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8.Trial
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レティシアは、リビングの置き時計を振り返った。
時刻は、五時に近かった。
今日は、一体、何度時刻を確認したかわからなかった。
それは、ケイティも同じで、レティシアほどではないにせよ、時間を気にして、何度も時計に目をやった。
「遅いわね」
洗濯物を畳むレティシアの隣で、アイロンをかけながら、ため息交じりに、ケイティが呟いた。
四人の子供たちは、積み木遊びに熱中していた。
トライアルは、今日の午前中にも、終了しているはずだった。
トライアルの地ロングヒルまでは、馬車で、三時間ほどの距離で、ジェフリー指示の下、マクファーレン商会の者数名が、トライアルに赴いていて、初日から毎夜、トライアルの結果を、ホイットマン製造会社へ報告していた。
ホイットマン製造会社には、トライアルの行方を、祈るような思いで見守る家族たちが、時間を見計らって集まり、その結果を、食い入るように聞いた。
そして、その結果を聞いた、リックの同僚、ボブ・カーティスの弟サムが、毎夜、フランクの家まで、知らせに来てくれるのだった。
昨夜遅く、サムは、トライアル三日目の結果を伝えた。
それによると、トライアルは、八回目を終了し、インスパイア号と、ジェネシス号の一騎打ちで、七分の差で負けていること、そして、明日、四日目の午前中、九回目と十回目の行程が行われ、勝負がつくと知らされた。
そして、結果がホイットマン製造会社に届き次第、すぐ、フランクの家に知らせに来ると、約束してくれたのだった。
午前中に、トライアルが終わっていたとしたら、もうホイットマン製造会社に、結果が届いていたとしても、おかしくない時間だった。
五時前になっても、何の知らせもないことが、レティシアには、不吉に思えて、ならなかった。
もしかしたら、サムは、トライアルの残念な結果を、伝えるのが忍びなくて、ここへやって来るのを、わざと先延ばしにしているのかもしれない・・・。
そう思うと、レティシアは、胸が押しつぶされそうな不安で、居ても立ってもいられなくなった。
「ケイティ、私、会社、行ってくる」
「そうね・・・、その方がいいかもしれないわね」
心配だったのはケイティも同じで、レティシアの意見に、すぐ賛成した。
気をつけて行くのよ、というケイティの声を、背に受けながら、レティシアは家を飛び出した。
どうか、インスパイア号が、一番でありますように。
彼が、笑顔で、ブリストンに帰ってきますように。
もう結果は、決まっているのだとは思いながらも、レティシアは、そう祈らずにはいられなかった。
レティシアは、通りを駆け抜け、ホイットマン製造会社を目指した。
息を切らせながら、ホイットマン製造会社に着くと、結果を待つ家族たちが、集まって来ていた。
「あの、トライアルの、結果・・・」
レティシアは、その中の若い女に、息を切らせながら、尋ねた。
「それが、まだなのよ。私たちも、随分と長い間、ここで待っているのだけれど・・・」
ホイットマン製造会社の、従業員の妻女なのか、不安そうな面持ちをしていた。
「まだ・・・」
レティシアは、一縷の望みが出来たような気がした。
ああ、神様、どうか、どうか・・・。
レティシアが、胸の前で手を組んで、そう祈り始めた時、ハロルド川沿いの石畳を駆けてくる、一台の馬車が眼に入った。
「来たぞ、あの馬車だ!」
家族たちが、一斉に、馬車に目を向けた。
馬車は、ホイットマン製造会社の前に、滑り込んできた。
そして、完全に馬車が止まるより前に、車室のドアが開き、叫んだ。
「インスパイア号が、一番だ。我々の勝利だ!」
拍手と、歓声が、一気に上がる。
レティシアは、小さな叫び声を上げて、口元を両手で押さえた。
思わず、瞳からは、涙が溢れ出た。
先ほど声をかけた若い女も、頬に涙を伝わらせ、感極まった様子で、両手を合わせていた。
「良かったわ・・・、ああ、本当に良かった」
若い女は、レティシアと目が合うと、そう言いながら、レティシアを抱きしめた。
おめでとう、リック。
本当に、おめでとう。
レティシアは、滲む空を眺めながら、遠いロングヒルにいるリックに、そう呼びかけた。
