ホワイトノクターン

海子

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6.白の夜想曲

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 五ヵ月前になる、一月、国境では小さな変化が生まれていた。 
国境は、ユースティティア軍、グラディウス軍が配備され、常時、監視下に置かれていたが、国境を挟んで、一キロの範囲には、いかなる建造物も建ててはならないという、両国の取り決めがあった。 
けれども、一月、相手領内に偵察に出たユースティティアの騎兵が、国境から一キロぎりぎりの地点に、民家らしい建屋が数件建っているのを、発見した。 
それは、明らかな違反とはいえなかった。
けれども、見過ごすことは出来なかった。
敵が、何を企んでいるのか、何を仕掛けて来るのかを、注視しておく必要があった。
一月の時点で、フィリップは、表立っての抗議は避けた。
それは、偵察はお互い様だったが、抗議をするということは、そちらの領内へ偵察に行っていると、自ら告白するようなものであり、いたずらにグラディウスのアレクセイ国王を刺激するより、しばらく状況を見守ろうという、フィリップの判断だった。 
四月末に発覚した、懸念すべき事態というのは、この国境付近の建屋に関してのものだった。 
四月、建屋は、一月に比べて数を増し、五十件近くになり、小さな村になっていた。 
村の住人には、女や幼い子どもの姿もあり、ごく一般的な村民のように思えた。 
一見、ユースティティアに害を与える集団ではないように思えたが、国境という繊細な場所であり、短期間で建屋が増えたこともあって、ユースティティアのフィリップ国王は、正式にグラディウスのアレクセイ国王に抗議した。
誤解を招くような行動は、両国のためにならないと。
しかし、アレクセイ国王は、我が国の国民が、領内のいずれの地に居を構えようが、民の自由であると、取り合わなかった。 
そして、四月末、グラディウスの国境付近に出来た小さな村は、武器密売の拠点だという情報がもたらされた。
つまり、多額の金と引き換えに、ユースティティアの武器・弾薬が、その小さな村を通して、グラディウス側に流出しているということだった。 
再び、フィリップ国王は、アレクセイ国王に対して、強く抗議した。 
しかし、アレクセイ国王は、ユースティティア政府の妄想に過ぎないと、言い切った。 
両国の関係は、一気に悪化した。 
五月に入って、グラディウスの武器密売村周辺では、グラディウス兵士とユースティティア兵士の、小さな争いが、始まりだした。 
アレクセイ国王は、越境だと、フィリップ国王に、遺憾の意を表明、フィリップは、密売組織を放置するグラディウス側に責任があると、両者どちらも譲らなかった。
国境での争いは、次第に、回数が増え、徐々に規模が大きくなりつつあった。 
五月半ばを過ぎ、このまま、戦争にまで突き進んでいくのか、歩み寄りを見せるのか、両国は互いの腹を探り合っているような状況だった。 
早晩、戦いが始まるだろう、というのは、ヴィクトルの見解だった。 
今、グラディウスの国内は、政情が不安定で、農村部では、王制に不満を持つ貧しい農民たちの反乱が、相次いでいるという情報が、ヴィクトルの耳に入っていた。
ユースティティアをグラディウス全国民の敵とし、争うことで、自国の民の一体化を図り、王権の著しく強い専制君主、アレクセイ国王が司る内政への不満を逸らすのは、敵の常套手段だったからだった。
近いうちに大きな戦闘になる、それが、ヴィクトルの確信に近い予想だった。



