ホワイトノクターン

海子

文字の大きさ
上 下
12 / 67
2.ミモザ

しおりを挟む
 ヴィクトルの自宅は、アルカンスィエルの郊外にあり、街中のアネットのアパートからは、馬車で一時間はかかった。 
そこは、庭の付いた一軒家が立ち並び、富裕層ではないが、法律家や医師といった、ある一定の社会的地位に収まる者たちが数多く住んだ。
ヴィクトルの自宅は、石造りに赤茶色の屋根、そして小さな裏庭があった。 
ヴィクトルの長い留守は、ヴィクトルの家に勤めて、三十年近くになる、六十歳が近い使用人のセドリックとサビーヌが、預かっていたが、近頃、ヴィクトルの帰郷に合わせて、セドリックが採卵用の鶏を二羽飼い、裏庭に鶏小屋を作っていた。
家の中は、キッチン、ダイニング、リビング、書斎、寝室がふたつ、応接間と使用人部屋を備えていて、留守を預かるセドリックとサビーヌが、家の修繕も掃除もしていてくれたので、今回の様に、急にヴィクトルの帰郷が決まっても、不都合なことは何一つなかった。 
ただ、いくらセドリックが隅々までこまめに手を入れていたとはいえ、家自体は、祖父の代からの建物であったため、老朽化は否めず、そろそろ大掛かりな改修工事が必要なのではないかと言うのが、セドリックの意見だった。 



 練兵場のジュネ少佐の部屋で、ミレーヌと話をした週の週末、ヴィクトルはアネットを訪れ、激しく交じり合って、互いの欲情を満たした。 
娼婦を相手にしないヴィクトルが、これまでに抱いた女はそう多くなかったが、アネットは、その中でも、男の身体を求める欲望が強かった。 
一度の絶頂で満足することは、まずなかった。 
どれほど女の欲望が激しかろうが、応じきれない肉体ではなかったが、それでも、飢えに似たその欲求に、時折、ヴィクトルは、違和感を覚えることがあった。
昨夜、アネットに突き上げ、その嬌声を聞きながら、この女が、求めるものは、俺の身体ではないと、けれども、この女が本当に求めるものは、永久に手に入ることはないだろうと、ヴィクトルの脳裏をよぎった。 
この女は渇いたまま生き、渇いたまま死ぬのだろう、自分の渇きに気づくこともなく。 
そう思えば、今、自分の身体の下で、髪を振り乱し、乳房を揺らし、自ら脚を開き、肉欲に身を委ねるアネットが、どうしようもなく愚かに思えた。 
けれども、そのアネットの姿は、ヴィクトル自身の姿でもあった。
アネットとヴィクトルの違いは、その渇きに気づいているか、否か、それだけに過ぎなかった。
ヴィクトルは、空虚な自分を振り払うかのように、一層激しく、アネットに突き上げた。
三度目の絶頂を迎え、憚ることなく、アネットは叫んだ。 
そうして、いつものように、ヴィクトルはアネットから抜き、その腹の上に、己の白い欲望を、吐き出した。



