東雲色のロマンス

海子

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7.Passionate

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 年が明けて、半月が過ぎ、リックにもレティシアにも慌ただしく、忙しい日々が戻って来た。
年末に感じた寂しさは、すっかりどこかへ去り、レティシアは、四人の子供たちの世話と家事で、毎日、息つく暇もないほど、忙しかった。 
リックも、来年に予定される蒸気機関車の運行に向けて、エドガー、ブラッドの、ホイットマン親子と共に、鉄道省、鉄道会社との細かな打ち合わせ、レールの敷設、そして、何より、蒸気機関車の性能、安全性を高めるために、妥協することなく、さらなる改良を試みていた。
けれども、互いに、どれほど忙しくとも、土曜日の夜の、レティシアの語学の勉強が、取り止めになることはなかった。 
リックは、土曜日の夜、大抵はアダムからの差し入れを持って訪れ、フランクの書斎で、レティシアに言葉を教えた。 
最初に比べると、レティシアの語学力は、各段に上達していた。
毎日、フォルティスの言葉を聞き、フォルティスの言葉でしか話さないのだから、当然と言えば、当然かもしれなかったが、レティシアの日々の努力が、あったことは言うまでもなかった。
ただ、新年を迎えてから、少しばかり、レティシアの様子に変化があった。 
マクファーレンの家から戻って以降、レティシアは、どことなくリックによそよそしくなった。
これまでなら、勉強中でも、リックの軽口に、レティシアの弾けるような笑いが溢れて、 一緒に過ごす時間は、互いに楽しいものだった。
けれども、レティシアは、リックの冗談に、あまり応じなくなった。
笑うにしても、伏し目がちに微笑むのが精いっぱいで、リックは、以前のような明るい笑顔を、眼にすることがなくなった。
レティシアの心の内には、そろそろ、修道院へ帰る支度をしなければならないという、思いがあった。
四月に、修道院へ帰るとして、聖ラファエラ女子修道院と手紙をやり取りして、帰る手段、日にちを、詳細に打ち合わせる必要があった。 
レティシアが修道院に帰る際には、リックが向こうまで送り届けるという話になっていたが、レティシアにそのつもりはなかった。 
今、リックの仕事が大変な時だということを知っていたので、これ以上、自分のために、時間を割かせるわけにいかないということは、十分に承知していた。
時間がかかったとしても、たとえ、女の一人旅が危険だと反対されても、駅馬車を乗り継いで、帰るつもりだった。 
本当なら、レティシアの言葉も、日常困ることはないくらいに上達していたし、フォルティスにいるのもあと少しなので、土曜の勉強も必要がないと断れば、リックの負担が減ることは、わかっていた。
それに、あと三カ月たらずで、修道院に帰るのに、これ以上リックと親しくなるべきではないということも、よくわかっていたから、断るべきだとも思っていた。 
けれども、そうすると、もうリックに会うこともなくなると思うと、レティシアは、中々そう言いだすことができないでいた。
その、レティシアの複雑な心中が、リックに対して壁を作った。
一方、リックは、もう少しで、修道院へ戻らなければならないという、レティシアの心中を、よく理解していた。
左肩の烙印が、レティシアを修道院へ帰らせる、一番の理由であることは、簡単に察しがついた。 
何もかも本当のことを、レティシアに話してしまった方がいいと、思うこともあった。
けれども、その過去を知って、衝撃を受けたレティシアが、記憶だけでなく、今度こそ正気を失ってしまったら?
もう二度と、あの花のような笑顔を、見ることができなくなってしまったら・・・? 
都合の悪い部分だけを隠して、嘘をつき通す自信などなかった。 
何故、これまで、本当のことを隠していたのかと、問い詰められたら、どう答えればいいのか。
ブロンディーヌ、ミラージュ、ラングラン公爵・・・、今更、そんなことを話してどうなる? 
その思いが、リックに、真実を話すことをためらわせた。
互いに、本心を置き去りにしたまま、一緒に過ごす時間は、心に易しくない痛みを伴った。
けれども、その心の痛みを、どうすれば拭い去ることが出来るのか、答えは出てこなかった。 



 一月も終わりに近づいた、粉雪の舞うある朝、リックは、ミルフェアストリートにある、マクファーレン商会へと呼び出された。 
三階建ての、煉瓦造りのその建物へ呼び出されることなど、まずなかった。
だから、
「何か、問題があったのか?」 
三階にある、ジェフリーの執務室に入るや否や、挨拶よりもまず、リックはそう言った。
「問題というほどではないが。最近、身の回りで、変わったことはないか?」 
ジェフリーは、机について、書類にサインをしていたが、リックが入って来たのを見て、手を止め、椅子を勧めた。 
「身の回りで?俺の?」 
そう言われて、頭を巡らせてみても、思い当たるようなことは、なかった。
「心当たりはないが、何かまずいことでも?」
ジェフリーは、少し前に耳に入ってきた話だが、と、話し始めた。 



