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10.マーガレット<後編>

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 マーガレットが、ヘンリーとの結婚に至る、長い経緯を話し終える頃には、雨は上がり、窓からは朝の陽ざしが、入り込んでいた。
少し前に、マーガレットが命じて二人分の軽食を運ばせた以外は、マーガレットがひと払いをしていたせいで、九時を過ぎても、アンヌが休む来客用の寝室を、訪れる者はなかった。
二時間以上、マーガレットの話に、じっと、耳を傾けていたアンヌだった。 
「身体は、苦しくない?長くなってしまったから、続きはまた、午後にしましょうか?」 
そう言って、アンヌを労わるマーガレットの表情は、これまでとは違って、随分、穏やかで優しいものだった。 
「いいえ、よろしければ、ぜひ、お話を、最後までお聞かせください」 
アンヌは、夢中で、その話に聞き入っていた。 
あなたがそういうなら、話しましょう、でも、無理はいけませんよ、辛ければ遠慮なく言いなさい、と前置きをしてから、マーガレットは再び話し出した。 



 「ヘンリーとお父様が、親子らしい関係を築けるように力を尽くすだなんて、偉そうなことを言った割に、二人が親子らしい絆を取り戻すために、どうしたらいいかなんて、わからなかったわ。だから、とにかくごく当たり前のことから始めたの。まず、朝食は、家族揃って取る様にするということから。多分、お父様の方も、心のどこかで、息子たちとの関係修復を、願っていたんじゃないかと思うの。だから、私の提案に反対はしなかった。でも、最初は、本当に気まずくて、ぎこちなくて・・・、だって、誰も喋ろうとはしないのよ。ただ、黙って、お食事をするだけ」 
けれども、それも、今となっては、懐かしい思い出の一つだった。 
「当然、うまく行かない日もあって、激しくぶつかりあう時もあって、やっぱり無理なのかしら、って思う時もあったけれど、それでもみんな、朝食には必ず顔をそろえたの。そうして、少しずつ、少しずつ、何かが次第に変わって行った。会話が弾むと言う訳じゃないけれど、農園の事とか、体調の事とか、そういったことを、みんなぽつぽつと、話すようになって来たのよ。でも・・・」 
と、マーガレットは言葉を途切り、
「私が、流産をして・・・、結婚してすぐの一度目の時は、何とか気持ちを持ち直すことが出来たけれど、結婚して五年目の、二度目の時は、立ち直ることが出来なかった・・・」
と、顔を曇らせた。 
何十年を経ても、それは、辛い記憶だった。 
「もう、授かることは出来ないんじゃないか。これは、自分が犯した罪に対する、神様の罰ではないのか・・・、そんなことを考え始めると、どうしても、前向きにはなれなかった。トーマスも、お父様のことが原因で、家庭に不信を持っていて、結婚というものに、前向きになれなくて、独身のままだったから、私が産まなければ、モーガン家が潰えてしまうという焦りがあって、ヘンリーやお父様に、申し訳ない気持ちでいっぱいだったの。ヘンリーは、授からないことは、私の責任ではないって庇ってくれたけれど、私は、自分で自分を追い込んでしまったのね。随分ひとりで思い悩んで、跡継ぎを生めないまま、このまま、ヘンリーの妻でいてはいけないと思いつめて・・・、お父様に、話しに行ったの。私が、実家に戻って、ヘンリーが新しい妻を迎えるか、それとも、別の女性に、ヘンリーの子供を産んでもらうか・・・」
今のアンヌと同じように、身を引かなければならない苦しみを、マーガレットも、かつて味わっていた。
「ヘンリーに話せば、絶対に反対にされるのは分かっていたし、聞き入れてくれないのは分かっていたから、とにかくどうするべきか、お父様に相談に行ったの。そうしたら、お父様は、私を酷く怖い眼で、睨みつけて・・・、こう言ったのよ。君は、結婚の際、この私に向かって、一体何と言った!私たちが親子らしい関係を取り戻すために、力を尽くすと言ったのではなかったのか!私に向かって、あれだけ偉そうに宣言しておきながら、早くも降参するのかね!そんなことは、この私が許さん!自分の発言には、責任を持ちたまえ!今後一切、そんな話は無用だって、追い返されたの。最初は、一体何を言われたのか、良く分からなかったけれど、ゆっくりよく考えてみたら、跡継ぎのことは、気にしなくていいから、このままずっと、ここにいなさいって、そう言われたのね。申し訳ない気持ちと・・・、ああ、認めてもらえていたのだという嬉しい気持ちで、胸がいっぱいになって、涙を堪えることができなかった・・・」 