 五月半ば、ヴィクトルが、アネットを訪れるのは、約一カ月ぶりのことだった。
それは、四月末、国境で発覚した武器密売村のせいで、軍隊は、俄かに慌ただしくなり、ヴィクトルは、状況の分析と作戦会議で、多忙になり、アネットを訪れるどころではなくなっていたからだった。 
約一カ月ぶりになる、ヴィクトルとの交わりに、アネットは貪欲だった。 
舞台女優であるアネットには、初老のパトロンの存在があったが、パトロンが自己満足するだけの、お粗末な交わりで、アネットの肉欲が満足することはなく、ヴィクトルの訪れのなかったこのひと月、アネットは自分自身の身体を持て余していた。
三十六歳という年齢を迎えるとはいえ、熟しつつある色香を放ち、女性らしい曲線美の持ち主のアネットがその気になれば、ヴィクトルの訪れを待たずとも、目ぼしい男の一人や二人を捕まえて、肉体の抑えきれない欲求を果たせそうなものだったが、アネットは、そうしなかった。 
そうできなかった。
どんな男と、どれほど快楽を分かち合おうが、ヴィクトルのほどの満足を与えてくれる男はいないと、今更ながらに、アネットは気づいたのだった。 
アネットは、訪れたヴィクトルを部屋に招き入れると、ワインでもてなし、自分も一緒に味わったものの、心は既に、これから快楽を貪りあうことに囚われていた。 
だから、早々に、ヴィクトルをベッドに誘い、軍服を脱がせにかかった。 
軍服の下のシャツを剥ぎ、引き締まったヴィクトルの精悍な上半身を目にしただけで、アネットは、濡れて来るのがわかった。 
アネットは、自ら、化粧着を脱ぎ、ベッドに横になった。 
化粧着の下は、何も身に着けてはいなかった。
アネットは、その裸身を晒し、覆いかぶさるヴィクトルの身体を、両足で挟み込んだ。
直ぐに始まったアネットの望み通りの、激しい愛撫は、アネットを狂喜させた。 
ヴィクトルは、花芯にヴィクトル自身をあてがいつつ、アネットの乳房を揉み、吸い上げ、存分に女を堪能し、挿入を焦らした。
お願いと、ヴィクトルを切望するアネットの絶叫を聞き流し、愛液の滴る花芯を、指でなぞって、アネットにとっては不十分な刺激を与え続けた。
そうして、焦らすだけ焦らした後、ヴィクトルは、アネットの腰を引き寄せて、一気に、貫いた。 
アネットの豊かな乳房が揺れ、一際高らかな絶叫が、部屋に広がる。
焦らされ続けたアネットは、数回の突き上げで、一度目の絶頂を迎えた。
快楽に浸りきった表情のアネットが、ベッド脇に置かれた灯りに浮かび上がる。 
ヴィクトルは、美しいとも、愛しいとも、思わなかった。 
そこには、雄に肉体的な快楽を与えられ、満足を覚える雌が、いるだけのことだった。 
日を追うごとに厳しさを増す、国境の状況を考えれば、いつ召集が始まってもおかしいことではなかった。
国境の街にも娼館はあったが、ヴィクトルは、娼婦を相手にはしなかった。 
しばらく、女を抱くのもおあずけか。 
恍惚の表情を浮かべるアネットを見つめながら、ヴィクトルは、冷静にそんなことを考えていた。 
けれども、すぐに思い直した。
いや、俺が、女を抱くのは、これが最後かもしれない、と。 
そして、最後の相手がアネットなら、俺にはちょうどいい、と。 
未だ、果てないヴィクトルは、アネットから一度抜き、再び、乳房に手を伸ばした。 
アネットは、今、達したばかりだというのに、早くも二度目への絶頂を望んで、脚を開いたまま、指で乳首に触れるヴィクトルに向かって、乳房を突き出してくる。 
その時ふと、ミレーヌは・・・、どんな風だろうか? 
アネットの乱れた肉体を眺めつつ、そんな想いが、ヴィクトルの脳裏をよぎった。 
ミレーヌは、どんな風に・・・、男に抱かれるのだろう。
ヴィクトルは、ミレーヌの、はにかんだような笑顔を思い出した。 
きっと・・・、彼女は、相手となる男に恥じらいを見せ、心からの信頼と、愛情を寄せて、身を委ねるのだろう。 
こんな劣情にまみれ切った行為とは違い、お互いに、愛を囁き合い、切なく、愛しく、胸をかきむしられるように狂おしい感情を抱き合って、めくるめくような時間を過ごすのだろう。 
しかし、その相手は、俺ではない。 
マクシム・フランソワ・ド・ラ・ギーユの端正な顔が思い浮かび、ヴィクトルは、獰猛な感情が沸き上がって来た。 
ヴィクトルは、アネットに背中を向けさせ、膝をつかせると、絶頂を迎えて間のないアネットの花芯に、斟酌なく後方から、打ち込んだ。 
まだ、挿入の準備のなかったアネットは、身を捩って、尻を引きかけた。
けれども、ヴィクトルは、それを許さなかった。
アネットの腰を引き寄せて、激しく何度も打ち付けた。
再び、アネットの身体は、愉悦の頂に向かい始める。
二度目の女の獣じみた絶叫を耳にした後、すぐにヴィクトルは、アネットから離れた。
そして、アネットの背中に、白濁した己の欲望を、吐き出した。



