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2.ミモザ
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ヴィクトルの自宅は、アルカンスィエルの郊外にあり、街中のアネットのアパートからは、馬車で一時間はかかった。
そこは、庭の付いた一軒家が立ち並び、富裕層ではないが、法律家や医師といった、ある一定の社会的地位に収まる者たちが数多く住んだ。
ヴィクトルの自宅は、石造りに赤茶色の屋根、そして小さな裏庭があった。
ヴィクトルの長い留守は、ヴィクトルの家に勤めて、三十年近くになる、六十歳が近い使用人のセドリックとサビーヌが、預かっていたが、近頃、ヴィクトルの帰郷に合わせて、セドリックが採卵用の鶏を二羽飼い、裏庭に鶏小屋を作っていた。
家の中は、キッチン、ダイニング、リビング、書斎、寝室がふたつ、応接間と使用人部屋を備えていて、留守を預かるセドリックとサビーヌが、家の修繕も掃除もしていてくれたので、今回の様に、急にヴィクトルの帰郷が決まっても、不都合なことは何一つなかった。
ただ、いくらセドリックが隅々までこまめに手を入れていたとはいえ、家自体は、祖父の代からの建物であったため、老朽化は否めず、そろそろ大掛かりな改修工事が必要なのではないかと言うのが、セドリックの意見だった。
練兵場のジュネ少佐の部屋で、ミレーヌと話をした週の週末、ヴィクトルはアネットを訪れ、激しく交じり合って、互いの欲情を満たした。
娼婦を相手にしないヴィクトルが、これまでに抱いた女はそう多くなかったが、アネットは、その中でも、男の身体を求める欲望が強かった。
一度の絶頂で満足することは、まずなかった。
どれほど女の欲望が激しかろうが、応じきれない肉体ではなかったが、それでも、飢えに似たその欲求に、時折、ヴィクトルは、違和感を覚えることがあった。
昨夜、アネットに突き上げ、その嬌声を聞きながら、この女が、求めるものは、俺の身体ではないと、けれども、この女が本当に求めるものは、永久に手に入ることはないだろうと、ヴィクトルの脳裏をよぎった。
この女は渇いたまま生き、渇いたまま死ぬのだろう、自分の渇きに気づくこともなく。
そう思えば、今、自分の身体の下で、髪を振り乱し、乳房を揺らし、自ら脚を開き、肉欲に身を委ねるアネットが、どうしようもなく愚かに思えた。
けれども、そのアネットの姿は、ヴィクトル自身の姿でもあった。
アネットとヴィクトルの違いは、その渇きに気づいているか、否か、それだけに過ぎなかった。
ヴィクトルは、空虚な自分を振り払うかのように、一層激しく、アネットに突き上げた。
三度目の絶頂を迎え、憚ることなく、アネットは叫んだ。
そうして、いつものように、ヴィクトルはアネットから抜き、その腹の上に、己の白い欲望を、吐き出した。
どれほど夜が遅くなっても、何度アネットが勧めても、ヴィクトルが、アネットの家で夜明けを迎えることはなかった。
戦勝記念パーティーや、軍の特別な集いがない限り、王都にいる際の、ヴィクトルの休日の過ごし方は、変わることがなく、休日前夜はアネットを訪れ、帰宅は深夜であるため、大抵、休日は十時を過ぎて目覚め、着替えて下へ降り、サビーヌの作ったガレットとカフェオレで、昼食を兼ねた朝食を済ませた。
その後は、書斎で仕事関係の書類に眼を通し、あとは夕刻まで、読書に時間を費やした。
そして、六時には、ワインの栓を抜き、サビーヌの作る夕食を口にし、翌日は勤務のため、酒は早めに切り上げて、十時には、ベッドに入った。
それが、アルカンスィエルに帰郷した際の、ヴィクトルの休日の過ごし方だった。
ヴィクトルの休日は、週末と決まっているわけではなかったが、休日の過ごし方が、そのように定まっていることは、つまり、特別な用事を言いつけられることがないということで、サビーヌとセドリックにとっては、やりやすいことには違いなかった。
けれども、幼かったヴィクトルと、乳飲み子のヴィクトルの弟を、親代わりになって育てた、サビーヌとセドリックにしてみれば、ヴィクトルは、ただの雇い主という存在ではなかった。