その感激は、今もなお温かく、マーガレットの心に残っていた。
「結婚してから、モーガン家に馴染もうと、少しでもモーガン家のためにって、ヘンリーの助けを借りながら、私なりに精いっぱいやってきたつもりだったけれど、お母様とお姉さまのことがあるから、私への周囲の風当たりは強かった。ヘンリーがうまく取り持ってくれたから、トーマスは最初から私に心を開いてくれて、親しくできたけれど、お父様は、プライドの高い方だったから、きっと外では私のことで、肩身の狭い思いをすることも多いのだろうと思って、ずっと疎まれたままだと思っていたわ。だから、そんな風に、受け入れてもらえるなんて、思ってなくて、とっても嬉しかったの。それまでは、私も、お父様にいつも遠慮があったのだけど、それ以来、徐々に打ち解けて、お父様の方も、息子のヘンリーやトーマスには見せない和んだ表情を、私には見せてくださるようになっていったの。世間の非難に耐え、モーガン家の一員として、ヘンリーの妻として、務めを果たすうちに、いつしか世間も、マーガレット・ジョーンズを忘れて、私をマーガレット・モーガンとして、見てくれるようになった。そして・・・、ランドルフ。結婚して、七年目にしてようやく授かったあの子が、この家を明るい光のさす方へ、一気に導いてくれた」 
マーガレットの表情が、輝くように明るくなり、誘われるように、アンヌの頬にも柔らかな微笑みが浮かんだ。
「あの子の誕生は、この家にとって、本当に希望だった。誰もが、その小さな命に感動して、感謝したけれど、ランディの誕生を誰よりも喜んだのは、お父様。もう、それはそれは・・・、その可愛がりようったらなくて、起きてから寝るまで、ランディ、ランディ。少し歩けるようになると、ご自分で外へ散歩に連れて行くし、ランディが熱を出すと、片時も傍を離れなくて・・・。ヘンリーも、トーマスも、私も、もう・・・、驚くばかり」 
マーガレットは、可笑しそうに声を立てて笑った。 
「そうして、ようやくトーマスも、レイチェルという素晴らしい伴侶に巡り合って、男の子が二人、女の子が一人、生まれて、この家の誰もが、心から幸せだと思える時間が始まったの。お父様は、ランディが十二歳の時、病に倒れるまで、一緒にペンナの街へ出かけたり、乗馬の手ほどきをしてくださったり・・・、ランディも、優しいおじいさまが大好きだったわ。あの気難しかった暴君が、幼子に骨抜きにされたって、ヘンリーとふたりで、笑ったものよ」 
笑顔のマーガレットだったが、ふと、真顔に戻って、先を続ける。
「ランディが十二歳の時、お父様は、体調を崩して、段々、ベッドで過ごす時間が長くなって行ったの。お元気だった時の、面影がないくらい痩せて・・。そうして、半年ほど経った、ある冬の日、お医者様が、もう、そんなに長くないだろうって、おっしゃった。お父様も、ご自分の死期を察していらっしゃった。しばらくして、話すことが出来るうちにって、私たち夫婦と、トーマス、レイチェルを呼んで、ご自分の結婚について、話をされたの」 



 それは冷たい雨の降る日の午後で、死を覚悟したパトリックが、最期に、どうしても話しておかなければならないことがあると、残された力を振り絞って、話し始めた。
「その時、お父様は、初めて、ご自分の結婚のことを、私たちに話してくれた。結婚前、お父様には、とても、好きな人がいたの。街で偶然出会った娘で、互いに、心から想い合っていて、結婚の約束をしていたそうよ。だけど、娘は、ごく普通の家庭の娘で、モーガン家には不釣り合いだと、家族や親戚に大反対されて・・・、二人の間は、引き裂かれてしまった。結局、お父様は、両親の勧めでお見合いをし、ヘンリーのお母様と結婚したの。それでも、縁あって夫婦になったのだからと、最初は、お父様なりに努力をして、お母様と、幸せな家庭を築こうとしたのよ。でも、お父様には、お母様の態度が、どこか投げやりなように思えて・・・、そのうち、お母様の方も、密かに想い合っていた人との間を割かれて、家のために、お父様と結婚したということが、お父様の耳に入って来たの。決して、打ち解けようとはしないお母様に、お父様も段々疲れて、お父様は、他所に女の人を作るようになった。お父様にとって、家庭は、心安らげる場所ではなかったのね。ヘンリーは、お父様からお話を聞くまで、悪いのは、お母様を裏切り続けたお父様だと、一方的に思い込んでいたから、お父様のお話に、とても衝撃を受けたようね」