ジェネシス号は、ゴール手前、残すところあと五百メートルで、配管が、壊滅的に破損。
走行不能となった。
よって、ロングヒルトライアルの勝者は、インスパイア号に決定。
トライアルを終え、最高時速四十八キロ、平均時速十九キロ、故障・破損なしの結果は、他の蒸気機関車を圧倒しており、鉄道会社も、文句のつけようがなかった。
後日、世界初の蒸気機関車として、インスパイア号の採用が正式に決定、公表された。
レティシアの帰りを、自宅で待ちかねていたケイティは、知らせを聞くやいなや、レティシアを抱きしめた。
ケイティの眼にも、光るものがあった。
「ねえ、どうしたの、おかあさん?リックの蒸気機関車、勝ったの?」
涙を浮かべて、抱きしめあうふたりを見て、トライアルのことを知っていたデイヴが、そう尋ねて来た。
「ええ、そうよ、デイヴ。リックの蒸気機関車が、一番になったの」
「やったあ!」
デイヴが、両手を突き上げて、声を上げ、アンディも、よしっ、と、拳を握った。
みんなの興奮が伝わるのか、小さなふたりも、声を上げながら、ぴょんぴょん、飛び跳ねた。
その時ちょうど、階下のドアが開く音がして、ケイティの名を呼びながら、急いで、階段を上がって来る足音が、聞こえた。
フランクだった。
その上気したフランクの表情から、トライアルの結果がすでに耳に入っていることは、すぐにわかった。
「先ほど、兄さんに聞いた」
「ああ、あなた・・・」
ケイティは、フランクに抱き着いた。
「良かった、本当に良かった・・・」
フランクも、ケイティを抱き締め返して、感に堪えない様子で、呟いた。
レティシアは、静かにその場を離れて、屋根裏の自分の部屋に上がった。
そして、チェストの引き出しを開けると、先日、玄関のドアに括り付けられていた包みを取り出し、机の上に置いた。
レティシアは、椅子に座ると、包みを開いて、琥珀色のファッジを眺めた。
そして、ひとつ指でつまんで、口の中に入れた。
「甘い・・・」
思わず、そう声に出るほど、ファッジは、濃厚で甘かった。
ファッジは、口の中で、すぐに溶けた。
そうして、リックと始めて会った時のことを、思い出した。
何て、不愛想で傲慢そうな人かしら。
黒い瞳の、笑わない男に、敵対心を持った。
ふたつめのファッジを、口に入れる。
「本当に、甘い・・・」
その強い甘みに、思わずレティシアは、笑った。
いなくなったデイヴを探して、取り乱すレティシアの背にあてられたリックの手は、とても温かかった。
三つ目のファッジは、甘みに慣れて、舌が鈍くなった。
ふたりで過ごしたクリスマスイブは、きらきらと輝くような時間だった。
時間を忘れて、語り合い、笑いあった、かけがえのない時も、ファッジと共に、溶けていった。
四つ目のファッジは、その甘さを、ただ噛みしめた。
ホイットマン製造会社で、蒸気機関車を見た時。
あの時、彼の夢が、私の夢になった。
夢を追い続ける彼を、ほんのわずかでも、支えることができたなら。
そう思い続けて、過ごした日々だった。
そして、五つ目、最後のファッジを、口に入れた時、今日のトライアルの行方が気になって、ほとんど眠れずに夜を過ごし、浅い眠りについて、目覚めた時、窓の外に広がっていた、夜明けの、美しい東雲色の空を思い出した。
あの東雲色の空は、今、伸びてゆこうとする、この国の色。
そして、今、夢の始まりにいる、彼の色。
そこに、自分の居場所がないことは、承知していた。
自分がいてはいけないことを、知っていた。
別れは、もうすぐそこだった。
トライアルが終わったら、話があると、リックは言った。
ブリストンに留まるよう、引き留められるのかもしれないと、予想はついた。
けれども、レティシアは、どう言われても、ここに留まるつもりはなかった。
左肩に刻まれる罪人の証を、消すことはできないのだから。
ファッジと共に、愛しい思い出が、ひとつひとつ消え、最後のファッジの甘みも、消えていった。
レティシアの瞳から、涙が零れ落ちた。
最後のファッジは、ブリストンへ来る時に口にした、野菜スープと同じ、涙の味がした。
けれども、今、レティシアの心は、爽やかだった。
愛する人の夢を、応援できたこと。
愛する人の夢に、ほんのわずかでも、寄り添えたこと。
それは、取るに足らない些細なことだとわかってはいたが、レティシアの胸に、清々しい余韻を残した。