 「飲む?」 
情を交わした後の気怠さに、ヴィクトルが身を任せていると、先に化粧着を羽織って、ベッドを離れたアネットが、ワインとグラスを手に戻って来た。
「いや、結構だ」 
ヴィクトルはそう答えると、ベッド脇の椅子に置いてあった下着とズボンを順に取って、身に着けた。 
「ひとつ、聞きたいことがあるんだけど」 
「何だ?」 
シャツに袖を通しながら、ヴィクトルは答えた。
「いつも、中でしないのね」
ヴィクトルは、アネットと何度交じり合っても、アネット身体の中で果てたことは、一度もなかった。 
「お互いのためだ」 
「それはそうね。だけど、男は身勝手なものよ。自分が良くなりたければ、するでしょう?そのせいで、私は、二回も産むことになってしまったけど」 
「産んだ?」 
軍服を取りかけたヴィクトルの指先が、止まった。
「意外?でも、することをしてたら、出来るのは当然よ」 
「産んだ子どもは、どうしているんだ?」 
「知らないわ。産むより堕ろす方が大変だって聞いたから、産みはしたけど、育ててないもの。仕事して、こんな生活をしてたら、育てられるわけもないし。子どもが欲しいっていう人は、探せば案外いるものよ。引き取ってくれるところがなくて、困ったことはないわね」 
アネットは、自分で注いだワインを、口に含んだ。 
「随分、薄情だな」 
ヴィクトルのその返答に、アネットは、ワイングラスを置き、 
「酷い母親だって、顔に描いてあるわよ、大尉さん」
真顔で、ヴィクトルを見つめ返した。



