ホワイトノクターン

海子

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2.ミモザ

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 この冬は、例年になく、寒さの厳しい冬だったが、二月も下旬になれば、寒さの緩む日もあり、アルカンスィエルの花屋の店頭には、春の訪れを告げる、鮮やかな黄色い小花の溢れ落ちそうなミモザが、並び始めていた。


 二月下旬、勤務を終えた水曜日の午後六時前、ヴィクトルは、ユースティティア陸軍アルカンスィエル練兵場の将校クラブにいた。 
待ち合わせは、五時半の予定だったが、急用が入って、三十分ほど遅れると、相手方の使いの者から連絡があり、相手を待つ間、ヴィクトルは、ホールのテーブルについて、カフェオレを手にし、新聞に眼を通していた。 
ホールでは、軽食や酒の提供もあったが、これから相手方と話す内容を考えると、酒が入るのは、難があった。
これから、ヴィクトルが会う約束をしている相手というのは、兵站(へいたん)と呼ばれる、戦地への物資の供給や手配、部隊の配備や衛生といった、後方活動を研究、分析している将校で、長く前線にいるヴィクトルの意見を一度聞いてみたいと、以前から頼まれていたのだったが、中々、時間の折り合いがつかず、先延ばしになっていたのが、ようやく機会を得ることが出来たのだった。 
新聞に眼を走らせていたヴィクトルに、シャリエ大尉、と声がかかって、振り返ると、マクシム・フランソワ・ド・ラ・ギーユが立っていた。
ブロンドと碧眼の若く凛々しい将校は、上流階級出身を伺わせる、品の良い微笑みを浮かべていた。
「今、少しいいですか?」 
「人と待ち合わせをしているのだが、少々遅れるそうだ。相手が来るまでなら、問題ない」
ヴィクトルの返事を聞いて、マクシムは、失礼しますと、ヴィクトルの向かいに座った。
「何か、用件が?」 
「あ、いえ、戦勝記念パーティーで、シャリエ大尉が僕に、一緒に踊るよう勧めた令嬢のことで・・・、ミレーヌはブルダン中尉の妹だそうですね」 
「そうだ」
「池に落ちたミレーヌを助けたのもシャリエ大尉でしたが、大尉とミレーヌは、古くからの知り合いなのですか?」
「私の家に長く務める使用人と、彼女の家の使用人が、姉妹だ」 
「なるほど、それでおふたりは知り合いなのですね」 
根掘り葉掘り尋ねられれば、つじつまの合わないことが出てくるはずだったが、マクシムは、ヴィクトルとミレーヌの関係について納得したらしく、ふたりの関係について、それ以上は尋ねて来なかった。
少し躊躇いを見せた後、
「彼女には・・・、特別な男性が?」
思い切ったように、マクシムは、ヴィクトルにそう尋ねた。 
「さあ、私は知らない。だが、おそらくいないだろう」 
「彼女とワルツを踊った後、少し話をしたんです。別段、差しさわりのない、とりとめのない話ですが。その後、別れ際に、彼女が見せた、はにかんだような笑顔が、あれからずっと頭を離れなくて・・・」 
「ラ・ギーユ中尉、彼女のことが気にかかっているのなら、私にではなく、彼女に直接話をすることだ」
「無論です。それは、よく承知しています。ですが、彼女を僕に紹介してくれたのは、シャリエ大尉だったので、シャリエ大尉は、彼女にとって兄上のような存在なのだろうと思いました。だから、大尉には、話を通しておいた方がいいのだろうと思ったのです。それに、実のところ・・・、僕の気持ちには、迷いがあるのです」 
「迷い?」 
「彼女は、魅力的な女性だと思います。初めて顔を合わせた時、左右で激しく色の違う瞳に、一瞬、引き込まれそうになりました。話してみれば、控えめで、はにかみ屋で・・・、もっと話してみたいと言う気持ちになった。真剣に交際したいと思いました。けれど、僕と彼女が交際するには、大きな困難が存在します」