ヴィクトルと、セドリックとサビーヌには、これまでの経緯から、使用人と主人の関係を超えた、絆と信頼があった。
子どものないセドリックとサビーヌが、親代わりとなって大切に育てたヴィクトルが、軍で頭角を現し、無事、王都へと帰郷することは、夫婦にとって何物にも代えがたい喜びには違いなかったが、誰の眼にも雄々しく、立派な働きをする盛年男子が、友人たちと若さを謳歌するでもなく、色恋の華やぎがあるわけでもなく、何年かぶりの王都勤務であるのに、休みと言えば、昼前まで寝て、書斎に引きこもり、夕方からは酒をたしなむのみ、という味気ない暮らしぶりに、何とかならぬものかと、夫婦で顔を見合わせては、ため息をもらした。
練兵場のジュネ少佐の部屋で、ミレーヌと話をした週の週末、アネットを訪れたヴィクトルは、アネットの望み通り、三度の頂を与え、自分自身の欲情も満たした後、いつものように自宅に戻った。
午前二時前に、自宅に戻り、ベッドに入ったのは、三時だった。
翌日、いつもの休日と同じく、ヴィクトルが着替えを済ませ、寝室から、ダイニングへ降りて来たのは、十時を過ぎてからだった。
家の中で過ごす休日は、さすがに軍服ではなかったが、適当な格好ではいられない性分のせいで、外出予定がなくとも、ヴィクトルは、スーツにネクタイだった。
階下へ降りて来る足音を聞きつけたサビーヌが、おはようございますと、姿を見せ、しばらくして、いつものように、カフェオレと、ジャガイモを入れ、卵を落とした、ボリュームたっぷりのガレットを、ヴィクトルの前に運んできた。
いつもと違ったのは、皿の上のガレットを平らげ、フォークとナイフを置いたところで、透かさず、サビーヌがそれらを下げ、代わりに、しっかりとした焼き色のついたクグロフの乗った皿と、白い封筒を差し出したことだった。
「これは、何だ?」
そういいつつ、ヴィクトルは、ナプキンで口元を拭った。
「お手紙です」
「手紙?誰から?」
「お嬢様です」
サビーヌの返事は素っ気なく、いつになく、気分を損ねているようだった。
「お嬢様?」
「ブルダン家のミレーヌ様です。ヴィクトル様が、意地悪をなさったとか」
「意地悪?あの娘が、何か言って来たのか?」
「お嬢様は、何も仰いませんよ。先日、ヴィクトル様は、練兵場で、お嬢様にお会いになって、しばらくお話をされたそうじゃないですか」
「なるほど、デジレか」
今の話の出所が、ミレーヌに付き添って、ジュネ少佐の部屋までリネンを届けに来た、サビーヌの姉、デジレだと言うことは、すぐに察しがついた。
デジレと顔を合わせたのは、ほんのわずかな時間だったが、ややふくよかな体型といい、愛嬌のある丸っこい鼻といい、姉妹だけあって、体型や顔立ちがよく似ていた。
「練兵場からの帰り道、お嬢様は、随分しょんぼりしてらしたそうですよ。シャリエ大尉に、失礼なことを申し上げてしまった、って。何があったか知りませんけど、あんな素直で優しいお嬢様を悲しませるなんて、ちょっと酷すぎるんじゃありませんか」
「誤解をしているようだが、私は、あの娘を傷つけるようなことは、何も言っていない。あの娘が、ある話を一方的に持ち出して、これ以上口出しをするなと言ってきた。だから私は、承諾をした、それだけのことだ」
「ヴィクトル様は、仰りように問題があるんですよ。そんな鋭い目つきで睨まれて、きつい言い方をされたら、若いお嬢さんは、それだけで怯えてしまいます」
「何故、私が、愛嬌を振りまく必要がある?気に入らないなら、話しかけて来なければいい」
「また、そんなことを仰って・・・」
その言いように、呆れるしかないサビーヌだった。
「今度は、手紙で苦情か」
ヴィクトルは、苦々し気に、テーブルの上に置かれた白い封筒を見つめた。
サビーヌは、ため息をついた。
「事情は知りませんけど、姉のデジレに託して、こうしてお手紙と、お菓子まで贈ってくださっているんですよ。お菓子は、お嬢様がわざわざご自分で作られたそうです。お手紙が、苦情な訳ないじゃないですか」
「苦情だろうか、謝罪だろうか、請求書だろうが、何だっていい。私には、一切関係がない」
