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5.虹の王都
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午後九時を過ぎて、ようやく太陽が沈む五月のこの時期、午後十時を迎えるアルカンスィエルの繁華街は、盛況だった。
大通りのあちらこちらに、ギター、オルガン、ヴァイオリン、タンバリンなど、思い思いの楽器を手にした演奏家たちが集い、形式に捕われない街の演奏家たちは、クラッシック、流行歌から、オリジナル曲と、多様なジャンルで、聴衆の拍手を引き出した。
ハープの演奏者として、音楽に造詣の深いニコルは、何の技法も理論もない、奔放とも思える自由な演奏の、たちまち虜になった。
普段耳にすることのない、タンバリンの軽快なリズムに引き込まれ、曲に合わせて手を打っていると、聴衆たちは、自然と手を取りあって踊り始め、ニコルも、見ず知らずの初老の紳士に手を取られて、即興のダンスを踊ることになった。
決まったステップはなく、手を取りあい、ただ、リズムに合わせて、一緒に飛び跳ねただけの事だったが、ニコルの心は沸き立ち、笑顔が弾けた。
ほろ酔い気味の、赤ら顔の初老の紳士は、帽子を取って、ありがとう、お嬢さんと、少々大袈裟に、ニコルにお辞儀をし、賑わう聴衆の中を立ち去って行った。
「素敵なダンスだったよ」
ニコルのダンスを見守っていたフィリップは、拍手を送った。
「フィリップ様、私・・・、こんなに胸が弾んで、どうしましょう」
ニコルの気分は昂り、息が弾んでいた。
「興奮してる?」
「ええ、何だか、とっても」
「正直言って、僕も興奮してる。いつもとは違う、君の、意外な一面が見えて」
そう言うと、フィリップは、そのままニコルの身体を抱きかかえて、くるくると回り始めた。
「まあ、フィリップ様!」
「だから、今度は、僕と踊ろう!」
フィリップは、ニコルを抱き上げたまま、始まったばかりの次の曲に合わせて、ステップを踏み始めた。
フィリップとニコルを真似て、周囲のカップルも、次々と男が女を抱き上げ始め、歓声が上がる。
フィリップは、この瞬間、国王ではなく、一人の若者として、ニコルという娘と過ごす時間を、心から楽しんでいた。
曲が、終わってからも、しばらく、フィリップは、ニコルを抱き上げたまま、離さなかった。
そして、じっと、その青い瞳でお互いに見つめあった。
「フィリップ様、どうぞ、もう・・・、」
重なり合う視線が気恥ずかしくなって、ニコルは、頬を染めて、俯いた。
フィリップは、ニコルの身体を下し、それから、ふたりは、音楽の響く街中を、手を取り合って、歩き始めた。
「フィリップ様・・・、今夜は、ご自分のことを、私、ではなく、僕、と仰いますのね」
歩き始めてすぐ、ニコルは、今夜ずっと気にかかっていたことを、尋ねた。
「ああ・・・、そうか、言われてみれば、そうだね」
ニコルにそう言われるまで、フィリップはそのことに気づいていなかった。
「多分、今は、本当に、打ち解けた人にしか、使わない。ヴィクトルと・・・、君かな」
そう言うと、フィリップは繋いだ手に力を込め、応えるように、ニコルもそっと寄り添った。
ふたりは、演奏に足を止めつつ、耳を傾け、演奏だけでなく、歌声が響いてくる時には、他の聴衆と声を揃えて、歌った。
そうして、フィリップとニコルが音楽に満ちた、夜の街歩きを楽しんでいると、
「おふたりさん」
と、道端から、年配の小太りの男の、声がかかった。
音楽祭には、その人出を見込んで、あちこちに露天商や大道芸人の姿もあったが、フィリップに声をかけたのも、その類いようで、男の脇にあるテーブルには、用途の不明な小道具が並んでいた。
