トラに花々

野中

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日誌・88 神様に文句

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× × ×






その日の昼下がり。

駅近くにある高層マンションの駐車場で、異様な沈黙が落ちていた。


土曜日の昼間だ。
いつもなら、子供たちの笑い声が走り抜けたり、母親たちの話し声が響いている頃合いである。


証拠に、そこここに人影が見えた。にもかかわらず。


誰もが息を潜めているような静寂に、風さえ吹くのを遠慮しているかのようだ。そして。

場に居合わせた全員が、ある一点を凝視していた。



そこには、一人の青年の姿がある。



彼の前には、パトカーに半身を押し込められた女の姿。




彼女が、すぐ近くの公園で、さきほど大地という名の子供を連れていた相手だと、もしここに若林悠太がいれば、指さして驚いたことだろう。




大地という子供の姓は、御子柴といい、今ここにいる青年・大河の息子である。

つまりこれは、誘拐犯と、誘拐された父親の対面という場面だ。
彼は優しげにいくつか事務的な事柄を話した後、切り上げる口調で最後の言葉を告げた。

「ご理解頂けましたね? では、さようなら」


永遠に、と続かなかったのが不思議なほど、丁寧だが情のない声で言い放ち、彼は踵を返す。


距離を置いて控えていた黒いスーツにサングラスの男たちが、その動きに合わせていっせいに移動。
それに気づいた様子もなく、青年は、駐車場の隅に停めてあった車に、さっさと乗りこんで姿を衆目から遮った。



―――――バタン。



ドアが閉まる音が、これほど無情に響いたことが、かつてあっただろうか。



そう思ったようなため息が、そこここでこぼれるのを、黒スーツにサングラスの鳥飼遼は別世界の出来事のように聞きながら、思った。

(相変わらず、異常だな)

大河が乗り込んだ車からまばらに距離を取り、待機の姿勢で待っている男たちは、遼の部下であり、大河は上司だ。
幸か不幸か、これは慣れた状況、―――――よくあることだった。

思うなり、女が大河の乗った車に向かって叫ぶ。



「逃げ切れるなんて、思ってませんでした!」



ほとんど金切り声で。悲壮だ。だがそこにあるのは、罪悪感ではない。
どこか陶然として、夢見心地な浮つきがあった。


「ああ、でも、一瞬だったとしても、あのときだけは、わたしだけの、わたし、だけの…っ」




―――――現実が見えなくなっている声だ。




「ああ、はいはい、あとは署で聞こうか」

壮年の刑事が、口先だけで宥め、女をさっさとパトカーへ押し込み、ドアを閉めた。
気分のいい光景ではないが、こう言った存在を、遼は幾度も見ている。
大河といれば、珍しいものではない。





一瞬でいい。

ほんの、刹那でいい。





―――――あの存在を、独り占めしたいのだ、と。





大河に…いや、正確には御子柴の人間に対し、異常な執着を見せる、数多の人間たち。

パトカーのドアを閉めた壮年の刑事が、深く息を吐きだした。


「毎度だがな、なんだありゃ。年々ひどくなってねえか」


顔を合わせるのが度重なれば、遠慮もなくなった刑事が、大河の乗った車を親指で指さす。
いやそうな態度だ。他と違い、御子柴大河の美貌に溺れた様子はない。

かつてそのことに気付いた時、理由を聞いたことがある。


よく魂を抜かれるように見惚れないで済むな、どうしてだ、と。


刑事は言いにくそうに、渋い顔になった。





―――――オレだってよく分からねえが、なんっていうかよ…あの兄ちゃん、存在するだけで、傍若無人に精神を鷲掴もうとしてくる感じ、するだろ? あれな、上司の嫌味と似た感じがするんだわ。





くわばらくわばら、と寒気がしたように肩を竦め、この説明で分かるか? と聞かれたが、未だ、遼には分かるようでわからない。

(…つまりは精神攻撃と同じと言いたいのか?)

