上 下
18 / 130
第一章 九月の嵐

佐山という男2

しおりを挟む
 知らん──。
 隣人だったの?

 とりあえず「はぁ」と曖昧に応じると、佐山という男は軽く咳払いをした。

 「昨晩より、赤ちゃんの泣き声に大変迷惑しているのですが」

 佐山は、「大変」というところに若干力を込めた。
 思い返せば、昨夜のルナの夜泣きは凄まじかった。
 壁の薄いアパートでは泣き声が騒音になるのは当然。
 ようやく思考が追いついてくる。
 
 「も、申し訳ありません!」

 慌てて頭を下げた。
 続いて、カツカツとけたたましい足音。
 下げた視界の端に、ゴールドのピンヒールがピタリと止まった。

 「あら、佐山クン。あなたも来てたの?」

 「おや、辻島つじしまさん」

 この二人、知り合いだろうか。
 そろりと頭を上げると、派手そうな女がこちらを見ている。

 「あのさぁ。上階うえに住んでるもんだけど」

 その女は、妙に蓮っ葉な喋り方をした。
 歳の頃は三十代後半から四十代前半か。
 ロングの巻き髪に濃い目のメイク、赤い爪。
 美しい顔立ちながら、どこかすれた印象を受けた。

 「赤ちゃんの泣き声がうるさいんだよ、何時間も!
 寝らんないじゃない」

 女もまた、玄関まで聞こえるルナの泣き声に顔をしかめる。

 「本当に申し訳ありません。
 実は、ちょっと親戚の子を預かることになりまして……」

 「えぇ?」

 私が事情を説明すると、二人はあからさまに迷惑そうな顔をした。

 「どうでもいいけど、こっちは夜の仕事だからさぁ。
 私が寝る時間に泣かさないで。頼むよ」

 そう簡単に行く方法があるなら教えてください。
 などと言うと角が立ちそうなので我慢する。
 女は、カツカツと踵を鳴らしながら去って行った。

 「すみません……今後は気をつけますので」
 
 佐山にもう一度頭を下げ、ドアを閉める。
 ルナを何とかしなくては。
 
 

 散らかったキッチンで湯を冷ましながら、昨夜からもう何度目になるか分からない溜め息をついた。
 ルナは喉を枯らしながら泣いている。
 ミルクの用意に手間取る。まだ慣れてない。

 「ふえええぇぇん」

 「ちょっとくらい待ってよ……」
 
 ベビー・アレルギー克服のため、赤ちゃんを預かることにした。
 ルナは言葉を理解し、さらにそれを操ることができる。
 口を動かして喋るのではない。ルナの言葉は私の頭の中に届く。
 
