった。
夢を追い続ける彼を、ほんのわずかでも、支えることができたなら。 
そう思い続けて、過ごした日々だった。 
そして、五つ目、最後のファッジを、口に入れた時、今日のトライアルの行方が気になって、ほとんど眠れずに夜を過ごし、浅い眠りについて、目覚めた時、窓の外に広がっていた、夜明けの、美しい東雲色の空を思い出した。 
あの東雲色の空は、今、伸びてゆこうとする、この国の色。
そして、今、夢の始まりにいる、彼の色。
そこに、自分の居場所がないことは、承知していた。
自分がいてはいけないことを、知っていた。
別れは、もうすぐそこだった。 
トライアルが終わったら、話があると、リックは言った。 
ブリストンに留まるよう、引き留められるのかもしれないと、予想はついた。
けれども、レティシアは、どう言われても、ここに留まるつもりはなかった。
左肩に刻まれる罪人の証を、消すことはできないのだから。 
ファッジと共に、愛しい思い出が、ひとつひとつ消え、最後のファッジの甘みも、消えていった。
レティシアの瞳から、涙が零れ落ちた。
最後のファッジは、ブリストンへ来る時に口にした、野菜スープと同じ、涙の味がした。
けれども、今、レティシアの心は、爽やかだった。
愛する人の夢を、応援できたこと。
愛する人の夢に、ほんのわずかでも、寄り添えたこと。 
それは、取るに足らない些細なことだとわかってはいたが、レティシアの胸に、清々しい余韻を残した。 
頬に伝う涙とは別に、晴れやかな想いが、レティシアの胸を満たしていた。
 
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

溺愛されて育った夫が幼馴染と不倫してるのが分かり愛情がなくなる。さらに相手は妊娠したらしい。

window
恋愛
大恋愛の末に結婚したフレディ王太子殿下とジェシカ公爵令嬢だったがフレディ殿下が幼馴染のマリア伯爵令嬢と不倫をしました。結婚1年目で子供はまだいない。 夫婦の愛をつないできた絆には亀裂が生じるがお互いの両親の説得もあり離婚を思いとどまったジェシカ。しかし元の仲の良い夫婦に戻ることはできないと確信している。 そんな時相手のマリア令嬢が妊娠したことが分かり頭を悩ませていた。

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

【完結】365日後の花言葉

Ringo
恋愛
許せなかった。 幼い頃からの婚約者でもあり、誰よりも大好きで愛していたあなただからこそ。 あなたの裏切りを知った翌朝、私の元に届いたのはゼラニウムの花束。 “ごめんなさい” 言い訳もせず、拒絶し続ける私の元に通い続けるあなたの愛情を、私はもう一度信じてもいいの? ※勢いよく本編完結しまして、番外編ではイチャイチャするふたりのその後をお届けします。

年上彼氏に気持ちよくなってほしいって 伝えたら実は絶倫で連続イキで泣いてもやめてもらえない話

ぴんく
恋愛
いつもえっちの時はイきすぎてバテちゃうのが密かな悩み。年上彼氏に思い切って、気持ちよくなって欲しいと伝えたら、実は絶倫で 泣いてもやめてくれなくて、連続イキ、潮吹き、クリ責め、が止まらなかったお話です。 愛菜まな 初めての相手は悠貴くん。付き合って一年の間にたくさん気持ちいい事を教わり、敏感な身体になってしまった。いつもイきすぎてバテちゃうのが悩み。 悠貴ゆうき 愛菜の事がだいすきで、どろどろに甘やかしたいと思う反面、愛菜の恥ずかしい事とか、イきすぎて泣いちゃう姿を見たいと思っている。

[R18] 激しめエロつめあわせ♡

ねねこ
恋愛
短編のエロを色々と。 激しくて濃厚なの多め♡ 苦手な人はお気をつけくださいませ♡

残念ながら、定員オーバーです!お望みなら、次期王妃の座を明け渡しますので、お好きにしてください

mios
恋愛
ここのところ、婚約者の第一王子に付き纏われている。 「ベアトリス、頼む!このとーりだ!」 大袈裟に頭を下げて、どうにか我儘を通そうとなさいますが、何度も言いますが、無理です! 男爵令嬢を側妃にすることはできません。愛妾もすでに埋まってますのよ。 どこに、捻じ込めると言うのですか! ※番外編少し長くなりそうなので、また別作品としてあげることにしました。読んでいただきありがとうございました。

大嫌いな次期騎士団長に嫁いだら、激しすぎる初夜が待っていました

扇 レンナ
恋愛
旧題:宿敵だと思っていた男に溺愛されて、毎日のように求められているんですが!? *こちらは【明石 唯加】名義のアカウントで掲載していたものです。書籍化にあたり、こちらに転載しております。また、こちらのアカウントに転載することに関しては担当編集さまから許可をいただいておりますので、問題ありません。 ―― ウィテカー王国の西の辺境を守る二つの伯爵家、コナハン家とフォレスター家は長年に渡りいがみ合ってきた。 そんな現状に焦りを抱いた王家は、二つの伯爵家に和解を求め、王命での結婚を命じる。 その結果、フォレスター伯爵家の長女メアリーはコナハン伯爵家に嫁入りすることが決まった。 結婚相手はコナハン家の長男シリル。クールに見える外見と辺境騎士団の次期団長という肩書きから女性人気がとても高い男性。 が、メアリーはそんなシリルが実は大嫌い。 彼はクールなのではなく、大層傲慢なだけ。それを知っているからだ。 しかし、王命には逆らえない。そのため、メアリーは渋々シリルの元に嫁ぐことに。 どうせ愛し愛されるような素敵な関係にはなれるわけがない。 そう考えるメアリーを他所に、シリルは初夜からメアリーを強く求めてくる。 ――もしかして、これは嫌がらせ? メアリーはシリルの態度をそう受け取り、頑なに彼を拒絶しようとするが――……。 「誰がお前に嫌がらせなんかするかよ」 どうやら、彼には全く別の思惑があるらしく……? *WEB版表紙イラストはみどりのバクさまに有償にて描いていただいたものです。転載等は禁止です。

愛されていないのですね、ではさようなら。

杉本凪咲
恋愛
夫から告げられた冷徹な言葉。 「お前へ愛は存在しない。さっさと消えろ」 私はその言葉を受け入れると夫の元を去り……

処理中です...