痩せ細って床につく父親の手を、じっと握って、話に耳を傾けるヘンリーの姿を思い出すと、マーガレットは今でも、胸が痛かった。 
「お父様とお母様、そして子供たちの間の亀裂は、深まるばかりだった。他所に女性を作って家庭を顧みないお父様、夫の度重なる不貞に、ますます心を閉ざすお母様、お母様を苦しめる父親に、敵意をあらわにする息子たち・・・、家族はバラバラで、それが自分のせいだとわかってはいても、どうすることもできなかったと、嘆いていらしたわ。そうして、例え他所に女性を作ったところで、心が満たされることも、安らぐこともなく、持っていきようのない苛立ちと不満を、お母様や、子どもたちにぶつけていたのだと、本当に申し訳なかったと・・・、涙を流された。その時、ヘンリーは、もういいんだ、済んだことだよって、言って、初めて、愛しているよって・・・、お父さん、愛しているよって、告げることが出来たの」
マーガレットは、そっと瞳の涙を拭った。 
「そして、お父様は、私に、こう言ったわ。モーガン家に幸福を運んでくれて、ありがとう。君が、家族をひとつにしてくれた。結婚の時、君が私に宣言した約束を守ってくれて、心から感謝しているって。・・・亡くなったのは、その二週間後。亡くなる少し前に、 家族ひとりひとりに、ありがとうって・・・。とても、清々しい、澄んだ瞳をしていらした。お父様が亡くなったことは、とても哀しいことだったけど、ヘンリーは、葬儀の後で、亡くなる前に、お父様に、息子として愛を伝えられて、良かったって、そう言っていたわ。そのことは、私も、本当に良かったって、安堵しているのよ。・・・私の長い話を、熱心に聞いてくれて、ありがとう」
マーガレットは、そう言って、アンヌへ微笑みかけた。
「いいえ・・・、いいえ、わたくしの方こそ・・・」 
「私、とても、反省をしたのよ」 
「反省?」 
「大きな罪を犯した私は、モーガン家の嫁に相応しくないと、ヘンリーのお父様に結婚を反対された。酷い言葉を投げつけられて、深く傷ついたわ。でも・・・、あれから四十年近くが経って、今度は、私が、あなたに、お父様と同じことをしてしまった。モーガン家を、ランディを守りたい一心で、あの子やあなたの気持ちを無視して、条件の整った相手を、ランディに見つけようとした。今度こそ、あの子には、幸せになってほしかったから。でも、それが、どれほど、あなたを傷つけたのか・・・、心から謝りたいの。本当にごめんなさい」 
「どうか、そのようなことは、止めてください。マーガレット様のご心配は、当然です。母親であれば、誰しも、子に良縁を望むものでしょう」
マーガレットに、頭を下げられると思っていなかったアンヌは、驚き、慌てた。 
思わずベッドから滑り出て、マーガレットに、向かい合うような形で、ベッド脇に座った。 
そのアンヌの濃緑の瞳をじっと見つめた後、マーガレットは語りかけた。 
「後悔と、贖罪は別。これは、三十九年前、ヘンリーが私に言った言葉よ。今度は、私が、あなたに、そう教えてあげたいの、アンヌ」
アンヌ、と、マーガレットは、始めて、名前を呼んだ。 
「自分の罪に向き合って生きることは、決して、忘れないと言うことよ。そして、祈り続けると言うこと。ヘンリーやトリスは、四十年も昔の事なのだから、そろそろ自分を許してもいいんじゃないかって、言うけれど、私は、決してそうしてはいけないと思うの。だけど、それは、とても、辛いことよ。人々の非難に、心が折れそうになることもあった。中々、子供に恵まれなかったり、ランディの妻が亡くなったり、フローレンスの死から中々立ち直れないランディが、このまま一生ひとりなのかもしれないと思うと、そういったことは、自分の犯した罪に対する罰なのではないかと、思い悩むこともあるの。もし姉や母が生きてくれていたら・・・、姉も私も、もっと大人になって、いい関係を築けたかもしれない、母は、どんなにランディを可愛がったかしら、四十年が経っても、私を許せないままの弟に、私はどうしてあげればいいのだろう・・・、そんな想いに、押しつぶされそうになることがあるの。そんな後悔は、きっと、あなたにもあるでしょう」 