 どれほど夜が遅くなっても、何度アネットが勧めても、ヴィクトルが、アネットの家で夜明けを迎えることはなかった。 
戦勝記念パーティーや、軍の特別な集いがない限り、王都にいる際の、ヴィクトルの休日の過ごし方は、変わることがなく、休日前夜はアネットを訪れ、帰宅は深夜であるため、大抵、休日は十時を過ぎて目覚め、着替えて下へ降り、サビーヌの作ったガレットとカフェオレで、昼食を兼ねた朝食を済ませた。
その後は、書斎で仕事関係の書類に眼を通し、あとは夕刻まで、読書に時間を費やした。 
そして、六時には、ワインの栓を抜き、サビーヌの作る夕食を口にし、翌日は勤務のため、酒は早めに切り上げて、十時には、ベッドに入った。 
それが、アルカンスィエルに帰郷した際の、ヴィクトルの休日の過ごし方だった。 
ヴィクトルの休日は、週末と決まっているわけではなかったが、休日の過ごし方が、そのように定まっていることは、つまり、特別な用事を言いつけられることがないということで、サビーヌとセドリックにとっては、やりやすいことには違いなかった。 
けれども、幼かったヴィクトルと、乳飲み子のヴィクトルの弟を、親代わりになって育てた、サビーヌとセドリックにしてみれば、ヴィクトルは、ただの雇い主という存在ではなかった。 
ヴィクトルと、セドリックとサビーヌには、これまでの経緯から、使用人と主人の関係を超えた、絆と信頼があった。 
子どものないセドリックとサビーヌが、親代わりとなって大切に育てたヴィクトルが、軍で頭角を現し、無事、王都へと帰郷することは、夫婦にとって何物にも代えがたい喜びには違いなかったが、誰の眼にも雄々しく、立派な働きをする盛年男子が、友人たちと若さを謳歌するでもなく、色恋の華やぎがあるわけでもなく、何年かぶりの王都勤務であるのに、休みと言えば、昼前まで寝て、書斎に引きこもり、夕方からは酒をたしなむのみ、という味気ない暮らしぶりに、何とかならぬものかと、夫婦で顔を見合わせては、ため息をもらした。



 練兵場のジュネ少佐の部屋で、ミレーヌと話をした週の週末、アネットを訪れたヴィクトルは、アネットの望み通り、三度の頂を与え、自分自身の欲情も満たした後、いつものように自宅に戻った。 
午前二時前に、自宅に戻り、ベッドに入ったのは、三時だった。 
翌日、いつもの休日と同じく、ヴィクトルが着替えを済ませ、寝室から、ダイニングへ降りて来たのは、十時を過ぎてからだった。
家の中で過ごす休日は、さすがに軍服ではなかったが、適当な格好ではいられない性分のせいで、外出予定がなくとも、ヴィクトルは、スーツにネクタイだった。 
階下へ降りて来る足音を聞きつけたサビーヌが、おはようございますと、姿を見せ、しばらくして、いつものように、カフェオレと、ジャガイモを入れ、卵を落とした、ボリュームたっぷりのガレットを、ヴィクトルの前に運んできた。 
いつもと違ったのは、皿の上のガレットを平らげ、フォークとナイフを置いたところで、透かさず、サビーヌがそれらを下げ、代わりに、しっかりとした焼き色のついたクグロフの乗った皿と、白い封筒を差し出したことだった。
「これは、何だ?」 
そういいつつ、ヴィクトルは、ナプキンで口元を拭った。 
「お手紙です」
「手紙?誰から?」 
「お嬢様です」 
サビーヌの返事は素っ気なく、いつになく、気分を損ねているようだった。 
「お嬢様?」
「ブルダン家のミレーヌ様です。ヴィクトル様が、意地悪をなさったとか」 
「意地悪?あの娘が、何か言って来たのか?」 
「お嬢様は、何も仰いませんよ。先日、ヴィクトル様は、練兵場で、お嬢様にお会いになって、しばらくお話をされたそうじゃないですか」 
「なるほど、デジレか」 
今の話の出所が、ミレーヌに付き添って、ジュネ少佐の部屋までリネンを届けに来た、サビーヌの姉、デジレだと言うことは、すぐに察しがついた。
デジレと顔を合わせたのは、ほんのわずかな時間だったが、ややふくよかな体型といい、愛嬌のある丸っこい鼻といい、姉妹だけあって、体型や顔立ちがよく似ていた。
「練兵場からの帰り道、お嬢様は、随分しょんぼりしてらしたそうですよ。シャリエ大尉に、失礼なことを申し上げてしまった、って。何があったか知りませんけど、あんな素直で優しいお嬢様を悲しませるなんて、ちょっと酷すぎるんじゃありませんか」 
「誤解をしているようだが、私は、あの娘を傷つけるようなことは、何も言っていない。あの娘が、ある話を一方的に持ち出して、これ以上口出しをするなと言ってきた。だから私は、承諾をした、それだけのことだ」
「ヴィクトル様は、仰りように問題があるんですよ。そんな鋭い目つきで睨まれて、きつい言い方をされたら、若いお嬢さんは、それだけで怯えてしまいます」 
「何故、私が、愛嬌を振りまく必要がある?気に入らないなら、話しかけて来なければいい」 
「また、そんなことを仰って・・・」 
その言いように、呆れるしかないサビーヌだった。 
「今度は、手紙で苦情か」 
ヴィクトルは、苦々し気に、テーブルの上に置かれた白い封筒を見つめた。
サビーヌは、ため息をついた。
「事情は知りませんけど、姉のデジレに託して、こうしてお手紙と、お菓子まで贈ってくださっているんですよ。お菓子は、お嬢様がわざわざご自分で作られたそうです。お手紙が、苦情な訳ないじゃないですか」 
「苦情だろうか、謝罪だろうか、請求書だろうが、何だっていい。私には、一切関係がない」 
「お返事を差し上げてくださいなんてことは、もう申しません。でも、せっかくこうして贈ってくださっているんです。せめて、お手紙には眼を通して、お菓子は頂くのが、礼儀だと思いますけれどもね」 
サビーヌは、ヴィクトルの了承を得ずに、クグロフを一切れカットし、皿にのせ、デザート用のフォークとナイフと共に、ヴィクトルの前に差し出すと、もうこれ以上は何を言っても無駄だと思ったのか、そのまま無言で立ち去った。
サビーヌが立ち去ってから、しばらく、右手を口元に手を当てて、何か考えるような仕草をしていたヴィクトルだったが、二、三度、トントンと、テーブルを指で叩いた後、ミレーヌからの手紙を開いた。