「そこのおふたりさん、随分と、仲が良さそうだ」
「わかる?」
「わかるとも。それだけ、見せつけられちゃあね」
「あなたは、何の商売を?」
興味に駆られて、フィリップは尋ねた。
「私?私は、愛を売る商売をしている。おおっと、勘違いしないで、お嬢さん。いかがわしい商売じゃない。決して、不謹慎な商売じゃない。言うなら、おふたりのような初々しいカップルを、より一層仲良くさせるための商売だ。例えば・・・、最近、喧嘩をしたことは?」
「ついさっきまで、酷い喧嘩をしていた」
「やっぱり。恋人に喧嘩は、付き物だ。愛し合っていても、いや、愛し合っているからこそ、お互いを誤解する。そして、大抵の場合、男に原因がある」
「その通りだ。よくわかるね」
「経験済みだよ、青年。私ぐらいの歳になると、ひと通りは経験している。それであなたは、お嬢さんに謝った?」
「もちろん」
「心から、謝罪を?」
「心から」
「彼女は、許してくれた?」
「彼女は、寛大なんだ」
「本当に?」
「多分・・・」
そう問い詰められると、ニコルの心には、小さな棘が残ったままではないかと、フィリップとしては、不安が沸いた。
「青年、そこが、詰めの甘いところだ。彼女は、あなたを許すと言った。しかし、本心は・・・、どうかな?」
「フィリップ様、私、本当にもうすっかり、わだかまりはありませんわ」
慌てて、ニコルが口をはさんだ。
「おお、これは、本当に、優しいお嬢さんだ。あなたはお幸せ者ですな。しかし、女性と言うのは、往々にして、胸の内と言葉とが違うものだ。言葉では、許すと言っても、心の中では、まだ怒りの種がくすぶっている。そこで、私の出番だ」
と、すかさず、男は、フィリップの前に、帽子を差し出した。
「この帽子の中に、三枚の硬貨を入れるだけで、彼女の機嫌は元通り。ふたりはすっかり仲直り。仲直りどころか、以前よりもずっと、ふたりの距離が近くなること、間違いない」
さあ、入れて、とばかりに、男は、帽子を振って見せた。
「フィリップ様・・・」
ニコルの声には、フィリップを嗜める響きがあった。
フィリップは、しばし考えた。
男の作り笑顔を見つめ、そしてニコルの心配そうな顔を見つめた。
「本当に、親しくなれる?」
「間違いなく」
「以前よりも?」
「確実に」
「やろう」
フィリップは、硬貨を三枚取り出して、男の差し出す帽子の中へ入れた。
男は、礼を言うように、小銭の入った帽子を少々持ち上げた後、
「では、おふたりが、すっかり仲直りできるように、お手伝いしましょう。さあ、ふたりとも、片手は、そう繋いだまま、向かい合って、お嬢さんは、眼を閉じる。お嬢さん、もう片方の手を私の方へ出して、そうそう」
と、男は、眼を閉じたニコルの手に、何かを握らせた。
「これで、あなたは私に感謝する。だけど・・・、私は、お嬢さんに口をきいてもらえなくなる」
男は、少々残念そうに、そう言った。
フィリップが、それはどういう意味、と問う暇もなく、男は、ニコルに、
「さあ、お嬢さん、三、二、一で、眼を開けて、手を開く、いいね。三、二、一、そらっ」
と、男の掛け声に合わせて、ニコルが眼を開け、手を開いた瞬間、ニコルは叫び声を上げて、手を振り払い、目の前のフィリップの腕の中に飛び込み、縋り付いた。
「いやっ、いやっ、何をなさるの!」
男が、ニコルの手に握らせたのは、にょきにょきと何本も足の生えた、気味の悪い虫だった。
ニコルに振り払われた虫は、フィリップの足元に、ぽとりと落ちた。
ニコルは、フィリップの胸に頬を押し付けて、駄々をこねるように、首を振り続けた。
「ニコル、ニコル、大丈夫、今の虫は、玩具だよ。本物じゃない」