 「ねえ、大尉、ご立派な大尉さんにはわからないでしょうけれど、酷い母親なんて、世の中にごまんといるのよ。子どもを手元において、大切に育てているように見えたって、いい母親かどうかなんて、わからないわ。愛情深い母親面して、子どもに酷い仕打ちをする女なんて、たくさんいるのよ」 
「自分がそうだったと?」
「その通りよ」 
アネットのその声には、深い憎しみが感じられた。
ヴィクトルは、アネットと、会話らしい会話をするのは、考えれば、これが初めてだった。 
お互いに求めているのは、相手の身体のみで、性格も、感情も、知性も、分かち合いたい などと思ったことはなかったし、分かち合えるとも思っていなかった。
「私は、父親の顔はよく覚えてないわ。私が、四歳の時に病気で死んだって、聞かされた」
話が長くなると思ったせいか、アネットは、ワインを注いだグラスを、ヴィクトルに差し出した。 
「私の母親は、食べて行くために、父親が死んで、すぐ再婚をしたの。新しい父親は、弁護士だったのよ。だから、生活に、困ることはなかったわね。困るどころか、私に家庭教師をつけて、読み書き、それに、一つぐらいは教養を、って、歌まで習わせてくれたわね。だから、最初、私は、本当にその男の事が好きで、懐いていたのよ。地獄のような時間が始まったのは、私が七歳の時」 
アネットは、ヴィクトルの眼を見据えた。 
「私が七歳の時から、男は、私の寝室にやって来るようになった。そして、このことは、絶対他人に話してはいけないって、言ったわ。もし誰かに話したら、母と私には、この家から出て行ってもらうって。そうなったら、母は随分悲しむだろうって、七歳の私を脅したの。私は、言うことを聞くしかなかった。毎晩、その男に、何をされてもね」
幼いアネットの身に何が起こっていたのか、ヴィクトルは、即座に理解した。
「男は外面のいい人だったし、母は穏やかで優しい人だったから、傍から見れば、円満な、幸せな家庭だったんでしょうよ。その男が、毎晩、私に何をしていたかなんて、誰も、想像が付かなかったと思うわ。だけど、母には、知らなかったなんて、言わせない。ただ、その男がいなければ、母と私は、惨めに暮らすしかないって分かってた。だから、私は、ずっと辛抱し続けたのよ」 
過去を振り払うように、顔にかかる、緩やかな巻き髪を、アネットは指で払った。 
「でも、辛くて、どうしても耐えられなくなって、十二歳のある日、母に泣いて訴えたの。とても、辛いって。心が、壊れてしまいそうだって。娘の私が、ここまで言うんだから、母ならきっと何とかしてくれるって、信じてた。申し訳なかった、って泣いて、謝ってくれるって。どんなに貧しくなったとしても、男と別れて、私とふたりで生きる道を選んでくれるって。馬鹿げた妄想ね」 
そう話すアネットは、まるで過去の自分自身を嘲る様だった。 
「母は、黙ってろ、って、言ったわ。私さえ黙っていれば、この生活を失わずに済むんだから、って。十二歳の私の絶望が、あなたにわかる?わかるはずないわね」 
ヴィクトルは、答えることが出来なかった。 
「十四歳の冬、私が暮らしていた街に、アルカンスィエルから、ある歌劇の公演がやって来たの。私、これだって、思った。今の暮らしから抜け出すには、これしかないって。歌はずっと習っていて、自信があったの。だから、無茶は承知で、何でもするから、劇団の一員に加えてほしいって、必死で、頼み込んだわ。そして、願いを聞き入れてもらった」 
アネットは、ワインを飲み干して、空になったグラスをしばらく見つめてから、続けた。
「母は、着の身着のまま、荷物らしい荷物も持たずに出て行く十四歳の娘に、随分、驚いて慌てていたわね。だけど、私に迷いはなかったわ。毎晩毎晩、男の玩具になるのは、もうたくさん。こんな、地獄のような暮らしを捨てて、新しい人生を生きてやるって思った。ただ、私が、歌えたのは、あの男が、ずっと歌を習わせてくれてたからだってことは、皮肉よね」 
アネットは、自嘲気味に笑った。 
そして、グラスをテーブルに置くと、ベッドに座るヴィクトルに歩み寄り、至近距離で、ヴィクトルに視線を合わせた。
「アルカンスィエルへやって来てからも、思い通りになったわけじゃない。順風満帆だったなんて言えないわ。いくら歌えても、金持ちのパトロンが付かなきゃ、主役は回ってこない。それが現実、見ての通りよ。数えきれないくらい苦い思いもしたわ。でも、十四歳のあの時の自分の決断を後悔したことは、一度もない」 
ヴィクトルは、ベッドで身体を重ね合うだけの女の素顔を、今初めて、見たような気がした。 
「子どもを生み捨てた自分が、いい母親だなんて少しも思ってない。最初から、母親を名乗る資格があるとも思ってない。だけど、私を利用した母よりは、数倍ましよ。私は、誰に憎まれても、恨まれても、受けて立つわ。私は、母のように卑怯じゃない。・・・まあ、恵まれた環境でお育ちの大尉さんに、理解してもらおうなんて思ってないけど」
見下すようにそう言って、アネットは、ヴィクトルに背を向けた。 

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