ヴィクトル・クロード・シャリエ大尉 

先日は、お忙しいところ、申し訳ありませんでした。 
大尉が、私を気にかけてくださって、ラ・ギーユ中尉との時間を作ってくださったことには、心から感謝しています。
私の言葉足らずで、シャリエ大尉に不愉快な思いをさせてしまったのなら、本当にごめんなさい。 
戦勝記念パーティーで、ラ・ギーユ中尉と一緒に踊ったことは、素敵な想い出です。
とても・・・、とても、嬉しい、心弾む時間でした。
本当に、ありがとうございました。
  
                   ミレーヌ・フェリシテ・ド・ブルダン


 ミレーヌからの手紙に眼を通した後、ヴィクトルは、フォークを取り、クグロフを一口、口に運んだ。
ヴィクトルは、こういった菓子類を、ほとんど口にしなかった。
甘ったるい菓子類は、ヴィクトルの好みではなかった。 
だからきっとこのクグロフも、一口で十分だと思っていた。
けれども、このミレーヌの手作りだというクグロフを口にした時、ヴィクトルは、ミレーヌという娘を、知ったような気がした。
甘さを抑えたクグロフには、たっぷり贅沢にナッツが入ってあって香ばしく、ブランデーが強く香り、しっとりとした食感の、大人向けの味だった。
ミレーヌが、何も考えずに、この味を届けたとは思えなかった。 
ヴィクトルの好みを、探ったのだと、わかった。 
皿の上のクグロフを平らげ、もう一度、ヴィクトルはミレーヌからの手紙を手に取った。 

