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6、カミルの涙
しおりを挟む「奥様は、いつまでこの邸にいるおつもりなのですか? いい加減、クリス様と別れていただけませんか?」
ノックもせずに、見張りの使用人に鍵を開けてもらって部屋に入り、開口一番そう言った。使用人は、ライラさんを主人だと認識しているみたい。
この状況で出て行けとは、無理な相談だ。やっぱり、ライラさんは私がクリス様と離婚することを望んでいる。
「私がクリス様と離婚したら、ライラさんと結婚すると本気で思っているの? クリス様のことは、私よりもライラさんの方が理解しているはず。よく考えて欲しい」
ライラさんにとって、カミルは何よりも大切なはずだ。クリス様はその大切なカミルを、ライラさんから奪おうとしている。
「別れたくなくて必死ですか? クリス様は、カミルと私を守ってくださると仰ってくれました! 子供のいない奥様には、分からないでしょうけど、私達の幸せはここにあるのです! 四の五の言わずに、とっとと出て行ってくれればいいのよ!」
私が何を言っても無駄なのかもしれない……そう思ったけれど、思い直した。ライラさんの手が、微かに震えていたからだ。虚勢を張っているだけで、彼女は悪い人ではないのだと思えた。
「カミルくんは、ここで暮らすことを望んでいるの? ライラさんにとって、カミルくんは何よりも大切なのでしょう?」
「あなたのような、温室育ちのお嬢様には分からないわ! お金がなくて、教育を受けさせることも出来ないのよ! クリス様と結婚することが、あの子のためなのよ!!」
確かに私は両親に愛され、何不自由のない暮らしをして来たけれど、自由になりたいと思ったことは何度もある。父の娘だから、優秀な兄の妹だから、完璧な母の娘だからと、何をするにも気を使って生きてきた。それがワガママだと言われたら、それまでなのだけれど、必ずしも貴族の子になることが幸せではない。それに、ダーウィン侯爵家は特殊だ。ここで暮らすことが、カミルのためになるとは思えなかった。
「ライラさんと……母親と、離れ離れになっても?」
「それはっ……」
そう言いかけたまま、口を閉ざした。ライラさんの不安そうな表情を見る限り、クリス様が何をしようとしているのか気付いているようだ。だから私に、早く出て行って欲しいと言いに来たのだろう。
私には、彼女を憎めそうにない。むしろ、憎まれるのは私の方だ。
「私はもう、クリス様を愛してはいません。すぐにでも、離婚して出て行くつもりです。ライラさんは、カミルくんのことだけを考えてあげてください」
ライラさんは私の顔をじっと見た後、無言で部屋から出て行った。彼女の目には、私への敵意がなくなっていたように見えた。
翌朝、クリス様がまたカミルを部屋に連れて来た。
「カミルがセシルと遊びたいそうだ」
嬉しそうにそう言うクリス様の隣で、五歳のカミルがこの世の終わりのような顔をしている。カミルの様子が気になった私は、笑顔でカミルを迎えた。
「また来てくれて嬉しい! さあ、こちらへおいで。カミルくんのことは任せて、クリス様はお仕事に行ってください」
一刻も早く、クリス様を追い払いたかった。カミルを歓迎した私の態度に気を良くしたクリス様は、ご機嫌で部屋から出て行った。ドアが閉まり、彼の足音が遠ざかって行くのを確認してから、カミルを抱きしめた。
「……お姉ちゃん?」
いきなり抱きしめられて、戸惑っている。
「急にごめんね。なんだか、カミルくんが消えてしまいそうに思えて、抱きしめずにいられなかったの」
少し身体を離して、カミルくんの顔を見る。先程の暗い顔は、泣きそうな顔に変わっていた。
「何があったの?」
そう聞いた瞬間、カミルくんの大きな瞳からポロポロと涙がこぼれ落ちた。こんなに幼い子が、泣きそうなのをずっと我慢していたのかと思うと、胸が張り裂けそうになった。
「お、お母さんが……ヒック……ッ……おか……ッグスッ……」
「ゆっくりで大丈夫だよ」
カミルが泣き止むまで、頭を撫で続けた。
一時間位、カミルの涙は止まらなかった。
それほど、辛いのを我慢して来たのだろう。
泣き止んだカミルを抱き上げ、ソファーに座らせて、その隣に腰を下ろす。すると、カミルが私の手を握って来た。
小さな手。
その手をそっと握り返すと、安心したように笑顔を見せてくれた。そして、ゆっくり口を開いた。
「あのおじさんがね、お母さんをいじめるの」
おじさんということは、父親という認識もないようだ。もしかしたら、昨日ライラさんが部屋に来たことが原因かもしれない。見張りの使用人が、報告したのだろう。
まさか、暴力を振るっては……いないと思いたい。手をあげるだけでも最低な行為なのに、それを子供の前でなんて考えたくない。
「おじさんは、いつもお母さんをいじめているの?」
カミルが描いた、クリス様の絵は真っ黒だった。あの絵が、全てを物語っているような気がした。
「お母さんとぼくのお部屋にくると、おじさんはいつもお母さんをいじめるの。お母さんはおじさんにごめんなさいって言ってるのに、おじさんはおっきな声で怒ってばっかりなの」
話しながら涙ぐむカミルの身体を、そっと抱き寄せた。この子にとって大切なのは、ライラさんだ。彼女は、そのことを分かっているのだろうか。
泣き疲れたのか、カミルの寝息が聞こえて来た。クリス様が迎えに来るまで、カミルはそのまま眠っていた。
数日後、クリス様は慌てて部屋に来ると、「セシル、お客様がお見えだ……」と、そう告げた。
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