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夏祭りはかりそめのお祭り

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 湖春食堂は、村の中心から少し外れた湖のほとりにひっそりと佇む、小さな木造の建物だ。扉を開けると、古ぼけた木の香り油の香ばしい匂いとが鼻をくすぐる。店内はこぢんまりとしていて、テーブル席が三つとカウンターが一つだけ。

「いらっしゃい。あら、栞鳳さま!」

 奥から現れたのは、この店の主人のおばちゃん、いやおばあちゃんだ。小柄な体に割烹着を纏い、顔中にしわを刻んだその姿からは想像できないほど快活な声で栞鳳に声をかける。

「こんにちは、小春。今日も親子丼、いいかな?」

 栞鳳は慣れた様子で席に腰掛ける。まるで常連客そのものだ。
 店主のおばあちゃんは小春というのだろう。湖のほとりにある、小春さんのお店で、湖春食堂。素敵な名前だ。そんなことを考えながら栞鳳の向かいの席に座る。

「もちろんだとも。あんたが来ると、店がぱっと明るくなるねえ。そっちの嬢ちゃんは初めてかい?」

「あ、ええ、初めまして。唯野葉月です」

 突然話を振られ、わたしは慌てて頭を下げる。

「ほう、珍しいね。栞鳳が彼女を連れてくるなんて。まあ、座んなさいな。親子丼、二つでいいね?」

 そう言って、小春さんは素早く厨房へと消えていく。
 彼女、なんて言われて、どう反応すればいいかわからない。どぎまぎしていると、栞鳳が変わらぬ調子でわたしを見上げる。

「ねえ葉月、ここの親子丼、すっごくおいしいんだよ。絶対気に入るからさ」

 嬉しそうに話す栞鳳の横顔を見ていると、安心すると同時に、どうしても不思議な気持ちが拭えない。
 百年を生きる神鳥だというのに、こうして村のおばあちゃんと親しく話している姿は、ただの普通の少年に見える。

「栞鳳はいつからこの店に来ているの?」

「う~ん、湖春おばあちゃんがまだお下げ髪だった頃からね。50年くらい前かな?
 あの頃は、僕のことを見てびっくりしてたけど、今はもう慣れちゃったみたい」

 栞鳳はくすくすと笑う。わたしにはその想像がまだ追いつかないけれど、少女時代の小春さんが栞鳳に親子丼を運ぶところを想像すると、どこか温かい気持ちになった。

「はい、おまち。なんだ二人して、わたしの噂話かい?」

 小春さんが大きな親子丼をふたつ、テーブルにどん、と置く。熱々の親子丼からは湯気がもくもくと立ち、卵は黄金色に輝きふるふるとこちらを誘うように震えている。

「わあ、美味しそう!」

「噂じゃないよ。小春は昔から美人だったって、本当のことを言ってるの」

 ニコニコとそう言うと、栞鳳は「いただきま~す」と箸を持ち、親子丼を食べ始めた。

「あら嬉しいことを言うじゃない」

 わたしも栞鳳に続いて親子丼を食べだす。……本当においしい。少ししょっぱいけれど、今日のような暑い日にはこのしょっぱさも嬉しい。
 夢中になって親子丼を書き込んでいると、栞鳳はすました顔をして小春さんと話している。

「小春も美人だけどね、やっぱり葉月にはかなわないね。葉月は可愛いから」

 小春さんはわたしの顔をまじまじと見る。そして何か得心が行ったようにうなずく。

「そうさねえ。栞鳳さま、よかったねえ」

「うん!」

 二人の会話に、私は何とも言えない居心地の悪さを感じていた。
 わたしに隠していることがあるんだ。

 わたしは二人の楽しそうな会話を聞きながら、もくもくと親子丼を食べ続けた。

 ***

 夏の昼は長い。それでも、終わりはやってくる。
 日が傾きだしたころ、わたしたちは宿に戻って、栞鳳が出してくれた浴衣に着替えていた。

 浴衣を着るのなんて久しぶりだ。小学生のころ、花火大会に家族で行った時以来、かもしれない。
 宿の部屋で帯を結ぶのに悪戦苦闘しながら、わたしは落ち着かない気分を抑えようと深呼吸をした。
 栞鳳はというと、もうさっさと自分の浴衣を整えて、宿の外で楽しそうにわたしを待っている。青地に金魚が描かれた浴衣姿は、彼の透き通るような白い肌と相まって、不思議なくらい似合っていた。