「お返事を差し上げてくださいなんてことは、もう申しません。でも、せっかくこうして贈ってくださっているんです。せめて、お手紙には眼を通して、お菓子は頂くのが、礼儀だと思いますけれどもね」
サビーヌは、ヴィクトルの了承を得ずに、クグロフを一切れカットし、皿にのせ、デザート用のフォークとナイフと共に、ヴィクトルの前に差し出すと、もうこれ以上は何を言っても無駄だと思ったのか、そのまま無言で立ち去った。
サビーヌが立ち去ってから、しばらく、右手を口元に手を当てて、何か考えるような仕草をしていたヴィクトルだったが、二、三度、トントンと、テーブルを指で叩いた後、ミレーヌからの手紙を開いた。
ヴィクトル・クロード・シャリエ大尉
先日は、お忙しいところ、申し訳ありませんでした。
大尉が、私を気にかけてくださって、ラ・ギーユ中尉との時間を作ってくださったことには、心から感謝しています。
私の言葉足らずで、シャリエ大尉に不愉快な思いをさせてしまったのなら、本当にごめんなさい。
戦勝記念パーティーで、ラ・ギーユ中尉と一緒に踊ったことは、素敵な想い出です。
とても・・・、とても、嬉しい、心弾む時間でした。
本当に、ありがとうございました。
ミレーヌ・フェリシテ・ド・ブルダン
ミレーヌからの手紙に眼を通した後、ヴィクトルは、フォークを取り、クグロフを一口、口に運んだ。
ヴィクトルは、こういった菓子類を、ほとんど口にしなかった。
甘ったるい菓子類は、ヴィクトルの好みではなかった。
だからきっとこのクグロフも、一口で十分だと思っていた。
けれども、このミレーヌの手作りだというクグロフを口にした時、ヴィクトルは、ミレーヌという娘を、知ったような気がした。
甘さを抑えたクグロフには、たっぷり贅沢にナッツが入ってあって香ばしく、ブランデーが強く香り、しっとりとした食感の、大人向けの味だった。
ミレーヌが、何も考えずに、この味を届けたとは思えなかった。
ヴィクトルの好みを、探ったのだと、わかった。
皿の上のクグロフを平らげ、もう一度、ヴィクトルはミレーヌからの手紙を手に取った。
戦勝記念パーティーで、ラ・ギーユ中尉と一緒に踊ったことは、素敵な想い出です。
とても・・・、とても、嬉しい、心弾む時間でした。
手紙に記されたその文に、ミレーヌのはにかんだような笑顔が甦った。
そこは、庭の付いた一軒家が立ち並び、富裕層ではないが、法律家や医師といった、ある一定の社会的地位に収まる者たちが数多く住んだ。
ヴィクトルの自宅は、石造りに赤茶色の屋根、そして小さな裏庭があった。
ヴィクトルの長い留守は、ヴィクトルの家に勤めて、三十年近くになる、六十歳が近い使用人のセドリックとサビーヌが、預かっていたが、近頃、ヴィクトルの帰郷に合わせて、セドリックが採卵用の鶏を二羽飼い、裏庭に鶏小屋を作っていた。
家の中は、キッチン、ダイニング、リビング、書斎、寝室がふたつ、応接間と使用人部屋を備えていて、留守を預かるセドリックとサビーヌが、家の修繕も掃除もしていてくれたので、今回の様に、急にヴィクトルの帰郷が決まっても、不都合なことは何一つなかった。
ただ、いくらセドリックが隅々までこまめに手を入れていたとはいえ、家自体は、祖父の代からの建物であったため、老朽化は否めず、そろそろ大掛かりな改修工事が必要なのではないかと言うのが、セドリックの意見だった。
練兵場のジュネ少佐の部屋で、ミレーヌと話をした週の週末、ヴィクトルはアネットを訪れ、激しく交じり合って、互いの欲情を満たした。
娼婦を相手にしないヴィクトルが、これまでに抱いた女はそう多くなかったが、アネットは、その中でも、男の身体を求める欲望が強かった。
一度の絶頂で満足することは、まずなかった。
どれほど女の欲望が激しかろうが、応じきれない肉体ではなかったが、それでも、飢えに似たその欲求に、時折、ヴィクトルは、違和感を覚えることがあった。
昨夜、アネットに突き上げ、その嬌声を聞きながら、この女が、求めるものは、俺の身体ではないと、けれども、この女が本当に求めるものは、永久に手に入ることはないだろうと、ヴィクトルの脳裏をよぎった。
この女は渇いたまま生き、渇いたまま死ぬのだろう、自分の渇きに気づくこともなく。
