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海子

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10.令嬢の悲恋

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 翌朝、国王の起床の時刻を迎え、いつものように、ゴダール侍従長は、侍医長、侍従らと共に、フィリップの寝室に入った。 
「午後から、マティルダと外出する。護衛は、数名でいい。従者はいらない」 
ゴダール侍従長の姿を眼にするや否や、フィリップは、素っ気なく告げた。
「どちらへ、向かわれるのでしょう?」
「君たちには、秘密だ」 
侍医長から、起床時慣例である、脈拍を取られつつ、フィリップは、そう返事をした。
「陛下・・・」 
昨夜の一件があるだけに、ゴダール侍従長は、フィリップに強く意見することが出来なかった。



 朝のフィリップの宣言通り、その日の午後、フィリップはマティルダと共に、馬車に乗り込み、ブルークレール宮殿を出発した。
フィリップの希望通り、簡素な馬車を用意させ、従者は伴わず、数名の護衛だけを付き従わせた。
フィリップは、王宮の混乱を避けるため、このままマティルダの素性は明かさず、従来通り女官長として、王宮で勤めるように、今回の一件に関わった一同に、伝えた。
それ故に、フィリップと共に外出するマティルダの外出着は、立場を弁え、深紫の落ち着いたドレスとケープ、同系色の少々淡い色合いの帽子、真珠の首飾りとブローチだったが、フィリップの眼には、とても清楚に映った。 
「どちらへ、いらっしゃるのですか?」 
馬車に乗り込み、しばらく走ったところで、マティルダは向かいに座るフィリップに、微笑んで問いかけた。 
「秘密だ」
マティルダの問いかけに、フィリップは冷たく答えた。
「陛下のお怒りを解くことは、叶わないのでしょうか・・・」 
マティルダは、そっと瞳を伏せた。 
フィリップは頬杖をつきながら、しばらく、そのマティルダの姿を眺めていたが、やがて自分の膝の上に抱き寄せた。 
「陛下・・・」 
「ふたりの時は、名前で」 
マティルダは、微笑んで、フィリップ様と、その胸に頬を寄せた。
「騙されていたことを知って、腹が立っていたことは事実だ。だけど、ああいうことはするものじゃないって、身に沁みたよ。傷ついた君を見て、結局、僕も傷ついた。不審なことがあったら、直接君に聞くべきだったと思う。ただ、先代サヴァティエ公爵が亡くなって、十年が過ぎようとするのに、僕はサヴァティエ公爵の手のひらの上で、まだ弄ばれているような気がする」 
それが、今回のひと騒動を振り返った、フィリップの正直な感想だった。
「もし、お許しいただけるのなら・・・、フィリップ様を欺いた罪は、一生お傍で、償ってまいりたいと思います」 
そう言って、爽やかな香りを纏ったマティルダに、清らかな青い眼差しで、じっと見つめられれば、フィリップは堪らない気持ちで、いっぱいになった。
「――最初から、僕に勝ち目はない。わかっていたことなんだけれどね」 
フィリップは、少々腹立たし気にそう言って、そして、久しぶりのマティルダの唇を、ゆっくりと味わった。



 薄曇りの空の下、馬車は一時間ほど進み、なだらかな坂を上って、ある古びた屋敷の前で止まった。 
屋敷の周りの庭は、一切手入れがされておらず、枯れた雑草で、荒れ放題になっていた。
手入れがされていないのは、屋敷も同様で、人の気配はなく、その外観は、所々壁が剝がれ落ち、ひっそりと寂れていた。
フィリップは、マティルダと馬車を降り、護衛にこのままここで待つように告げると、鎖でしっかりと閉じられた、門の前へと向かった。 
そして、まだ使えるかな、と、ポケットの中から、鍵を取り出し、鎖に掛けられた錠に差し込んだ。 
錠は錆びついていたが、フィリップが何度か強く鍵を回すと、外れた。
フィリップは鎖を解き、マティルダの手を取って、静かに、中へ足を踏み入れた。
「フィリップ様、ここは・・・?」
「僕の家だ」 
「フィリップ様の?」 
「僕が、生まれ育った家だ。十三年前、グラディウスの侵略で、アルカンスイエルが陥落した時、僕は、十六歳で、士官学校の生徒だった。だけど、アンジェラを・・・、病弱な妹を、安全な場所まで連れて行くために、アルカンスィエルを離れ、隣国フォルティスのウッドフィールドに住む親戚の屋敷に向かった。公爵令嬢のアンヌ、女中のレティシア、下男のピエールと一緒に」 
十三年前の、遠い昔のその時が、懐かしさと哀しみを伴い、フィリップの胸に甦った。



