コットンブーケ

海子

文字の大きさ
上 下
44 / 61
8.UNFORGETTABLE

しおりを挟む
 リビングでの出来事から数時間が過ぎ、時計の針は午後三時を回ろうとしていた。 
あれから、マーガレットの指示の下、身体を締め付けないネグリジェに着替えさせられ、 アンヌは、来客用の寝室のベッドで、休むことになった。 
今のアンヌには、そのマーガレットの指示に逆らう気力も、体力もなく、エマの手によって、為されるがまま、着替えさせられて、ベッドで休んでいた。 
ノックの音が聞こえて、ドアが開き、
「入っても大丈夫?」
ランドルフが、姿を見せた。 
横になったアンヌは、仰向けで、じっと天井を見つめていた。 
ベッドの傍らの椅子に座って、そのアンヌを見守り続けていたエマは、ランドルフが入って来ると、立ち上がり、一礼をした。 
「少し、落ち着いた?」 
「発作は、落ち着いていますが、ここ数日は、悪阻のせいで、ほとんど何も召し上がれなくて・・・、お身体が弱ってしまうのではないかと、心配です」 
「そう・・・」
ランドルフは、アンヌの顔を見つめた。 
その表情は硬く、ランドルフとエマの会話など耳には入っていないかのように、じっと天井を見上げていた。
「少し、アンヌとふたりにしてくれないかな、エマ」 
エマは、わかりました、と応じ、静かに、その場を離れた。
「アンヌ・・・」
と、ランドルフは、それまでエマが座っていたベッド脇の椅子には座らず、ベッドの端に座ると、指先で、アンヌの頬に触れた。 
アンヌは、その指を避けるように、ふいっ、と顔を背け、ランドルフに背を向けた。 
「騙すような真似をして、悪かった。僕たちが、将来について話し合う機会を作るためには、君を、君の農園から連れ出して、ここへ連れて来る必要があると思った。でも、君のことだから、こうでもしないと、絶対に僕とは会ってくれないだろうと思ったんだ。アンヌ・・・、僕たちの将来について、落ち着いて話そう。さっき、リビングで、僕が言ったことは、嘘じゃない。母が、君をこの屋敷に迎え入れることを拒むなら、僕はこの屋敷を出る。僕は、そう決めている。君のいない人生は、もう考えられないんだ。たとえ・・・、農園を捨てることになっても」
アンヌは、ランドルフに背を向けたまま、何も答えなかった。 
「君のお腹に、僕たちの子どもがいるなんて、思いもしなかったよ。これから、どこで、どんな風に暮らすことになっても、僕と、君と、生まれてくる子どもは、必ず一緒だ。僕は、生涯をかけて、君たちを幸せにすることを、誓うよ」
「・・・わたくしのお腹の中の子は、ランドルフ様の子ではありません」 
ランドルフに背中を向けたまま、アンヌは、ぽつりとそう告げた。
「アンヌ・・・」
「わたくしのお腹の中にいる子は、ランドルフ様の子ではありません。・・・わたくしには、ずっと以前から、夜を共に過ごす者がいます。エマも知らない相手がいます。お腹の中の子は、その者の子です。この子は、ランドルフ様にも、モーガン家にも、何の縁もありません。モーガン家とは・・・、無関係です」 
「どうして、そんな見え透いた嘘をつくんだ?君が、罪深い過去故に、結婚を諦めようとしていることは知っている。そして、僕のために、モーガン家のために、身を引こうとしていることもね。だけど、それは、ふたりにとっても、子どもにとっても、全く望ましい結論ではない。だったら、少しずつでも、心を開いて、共に過ごす将来を考えるべきじゃないのか?」 
「わたくしの想いが、あなたにわかるはずはありませんし、話すつもりもありません」
「僕には、聞く権利がある」 
ランドルフは、譲らなかった。 
そして、ランドルフに背を向け、頑ななアンヌの肩をそっと擦った。
「僕には、君の想いを聞く権利がある。君が、何と言おうが、君のお腹の中の子は、間違いなく、僕の子供だ。僕には、聞く権利があるよ、アンヌ」 
