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日誌・132 夢を破って、朝を呼ぶ
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恭也は一人、城の回廊を進む。周囲に、人の気配はない。
だが、そこここから、やたらと視線を感じた。
ただし、恭也に、意に介した様子はない。
音もなく、野性の獣のように歩きながら、手の内に掴んでいたものを宙に放り上げた。
まるで、周囲に見せつけるように。
それは、女神の横顔が浮き彫りにされたコインだ。
すぐ、顔の前に落ちてきたそれを、真横から打ち払うようにして掴み取る。
唇の端に、不敵な笑みが浮かんだ。
誰にともなく尋ねる。
「真っ先に、ぼくたちを引き離すって提案をしたのは誰かな?」
その表情は、邪悪、の一言に尽きた。返事はない。が。
とたん、周囲から感じる得体の知れない視線に苦々しさが混ざったのは気のせいだろうか。
雪虎は、先に部屋へ案内されている。
そうしてくれと頼んだのは恭也だ。
彼は彼で、ここに本気で宿泊する以上、やるべきことがあった。
それが、このコインだ。
(渡したくはなかったろうけど、…いやでも用意せざるを得なかったってところか)
離れるのは危険ではないか―――――などという思いは、欠片もない。なにせ。
恭也と雪虎に至っては、一緒にいた方が、特殊な『力』という面では弱体化する。
というか、互いに打ち消し合うのだ。
共にいた方が、ともすれば危険に対して脆いと言える。
なのにそれを引き離せばどうなるか…決まっている。
恭也の悪魔は野放しになった。
雪虎に至っては、恭也から離れることで濃密になった…あの祟りの気配を恐れない魔女はいないだろう。
魔女たちの思惑としては、二人を引き離すことで付け入る隙を作りたかったのだろうが。
―――――愚かだな。
勿論、このような短時間で、当人同士ですら、単純にそういう事実がある、という認識しか持てていない状況を読み取れ、という方が無理がある。
だからといって、
(説明する義理もないしな)
それに、今回、新たに分かったことがあった。
雪虎が持っているらしい性質だ。
彼の中にあるのは、祟りばかりではない。
いいや、月杜の祟りは余禄で、雪虎の本質は。
(魔女の力をあっさり破った…まるでそれがただの幻惑のように)
あれこそ、雪虎の本当の姿なのだろう。
夢を破って、朝を呼ぶ。それが、八坂雪虎の力。
思い出すのは、月杜家の伝承だ。
祟りをその身に封じたという女性。
彼女は、明らかにただの人間ではありえない。
雪虎が、祟りをその身に色濃く宿しているのなら、祖の女性の性質もまた、強く持っているに違いない。
恭也のそばにいれば雪虎の中に潜む祟りは無効化される。
が、祟りとはまるで異質な、その力は、恭也のそばにいても機能していた。
ともすると、あの力こそ、雪虎が生まれつき兼ね備えたシロモノとも言えるのではないか。
祟りは後から、その器に納まったのだろう。
…もう一つ。
月杜のことで付け加えるならば。
(自然への影響力、だよね)
魔女がはじまりの地と定める場所にある、石造りの塔。
それが昔、荒野のど真ん中にあったと言えば、誰が信じるだろう?
あの塔は、今や、深い森の中心だ。ただし、一定の範囲を出れば、荒野が広がる。
聞いた話では、塔の地下に、月杜にまつわるものが封じられているという。
知っている者たちの見解は一致していた。
森は、その『月杜にまつわるもの』の影響で発生している。
月杜家の屋敷を見るといい。
一歩足を踏み入れたなら、広い敷地内を満たす、濃密な自然の息吹には、誰もが圧倒されるはずだ。
数多くの優秀な庭師が雇われ、四季を通じて丁寧に手入れされているため、見苦しくなるようなことはないが、放っておけばあっという間に自然の無法地帯になるだろう。
雪虎などは、小さな頃から見慣れているため、違和感も何も、今更わかないに違いない。
そこにあって当然のもの。
しかし、屋敷があるあの地は、明らかに異質だった。
それが、鬼という存在の影響なのかは分からない。
ただ、月杜家が誕生する以前に、鬼のいる土地は豊かであった、と伝承はそう伝えていた。
―――――『鬼』『祟り』、そういったものの生きた伝承という以外にも、実際に現実へ及ぼしている能力において、やはり、月杜は無視できないのだ。
ゆえに不可侵とされているわけだが。
(恐れられている理由は…)
影響力の強い一族へ、ちょっかいを出したがる新興勢力は、どの時代にも必ず存在する。
ただし、当然のごとく、彼らは揃って手痛い目に遭ってきた。
歴史を繙けば、月杜に手を出した結果、頭から踏み潰すように一夜で滅びを経験した者たちなどごまんといる。
『力』の強さが崇拝される世界にいる恭也も、興味はあった。
(『鬼』が本気で暴れたら、どんな結果になるのかな?)
物騒な想像は、ふ、といきなり途切れた。
恭也は、呼ばれた心地で顔を上げる。
周囲の景色は変わらない。だが、いきなり、周囲に満ちていたもやが晴れた感覚があって、いっきに気分が爽快になる。
知らず、大きく息を吸った。
おそらくこれは、雪虎の影響力だろう。気のせいか、回廊の端々に飾られている花も、瑞々しく見える。
割り振られた部屋は近いに違いない。
傍系とはいえ、雪虎も確かに、月杜の鬼の血を受け継いでいた。
その影響力は無視できない。
ただ、そこに雪虎がいる。
それだけでも、これほど空気が違うのだ。
雪虎を思えば、自然と恭也の心は軽くなった。心地よくなる。勝手にそうなる。
だからこそ―――――雪虎自身の気持ちは、どうでもよかった。
彼からの気持ちを欲しいとは思わない。
もちろん、くれたら嬉しいし、拒絶されたらかなしいが、それが何だというのか。
恭也はやりたいようにやるだけだ。
ただ、近くにいたい、会いたいと思うから、会いに行く。
来るなと雪虎が言っても、無駄だ。
ひたすら一方的で身勝手なのが、恭也である。
できれば気に入られたいが、叶わないなら、仕方がなかった。簡単に、諦めがつく。
それでも気に入られたいんだ、と会話の中で告げるのは、それが人間らしい感情だからだ。ある意味、演技と言える。
幼い頃、普通でありたいと望みながらも、早々に諦めてしまった理由。
怖いと泣き叫んだ、周囲にもたらす破滅を、平然と眺めるようになった理由。
それは、自身のこういったところが、やはり『悪魔』で『人間』とは程遠い、と心底から納得してしまったためだ。
戦いを好み。
血を好み。
悲鳴や怒号が心地いい。
苛立ちを産むだけだ―――――…やさしい声、など。
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