フィリップは、足元に落ちた、動かない虫に気が付いて、慰める様にそう声をかけた。
「玩具?」
「そう、玩具」
フィリップは自分の足元から、その気味の悪い玩具を取り上げ、手のひらに乗せて見せた。
ニコルは、フィリップの手のひらにある、小さな玩具を恐る恐る、見つめた。
小さな玩具に驚かされて、フィリップに縋り付き、瞳を赤く潤ませるニコルは、一際、愛らしかった。
「ね、私の言った通りでしょう、以前より、ふたりの距離はずっと近くなった」
男の言葉に、フィリップは、苦笑いするしかなかった。
「ところで、ふたりとも、喉が渇かない?まだ夜はこれからだからね、少し、何か飲んで、休憩した方がいい。その店は、なかなか上質なワインを扱っているから、お勧めするよ。いいオルガン奏者もいる。きっと、ふたりにぴったりの、ロマンティックな演奏をしてくれる」
と、男は、すぐ目の前にある店へと向かって、フィリップとニコルの背を、押し出した。
「これは、既定路線?」
「中々、察しがいい」
「商魂逞しいね」
そのフィリップの言葉に、男は、ウインクを返した。
男に勧められた店は、八割程の入りで、テーブルについた人々は、ワインを供に寛ぎ、ゆったりとしたオルガンの音色に合わせて、踊りを楽しむ人々もいた。
フィリップは空いた席にニコルを誘い、ワインを注文した。
「大丈夫?」
「ええ・・・、私、随分、取り乱してしまって、お恥ずかしいことですわ」
街の賑わいから離れ、落ち着いた雰囲気の店に入ると、先ほどまでの、高揚した自分が、嗜みを忘れたように思えて、ニコルは、顔を伏せた。
「君の意外な一面が見えて、楽しいよ。君は、温和で、利発で、隙のない女性だと思っていたけれど、本当は、ずっとチャーミングだ」
「私の方も・・・」
「何?」
「フィリップ様は、真面目で、賢明で、いつも落ち着いていらっしゃって、王宮では、遠い存在でございましたが、今夜の様に過ごしますと・・・、畏れ多いことですが、打ち解けられたように思えて・・・、幸せでございます」
そう言って、目の前で頬を染める美しい娘を見つめていると、フィリップは、溜まらない気持ちでいっぱいになった。
そして、自分は、ニコルに強く惹かれているのだと、思い知らされた。
遠い昔、自分を想い続けたまま亡くなった妹アンジェラを思う時、フィリップは、これまでどうしても恋愛に対して、前向きにはなれなかった。
何よりも、誰よりも大切にしていた義妹の想いに気づいてやれなかった後悔に、繰り返し自分を責めた。
自分は、その後悔を背負ったまま、生涯、女性を愛することなく生きるのかもしれないと、諦めつつ歳を重ねて来た。
そして、アンジェラのことを忘れられるような、心焦がれる女性に出会うことのない自分は、淡白な人間なのだろうと、フィリップは、割り切った。
そんなフィリップにとって、ニコルとの出会いは、奇跡だった。
自分に、女性を愛する感情があることを、今、フィリップは、初めて知った。
そして、生涯を共にする、たったひとりの女性に巡り合ったのだと、気づいた。
店に流れる優しいオルガンの音色に、踊ろうと、フィリップはニコルを誘い、ニコルは、フィリップの誘いに応じて、一緒に、ステップを踏み始めた。
けれども、踊り始めてすぐ、ふたりの脚は止まった。
フィリップは無言で、ニコルを抱き寄せ、その耳元で、好きだ、と囁いた。
その声は、擦れて、少し震えていた。
ニコルは、フィリップの腕の中で眼を閉じ、私も、と囁き返した。
ふたりの間の時が、止まった。
そのまま、オルガンの演奏が終わるまで、時間に浸った。
ちょうど、オルガンの演奏が終わる頃、店の外から、パン、パンと、何かが弾けるような大きな音が聞こえた。
何事かと、店の中にいた者たちが、表へと向かう。