そう思えば、今、自分の身体の下で、髪を振り乱し、乳房を揺らし、自ら脚を開き、肉欲に身を委ねるアネットが、どうしようもなく愚かに思えた。
けれども、そのアネットの姿は、ヴィクトル自身の姿でもあった。
アネットとヴィクトルの違いは、その渇きに気づいているか、否か、それだけに過ぎなかった。
ヴィクトルは、空虚な自分を振り払うかのように、一層激しく、アネットに突き上げた。
三度目の絶頂を迎え、憚ることなく、アネットは叫んだ。
そうして、いつものように、ヴィクトルはアネットから抜き、その腹の上に、己の白い欲望を、吐き出した。
どれほど夜が遅くなっても、何度アネットが勧めても、ヴィクトルが、アネットの家で夜明けを迎えることはなかった。
戦勝記念パーティーや、軍の特別な集いがない限り、王都にいる際の、ヴィクトルの休日の過ごし方は、変わることがなく、休日前夜はアネットを訪れ、帰宅は深夜であるため、大抵、休日は十時を過ぎて目覚め、着替えて下へ降り、サビーヌの作ったガレットとカフェオレで、昼食を兼ねた朝食を済ませた。
その後は、書斎で仕事関係の書類に眼を通し、あとは夕刻まで、読書に時間を費やした。
そして、六時には、ワインの栓を抜き、サビーヌの作る夕食を口にし、翌日は勤務のため、酒は早めに切り上げて、十時には、ベッドに入った。
それが、アルカンスィエルに帰郷した際の、ヴィクトルの休日の過ごし方だった。
ヴィクトルの休日は、週末と決まっているわけではなかったが、休日の過ごし方が、そのように定まっていることは、つまり、特別な用事を言いつけられることがないということで、サビーヌとセドリックにとっては、やりやすいことには違いなかった。
けれども、幼かったヴィクトルと、乳飲み子のヴィクトルの弟を、親代わりになって育てた、サビーヌとセドリックにしてみれば、ヴィクトルは、ただの雇い主という存在ではなかった。
ヴィクトルと、セドリックとサビーヌには、これまでの経緯から、使用人と主人の関係を超えた、絆と信頼があった。
子どものないセドリックとサビーヌが、親代わりとなって大切に育てたヴィクトルが、軍で頭角を現し、無事、王都へと帰郷することは、夫婦にとって何物にも代えがたい喜びには違いなかったが、誰の眼にも雄々しく、立派な働きをする盛年男子が、友人たちと若さを謳歌するでもなく、色恋の華やぎがあるわけでもなく、何年かぶりの王都勤務であるのに、休みと言えば、昼前まで寝て、書斎に引きこもり、夕方からは酒をたしなむのみ、という味気ない暮らしぶりに、何とかならぬものかと、夫婦で顔を見合わせては、ため息をもらした。
練兵場のジュネ少佐の部屋で、ミレーヌと話をした週の週末、アネットを訪れたヴィクトルは、アネットの望み通り、三度の頂を与え、自分自身の欲情も満たした後、いつものように自宅に戻った。
午前二時前に、自宅に戻り、ベッドに入ったのは、三時だった。
翌日、いつもの休日と同じく、ヴィクトルが着替えを済ませ、寝室から、ダイニングへ降りて来たのは、十時を過ぎてからだった。
家の中で過ごす休日は、さすがに軍服ではなかったが、適当な格好ではいられない性分のせいで、外出予定がなくとも、ヴィクトルは、スーツにネクタイだった。
階下へ降りて来る足音を聞きつけたサビーヌが、おはようございますと、姿を見せ、しばらくして、いつものように、カフェオレと、ジャガイモを入れ、卵を落とした、ボリュームたっぷりのガレットを、ヴィクトルの前に運んできた。
いつもと違ったのは、皿の上のガレットを平らげ、フォークとナイフを置いたところで、透かさず、サビーヌがそれらを下げ、代わりに、しっかりとした焼き色のついたクグロフの乗った皿と、白い封筒を差し出したことだった。
「これは、何だ?」
そういいつつ、ヴィクトルは、ナプキンで口元を拭った。
「お手紙です」
「手紙?誰から?」
「お嬢様です」
サビーヌの返事は素っ気なく、いつになく、気分を損ねているようだった。
「お嬢様?」
「ブルダン家のミレーヌ様です。ヴィクトル様が、意地悪をなさったとか」
「意地悪?あの娘が、何か言って来たのか?」
「お嬢様は、何も仰いませんよ。先日、ヴィクトル様は、練兵場で、お嬢様にお会いになって、しばらくお話をされたそうじゃないですか」