アンヌは、押し黙ったまま、ランドルフに背を向けていた。
けれどもやがて、
「わたくしは、これまでにたくさんの人を殺めてきました・・・」 
囁くように、アンヌは話し始めた。
「わたくしの手は、闇色に染まり、もう取り返しのつかないことは、十分に承知しています。その数多くの罪の中でも・・・、わたくしが、とりわけ自分を許すことができない出来事があります」 
ランドルフに背を向けるアンヌの表情を、伺うことは出来なかったが、その声には、アンヌの苦しみが、滲んでいた。 
「遠い昔・・・、わたくしに、随分と尽くしてくれた女中がいました。艶やかなダークブロンドと、美しいヘーゼルの瞳の持ち主で、よく気の付く、本当に優しい娘でした。わたくしは、どんなことをしても、あの娘を・・・、レティシアを守ってやらなければいけなかったのに、レティシアを愛する男から引き離して、獣のような男に・・・、わたくしの父親に、差し出したのです」 
アンヌは、眼を閉じた。
その時の苦い感情を思い出して、胸がつかえた。
「わたくしは、決して、レティシアを、お父様の元へ行かせてはならなかった。もっと早くに、愛する人の元へ返してやらなければならなかった・・・。そうしなかったのは、お父様の怒りを恐れたからではありません。レティシアをお父様の元へ行かせたのは、わたくしの嫉妬です。わたくしが、一言も、想いを告げることが許されない男に、愛されて、赤ちゃんまで宿したレティシアへの・・・、愚かで、醜い、妬みです」
ランドルフの手は、変わることなく、ずっと、アンヌの肩と腕を、優しく擦り続けていた。 
「わたくしは、忘れません・・・。お父様の居所へと向かう馬車に乗り込むレティシアと、一瞬、瞳が重なった時のことを、忘れることができません。恐怖と、侮蔑と、憎悪と・・・。 それまで、わたくしへの、尊敬と感謝の眼差しに満ちていたレティシアの美しい瞳には、敵意しかありませんでした。絶対に、あなたを許しはしない、レティシアの瞳は、そう告げていました・・・」 
アンヌは、レティシアのその強い憎しみと恨みの籠った眼差しを、思い浮かべていた。 
「わたくしは、許されなくてよいのです・・・」
「アンヌ・・・」
「生涯・・・、わたくしを憎んでよいのです。レティシアのお腹の中の小さな命を奪ったのは、わたくし。愛する人との、かけがえのない宝物を奪ったのは、このわたくし・・・。そのわたくしが、子を産むことなど、できるはずはないのです」
「そんな風に、自分を責め続けてはいけない。若い君を、そんな風に追い込んだ方にこそ、重い責任がある」 
ランドルフは、その告白によって、アンヌがこれまでどれほど、自分を責め続けて生きて来たのかが、痛いほど良く分かった。 
眼の前のアンヌの背が、いつもより、ずっと小さく見えた。 
「・・・わたくしのお腹の中にいる子は、ランドルフ様の子ではありません。・・・わたくしには、ずっと以前から、夜を共に過ごす者がいます。お腹の中の子は、その者の子です。この子は、ランドルフ様にも、モーガン家にも、何の縁もありません。モーガン家にも、ランドルフ様にも・・・、何の責任もありません」 
そう言って、ランドルフに自分の罪を背負わせまいと必死に抗うアンヌが、ランドルフには、哀れなほど痛々しく映った。
ランドルフは、アンヌの背後からその髪にそっと口づけると、 
「アンヌ、これだけは、分かっていてほしい。少なくとも、君は、この夏、妻を失い、希望を失って生きていた孤独な男を救った。君は、僕に、希望を与え、幸福を与えた。そのことだけは、覚えておいてほしい」 
そう囁いた。
「今日は、随分疲れさせてしまったね。今日はもう、ゆっくり休んだ方がいい。明日は、一度医者を呼ぼう。大事にしないといけないからね。・・・明日の朝、また来るよ」 
そう言って、ランドルフは立ち去った。
ランドルフが立ち去った後、しばらくして、アンヌは寝返りを打ち、ランドルフが立ち去った扉を、じっと見つめた。