 リックの寝起きするバッカスは、駅馬車と、切っても切り離すことはできない。
何故なら、バッカスの前が、駅馬車の発着場になっていて、バッカスは、駅馬車を利用する者の宿として、賑わっているからだった。 
けれども、来年にも蒸気機関車が、ここ、ブリストンと、首都タリスを結んで走ることになり、そうなれば、駅馬車を生業とする御者を始め、駅馬車に関わって働く者たちの仕事が、失われるとまではいかないまでも、打撃を受ける。 
蒸気機関車が走るようになれば、蒸気機関車が駅馬車にとって代わり、少なくとも、その運行区間を走る駅馬車が、廃れていくことになるのは、明らかだった。 
そして、蒸気機関車が成功を収め、その運行区間が広がれば広がるほど、駅馬車が縮小されていくことに、間違いなかった。 
つまり、駅馬車に関わる者や、駅馬車の利用客の宿であるタヴァンの者たちが、蒸気機関車の運行を、快く思うはずはなかったのである。 
蒸気機関車の運行が、迫ってくる中、駅馬車に関わる者たちの不満や、将来への不安は、次第に大きくなっていると考えられた。 
ジェフリーの心配は、それだった。
タヴァン、バッカスに寝起きするリックは、蒸気機関車に携わっている。 
蒸気機関車の運行を快く思わない御者や、バッカスの従業員たちの不満が、高まりつつあると耳にして、リックが、思わぬ嫌がらせを受けるかもしれない、ということだった。 
酒好きで、気性の荒い御者は、多かった。 
酔った御者たちに、リックが襲われるようなことにでもなる前に、そろそろバッカスを出た方がいいのではないか、というのが、ジェフリーの見解だった。 
「あんたの言っていることは、間違いじゃないかもしれない」
ジェフリーの話を聞いて、思い返してみれば、以前は、親しく口をきく間柄だった御者が、最近は、顔を合わせても、挨拶だけで通り過ぎることが多かった。 
「心当たりがあるなら、行動に移すことだ。騒ぎが起きる前に」
「そうだな。早いうちに、どこかへ移る」
「手ごろな物件を、探してやってもいいが」
「いや、いい。自分のことぐらい、自分でする。忙しいのに、わざわざ悪かったな」
と、リックは、席を立った。
そのリックをジェフリーは呼び止めると、
「ホイットマン氏から報告は来ているが、彼の言う通り、仕事は順調で間違いないか?」 
そう尋ねた。 
「問題は山積みさ。やらなければならないことは、いくらでもある。時間がどれだけあっても、足りない」 
「自信は?」 
「ジェフリー、そういう問題じゃない」 
「何?」 
「失敗は、許されないんだ」 
リックは、そう言い残して、ジェフリーの執務室を後にした。



 エドガー・ホイットマン製造会社に、その衝撃的な報告が入ったのは、一月の最終日、リックがマクファーレン商会を訪れてから、五日ほど経っていた。
「何だって?」 
エドガーからその話を聞かされた時、リックは、耳を疑った。 
タリスの鉄道会社へ赴いたエドガーが、その話を持ち帰って来た時、事務所に集められた、エドガー・ホイットマン製造会社の従業員たち、七名はみな、驚きと怒りを隠せなかった。
それは、来年、ブリストンとタリスを結んで走る蒸気機関車が、四月末に行われるトライアルで、決定することになった、というものだった。 
そんな話は、ホイットマン製造会社の者たちにとって、寝耳に水だった。
国内初、いや、世界初の蒸気機関車として、ホイットマン製造会社の蒸気機関車を使うことは、決定していた。 
決定しているはず、だった。 
ところが、ここへ来て、鉄道会社の上層部での、派閥争いが、激しくなった。
ホイットマン製造会社の、蒸気機関車を押す会社の幹部と、他の蒸気機関車製造会社の制作する、蒸気機関車を押す会社の幹部たちが、激しい争いを展開した。 
それで、会社としては、採用する蒸気機関車を、公平に決めるため、トライアルを実施することに決めたのだった。 
トライアルへの参加条件は、なし。 
希望すれば、誰にでも、どの会社でも、トライアルに参加することが出来る。 
同じ条件の下、一定区間を走り、一番早く走り終えた蒸気機関車には、賞金が与えられ、ブリストンと首都タリスを結んで走る、世界初の蒸気機関車として、採用されることになった。
「今頃になって、そんな・・・」 
従業員のひとりが、思わず呟いた。 
これまで、ホイットマン製造会社の者たちは、時間も、資金も、情熱も、希望も、全てを蒸気機関車に懸けて来た。 
世界初の蒸気機関車を、自分たちの手で作るのだと、誇りを持って、仕事に従事してきた。
それが・・・、もしかしたら、全て、水の泡となってしまうのかもしれない。 
万一、不採用などということになれば、このホイットマン製造会社自体が、無くなってしまうのかもしれない・・・。
しばらく、誰も、口をきくことができなかった。 
沈黙を破ったのは、エドガーだった。
「みんな、何故、そんなに暗い顔をしているんだ?四月のトライアルでは、俺たちの蒸気機関車が、一番になる。間違いない。俺たちの作った蒸気機関車が、一番だ」 
確信のこもった声だった。
そのエドガーの言葉で、みな、我に返った。 
やるしかない。 
トライアルで優勝して、世界初の蒸気機関車となる権利を、もぎとるのだ、と。