頬に伝う涙とは別に、晴れやかな想いが、レティシアの胸を満たしていた。
時刻は、五時に近かった。
今日は、一体、何度時刻を確認したかわからなかった。
それは、ケイティも同じで、レティシアほどではないにせよ、時間を気にして、何度も時計に目をやった。
「遅いわね」
洗濯物を畳むレティシアの隣で、アイロンをかけながら、ため息交じりに、ケイティが呟いた。
四人の子供たちは、積み木遊びに熱中していた。
トライアルは、今日の午前中にも、終了しているはずだった。
トライアルの地ロングヒルまでは、馬車で、三時間ほどの距離で、ジェフリー指示の下、マクファーレン商会の者数名が、トライアルに赴いていて、初日から毎夜、トライアルの結果を、ホイットマン製造会社へ報告していた。
ホイットマン製造会社には、トライアルの行方を、祈るような思いで見守る家族たちが、時間を見計らって集まり、その結果を、食い入るように聞いた。
そして、その結果を聞いた、リックの同僚、ボブ・カーティスの弟サムが、毎夜、フランクの家まで、知らせに来てくれるのだった。
昨夜遅く、サムは、トライアル三日目の結果を伝えた。
それによると、トライアルは、八回目を終了し、インスパイア号と、ジェネシス号の一騎打ちで、七分の差で負けていること、そして、明日、四日目の午前中、九回目と十回目の行程が行われ、勝負がつくと知らされた。
そして、結果がホイットマン製造会社に届き次第、すぐ、フランクの家に知らせに来ると、約束してくれたのだった。
午前中に、トライアルが終わっていたとしたら、もうホイットマン製造会社に、結果が届いていたとしても、おかしくない時間だった。
五時前になっても、何の知らせもないことが、レティシアには、不吉に思えて、ならなかった。
もしかしたら、サムは、トライアルの残念な結果を、伝えるのが忍びなくて、ここへやって来るのを、わざと先延ばしにしているのかもしれない・・・。
そう思うと、レティシアは、胸が押しつぶされそうな不安で、居ても立ってもいられなくなった。
「ケイティ、私、会社、行ってくる」
「そうね・・・、その方がいいかもしれないわね」
心配だったのはケイティも同じで、レティシアの意見に、すぐ賛成した。
気をつけて行くのよ、というケイティの声を、背に受けながら、レティシアは家を飛び出した。
どうか、インスパイア号が、一番でありますように。
彼が、笑顔で、ブリストンに帰ってきますように。
もう結果は、決まっているのだとは思いながらも、レティシアは、そう祈らずにはいられなかった。
レティシアは、通りを駆け抜け、ホイットマン製造会社を目指した。
息を切らせながら、ホイットマン製造会社に着くと、結果を待つ家族たちが、集まって来ていた。
「あの、トライアルの、結果・・・」
レティシアは、その中の若い女に、息を切らせながら、尋ねた。
「それが、まだなのよ。私たちも、随分と長い間、ここで待っているのだけれど・・・」
ホイットマン製造会社の、従業員の妻女なのか、不安そうな面持ちをしていた。
「まだ・・・」
レティシアは、一縷の望みが出来たような気がした。
ああ、神様、どうか、どうか・・・。
レティシアが、胸の前で手を組んで、そう祈り始めた時、ハロルド川沿いの石畳を駆けてくる、一台の馬車が眼に入った。
「来たぞ、あの馬車だ!」
家族たちが、一斉に、馬車に目を向けた。
馬車は、ホイットマン製造会社の前に、滑り込んできた。
そして、完全に馬車が止まるより前に、車室のドアが開き、叫んだ。
「インスパイア号が、一番だ。我々の勝利だ!」
拍手と、歓声が、一気に上がる。
レティシアは、小さな叫び声を上げて、口元を両手で押さえた。
思わず、瞳からは、涙が溢れ出た。
先ほど声をかけた若い女も、頬に涙を伝わらせ、感極まった様子で、両手を合わせていた。
「良かったわ・・・、ああ、本当に良かった」
若い女は、レティシアと目が合うと、そう言いながら、レティシアを抱きしめた。
おめでとう、リック。
本当に、おめでとう。
レティシアは、滲む空を眺めながら、遠いロングヒルにいるリックに、そう呼びかけた。
ジェネシス号は、ゴール手前、残すところあと五百メートルで、配管が、壊滅的に破損。
走行不能となった。
よって、ロングヒルトライアルの勝者は、インスパイア号に決定。
