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第二章 十月の修羅場

大家と住人1

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 麻由子が帰ると言い出した。
 子どもたちを幼稚園に迎えに行くのだ。
 ついでに、私もルナと散歩に出ることにした。
 そうすれば、必然的に佐山も帰ってくれるだろう。

 佐山贔屓びいきのルナは口をすぼめて「んぶぅ」とうなり、短い足を忙しなく動かし始める。
 抗議のつもりであろうが、どうせ佐山だってこの後は仕事なのだ。
 夜まで開いているペットショップが勤務先なので、早番と遅番があるらしい。

 ちょっと気分転換もしたかった。
 誘拐事件のニュースのせいで、胸がザワついている。



 ルナの持ち運び(?)には未だかなり神経を使うが、何とか乳母車に乗せて外へ出た。
 『ベビーカー』ではない。『乳母車』だ。
 今風の乗り心地良さそうなシートではなく、でっかいカゴがついている。
 レトロと言えば聞こえは良いが、ただボロいだけである。

 このアパートの大家に借りた物だ。
 先日の買出しも、この乳母車を転がして行った。

 私には、これくらいが丁度良い。
 ベビー片手にお買い物とか、器用にベビーカーを押しながら荷物を持つとか。私にはできないのだ。
 でかいカゴが付いていれば、ルナも荷物も乗せられる。
 車なしの生活を送る私には必需品だ。ただし。

 大きなショッピングセンターを回るには、少々勇気が要る。

 麻由子と別れて少し歩いたところで足が止まった。
 ルナが「あぅ」声を上げるのを、シィッと制する。
 数メートル先に大家がいる。
 ご近所さんとお喋りに夢中だ。


 挟間はざま道代みちよ


 アパートの大家だ。
 常にまとうのは、厚塗りの化粧と香水が混じり合った刺激臭。
 三度の飯より住人たちのゴシップを好む。
 最近の口癖は。

 「来年、還暦なのよぉ。やんなっちゃうぅ」

 とてもそんな風には見えませんよぉ、と言ってもらいたい感じが見え見えである。

 ルナを預かって間もなく、道代は私を訪ねてきた。
 上階うえに住む女。確か佐山が「辻島さん」と呼んでいたが、大家にもしっかり苦情の連絡を入れていたのだ。

 道代は、半信半疑で私のところへ確認に来た。
 事情を話すと、道代は「んまぁ!」と叫んで両手を口に当てた。
 ハムのような腕にはまった三連の輪っかが、ジャラリと不快な音をたてる。

 「赤ちゃんて言うから、てっきり彼とご結婚されたのかと思ったわぁ」

 「でも宮原さん偉いわぁ。
 小さい子を預かるなんて、なかなかできることじゃありませんよ」

 「あなただって良いお歳なんだから、自分の子を育てたいわよねぇ」

 これだ。
 褒めてるようで、結局嫌味を言っている。
 この感じが、いつも私の気分を重くさせるのだ。
 私は顔面に作り笑顔を貼り付けて、時が経つのをひたすら待った。

 こういう相手は、真剣に話を聞いたら負けである。
 バレない程度に目線を下げるのだ。
 そうしたら、派手な服が目に入る。
 シャラシャラの黒い生地に、蛍光色のペンキをぶちまけたようなデザイン。
 どこに売っているのか。

 ともかく。その時、道代が持ってきたのがこの乳母車だ。
 今はすっかり大人になった息子が、幼い頃に乗っていたとか。
 付き合いにくい大家だが、乳母車の件だけはありがたい。

 こっそり乳母車をターンさせ、別の道の角を曲がる。
 捕まるのは面倒だ。


 「あ、ねえ。ちょっと、あんた。宮原さん」


 角を曲がってすぐ、すれ違った女性に声をかけられた。
 振り返ったものの戸惑ってしまう。どう考えても見覚えのない女性だ。

 「私よ私。上階うえに住んでる、辻島」

 まったく分からなかった。

 「すみません! 気がつかなくて」

 この辻島という女性、以前苦情を言いに来た時と随分イメージが違う。

 「今、メイクしてないからさ。仕事前で」

 辻島は、人差し指でポリポリと頬を掻いた。
 ロングカーディガンにデニムというラフな服装で、コンビニのビニール袋を提げている。
 こちらの方が印象が良い。

 「あの、いつも騒がしくてすみませ……」

 「それよりさぁ!」

 辻島は日頃の迷惑を詫びようとする私を遮り、にんまり笑った。

 「あんた、佐山クンと付き合ってんの?」



 は──!?
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