 レティシアは、つと、手を止めた。 
隣で、レティシアの綴りを見ているはずのリックだったが、何やら、いつもとは違う気配を感じて、頬杖をついたリックの顔を見ると、瞼が閉じていた。 
その拍子に、肘が滑って、リックは目を覚ました。
「ん・・・、なんだ、ああ、寝てたのか」 
リックは、手で目をこすった。
充血した目をしていた。
「リック、疲れている?」 
「いや、そうでもない。ここは、暖かいからな」 
確かに、書斎にストーブは入れてあったが、リックの眠気を誘ったのは、暖かさのせいだけとは思えなかった。
「リック、私、勉強、しなくていい」 
「何?」
「私、もう、勉強、いい。必要ない」
もうすぐしたら修道院へ帰るのだからと言いかけて、レティシアは言葉を飲み込んだ。 
「俺に、気を遣っているのか?」 
「リック、仕事、忙しい。この土曜の夜の勉強、あなたに、迷惑」 
リックは、余計な心配をかけたくなかったので、トライアルの一件を、フランクにも、ケイティにも、レティシアにも、話していなかった。 
その内、ジェフリーの口から、フランクの耳に入り、ケイティやレティシアの耳にも入るのかもしれなかったが、ホイットマン製造会社に、トライアルの話が持ち込まれて、半月を経ても、レティシアの耳には、まだ届いていない様子だった。
それでも、リックがいつも以上に疲れている、ということには、気づいたようだった。 
トライアルの話が持ち込まれて以降、この半月、寝る時間もままならないほど、時には泊まり込みで、作業に取り組んでいた。 
普段通りを装ったところで、リックの顔には、疲労の色が出ていた。
「迷惑だなんて、思ってない」 
「でも・・・」
「ちゃんと、綴れてるのか?見せてみろよ」 
話すことには、慣れたレティシアだったが、書くことは、まだ不慣れだった。
リックは、レティシアの綴った紙を、手に取った。 
どのように、という言葉を使って、文を作る練習をしていた。 
「どのように、私は、答えればいいですか?」 
「どのように、お母さんは、料理をするのですか?」 
「どのように、彼は、彼女と出会ったのですか?」 
どれもきれいな字で、丁寧に綴られていた。
綴りに、間違いはなかった。 
リックは、それをしばらくじっと眺めていたが、 その下に、癖のある字で、何やら綴って、レティシアの前に差し出した。 
「最初に会った時、多分、彼女は、彼を嫌っていた」 
それは、一番下の例文の答えのように、見えた。 
レティシアは、眼を通して、少し微笑み、その下に書き足した。
「彼女には、彼が、不愛想に見えた」 
今度は、リックがそれを読んで、笑った。 
それから、ふたりは交代で、言葉を書き続けた。 
「けれども、それから、二人は、一緒に楽しい時間を過ごした」 
「クリスマスや新年は、本当に素敵な時間だった。彼への、彼女の感謝は、言葉にできない」 
「彼が、彼女に望んでいるのは、感謝ではない」
リックはそう記すと、レティシアの前に、紙を置いた。
レティシアは真顔になって、記された文字を見つめた。
目を伏せたまま、レティシアは、次に記す言葉を探していたが、
「彼女は、赤ちゃんを宿したことがある」 
そう記した文字は、少し、震えていた。 
「彼は、過去を気にしない」 
「彼女は、去らなくてはならない。彼女には、絶対、人には言えない秘密がある。ひどい秘密がある」 
震える手で文字を綴る、レティシアの頬は、蒼白だった。 
「彼女に必要なことは、彼を信頼することだ。彼は、彼女の全てを受け入れる」 
リックは、そう書き記した。
レティシアは、顔を上げた。
涙を含んだ瞳で、ただ、じっと、リックを見つめていた。 
そのレティシアの前に、リックは、最後の言葉を記して、差し出した。 
「何故なら、彼は、心から彼女を愛している」 

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