 荒れた庭を通り抜け、屋敷の前に立つと、フィリップは別の鍵を出し、鍵穴に差し込んだ。
ガチャリと音を立てて、難なく鍵は開いた。 
「十三年間、僕はここへ、来ることが出来なかった。この家には、僕の後悔と苦しみが詰まっているから」
ドアは軋みを上げて、開いた。 
その空間は、十三年前のまま、ここを出て行った時のままで、フィリップを迎え入れた。 
埃を被り、あちらこちらに、蜘蛛の巣が眼についたが、殺風景な玄関ホールも、二階へと続く階段も、フィリップの記憶と少しも違わなかった。 
フィリップは、マティルダの手を引いて、階段を上った。 
階段は朽ちておらず、上ることに、差支えはなかった。 
そして、フィリップはある部屋の前で、足を止めた。
「アンジェラの部屋だ」 
フィリップは、眼を閉じて、深呼吸をしてから、ドアを開いた。 
アンジェラの部屋は、埃を被り、長い年月のせいで、カーテンや壁紙は、色褪せてしまっていた。 
けれども、アンジェラが長い時間を過ごしたベッド、母から譲り受けたチェスト、お気に入りの鏡、それらは、時を止めたままで、変わらず、そこにあった。
十三年の時を経ているのに、フィリップの記憶の中のアンジェラは十四歳のままで、その甘い砂糖菓子のような笑顔が胸に甦り、フィリップは唇をかみしめて、眼を閉じた。
「フィリップ様・・・、大丈夫でございますか?」 
マティルダは、フィリップの左腕を取り、寄り添った。
フィリップは、そのマティルダの手に右手を重ねると、眼を閉じたまま、大丈夫だ、と、呟いた。
「以前にも、少し話したことがあると思うけれど、アンジェラは、本当の妹じゃなかった。だけど、僕は、アンジェラを本当の妹のように大切にしていた。国王である父とは会ったことさえなかったし、母が、僕が十二歳の時に亡くなってしまってからは、ただ一人の家族だと思って、どんなことをしても守ってやりたいと思っていたし、そのつもりだった。だけど、アンジェラは、ウッドフィールドに向かう山道で、斜面を滑り落ちて、川へ落ちて亡くなった」 
マティルダは黙ったまま、フィリップの背を擦った。
「アンジェラが亡くなってから、僕は気づいたんだ。アンジェラは、僕の事を兄として慕っていたのではなく・・・、僕に恋をしていたことに」 
「お辛かったでしょうね、妹様も、フィリップ様も」
「ある人は、僕に言ってくれた。自分を責めるんじゃないって。アンジェラの恋心に、哀れみや同情で、応えることはできないのだから、って」 
フィリップは、今は、イーオンで娘夫婦と孫たちに囲まれて過ごす、懐かしいハリーの髭面を思い出した。 
フィリップは、ポケットから、金の繊細な細工が施された、円形の淡い緑色のペンダントを取り出した。
それは、アンジェラの遺品だった。
亡くなる半年前にフィリップが街で見つけて、アンジェラに贈ったもので、アンジェラがずっと肌身離さず、身に着けていた品物だった。 
「それでも・・・、僕は、ずっとこの十三年間、妹を守ってやれなかった自分を責め続けている。アンジェラの残したこのペンダントを手に取るたび、僕に向けられた、妹の恋心に気づいてやれなかったことを、後悔し続けている。大切な妹を、哀しい想いのまま逝かせてしまったことを、ずっと悔やんでいる。それが、これまで僕が結婚しなかった・・・、いや、できなかった本当の理由だ。君だけには、本当のことを、話しておきたいと思った。 君は、後悔を背負う僕が、愛することのできた、ただ一人の女性だから」 
自身の抱えるどんな想いも、マティルダと共有していきたいと、フィリップは、今日、この場所へ誘ったのだった。
「フィリップ様のお気持ちを・・・、お察し致します。もうご存知だとは思いますが、私も遠い昔に、婚約者を亡くしました。私は彼を・・・、オリヴァーを、心から愛して、嫁ぐ日を心待ちにしておりましたが、彼は、戦いに行き、戻っては来ませんでした。その時の、私の絶望は・・・、今、思い出しても、身体が震えるほどでございます」 
マティルダは、込み上げて来る感情を抑えるように、口元を手で押さえた。
フィリップは、マティルダを抱き寄せた。 
「でも・・・、いつかの夜、オリヴァーを想って、夜空の星に向かって語り掛ける私に、フィリップ様は、こうおっしゃられました。哀しみは、哀しみのままでいい、無理に乗り越えようとしなくてもいい、と。私はその言葉に、どれほど救われたことでしょう。そして、フィリップ様のそのお優しさに、次第に惹かれてまいりました。オリヴァーを失って、深く傷ついた心が、次第に癒やされてまいりました」 
「それは、お互い様だ」 
フィリップはマティルダの髪を、優しく撫でた。
「今日は、君と一緒にここへ来ることができて、良かった。君には、本当に感謝している」 
フィリップは、マティルダの髪に唇を落とし、愛しているよと、囁いた。
そうして、しばらくそのまま時間を過ごした後、行こうと、フィリップはマティルダを誘い、ドアに手を掛けた。
その時、お兄さま、と呼び止められたような気がして、フィリップは、はっと振り返った。 
光の差し込む窓辺に、灰色の瞳の少女は、立っていた。
柔らかな明るい茶色の巻き毛が、陽に当たって、光っていた。
お兄さま、どうぞお幸せに。 
少女は、心溶かせるような甘い微笑みを浮かべ、フィリップの聞き覚えのある澄んだ声で、それだけを告げると、瞬く間に、光の彼方へと、消えて行った。 