フィリップとニコルも、表に出てみると、ちょうど、明るい光が、空で弾けたところだった。
「花火だ」
「花火・・・」
いつの間にか雲は消えゆき、星の輝く夜空に次々と上がる、鮮やかな光に、人々の間からは、歓声が上がった。
そして、そうだ、と、あることを思いついたフィリップは、ニコルの手を引いて、雑踏の中を歩き始めた。
「フィリップ様、どちらへ行かれるのですか?」
「いいから」
フィリップは笑顔でそう答えつつ、大通りを横切り、両側に商店の並ぶ少々急な坂道を上がる。
その間も、大きな音を響かせて、夜空高く、花火は上がった。
フィリップはニコルの手を引いて、坂道の先にある空き地に入ると、大木の前に立ち、
「さあ、上って」
と、ニコルを促した。
「フィリップ様、私、木登りなんて、とても無理ですわ」
「大丈夫、支えるから、一歩ずつ上がって、その座り心地の良さそうな太い枝があるだろう。そこに、座るといいよ」
フィリップがニコルに促した場所は、確かに、そう高い場所ではなく、フィリップの支えで、ニコルは、難なく枝に座ることが出来た。
その瞬間、一際、明るく大きな花火が上がり、ニコルの眼前に広がった。
「まあ・・・、何て素敵なんでしょう」
ニコルは、感嘆の声を漏らした。
「だろう?特等席なんだ」
フィリップはニコルの傍らに立ち、夜空に鮮やかな輝きを放つ光を、一緒に眺めた。
けれども、夜空に眩い光が弾け続ける中、フィリップが静かにニコルの手を取ると、ふたりの眼に、花火は映らなくなった。
お互い以外に、何も、映らなくなった。
星降る夜、夜空に弾ける眩い光の中、青い瞳の青年は、青い瞳の乙女に、そっと恋を囁き始める。
恋の調べは、柔らかな音色で、優しくふたりを包み、やがて、ふたりは口づけを交わし、互いの愛を、乞い始めた。
唇を重ねるほどに、愛はつのりゆき、溢れる想いに、ふたりで一緒に溺れた。
星降る夜、夜空に弾ける眩い光が消え失せても、青い瞳の青年は、青い瞳の乙女に、恋を囁き続ける・・・。
大通りのあちらこちらに、ギター、オルガン、ヴァイオリン、タンバリンなど、思い思いの楽器を手にした演奏家たちが集い、形式に捕われない街の演奏家たちは、クラッシック、流行歌から、オリジナル曲と、多様なジャンルで、聴衆の拍手を引き出した。
ハープの演奏者として、音楽に造詣の深いニコルは、何の技法も理論もない、奔放とも思える自由な演奏の、たちまち虜になった。
普段耳にすることのない、タンバリンの軽快なリズムに引き込まれ、曲に合わせて手を打っていると、聴衆たちは、自然と手を取りあって踊り始め、ニコルも、見ず知らずの初老の紳士に手を取られて、即興のダンスを踊ることになった。
決まったステップはなく、手を取りあい、ただ、リズムに合わせて、一緒に飛び跳ねただけの事だったが、ニコルの心は沸き立ち、笑顔が弾けた。
ほろ酔い気味の、赤ら顔の初老の紳士は、帽子を取って、ありがとう、お嬢さんと、少々大袈裟に、ニコルにお辞儀をし、賑わう聴衆の中を立ち去って行った。
「素敵なダンスだったよ」
ニコルのダンスを見守っていたフィリップは、拍手を送った。
「フィリップ様、私・・・、こんなに胸が弾んで、どうしましょう」
ニコルの気分は昂り、息が弾んでいた。
「興奮してる?」
「ええ、何だか、とっても」
「正直言って、僕も興奮してる。いつもとは違う、君の、意外な一面が見えて」
そう言うと、フィリップは、そのままニコルの身体を抱きかかえて、くるくると回り始めた。
「まあ、フィリップ様!」
「だから、今度は、僕と踊ろう!」
フィリップは、ニコルを抱き上げたまま、始まったばかりの次の曲に合わせて、ステップを踏み始めた。
フィリップとニコルを真似て、周囲のカップルも、次々と男が女を抱き上げ始め、歓声が上がる。
