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第一章 北風をまとう黒竜旗

1-6 北風の騎士  ……ヴィヴィカ

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 夜風が野営地を吹き抜ける。

 風向きは変わっていた。南から吹く風は微かに暖かく、冬の終わりと春の訪れを感じさせた。

 戦乙女たちの会戦の翌日、首脳陣らによる先帝の弔いと諸将への論功行賞を終えると、ヴィヴィカはクリスティーナに従い皇帝の幕舎へと向かった。
 野営地の雰囲気は和やかだった。道中、すれ違う誰もが若き黒竜の女王を称え、恭しく頭を下げた。夜の篝火に照らされる将兵らの表情は、みな笑顔だった。クリスティーナも、それら一つ一つに笑顔で応えた。

 皇帝幕舎に着くと、ヴィヴィカのみが入室を許可された。ホルン兵長以下その他の騎士は、室外警護の当番と待機者以外は解散となった。
 室内に入ると、クリスティーナは従者に命じ甲冑を外した。甲冑を脱ぐと、クリスティーナはそのままベッドに倒れ込んだ。
「はぁ~……」
 喪装のドレスの女王が、くたびれた親父のような溜め息をつく。
「お務めご苦労様です」
「久しぶりに笑うのに疲れた……」
 ベッドに顔を埋めるクリスティーナが、解いた髪の毛をかく。
「全て順調なんだろうけど、いざ始まると、全然現実感が持てないわ……」
 しんみりと呟くクリスティーナにヴィヴィカは頷いた。実際、この二週間は、嵐のような日々だった。十九歳の誕生日、親征宣言、帝都出立、〈教会〉領内への全面侵攻、戦乙女たちの会戦、決戦の勝利、聖女との出会い、先帝への弔い、論功行賞……。この二週間で、様々なことが起こっては過ぎ去っていった。

 しばらくの間、クリスティーナはベッドに突っ伏していた。このまま寝てしまうのではないかと思われたが、やがてクリスティーナは体を起こした。
「さぁて、やっと二人だけの時間が取れたんだし、改めて二人で祝杯を挙げましょう。ヴィヴィカもマスクを取って」
 クリスティーナはそう言うと、従者が用意していた杯に酒を注いだ。まだ笑顔には疲労感が残っていたが、堅苦しいものではなくなっていた。
 ヴィヴィカは一礼すると、口元を覆うマスクを取った。幾夜のときを経ても、このやり取りは慣れなかった。二人だけの空間とはいえ、普段は絶対に見せない部分を人に見られるのは恥ずかしかった──鏡を見ないでもわかる、醜く切り裂かれた口元、欠けた歯、歪んだ歯列──相手が女王であれば、なおさらだった。
 そんなヴィヴィカの唇に、クリスティーナの指先が触れる。
「美しい……」
「美しくなどありません」
「いいえ、美しいわ。私を守ってくれた傷……。あなたの生き様を示す証……」
 クリスティーナの指先に従い、ヴィヴィカは背を屈めた。
 背伸びしたクリスティーナの唇がヴィヴィカの唇に触れる。その柔らかさは少女の感触をしていた。

 キスのあと、二人は乾杯をした。
 飲み干しては、また飲んだ。体に回る酔いは心地よく、熱かった。風向きが変わったせいか、隙間風は生ぬるく、体の熱は籠る一方である。

 顔を見合わせる。お互い、ほど良く酔っている。
「ねぇ、後世の歴史は、やっぱり今回の戦いを戦乙女たちの会戦って言うのかしらね?」
「大衆にはそちらが認知されていそうですが……。あとは戦場立会人の判断によると思います。何か気になることでもあるのですか?」
「別に……。ただ、お父様のときは信仰生存圏の戦いって呼ばれてるから……」
 クリスティーナがヴィヴィカの手を撫でる。
「どうせユーロニモスが言い始めたんだろうけど、お笑いよね。戦ったこともない聖女のことを戦乙女と呼ぶなど」
 クリスティーナが独り言のように呟く。あざ笑うその笑みは、乾いている。

 戦乙女──誰が言い始めたのかは定かではない。ただ、二百年前に〈東からの災厄タタール〉を打ち払ったとされる古き〈教会七聖女〉の伝承と、今回の戦乙女たちの会戦を、誰もがどこかで重ね合わせていた。クリスティーナ以外への信仰を持たぬヴィヴィカでさえ、その名を口にするのはどこか憚られた。〈教会〉の国家元首、〈神の依り代たる十字架〉の信仰の権威、神の代理人たる教皇ユーロニモス三世は、その言葉の力と人々の深層心理を最大限に利用し、自らの正統性の主張と教会軍の戦意の高揚を図った。
 巨視的には正義と大義は〈教会〉側に傾いていた。しかし戦争を主導するクリスティーナら〈帝国〉の首脳陣は、誰一人としてそれを恐れているようには見えなかった。そして戦いを挑み、勝った。