 アレルギー持ちが突然赤ちゃんを預かるのはハードルが高い。
 意思疎通ができるということは、私のような者にとっては心強いものだと思っていた。
 ところが。



 昨晩のこと。
 ルナは空腹その他の不快感が生ずると、普通の赤ちゃんと全く変わらなくなってしまう、という事実が判明した。



 ミルクをあげようがオムツを替えようが、ひたすら泣く。
 泣いている間は一言も喋らなかった。
 つまり、肝心なところで意思疎通ができないのだ。

 「意味ないじゃん!!」

 深夜、一人で頭を抱えた。

 時間帯を考慮する余裕もなく麻由子に連絡を取ると、

 「眠いんじゃない?」

 とのことであった。
 眠いなら目を閉じろ。そして眠るが良い……!
 なぜ泣く?
 しかもルナは、散々泣いて寝入る直前に呟いた。

 「初日からこれじゃ、先が思いやられるわ」

 言った覚えはないなどとのたまうから余計に腹が立つ。


 今も、責め立てるようにルナは泣いている。
 私は、屈辱に耐えながらミルクを冷ます。
 ふらつきながらルナの元へ辿り着き、何とか抱き上げてミルクをやる。

 全てにおいて覚束なく、時間もかかる。
 ルナの不快指数が大きいのは、私の手際の悪さもあるのだろう。

 麻由子みたいに上手くいかない。
 粉ミルクの計り方は間違えるし、オムツが上手く当たっていなくて夜中からシーツを洗濯する羽目になる。
 

 勢いよくミルクを飲んでいたルナが、哺乳瓶の中身を三分の一ほど残してつと動きを止めた。
 短い腕で哺乳瓶を押し返す。

 「もう、いらないよ」

 ルナは、ふぅとため息をつく。
 ため息つきたいのは私なのだが。
 ルナは続けた。

 「おいしくない」

 「何ですって!?」

 「昨日から思ってたんだけどさぁ。
 おいしくないんだよね。
 あたしの好みの温度じゃないし」

 脳味噌が頭蓋骨を突き破って大噴火を起こした。
 くらいにムカついた。

 「ぬおぉぉーっ! 何なの、あんたは!」

 「ルナだよ」

 そんなことは分かっている……!

 何なの?
 赤ちゃんにダメ出しされる私って何なの?


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

懐妊を告げずに家を出ます。最愛のあなた、どうかお幸せに。

梅雨の人
恋愛
最愛の夫、ブラッド。 あなたと共に、人生が終わるその時まで互いに慈しみ、愛情に溢れる時を過ごしていけると信じていた。 その時までは。 どうか、幸せになってね。 愛しい人。 さようなら。

【完】あの、……どなたでしょうか?

桐生桜月姫
恋愛
「キャサリン・ルーラー  爵位を傘に取る卑しい女め、今この時を以て貴様との婚約を破棄する。」 見た目だけは、麗しの王太子殿下から出た言葉に、婚約破棄を突きつけられた美しい女性は……… 「あの、……どなたのことでしょうか?」 まさかの意味不明発言!! 今ここに幕開ける、波瀾万丈の間違い婚約破棄ラブコメ!! 結末やいかに!! ******************* 執筆終了済みです。

〖完結〗私が死ねばいいのですね。

藍川みいな
恋愛
侯爵令嬢に生まれた、クレア・コール。 両親が亡くなり、叔父の養子になった。叔父のカーターは、クレアを使用人のように使い、気に入らないと殴りつける。 それでも懸命に生きていたが、ある日濡れ衣を着せられ連行される。 冤罪で地下牢に入れられたクレアを、この国を影で牛耳るデリード公爵が訪ねて来て愛人になれと言って来た。 クレアは愛するホルス王子をずっと待っていた。彼以外のものになる気はない。愛人にはならないと断ったが、デリード公爵は諦めるつもりはなかった。処刑される前日にまた来ると言い残し、デリード公爵は去って行く。 そのことを知ったカーターは、クレアに毒を渡し、死んでくれと頼んで来た。 設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。 全21話で完結になります。

結婚して四年、夫は私を裏切った。

杉本凪咲
恋愛
パーティー会場を静かに去った夫。 後をつけてみると、彼は見知らぬ女性と不倫をしていた。

冤罪から逃れるために全てを捨てた。

四折 柊
恋愛
王太子の婚約者だったオリビアは冤罪をかけられ捕縛されそうになり全てを捨てて家族と逃げた。そして以前留学していた国の恩師を頼り、新しい名前と身分を手に入れ幸せに過ごす。1年が過ぎ今が幸せだからこそ思い出してしまう。捨ててきた国や自分を陥れた人達が今どうしているのかを。(視点が何度も変わります)

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

【完結】忘れてください

仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
愛していた。 貴方はそうでないと知りながら、私は貴方だけを愛していた。 夫の恋人に子供ができたと教えられても、私は貴方との未来を信じていたのに。 貴方から離婚届を渡されて、私の心は粉々に砕け散った。 もういいの。 私は貴方を解放する覚悟を決めた。 貴方が気づいていない小さな鼓動を守りながら、ここを離れます。 私の事は忘れてください。 ※6月26日初回完結  7月12日2回目完結しました。 お読みいただきありがとうございます。

夫は使用人と不倫をしました。

杉本凪咲
恋愛
突然告げられた妊娠の報せ。 しかしそれは私ではなく、我が家の使用人だった。 夫は使用人と不倫をしました。

処理中です...