戦勝記念パーティーで、ラ・ギーユ中尉と一緒に踊ったことは、素敵な想い出です。 
とても・・・、とても、嬉しい、心弾む時間でした。 

手紙に記されたその文に、ミレーヌのはにかんだような笑顔が甦った。 

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

[R18] 激しめエロつめあわせ♡

ねねこ
恋愛
短編のエロを色々と。 激しくて濃厚なの多め♡ 苦手な人はお気をつけくださいませ♡

完結【R―18】様々な情事 短編集

秋刀魚妹子
恋愛
 本作品は、過度な性的描写が有ります。 というか、性的描写しか有りません。  タイトルのお品書きにて、シチュエーションとジャンルが分かります。  好みで無いシチュエーションやジャンルを踏まないようご注意下さい。  基本的に、短編集なので登場人物やストーリーは繋がっておりません。  同じ名前、同じ容姿でも関係無い場合があります。  ※ このキャラの情事が読みたいと要望の感想を頂いた場合は、同じキャラが登場する可能性があります。  ※ 更新は不定期です。  それでは、楽しんで頂けたら幸いです。

孕ませねばならん ~イケメン執事の監禁セックス~

あさとよる
恋愛
傷モノになれば、この婚約は無くなるはずだ。 最愛のお嬢様が嫁ぐのを阻止? 過保護イケメン執事の執着H♡

【R18】散らされて

月島れいわ
恋愛
風邪を引いて寝ていた夜。 いきなり黒い袋を頭に被せられ四肢を拘束された。 抵抗する間もなく躰を開かされた鞠花。 絶望の果てに待っていたのは更なる絶望だった……

【R18】もう一度セックスに溺れて

ちゅー
恋愛
-------------------------------------- 「んっ…くっ…♡前よりずっと…ふか、い…」 過分な潤滑液にヌラヌラと光る間口に亀頭が抵抗なく吸い込まれていく。久しぶりに男を受け入れる肉道は最初こそ僅かな狭さを示したものの、愛液にコーティングされ膨張した陰茎を容易く受け入れ、すぐに柔らかな圧力で応えた。 -------------------------------------- 結婚して五年目。互いにまだ若い夫婦は、愛情も、情熱も、熱欲も多分に持ち合わせているはずだった。仕事と家事に忙殺され、いつの間にかお互いが生活要員に成り果ててしまった二人の元へ”夫婦性活を豹変させる”と銘打たれた宝石が届く。

悪役令嬢は王太子の妻~毎日溺愛と狂愛の狭間で~

一ノ瀬 彩音
恋愛
悪役令嬢は王太子の妻になると毎日溺愛と狂愛を捧げられ、 快楽漬けの日々を過ごすことになる! そしてその快感が忘れられなくなった彼女は自ら夫を求めるようになり……!? ※この物語はフィクションです。 R18作品ですので性描写など苦手なお方や未成年のお方はご遠慮下さい。

【R18】今夜、私は義父に抱かれる

umi
恋愛
封じられた初恋が、時を経て三人の男女の運命を狂わせる。メリバ好きさんにおくる、禁断のエロスファンタジー。 一章 初夜:幸せな若妻に迫る義父の魔手。夫が留守のある夜、とうとう義父が牙を剥き──。悲劇の始まりの、ある夜のお話。 二章 接吻:悪夢の一夜が明け、義父は嫁を手元に囲った。が、事の最中に戻ったかに思われた娘の幼少時代の記憶は、夜が明けるとまた元通りに封じられていた。若妻の心が夫に戻ってしまったことを知って絶望した義父は、再び力づくで娘を手に入れようと──。 【共通】 *中世欧州風ファンタジー。 *立派なお屋敷に使用人が何人もいるようなおうちです。旦那様、奥様、若旦那様、若奥様、みたいな。国、服装、髪や目の色などは、お好きな設定で読んでください。 *女性向け。女の子至上主義の切ないエロスを目指してます。 *一章、二章とも、途中で無理矢理→溺愛→に豹変します。二章はその後闇落ち展開。思ってたのとちがう(スン)…な場合はそっ閉じでスルーいただけると幸いです。 *ムーンライトノベルズ様にも旧バージョンで投稿しています。 ※同タイトルの過去作『今夜、私は義父に抱かれる』を改編しました。2021/12/25

処理中です...