あなた・・・。 
愛しい、あなた。 
わたくしは、モーガン家には・・・、マーガレット様には、受け入れてもらえないでしょう。
わたくしが受け入れられなければ、あなたは、わたくしのために、何もかも捨てると言いました。 
罪深いこのわたくしと、一緒に生きると、言ってくれました。
けれども、優しいあなたは・・・、犯してしまった罪に苦しむわたくしを見て、一緒に苦しむことでしょう。
家も家族も財産も、何もかも捨ててわたくしを選んだことを、いつか後悔する日が来るかもしれない。 
そんなあなたを、わたくしは見たくないのです。 
家族も地位も財産も、全てわたくしのために捨ててしまった後で、後悔だけが残った時、わたくしは、一体、どうしたらいいのでしょう? 
モーガン家から当主を奪い、あなたのモーガン家の当主としての将来を潰してしまったことを・・・、わたくしはどうやって償えばいいのでしょう?


アンヌは、ランドルフの立ち去った方へと、指を伸ばした。
そこにランドルフの姿はなく、アンヌの指はただ、空を切るばかりだった。
「愛しい、あなた・・・。ああ、わたくしの・・・、ランディ」 
思わず、吐息と共に唇から、零れ落ち、アンヌは眼を閉じた。 



 アンヌの休む寝室には、小さな控えの間があった。 
その控えの間と、アンヌの休む寝室を繋ぐ扉が、ずっと小さく開いたままであることに、ランドルフもアンヌも、気づくことはなかった。 
マーガレットは、そっと控えの間を離れ、物音を立てないように、廊下へと出た。
愛しい、あなた・・・。 
ああ、わたくしの・・・、ランディ。 
今、耳にしたばかりの、アンヌの声が、マーガレットの胸に迫った。 

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

夫の幼馴染が毎晩のように遊びにくる

ヘロディア
恋愛
数年前、主人公は結婚した。夫とは大学時代から知り合いで、五年ほど付き合った後に結婚を決めた。 正直結構ラブラブな方だと思っている。喧嘩の一つや二つはあるけれど、仲直りも早いし、お互いの嫌なところも受け入れられるくらいには愛しているつもりだ。 そう、あの女が私の前に立ちはだかるまでは…

婚約をなかったことにしてみたら…

宵闇 月
恋愛
忘れ物を取りに音楽室に行くと婚約者とその義妹が睦み合ってました。 この婚約をなかったことにしてみましょう。 ※ 更新はかなりゆっくりです。

【完結】そんなに側妃を愛しているなら邪魔者のわたしは消えることにします。

たろ
恋愛
わたしの愛する人の隣には、わたしではない人がいる。………彼の横で彼を見て微笑んでいた。 わたしはそれを遠くからそっと見て、視線を逸らした。 ううん、もう見るのも嫌だった。 結婚して1年を過ぎた。 政略結婚でも、結婚してしまえばお互い寄り添い大事にして暮らしていけるだろうと思っていた。 なのに彼は婚約してからも結婚してからもわたしを見ない。 見ようとしない。 わたしたち夫婦には子どもが出来なかった。 義両親からの期待というプレッシャーにわたしは心が折れそうになった。 わたしは彼の姿を見るのも嫌で彼との時間を拒否するようになってしまった。 そして彼は側室を迎えた。 拗れた殿下が妻のオリエを愛する話です。 ただそれがオリエに伝わることは…… とても設定はゆるいお話です。 短編から長編へ変更しました。 すみません

悪役令嬢の末路

ラプラス
恋愛
政略結婚ではあったけれど、夫を愛していたのは本当。でも、もう疲れてしまった。 だから…いいわよね、あなた?

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

あなたへの恋心を消し去りました

恋愛
 私には両親に決められた素敵な婚約者がいる。  私は彼のことが大好き。少し顔を見るだけで幸せな気持ちになる。  だけど、彼には私の気持ちが重いみたい。  今、彼には憧れの人がいる。その人は大人びた雰囲気をもつ二つ上の先輩。  彼は心は自由でいたい言っていた。  その女性と話す時、私には見せない楽しそうな笑顔を向ける貴方を見て、胸が張り裂けそうになる。  友人たちは言う。お互いに干渉しない割り切った夫婦のほうが気が楽だって……。  だから私は彼が自由になれるように、魔女にこの激しい気持ちを封印してもらったの。 ※このお話はハッピーエンドではありません。 ※短いお話でサクサクと進めたいと思います。

幼馴染がそんなに良いなら、婚約解消いたしましょうか?

ルイス
恋愛
「アーチェ、君は明るいのは良いんだけれど、お淑やかさが足りないと思うんだ。貴族令嬢であれば、もっと気品を持ってだね。例えば、ニーナのような……」 「はあ……なるほどね」 伯爵令嬢のアーチェと伯爵令息のウォーレスは幼馴染であり婚約関係でもあった。 彼らにはもう一人、ニーナという幼馴染が居た。 アーチェはウォーレスが性格面でニーナと比べ過ぎることに辟易し、婚約解消を申し出る。 ウォーレスも納得し、婚約解消は無事に成立したはずだったが……。 ウォーレスはニーナのことを大切にしながらも、アーチェのことも忘れられないと言って来る始末だった……。

[R18] 激しめエロつめあわせ♡

ねねこ
恋愛
短編のエロを色々と。 激しくて濃厚なの多め♡ 苦手な人はお気をつけくださいませ♡

処理中です...