「目立ち方が、か?」
「よせやい。分かってんだろ?」

刑事は呪縛が解けたように散っていくやじ馬たちの様子を視界の端に収めながら、分厚い掌を横に振った。
遼は無言でサングラスの奥の目を細める。

刑事は、厳しい表情で、背にしたパトカーを一瞥。



「まあた、人間一人、壊しやがって」



どちらが加害者で、どちらが被害者か。そう、言いたいのだろう。

気持ちは分かるが、ただそこに立っていただけで加害者にされてはたまったものではない。
責任の所在を問うならば、





―――――そりゃ、神様に文句いうしかねえだろ。





いつだったか、遼の恩人がそう言った。

そう、創造主が彼をそうつくったのだ。



これはもう天災の類。



「この場合は、勝手に壊れた、というべきだろう」

「…どうだか、ね」
もう慣れたけど、とボヤき、刑事は口調を改める。
「まあ一時は檻ン中で過ごしてもらうが、ここまで『御子柴』にイカれた連中、このあとどうなるか、知ってるかい」
「興味がない」
淡々と告げた遼に構わず、刑事は続けた。



「会うことすらもう許されないって事実に廃人になるか、狂うか、自殺する」



厄介なんだよ、ほんと。


苦虫を噛み潰した顔で告げ、刑事は踵を返す。
その態度の奥に、本音が聴こえた。

いっそ、そっちで勝手に始末してくれた方が助かるのに。


…かつて、そうしていたことを知っているかのようだ。
知っているのかもしれないな、と遼はぼんやり思う。


だがいつからか、御子柴の若夫婦は、それをしなくなった。
身内に、そういうやり方を嫌う人間がいるからだ。
それが遼の恩人である。

だが、彼のことを慮って行動しているようで。―――――その実。





法の手に任せた方が、相手を長く苦しめることができるからこそ、あの夫婦はこの手段を選択しているのだ。





遼は、汚いものを顔面に投げつけられた気分になったが、…いつものことだ。

ショックを受けるような、繊細な精神は、とっくの昔に消えてなくなっている。
いいや。

そもそも、遼とて元は。


(御子柴の敵として、捕らえられる側の人間だった)


まかり間違えば、ああやってパトカーに押し込められるか。もしくは。
人知れず、始末されたはずの存在。

それが、何の因果か。
まだ、ここでこうして立っている。


「もう呼ばないでおくれよ」


捨て台詞のように告げ、パトカーに乗った刑事に、遼は丁重に頭を下げた。

言葉は厳しいが、御子柴の権力に尻尾を振ってくる相手より、この男はよほどやりやすかった。なにより、公的機関の中にも、…いるのだ。
御子柴に狂う存在が。

その熱狂がないというだけでも、助かる話だ。なにより彼は、平等である。


「そう望むならもっと、うまく立ち回れ」


人間としてあまりに真っ当で、不器用だからこそ、昇進の波には乗れない刑事をそう言って見送り、遼は近くの駐車場で停めていた車へ足を向けた。

「お疲れ様です、鳥飼課長」
「ああ」
遼が戻ってくるのに、その車周辺に立っていた複数の男たちが声を揃えて挨拶する。

「次に向かうぞ」
「はい」
サッと散った彼らは、少し離れた場所に停めていた別の車に乗り込んだ。

彼らを横目に、遼は運転席に乗り込み、シートベルトをする。
ふと思いついて、後部座席に黙って座っている相手に声をかけた。



「大河さん。公園に行って、大地さんの顔を見ていかれますか」



窓から外を―――――正確には、公園の方を見ていた御子柴大河が、ふっと運転席の彼に目を向ける。
まともに見れば、相変わらず寒気がする美貌だ。
女性的なところはひとつもないのに、性別問わず見た相手を魅了する。結果。


そのために、しないでもいい苦労を、必要以上に彼は被っていた。心底思う。


(お気の毒に)
無論、他人事だが、ただ見ているにしたって、あまりに凄絶すぎた。



「さやかさんが迎えに飛び出していったし、大地は義兄が見つけた。彼が一緒にいれば、これ以上安心なことはない」



義兄。



大河がそう呼ぶ相手は、この世でただ一人だ。

遼は思わず目を瞠り、ミラーに映った大河を見遣る。




「八坂さんがこちらにいらしているんですか?」




八坂雪虎。

大河の妻、さやかの兄代わりの男。そして。




遼の恩人。









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