 敵ならば、たとえ相手が神であろうと容赦はしない──その意志を垣間見るたび、ヴィヴィカは住む世界の違いを感じた。そしてクリスティーナを守るためならば、自分も同じようにならなければならぬと思った。

 世間話のあと、二人はまたキスをした。触れ合う唇は熱く、濡れていた。

「服を脱いで」
 クリスティーナの唐突な言葉にヴィヴィカはまた戸惑ったが、当の本人はすでに服をはだけていた。
 あられもない姿の女王が、眼前に立つ。
 クリスティーナの裸体は美しかった。傷一つない、女性的魅力に満ち溢れたそれは、芸術品と言っても過言ではなかった。それに比べて、ヴィヴィカは女でこそあったが、体は並みの男よりも筋骨隆々としており、しかも傷だらけだった。
 ヴィヴィカが鎧と服、そして近衛兵の象徴である青骸布せいがいふを脱ぐと、またクリスティーナの指先がヴィヴィカの傷を撫でた。
「この傷が、私の命を守ってくれた。数多の戦、赤き晩餐会や、母の暗殺者からも、ずっと守ってくれた……」
「私だけの力ではありません。陛下をお守りできたのは、青骸布せいがいふの騎士たちの献身の成果です」
「畏まらないで。二人きりなんだから」
 微笑むクリスティーナが、杯の中身を一気に飲み干す。
「あなたのような者をそばに置くことができて、私は誇らしい」
 状況は恥ずかしかったが、クリスティーナの言葉は素直に嬉しかった。男を知らぬわけではないが、クリスティーナと違い、ヴィヴィカは自身の女性としての魅力は皆無だと自覚していた。しかしその代わりに、体は並みの男よりも遥かに大きく頑丈だった。父も母も好きではなかったが、大きく頑丈な体に生んでくれたことだけは感謝していた。醜い体ではあったが、でなければ、クリスティーナを守りながら今こうして酒を酌み交わすことはできなかった。

「我が北風の騎士……。大切に思う……。誰よりも、何よりも……」

 北風の騎士──死んだ長兄から受け継いだ二つ名──という言葉に、ヴィヴィカは泣きそうになった。クリスティーナの声は、ヴィヴィカにとってはほとんど麻薬と化していた。

 〈帝国〉に臣従した騎馬民の末裔という、ほとんど蛮族同然にしか見られていなかった出自のヴィヴィカにとって、女王の近衛兵にして愛人という立場は信じられないほどの栄達であった。
 クリスティーナもヴィヴィカも、これは運命の出会いだったと言った。しかし実際のところ、運命という言葉だけで説明できるものでもなかった。この立身出世は死んだ父の武名によるものもあったし、死んだ長兄の勇気の賜物でもあった。そしてそれを利用し、仕組んだ人間というのも当然存在した。
 八年前、十五歳のヴィヴィカを近衛兵に推挙した上官のことを思い出し、ヴィヴィカは気分が悪くなった──第三軍団軍団長、マクシミリアン・ストロムブラード……──父の戦友、長兄が慕った騎士、次兄ペトリの上官……。後見人としてヴィヴィカをここまで導き、そして自らのために利用し続ける男……。悪名高き騎士殺しの黒騎士にして、未だに英雄の夢を追い求める聖女狩りの黒騎士……。

 ヴィヴィカは杯の中身を一気に飲み干し、過去を酔いにかき消そうとした。しかし黒騎士の存在はささくれのように残り続け、消えなかった。

 ヴィヴィカは下腹部に顔を埋めるクリスティーナの淡い銀色の髪を撫でた。
 触れた瞬間、ヴィヴィカの心の中で何かが激しく脈打った。今触れているものは全て、あまりにも美しく、あまりにも繊細だった。
「ヴィヴィカ」
 クリスティーナが上目遣いでヴィヴィカを見る。その赤い瞳は上気し、爛々と輝いている。
「大丈夫です。何が起ころうとも、私はずっとあなたのそばにいます」
「ありがとう。我が北風の騎士よ……」
 ヴィヴィカはクリスティーナの小さな体を抱き締めた。血が騒いだ。胸元に感じる鼓動は、激しく脈打っている。
「来て……。真の戦乙女……。北風の戦乙女よ……」
 クリスティーナに促され、ヴィヴィカはベッドに座った。そしてクリスティーナの体を抱き寄せると、そのままベッドに倒れた。

 生ぬるい夜風が、熱を帯びていく。

 ふと、青骸布せいがいふの騎士となる前は、もっと別の生き方を望んでいたような気がした。しかし、今は忘れた。忘れたかった。忘れようとした。

 時は戻らない。結果として、ヴィヴィカはクリスティーナと出会うことができた。今は、それだけでよかった。
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