それは、マーガレットにしか分からない、アンヌの心の闇だった。 
ええ、その通りですと、アンヌは、繰り返し、頷いた。 
「一人で、耐える必要はないのよ、アンヌ。贖罪は、自分を虐めることじゃない。喜びを封印することじゃない。私は、あなたに、そう教えてあげたいの。自分を見失ってしまわないように、苦しみに溺れてしまわないように、家族や、友人の手を借りて構わないの。贖罪という答えのない旅には、愛する人の手助けが必要なの。そうして、その手助けに感謝して、また歩き出すのよ」 
マーガレットの言葉は、アンヌの心に強く響いた。
償いは、喜びを封印することではないと言う言葉に、眼が覚めるような想いだった。
自分を追い詰めるような生き方を変えなさいと、諭されているような気がした。
「最後に、あなたの口から、真実を聞かせてちょうだい。あなたのお腹の中の子の父親は誰?誇り高いあなたが、全てを委ねてもいいと思った人は、誰?」 
アンヌは、つと、指で下腹部に触れた。 
そこに宿った命が、たまらなく愛おしく思えた。
「お腹の中の子は・・・、わたくしが、心から愛して、身を委ねた方の子です。お腹の中の子の父親は・・・、生涯で一度だけと決めて、身を任せた、ランドルフ様です」 
そう答えるのに、アンヌの心は、激しく震えた。
凍り付いた心が、一気に溶けて流れ出すような想いがした。 
マーガレットはにっこり笑うと、
「こちらへいらっしゃいな、あなたがた」 
後方へ呼びかけた。 
はっ、と、アンヌがそちらの方へ眼をやると、控えの間から、ヘンリーとランドルフが姿を見せた。
ふたりとも、フロックコートを身に着け、整った装いで、偶然そこに居合わせたようには思えなかった。
「いつから、そこに・・・」 
「そう、多分あれは、朝、僕が来る前にここを出て行くからと、君が母に、馬車を貸してくれるように頼んだ時だったかな。・・・僕は、とてもショックだ」 
咎めるようなランドルフの眼差しに、アンヌは顔を伏せた。
「アンヌ」 
ヘンリーは、いつもの柔和な笑顔を、アンヌに向ける。 
「君の昔の話は、昨日、マギーとランディから、聞いた。私は、ランディと君の事に、口出しはしない。ふたりのことは、ふたりで考えればいいと思っている。ただ、私は、君にこれだけは言っておきたい。私は、マギーと結婚したことを後悔したことは、一度もない。後悔どころか、いつも私や、モーガン家のために尽くしてくれるマギーに、心から感謝している。この四十年近く、私は、彼女の苦しみを一番近い場所で見て来た。彼女の苦しみに、寄り添い続けてきたつもりだ。けれど、それは、私の望んだことだ。どんな時も、愛する彼女と手を携えて生きてきたことは、私の喜びだ。アンヌ、君は、ランディのことを、もっと信頼することだ。ランディは、生涯、君に寄り添い続ける。それが、ランディの望みであり、君への揺るぎない愛情だ」 
アンヌは、自分の罪をランドルフに背負わせることは、決してできないと、頑なに拒み続けてきた。 
けれども、そうではないのだと。 
愛する人の苦しみに、寄り添い生きることを、喜びとする生き方があるのだと、教えられたような気がした。
「ここからは、ふたりで・・・、話した方が、よさそうね」 
マーガレットが席を立ち、ヘンリーとマーガレットは、二人を優しく見つめてから、寄り添って部屋を離れた。 
ランドルフは、マーガレットに代わって、ベッド脇の椅子に座り、アンヌに向き合う。
「アンヌ」 
「・・・わたくし、あなたに、お話があります」 
ランドルフを遮って、先に話し出したのは、アンヌだった。
「わたくし・・・、あなたに、聞いていただきたいお話があります」 
そう言って、アンヌが差し出した両手を、ランドルフはそっと握り返し、 
「聞くよ。時間は、いくらだってある」 
と、アンヌの頭を、引き寄せた。 
ランドルフの広い胸の中で、アンヌは眼を閉じた。 
ランドルフに与えられる安らぎに、心が解けてゆくのがわかった。
「あなた・・・、愛しいあなた」 
アンヌの唇から零れ落ちた言葉に応えるように、優しく抱きしめ返された。 
今の自分が、長い航海を経て、ようやく港へと辿り着いた船のように思えた。 
 
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