 ブルークレール宮殿へと戻る馬車の中で、マティルダはフィリップの腕に抱かれて、時間を過ごした。
お互いの指を絡め、時折、フィリップの唇が髪に落ちる以外、言葉はなく、静かに想いを重ねた。
ブルークレール宮殿が近くなった頃、
「年が明けるまでは、もうしばらく、ニコル・ベルティーユ・ド・ポーシャールとして、女官長の務めを果たしてほしい。このままブルークレール宮殿で、一緒に、クリスマスと新年を過ごそう。そして、年が明けたらすぐにイーオンに帰国を。婚礼の準備を整えて、再来年の春には、ユースティティアの王妃として、ブルークレール宮殿へ来ることが出来るよう、イーオン国王に親書を送る。君を、ユースティティアの王妃として迎える日を、僕はブルークレール宮殿で待っているよ」
フィリップは、そう言って、マティルダの頬に唇を寄せた。 
「フィリップ様・・・」
「だけど・・・、サヴァティエ公爵も君も、ひとつだけ、僕を誤解している」 
フィリップは、小さくそう呟くと、マティルダのうなじに唇を当てて、喉元まで、這わせた。
そして、素早くケープの紐を解き、胸元のリボンも解くと、手を差し入れて、左の乳房に優しく触れ、そっと摘まんだ。
これまで、ふたりで過ごした時間は数えきれないほどあったが、フィリップが、そういった行動に及ぶことはなかったせいで、マティルダは、完全に油断していた。
マティルダにとって、それは経験したことのない世界だった。
フィリップに、もうすっかり心を預け切ったマティルダは、この時ばかりは、慎みという言葉を忘れ、せり上がって来る疼きに堪えられなくなって、吐息を上げ、思わず、縋り付いた。
「僕が、ずっと、辛抱しているということを、君は、わかってない」
羞恥と陶酔とが入り混じって、マティルダはフィリップの胸に顔をうずめた。
「続きは、婚礼が終わってから。そう・・・、僕は、多分、かなり、しつこいと思う」 
指を止め、自分の胸に顔をうずめるマティルダの耳に、フィリップは囁いた。
そして、マティルダの胸元を整え、ケープの紐を、元通り結び直した。
「私・・・」
と、しばらくして口を開き、 
「私、サヴァティエ公爵の仰られたように・・・、体調を整えて、嫁いで参りたいと思います」 
そう告げる、マティルダの頬は、艶めき、赤らんでいた。 

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