「葉月、準備できた? 早く行こうよ!」
 部屋の外から栞鳳の弾む声が聞こえる。

「待って待って、浴衣なんか着ないから……」

 なんとか帯を結び、大慌てで髪をまとめ終る。そして最後に鏡の前で最後に浴衣のしわを直すと、わたしは急いで部屋を飛び出した。

 栞鳳はわたしの姿を見ると、ぱっと顔を明るくした。

「すごい、本当に似合うよ、葉月。すごくかわいい。洋服もいいけど、やっぱり葉月には浴衣とか、着物とかが似合うと思うんだあ」

 一気に褒めてくれる栞鳳。素直にうれしい気持ちは、ある。けれど、わたしはなんだかもやもやもしていた。その原因が自分でもわからずに、わたしはさらにもやもやしてしまう。

「行こっか」

 わたしから栞鳳の手を取ると、夏祭りが行われる神社のほうへと並んで歩きだした。

 宿を出ると、すぐに賑やかな音が響いてきた。太鼓の音や屋台の呼び声、どこか懐かしい夏のにおいが風に乗って届く。
 日が暮れ始めた空には朱色が広がり、神社の境内では灯篭の明かりが揺れている。

「すごいね、こんなに賑やかになるなんて思わなかった」

「でしょ? 僕、ほんとうは前夜祭のほうが好きなんだよねえ。みんな楽しそうだし、出店もいっぱいあるし、りんご飴もあるし」

 栞鳳は楽しそうに歩きながら、露店の明かりを指さした。

「りんご飴好きなんだ?」

「うん。でも出店のご飯はみんな好きだよ。わあ、見て!金魚すくい! あ、こっちは綿菓子だ!」

 まるで子どものように目を輝かせる栞鳳に、思わず笑ってしまう。百年を生きる存在だなんて嘘みたいだ。

「まずはどこに行こうか?」
「金魚すくい! 葉月、やったことある?」

「ないなあ。家じゃ飼えないし」

「じゃあ、僕が教えてあげる。ほら、こっち!」

 栞鳳に手を引かれ、金魚すくいの屋台に向かう。赤や黒の小さな金魚たちが水槽の中で元気よく泳いでいるのを見ていると、童心に返ったような気分になった。

「はいよ、金魚、すくっていくかい?」

「うん!」

 葉月はどこからか小銭を取り出し、店主に渡す。……どこから出したんだろう、というか、子供に出させていいのだろうか。
 本人が得意そうにしているので、ここは素直に奢ってもらおう。
 店主が笑顔でぽいを渡し、わたしたちは挑戦を始めた。栞鳳の手つきを真似して慎重にすくおうとするけれど、金魚はひらりと逃げていく。

「難しいなぁ……」
「大丈夫、もう少しゆっくり動かしてみて」

 隣でアドバイスをくれる栞鳳の声が妙に優しくて、胸が少しだけ熱くなる。

 やっと一匹、赤い金魚をすくうことができた時、栞鳳が拍手をしてくれた。
「すごいじゃん! 葉月、やればできるね!」

 その笑顔に釣られて、わたしも思わず笑みがこぼれる。

 金魚すくいを終えた後も、わたしたちは綿菓子や焼き鳥を買ったり、射的に挑戦したりして、夜の祭りを満喫した。灯篭の明かりに照らされる栞鳳の横顔を見ていると、不思議と時間の流れを忘れてしまいそうだった。

 この瞬間が、いつまでも続けばいいのに——そんな思いが、わたしの胸の中でふわりと広がった。

「ねえ葉月、ちょっと疲れちゃった。本殿のほうに行こうよ。明日の本祭りは本殿でやるんだけど、今日はみんな前夜祭で楽しんでいて、誰もいないから」

 栞鳳の小さな手が私の手を取り、慣れた道をエスコートするように神社の中を奥へ奥へと進んでいく。
 夏祭りの喧騒が次第に遠くなり、露天の明かりも届かなくなる。
 気温が数度下がったような、そんな錯覚を覚える。

 ――神社の本殿。
 栞鳳は、さも当然という様子で本殿の扉に手をかけ、開く。「あっ」と、思わず栞鳳の手を握る力が強くなってしまう。が、考えてみれば何もおかしなことはない。
 栞鳳は神さまなのだ。
 この中に祀られているのは、栞鳳そのものなのだ。

「葉月、怖くないから、おいで」

 わたしは彼の言葉に導かれるように、神社の本殿の中へと入っていった。
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