「家柄か」 
「そうです。僕と、彼女とでは・・・、違いすぎる。釣り合っていないと、囁かれ、噂されるでしょう。大尉も、ご存知の通り、僕の父は、ユースティティア陸軍の中将ですが、父には姉がいます。僕にとっては、伯母にあたるわけですが、その伯母というのが、とりわけラ・ギーユ家の格式を誇ります。僕には、ようやく十歳になる年の離れた弟がいますが、弟を生んだ後、母はすぐ亡くなり、以降、ラ・ギーユ家の家政を伯母が取り仕切っています。ですから、伯母の意向は、絶対で、父ですら、伯母に対して遠慮があります。その伯母の一大関心事が、僕の結婚です。士官学校を卒業して以来、前線で勤め、もう十分な役目は果たしたのだから、そろそろ命の危険にさらされる場所を退き、王都で任務に就き、父の後を継ぐ準備を、と。そして、相応しい家柄の娘と結婚し、早く跡継ぎをというのが、伯母の意向です」
「何処も彼処も、跡継ぎ、跡継ぎか」 
ヴィクトルの脳裏に、フィリップの顔が思い浮かんだ。
「え?」 
「いや、何でもない、こっちの話だ。それで、彼女では、君の伯母の眼鏡に適わないと」 
「そうです。家柄はもちろんなのですが、相手が軍人家系となると、伯母は階級を強く意識します。ミレーヌの父上は、中佐です。貴族ではあるけれど、何人も使用人を抱える暮らし向きではないと聞きます。そして、ミレーヌは・・・、庶子です。プライドの高い伯母が、とても納得するとは思えません。実を言えば、これまでにも、心惹かれる女性はいたのですが、ラ・ギーユ家には相応しくないと、伯母が認めなかったり、家柄が釣り合っても、気の強い伯母と相性が悪くて、破談になったり・・・。誤解しないでほしいのですが、僕は、覚悟しています。どんな困難があっても、自分が選んだ女性を、生涯かけて愛し抜くという覚悟があります。でも、優しい彼女に、その負担を背負わせることが、本当に正しいことなのかどうなのか・・・、迷います」 
「では、諦めることだ」
ヴィクトルの答えは、あっさりしていた。 
「大尉・・・」 
「止めておこうと思って止められるくらいなら、止めておく方がいい。中途半端な気持ちで、君に交際を申し込まれて、振り回される彼女が気の毒だ」
「僕は、そんなつもりはありません。彼女への想いが真剣だからこそ、悩んでいるんです」 
「そんなつもりはない?私が君だったら、ここでくだらない話に時間を費やすより、彼女の心を得るために時間を費やす」 
「大尉は・・・」 
と、話しかけたマクシムだったが、マクシムの後方に視線を走らせたヴィクトルは、 
「待ち合わせの相手が来た。君との話は、これで終わりだ」 
そう告げた。 
マクシムが振り返ると、分厚い帳面とペンを手にした、小太りの中年の将校が立っていた。
「シャリエ大尉、お待たせして、本当に、申し訳ない」 
よほどの速足で来たのか、小太りの将校は、ゼイゼイ息を切らせ、咳込んだ。 
マクシムは、やって来た将校に、どうぞ、と席を譲った。 
いやいや、これはどうも、とマクシムの代わりに座る年上の将校とヴィクトルに、一礼をして、マクシムはその場を離れた。 
マクシムが離れてすぐ、小太りの将校は、持参した帳面を開き、騎兵の兵站についての具体的な事例を上げて話し始め、ヴィクトルは耳を傾けた。
けれども、一瞬、ヴィクトルの視線が、去り行くマクシムの背中に走った。
ブリュネットの瞳は、変わらず、冷静だった。 
その本心を知る者は、ヴィクトル自身以外に、なかった。 
一瞬の後、視線を戻したヴィクトルは、何事もなかったかのように、意見を求める将校に、応じた。 

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