フィリップは、この瞬間、国王ではなく、一人の若者として、ニコルという娘と過ごす時間を、心から楽しんでいた。
曲が、終わってからも、しばらく、フィリップは、ニコルを抱き上げたまま、離さなかった。
そして、じっと、その青い瞳でお互いに見つめあった。
「フィリップ様、どうぞ、もう・・・、」
重なり合う視線が気恥ずかしくなって、ニコルは、頬を染めて、俯いた。
フィリップは、ニコルの身体を下し、それから、ふたりは、音楽の響く街中を、手を取り合って、歩き始めた。
「フィリップ様・・・、今夜は、ご自分のことを、私、ではなく、僕、と仰いますのね」
歩き始めてすぐ、ニコルは、今夜ずっと気にかかっていたことを、尋ねた。
「ああ・・・、そうか、言われてみれば、そうだね」
ニコルにそう言われるまで、フィリップはそのことに気づいていなかった。
「多分、今は、本当に、打ち解けた人にしか、使わない。ヴィクトルと・・・、君かな」
そう言うと、フィリップは繋いだ手に力を込め、応えるように、ニコルもそっと寄り添った。
ふたりは、演奏に足を止めつつ、耳を傾け、演奏だけでなく、歌声が響いてくる時には、他の聴衆と声を揃えて、歌った。
そうして、フィリップとニコルが音楽に満ちた、夜の街歩きを楽しんでいると、
「おふたりさん」
と、道端から、年配の小太りの男の、声がかかった。
音楽祭には、その人出を見込んで、あちこちに露天商や大道芸人の姿もあったが、フィリップに声をかけたのも、その類いようで、男の脇にあるテーブルには、用途の不明な小道具が並んでいた。
「そこのおふたりさん、随分と、仲が良さそうだ」
「わかる?」
「わかるとも。それだけ、見せつけられちゃあね」
「あなたは、何の商売を?」
興味に駆られて、フィリップは尋ねた。
「私?私は、愛を売る商売をしている。おおっと、勘違いしないで、お嬢さん。いかがわしい商売じゃない。決して、不謹慎な商売じゃない。言うなら、おふたりのような初々しいカップルを、より一層仲良くさせるための商売だ。例えば・・・、最近、喧嘩をしたことは?」
「ついさっきまで、酷い喧嘩をしていた」
「やっぱり。恋人に喧嘩は、付き物だ。愛し合っていても、いや、愛し合っているからこそ、お互いを誤解する。そして、大抵の場合、男に原因がある」
「その通りだ。よくわかるね」
「経験済みだよ、青年。私ぐらいの歳になると、ひと通りは経験している。それであなたは、お嬢さんに謝った?」
「もちろん」
「心から、謝罪を?」
「心から」
「彼女は、許してくれた?」
「彼女は、寛大なんだ」
「本当に?」
「多分・・・」
そう問い詰められると、ニコルの心には、小さな棘が残ったままではないかと、フィリップとしては、不安が沸いた。
「青年、そこが、詰めの甘いところだ。彼女は、あなたを許すと言った。しかし、本心は・・・、どうかな?」
「フィリップ様、私、本当にもうすっかり、わだかまりはありませんわ」
慌てて、ニコルが口をはさんだ。
「おお、これは、本当に、優しいお嬢さんだ。あなたはお幸せ者ですな。しかし、女性と言うのは、往々にして、胸の内と言葉とが違うものだ。言葉では、許すと言っても、心の中では、まだ怒りの種がくすぶっている。そこで、私の出番だ」
と、すかさず、男は、フィリップの前に、帽子を差し出した。
「この帽子の中に、三枚の硬貨を入れるだけで、彼女の機嫌は元通り。ふたりはすっかり仲直り。仲直りどころか、以前よりもずっと、ふたりの距離が近くなること、間違いない」
さあ、入れて、とばかりに、男は、帽子を振って見せた。
「フィリップ様・・・」
ニコルの声には、フィリップを嗜める響きがあった。