トライアルを終え、最高時速四十八キロ、平均時速十九キロ、故障・破損なしの結果は、他の蒸気機関車を圧倒しており、鉄道会社も、文句のつけようがなかった。
後日、世界初の蒸気機関車として、インスパイア号の採用が正式に決定、公表された。
レティシアの帰りを、自宅で待ちかねていたケイティは、知らせを聞くやいなや、レティシアを抱きしめた。
ケイティの眼にも、光るものがあった。
「ねえ、どうしたの、おかあさん?リックの蒸気機関車、勝ったの?」
涙を浮かべて、抱きしめあうふたりを見て、トライアルのことを知っていたデイヴが、そう尋ねて来た。
「ええ、そうよ、デイヴ。リックの蒸気機関車が、一番になったの」
「やったあ!」
デイヴが、両手を突き上げて、声を上げ、アンディも、よしっ、と、拳を握った。
みんなの興奮が伝わるのか、小さなふたりも、声を上げながら、ぴょんぴょん、飛び跳ねた。
その時ちょうど、階下のドアが開く音がして、ケイティの名を呼びながら、急いで、階段を上がって来る足音が、聞こえた。
フランクだった。
その上気したフランクの表情から、トライアルの結果がすでに耳に入っていることは、すぐにわかった。
「先ほど、兄さんに聞いた」
「ああ、あなた・・・」
ケイティは、フランクに抱き着いた。
「良かった、本当に良かった・・・」
フランクも、ケイティを抱き締め返して、感に堪えない様子で、呟いた。
レティシアは、静かにその場を離れて、屋根裏の自分の部屋に上がった。
そして、チェストの引き出しを開けると、先日、玄関のドアに括り付けられていた包みを取り出し、机の上に置いた。
レティシアは、椅子に座ると、包みを開いて、琥珀色のファッジを眺めた。
そして、ひとつ指でつまんで、口の中に入れた。
「甘い・・・」
思わず、そう声に出るほど、ファッジは、濃厚で甘かった。
ファッジは、口の中で、すぐに溶けた。
そうして、リックと始めて会った時のことを、思い出した。
何て、不愛想で傲慢そうな人かしら。
黒い瞳の、笑わない男に、敵対心を持った。
ふたつめのファッジを、口に入れる。
「本当に、甘い・・・」
その強い甘みに、思わずレティシアは、笑った。
いなくなったデイヴを探して、取り乱すレティシアの背にあてられたリックの手は、とても温かかった。
三つ目のファッジは、甘みに慣れて、舌が鈍くなった。
ふたりで過ごしたクリスマスイブは、きらきらと輝くような時間だった。
時間を忘れて、語り合い、笑いあった、かけがえのない時も、ファッジと共に、溶けていった。
四つ目のファッジは、その甘さを、ただ噛みしめた。
ホイットマン製造会社で、蒸気機関車を見た時。
あの時、彼の夢が、私の夢になった。
夢を追い続ける彼を、ほんのわずかでも、支えることができたなら。
そう思い続けて、過ごした日々だった。
そして、五つ目、最後のファッジを、口に入れた時、今日のトライアルの行方が気になって、ほとんど眠れずに夜を過ごし、浅い眠りについて、目覚めた時、窓の外に広がっていた、夜明けの、美しい東雲色の空を思い出した。
あの東雲色の空は、今、伸びてゆこうとする、この国の色。
そして、今、夢の始まりにいる、彼の色。
そこに、自分の居場所がないことは、承知していた。
自分がいてはいけないことを、知っていた。
別れは、もうすぐそこだった。
トライアルが終わったら、話があると、リックは言った。
ブリストンに留まるよう、引き留められるのかもしれないと、予想はついた。
けれども、レティシアは、どう言われても、ここに留まるつもりはなかった。
左肩に刻まれる罪人の証を、消すことはできないのだから。
ファッジと共に、愛しい思い出が、ひとつひとつ消え、最後のファッジの甘みも、消えていった。
レティシアの瞳から、涙が零れ落ちた。
最後のファッジは、ブリストンへ来る時に口にした、野菜スープと同じ、涙の味がした。
けれども、今、レティシアの心は、爽やかだった。
愛する人の夢を、応援できたこと。
愛する人の夢に、ほんのわずかでも、寄り添えたこと。
それは、取るに足らない些細なことだとわかってはいたが、レティシアの胸に、清々しい余韻を残した。
頬に伝う涙とは別に、晴れやかな想いが、レティシアの胸を満たしていた。
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