「なるほど、デジレか」
今の話の出所が、ミレーヌに付き添って、ジュネ少佐の部屋までリネンを届けに来た、サビーヌの姉、デジレだと言うことは、すぐに察しがついた。
デジレと顔を合わせたのは、ほんのわずかな時間だったが、ややふくよかな体型といい、愛嬌のある丸っこい鼻といい、姉妹だけあって、体型や顔立ちがよく似ていた。
「練兵場からの帰り道、お嬢様は、随分しょんぼりしてらしたそうですよ。シャリエ大尉に、失礼なことを申し上げてしまった、って。何があったか知りませんけど、あんな素直で優しいお嬢様を悲しませるなんて、ちょっと酷すぎるんじゃありませんか」
「誤解をしているようだが、私は、あの娘を傷つけるようなことは、何も言っていない。あの娘が、ある話を一方的に持ち出して、これ以上口出しをするなと言ってきた。だから私は、承諾をした、それだけのことだ」
「ヴィクトル様は、仰りように問題があるんですよ。そんな鋭い目つきで睨まれて、きつい言い方をされたら、若いお嬢さんは、それだけで怯えてしまいます」
「何故、私が、愛嬌を振りまく必要がある?気に入らないなら、話しかけて来なければいい」
「また、そんなことを仰って・・・」
その言いように、呆れるしかないサビーヌだった。
「今度は、手紙で苦情か」
ヴィクトルは、苦々し気に、テーブルの上に置かれた白い封筒を見つめた。
サビーヌは、ため息をついた。
「事情は知りませんけど、姉のデジレに託して、こうしてお手紙と、お菓子まで贈ってくださっているんですよ。お菓子は、お嬢様がわざわざご自分で作られたそうです。お手紙が、苦情な訳ないじゃないですか」
「苦情だろうか、謝罪だろうか、請求書だろうが、何だっていい。私には、一切関係がない」
「お返事を差し上げてくださいなんてことは、もう申しません。でも、せっかくこうして贈ってくださっているんです。せめて、お手紙には眼を通して、お菓子は頂くのが、礼儀だと思いますけれどもね」
サビーヌは、ヴィクトルの了承を得ずに、クグロフを一切れカットし、皿にのせ、デザート用のフォークとナイフと共に、ヴィクトルの前に差し出すと、もうこれ以上は何を言っても無駄だと思ったのか、そのまま無言で立ち去った。
サビーヌが立ち去ってから、しばらく、右手を口元に手を当てて、何か考えるような仕草をしていたヴィクトルだったが、二、三度、トントンと、テーブルを指で叩いた後、ミレーヌからの手紙を開いた。
ヴィクトル・クロード・シャリエ大尉
先日は、お忙しいところ、申し訳ありませんでした。
大尉が、私を気にかけてくださって、ラ・ギーユ中尉との時間を作ってくださったことには、心から感謝しています。
私の言葉足らずで、シャリエ大尉に不愉快な思いをさせてしまったのなら、本当にごめんなさい。
戦勝記念パーティーで、ラ・ギーユ中尉と一緒に踊ったことは、素敵な想い出です。
とても・・・、とても、嬉しい、心弾む時間でした。
本当に、ありがとうございました。
ミレーヌ・フェリシテ・ド・ブルダン
ミレーヌからの手紙に眼を通した後、ヴィクトルは、フォークを取り、クグロフを一口、口に運んだ。
ヴィクトルは、こういった菓子類を、ほとんど口にしなかった。
甘ったるい菓子類は、ヴィクトルの好みではなかった。
だからきっとこのクグロフも、一口で十分だと思っていた。
けれども、このミレーヌの手作りだというクグロフを口にした時、ヴィクトルは、ミレーヌという娘を、知ったような気がした。
甘さを抑えたクグロフには、たっぷり贅沢にナッツが入ってあって香ばしく、ブランデーが強く香り、しっとりとした食感の、大人向けの味だった。
ミレーヌが、何も考えずに、この味を届けたとは思えなかった。
ヴィクトルの好みを、探ったのだと、わかった。
皿の上のクグロフを平らげ、もう一度、ヴィクトルはミレーヌからの手紙を手に取った。
戦勝記念パーティーで、ラ・ギーユ中尉と一緒に踊ったことは、素敵な想い出です。
とても・・・、とても、嬉しい、心弾む時間でした。
手紙に記されたその文に、ミレーヌのはにかんだような笑顔が甦った。
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