フィリップは、しばし考えた。
男の作り笑顔を見つめ、そしてニコルの心配そうな顔を見つめた。
「本当に、親しくなれる?」
「間違いなく」
「以前よりも?」
「確実に」
「やろう」
フィリップは、硬貨を三枚取り出して、男の差し出す帽子の中へ入れた。
男は、礼を言うように、小銭の入った帽子を少々持ち上げた後、
「では、おふたりが、すっかり仲直りできるように、お手伝いしましょう。さあ、ふたりとも、片手は、そう繋いだまま、向かい合って、お嬢さんは、眼を閉じる。お嬢さん、もう片方の手を私の方へ出して、そうそう」
と、男は、眼を閉じたニコルの手に、何かを握らせた。
「これで、あなたは私に感謝する。だけど・・・、私は、お嬢さんに口をきいてもらえなくなる」
男は、少々残念そうに、そう言った。
フィリップが、それはどういう意味、と問う暇もなく、男は、ニコルに、
「さあ、お嬢さん、三、二、一で、眼を開けて、手を開く、いいね。三、二、一、そらっ」
と、男の掛け声に合わせて、ニコルが眼を開け、手を開いた瞬間、ニコルは叫び声を上げて、手を振り払い、目の前のフィリップの腕の中に飛び込み、縋り付いた。
「いやっ、いやっ、何をなさるの!」
男が、ニコルの手に握らせたのは、にょきにょきと何本も足の生えた、気味の悪い虫だった。
ニコルに振り払われた虫は、フィリップの足元に、ぽとりと落ちた。
ニコルは、フィリップの胸に頬を押し付けて、駄々をこねるように、首を振り続けた。
「ニコル、ニコル、大丈夫、今の虫は、玩具だよ。本物じゃない」
フィリップは、足元に落ちた、動かない虫に気が付いて、慰める様にそう声をかけた。
「玩具?」
「そう、玩具」
フィリップは自分の足元から、その気味の悪い玩具を取り上げ、手のひらに乗せて見せた。
ニコルは、フィリップの手のひらにある、小さな玩具を恐る恐る、見つめた。
小さな玩具に驚かされて、フィリップに縋り付き、瞳を赤く潤ませるニコルは、一際、愛らしかった。
「ね、私の言った通りでしょう、以前より、ふたりの距離はずっと近くなった」
男の言葉に、フィリップは、苦笑いするしかなかった。
「ところで、ふたりとも、喉が渇かない?まだ夜はこれからだからね、少し、何か飲んで、休憩した方がいい。その店は、なかなか上質なワインを扱っているから、お勧めするよ。いいオルガン奏者もいる。きっと、ふたりにぴったりの、ロマンティックな演奏をしてくれる」
と、男は、すぐ目の前にある店へと向かって、フィリップとニコルの背を、押し出した。
「これは、既定路線?」
「中々、察しがいい」
「商魂逞しいね」
そのフィリップの言葉に、男は、ウインクを返した。
男に勧められた店は、八割程の入りで、テーブルについた人々は、ワインを供に寛ぎ、ゆったりとしたオルガンの音色に合わせて、踊りを楽しむ人々もいた。
フィリップは空いた席にニコルを誘い、ワインを注文した。
「大丈夫?」
「ええ・・・、私、随分、取り乱してしまって、お恥ずかしいことですわ」
街の賑わいから離れ、落ち着いた雰囲気の店に入ると、先ほどまでの、高揚した自分が、嗜みを忘れたように思えて、ニコルは、顔を伏せた。
「君の意外な一面が見えて、楽しいよ。君は、温和で、利発で、隙のない女性だと思っていたけれど、本当は、ずっとチャーミングだ」
「私の方も・・・」
「何?」
「フィリップ様は、真面目で、賢明で、いつも落ち着いていらっしゃって、王宮では、遠い存在でございましたが、今夜の様に過ごしますと・・・、畏れ多いことですが、打ち解けられたように思えて・・・、幸せでございます」
そう言って、目の前で頬を染める美しい娘を見つめていると、フィリップは、溜まらない気持ちでいっぱいになった。
