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第三章 十一月の受難
不確かな関係4
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背後からの足音は消えている。
気のせいだったか、或いは角を曲がった時に上手く撒けたのかもしれない。
木田がいることもあり、私はすっかり安心していた。
スーツの上に薄手のコート。仕事帰りらしい。
「可愛い赤ちゃんですね。
女の子かな」
弱って頭を掻いてみたり笑ってみたり。
表情をコロコロ変える様子は可愛らしくもある。
男の人を可愛いとか思うような歳になったのだ。
「あのぉ。大家さんからチラッと聞いたんですけど」
木田がこちらをうかがうように切り出した。
やはり噂は広がっている。
十月の修羅場。あと、ルナの出生についても。
木田も結局、そういう下世話な話を聞きたくて私と歩いているのだろうか。
答える代わりに大きなため息が漏れる。
「変な噂、僕も流されたことがあるんです」
しかし、木田の反応は予想外のものであった。
思わずその横顔を見上げてしまう。
「そ、そうなんですか。私
も……この子、初めに預かってるって伝えたのに。
もう困惑してしまって」
「そんなことだろうと思いましたよ」
木田が顔をしかめて天を仰いだ。
夕刻の雨が大気の塵を洗い流したか、都会の片隅から見上げる夜空にも星がチラチラと瞬いている。
「気にすることないです。
みんな、ああいう話を真剣に聞くほど暇じゃありませんから」
目から鱗が落ちるようであった。
聞かされる住人の立場からしたら、私の噂なんて小っぽけなものなのだ。
気づかせてくれたのは佐山ではなく、初対面の若い男。
なんだか不思議だ。
「ありがとうございます。
そう言ってもらえると気が楽になるわ」
木田は、またも白い歯を見せて人懐こく笑った。
もしここに佐山がいたら、木田と同じことを言っただろうか。
相手に笑い返す余裕は生まれたものの、胸の中には針で掻いたような痛みが走る。
「んぎゃあ」
燻るようにむずかっていたルナの声が大きくなってきた。
木田は心配そうな顔をする。
ベビーと接する機会がないのだろう。
泣いているところを見るだけで困惑する気持ちは分かる。
「お腹、空いちゃったみたいで」
苦笑いで説明するうち、アパートはすぐそこに近づいていた。
玄関ポーチの明るい電灯に迎えられる。
同時に、暗がりでは人懐こく健全な雰囲気に見えた木田に、わずかな違和感を覚えた。
気のせいか。
取りあえず礼を述べると、木田が口を開いた。
「ごはん、まだでしょ?
僕の部屋でご一緒しませんか」
ああ。会ってすぐ、こういうことを言う。
さっきの違和感は、電灯に照らされて顕れたこの軽さか。
ルナがいるから。
と、やんわりお断りすると。
「必要な物、全部持って来れば?」
木田が食い下がる。
しつこいな。
胸中で舌を打った時だった。
おかしなことに気がついた。
この人……どうして、アパートの方向から出てきたんだろう。
気のせいだったか、或いは角を曲がった時に上手く撒けたのかもしれない。
木田がいることもあり、私はすっかり安心していた。
スーツの上に薄手のコート。仕事帰りらしい。
「可愛い赤ちゃんですね。
女の子かな」
弱って頭を掻いてみたり笑ってみたり。
表情をコロコロ変える様子は可愛らしくもある。
男の人を可愛いとか思うような歳になったのだ。
「あのぉ。大家さんからチラッと聞いたんですけど」
木田がこちらをうかがうように切り出した。
やはり噂は広がっている。
十月の修羅場。あと、ルナの出生についても。
木田も結局、そういう下世話な話を聞きたくて私と歩いているのだろうか。
答える代わりに大きなため息が漏れる。
「変な噂、僕も流されたことがあるんです」
しかし、木田の反応は予想外のものであった。
思わずその横顔を見上げてしまう。
「そ、そうなんですか。私
も……この子、初めに預かってるって伝えたのに。
もう困惑してしまって」
「そんなことだろうと思いましたよ」
木田が顔をしかめて天を仰いだ。
夕刻の雨が大気の塵を洗い流したか、都会の片隅から見上げる夜空にも星がチラチラと瞬いている。
「気にすることないです。
みんな、ああいう話を真剣に聞くほど暇じゃありませんから」
目から鱗が落ちるようであった。
聞かされる住人の立場からしたら、私の噂なんて小っぽけなものなのだ。
気づかせてくれたのは佐山ではなく、初対面の若い男。
なんだか不思議だ。
「ありがとうございます。
そう言ってもらえると気が楽になるわ」
木田は、またも白い歯を見せて人懐こく笑った。
もしここに佐山がいたら、木田と同じことを言っただろうか。
相手に笑い返す余裕は生まれたものの、胸の中には針で掻いたような痛みが走る。
「んぎゃあ」
燻るようにむずかっていたルナの声が大きくなってきた。
木田は心配そうな顔をする。
ベビーと接する機会がないのだろう。
泣いているところを見るだけで困惑する気持ちは分かる。
「お腹、空いちゃったみたいで」
苦笑いで説明するうち、アパートはすぐそこに近づいていた。
玄関ポーチの明るい電灯に迎えられる。
同時に、暗がりでは人懐こく健全な雰囲気に見えた木田に、わずかな違和感を覚えた。
気のせいか。
取りあえず礼を述べると、木田が口を開いた。
「ごはん、まだでしょ?
僕の部屋でご一緒しませんか」
ああ。会ってすぐ、こういうことを言う。
さっきの違和感は、電灯に照らされて顕れたこの軽さか。
ルナがいるから。
と、やんわりお断りすると。
「必要な物、全部持って来れば?」
木田が食い下がる。
しつこいな。
胸中で舌を打った時だった。
おかしなことに気がついた。
この人……どうして、アパートの方向から出てきたんだろう。
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