トラに花々

野中

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日誌・80 備考欄・尚嗣の場合(1)

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「ここでいい」



早朝、月杜家。

その巨大な門構えを遠くに見上げる位置で、青年は車から降りた。
運転手が慌てて出てこようとするのに片手を振って、

「一時間ほど他で時間をつぶして、またここへきてくれ」

大股に颯爽と歩き出す。
一見、地味だがよくよく見ればオーダーメイドのスーツを嫌味にならない程度に着崩した彼が向かう先は、月杜家。


月杜家の門辺りを箒で掃いていた人の好さそうな老人が、近づいてくる影に、ふと顔を上げた。



「…これはこれは、結城の」



温和な笑顔で、おはようございます、と、頭を下げてくる。
いかにも威風堂々、現れた青年は足も止めずに声をかけた。

「おはよう。中へ入ってもいいかな。義兄には連絡を入れてあるんだが」

「聞いております。どうぞ、お進みください」

「ありがとう。失礼する」
顎を引いて頷き、颯爽と門をくぐった。

老人に見送られながら、よく手入れされた庭を、飛び石を伝って歩く。初夏の庭は、緑が濃く、鮮やかだ。
門から玄関口までは遠い。


朝の新鮮な空気の中、土や草木の匂いを改めて感じながら、青年は周囲を見渡した。と。


その、視界の中に。




―――――向かう先からやってくる、同年代の男の姿が映った。




格式高い光景には不似合いな、灰色の作業着を着ている。ツナギの上は、顔を隠すような帽子。
だが、庭の中にいるという油断があったのだろう。帽子のツバが上げられていた。
そこから垣間見えた、顔立ちに。
思わず青年は目を逸らす。ぞっとするほどの醜悪さに、一瞬で総毛だった。

だからこそ、分かる。


相手が、いったい何者か。


すぐ、臆さず顔を上げた。
二度見れば、先ほど見たものは幻だったのではないかと思えるほどの男前が、青年に針のような視線を向けている。

双方、ひとつも歩調を緩めず、前へ進んだ。

すれ違う。

刹那。



相手に向かって、腕が伸びたのは、同時。



思い切り、対象の襟首を引っ掴んだ。
力任せに引き寄せる。

互いに、半歩、引きずられるように相手へ進み。





―――――ガツンッ!





大きな音を立てて、額と額がぶつかった。

洒落にならない痛みが骨を伝って全身に響く。
が、この、気に食わない相手に対して弱味は見せられない。

一歩も退かず、にらみ合う。



まったく、くだらない意地だ。



そういうものこそ本人たちにとっては重要だったりするのが、またくだらない。

こめかみに怒りの血管を浮かべ、ツナギの男―――――八坂雪虎―――――が物騒に笑う。





「おはよう、腹黒。この間は素敵な忠告ありがとな。おかげで死にかけたぞ畜生が」


対するスーツの青年―――――結城尚嗣―――――が血の匂いがする笑みを浮かべた。

「おはよう、トラ。まだ死んでなくて残念だ。葬式代くらいは出してやったのに」

こちらもこめかみに、血管が浮いている。





ああ? と凄めば、おお? と凄み返し、ぐりぐり、額を押し付け合う。


二人の間には、陽炎のように殺気が立ち上っていた。が。
一見、仲良くじゃれているようでもある。


なんか文句あんのかと数分威嚇し合ったのち、何が納得いったのか、どちらからともなく離れた。


そこでふと、雪虎が尚嗣の姿をつらつら見直す。すぐ、鼻で笑った。



「ふん、今日は議員さまの格好じゃないんだな? ってことは、結城家で一度泊ってきたのか。みんな元気か?」



嫌味の棘だらけの口調で放たれるのは、なんだか真っ当な台詞である。
普通の人は、いったい雪虎が今何を言ったのか、すぐには分からなかっただろう。

それくらい、態度と台詞のギャップがすごい。


「お気遣いどうも。そういやこの間、お袋が車のトラブルで往生してたところ手助けしてくれたって聞いたぞ。ふん、ありがとよ」


揃って嫌そうな顔を向けながら、律儀な挨拶と礼を交わす。

仲がいいのか悪いのかよく分からない。昔からの付き合いの皆が、そう口をそろえる。



おそらく、本人たちもよく分かっていない。



尚嗣の言葉に、数日前のことを思い出した雪虎は、目を瞬かせた。

結城家の当代は尚嗣の兄、正嗣である。
よって母親は先代の妻であり、雪虎にとってはよそよそしかった大人の一人だ。

が、彼女は周囲の目を憚って消極的ではあったが、雪虎に同情的だった。
だからこそ、結城家の兄弟は他と比べて雪虎に対して先入観を持たず接してくれたのかもしれない。

しかも彼女は、雪虎の祖母・巴に心酔していた。

それらのことがあったからだ。久しぶりに見た彼女がスーパーの駐車場で困っていれば、見て見ぬフリもできなかったのは。


迷惑そうな反応をされたらすぐ離れよう。


思いながら声をかけた。
と、相手が雪虎と気づいた彼女は「まあまあ立派になって」と泣き出してしまった。

幼い頃の雪虎の状況を知る大人から見れば、思うところもあったのだろう。

困りながら、そっとハンカチを差し出せば「まあまあ」とハンカチを握りしめて泣き止まないものだから、彼女が落ち着くまで日の暮れた駐車場で小一時間は一緒に過ごした。



ちなみに車のトラブルは、単純にハンドルロックだった。



思い出した雪虎は、バツが悪い気分で「ああ」とだけ頷く。
そうして、久しぶりに顔を見た相手のことを思い出せば、同じ地元にいてもなかなか会わない相手のことが気になった。


「そういや、大将はどうしてる?」


大将というのは、尚嗣の兄、正嗣のことだ。彼は、結城家の家長だ。
聞いた話では、二人の子供に恵まれ、順風満帆らしい。

月杜家には及ばないが、結城家も長い歴史を持つ旧家である。
一度、血が絶えかけたが、月杜家と関わることで持ち直した過去があった。
当代もまた、尚嗣の姉である結城茜が月杜家へ嫁ぎ、跡継ぎを産み落としたことで、より強固な月杜家の後ろ盾を持つことに成功している。

とはいえ、尚嗣のことだ。
簡単に誰かを褒めたりはしないだろうと雪虎は予測した。

口から飛び出すとすれば、皮肉の砲弾。しかし、尚嗣の反応は、予想の斜め上に来た。
尚嗣は言い淀み、苛立ったような視線を横へ流す。視線の先には、月杜の屋敷。


「―――――兄貴はバカだからな」


その態度に、
「おいおい、まさか」
思い当たる節があった雪虎は、顔をしかめた。







「まだ月杜家のこと、とやかく言ってんじゃないだろうな」

ふん、と大きく鼻を鳴らす尚嗣。早口に言った。


「いつも言ってるぞ、茜は…姉貴は月杜に殺されたってな?」







茜が亡くなった頃。
雪虎は、ひどい顔をした正嗣に会ったことがある。

暗い怨恨に満ちた表情だった。



―――――茜が愛されていなかったことは、知っている。可哀そうな茜。



そう呟いた正嗣は、思いつめた目をしていた。雪虎は黙って正嗣の隣で内心の吐露を聞いていたが。
本音では。


―――――ふざけんな、と罵っていた。





(月杜へ嫁に行け、と最後に背中を押したのは、アンタじゃないか)











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