そして、自分は、ニコルに強く惹かれているのだと、思い知らされた。
遠い昔、自分を想い続けたまま亡くなった妹アンジェラを思う時、フィリップは、これまでどうしても恋愛に対して、前向きにはなれなかった。
何よりも、誰よりも大切にしていた義妹の想いに気づいてやれなかった後悔に、繰り返し自分を責めた。
自分は、その後悔を背負ったまま、生涯、女性を愛することなく生きるのかもしれないと、諦めつつ歳を重ねて来た。
そして、アンジェラのことを忘れられるような、心焦がれる女性に出会うことのない自分は、淡白な人間なのだろうと、フィリップは、割り切った。
そんなフィリップにとって、ニコルとの出会いは、奇跡だった。
自分に、女性を愛する感情があることを、今、フィリップは、初めて知った。
そして、生涯を共にする、たったひとりの女性に巡り合ったのだと、気づいた。
店に流れる優しいオルガンの音色に、踊ろうと、フィリップはニコルを誘い、ニコルは、フィリップの誘いに応じて、一緒に、ステップを踏み始めた。
けれども、踊り始めてすぐ、ふたりの脚は止まった。
フィリップは無言で、ニコルを抱き寄せ、その耳元で、好きだ、と囁いた。
その声は、擦れて、少し震えていた。
ニコルは、フィリップの腕の中で眼を閉じ、私も、と囁き返した。
ふたりの間の時が、止まった。
そのまま、オルガンの演奏が終わるまで、時間に浸った。
ちょうど、オルガンの演奏が終わる頃、店の外から、パン、パンと、何かが弾けるような大きな音が聞こえた。
何事かと、店の中にいた者たちが、表へと向かう。
フィリップとニコルも、表に出てみると、ちょうど、明るい光が、空で弾けたところだった。
「花火だ」
「花火・・・」
いつの間にか雲は消えゆき、星の輝く夜空に次々と上がる、鮮やかな光に、人々の間からは、歓声が上がった。
そして、そうだ、と、あることを思いついたフィリップは、ニコルの手を引いて、雑踏の中を歩き始めた。
「フィリップ様、どちらへ行かれるのですか?」
「いいから」
フィリップは笑顔でそう答えつつ、大通りを横切り、両側に商店の並ぶ少々急な坂道を上がる。
その間も、大きな音を響かせて、夜空高く、花火は上がった。
フィリップはニコルの手を引いて、坂道の先にある空き地に入ると、大木の前に立ち、
「さあ、上って」
と、ニコルを促した。
「フィリップ様、私、木登りなんて、とても無理ですわ」
「大丈夫、支えるから、一歩ずつ上がって、その座り心地の良さそうな太い枝があるだろう。そこに、座るといいよ」
フィリップがニコルに促した場所は、確かに、そう高い場所ではなく、フィリップの支えで、ニコルは、難なく枝に座ることが出来た。
その瞬間、一際、明るく大きな花火が上がり、ニコルの眼前に広がった。
「まあ・・・、何て素敵なんでしょう」
ニコルは、感嘆の声を漏らした。
「だろう?特等席なんだ」
フィリップはニコルの傍らに立ち、夜空に鮮やかな輝きを放つ光を、一緒に眺めた。
けれども、夜空に眩い光が弾け続ける中、フィリップが静かにニコルの手を取ると、ふたりの眼に、花火は映らなくなった。
お互い以外に、何も、映らなくなった。
星降る夜、夜空に弾ける眩い光の中、青い瞳の青年は、青い瞳の乙女に、そっと恋を囁き始める。
恋の調べは、柔らかな音色で、優しくふたりを包み、やがて、ふたりは口づけを交わし、互いの愛を、乞い始めた。
唇を重ねるほどに、愛はつのりゆき、溢れる想いに、ふたりで一緒に溺れた。
星降る夜、夜空に弾ける眩い光が消え失せても、青い瞳の青年は、青い瞳の乙女に、恋を囁き続ける・・・。
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