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日誌・67 逆らえない
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娘に答えるのではなく、雪虎に対して戸惑った態度で言ってのける。
状況が状況でなければ、お見事、と口笛を吹ているところだ。
ところが、雪虎が答える前に、
「…どういうことだ、お前?」
夫の方が反応した。
声も態度も平常心だが、額に青筋が立っている。
―――――しめた。
多少、騒ぎを起こしてしまうのは、ホテル側に申し訳ないが、この状況だ、大目に見てもらうしかない。
視界の隅で、フロントにいるホテルの従業員が、出ていくべきか行かざるべきか、悩む態度を見せていた。
一方。
横目に見れば、もう、浩介と真也の姿はなかった。よし。
あとは雪虎がここを離脱すれば、コトは済む。
表情を変えず、雪虎が一歩後退しようとした刹那。
…うっかり、真正面から、見てしまった。母親の目を。
ぎくり、一瞬、脚が竦んだ。その場に足が縫い止められる。―――――そっくりだったからだ。
雪虎の母親がいつも見せていた眼と。
―――――お母さんを庇って。息子のあなたが犠牲になって。
何の躊躇もなく雪虎を盾にした彼女の眼差しと。
その影響下から、すっかり抜け出した、と思っていたのに。
雪虎はつい、奥歯を強く噛む。
(この歳になっても、…まだ)
呪縛が消えていない、とは。
逆に情けない。
「あなたママと一緒だったって本当?」
何も知らない顔でやってきた若い男に、娘が問いただす。
「え、…」
悪いことに、彼は嘘がつけない人間だったようだ。狼狽えた目を、義理の母親となる女性へ向ける。
―――――決定的だ。
カッとなり、怒りも隠さず、娘は雪虎の腕を掴んだ。
「ちょっとあなた、もっと詳しく…っ」
だが、いっとき、無防備になっていた雪虎の顔を覗き込むなり。
彼女は、小さな悲鳴を上げた。さっと青ざめる。汚いものに触れたかのように、後退した。
慌てて雪虎は顔を伏せるが、遅い。
「な、なんなの、あなた…気持ち悪い」
嘔吐を堪えるように、彼女が口元をおさえたとき。
「―――――なんの騒ぎかね」
騒ぎの気配に衆目を集め始めた状況下、いっきに冷や水を浴びせるような静謐な声がすぅっと自然に割って入った。
ぎくり、雪虎の身体が固まる。幼い頃から、聞き慣れた声だ。
なぜこんなところに。いや。
―――――地元で、著名人ばかりが集まる会合があるのなら、この男が呼ばれないわけがない。
月杜秀。
思わず、唇がへの字になった。
いちいち振り向かずとも、存在感がもう、重圧だ。
秀がそこにいる。
状況が状況であるだけに、よりいっそう死にたくなった。
また、何もこんな場面で出くわさなくてもいいではないか。
―――――秀と会うときは、いつもこうだ。
「…これはっ、月杜の、若当主…!」
高圧的だった父親の顔が、いっきにへつらうものに変わる。皆まで言わせず、
「まず、先に警告しておく」
風が動いた。そんな感じがするなり。
雪虎の隣に、誰かが立った。
190はあるだろう、長身。首はがっしり、肩幅も広く、腰も据わった、男らしい体躯。
そんな相手が動くのだ。いかに本人が物静かでも、何事も感じなかったで終わるはずもない。
「―――――コレは月杜の一族である」
告げるなり。
無造作に、雪虎の帽子が奪われた。いや、頭を撫でるように動いた秀の手に、払い落とされた。
足元に落ちたそれに、雪虎は心底ギョッとなる。
つい、秀を睨みそうになり、寸前、堪えた。
露になった雪虎の顔立ちに、幾人かが悲鳴を上げ、いっせいに顔を背けられる。
(…どういうつもりだ)
初見の相手には、雪虎の容姿は過剰なほど醜悪に見える現象を、秀は知っているはず。子供の頃からの付き合いなのだ。
知っていて、この行動に出たということは。
大勢の前で、貶めようという魂胆だろうか。いや、それなら。
どうして事前に、雪虎のことを『月杜の一族』と伝えたのか。
秀の考えが分からない。
どこにも視線を定めることなく真っ直ぐ前を向いたまま、微動だにせず、雪虎が逃げ出したい衝動を堪えた刹那。
「…『もう一度、彼を見なさい』」
―――――秀の、無感動な声が静まり返ったロビーに響いた。
なんだか、少し、嫌そうな声だな、と感じたのは、付き合いの長さがなせる業だろうか。ただ、次の瞬間。
(は?)
一瞬、雪虎は呆気にとられる。
確かに。
雪虎を見た一度目は皆、雪虎の姿に極端な醜悪さを見るが、二度目は、嘘のように、それを感じないらしいということは、知っている。
だが、一度で懲りた相手に、それを強要することはほぼ不可能だ。
ある意味で、勇気を必要とする。というのに。
ロビーにいた全員が、秀の呼びかけに対し、顔を上げた。雪虎を見る。―――――まるで、操り人形めいた動き。
(…なんだ?)
妙な違和感に、雪虎は少し、ぞっとした。
そして、全員が。
―――――呆気にとられた顔になった。彼らの目には、雪虎が、初見とは別人に見えているのだろう。
「それで?」
再度、秀が口を開く。
そうして、さり気なく雪虎の前に立ったものだから、あからさまに目をこすってまじまじと雪虎を見ようとした視線が、遮られた。
目の前にある秀の、羽織の背に、やはり今日も和装なのだな、と場違いな考えが浮かぶ。
「コレが何か問題を?」
「あ、いや…、それは」
しり込みした父親と違って、娘は勇敢だった。蛮勇、ともいうが。
「問題あるんじゃなくって、聞きたいことがあるだけで、…もがっ」
咄嗟に、横から手を伸ばした父親と母親に、口を塞がれた。
あからさまに秀の視線の温度が下がったからだ。
「も、申し訳ありません」
「きちんと、教育いたしますので」
両親の言葉に、秀は微かに顎を引いた。
「コレが騒ぎを起こした罰は、私が受けさせよう」
雪虎は咄嗟に、拳を強く握りこんだ。
落ち着け。
ここで反発したところで、誰の得にもならない。自身に言い聞かせ、大きく息を吐きだした。
知ってか知らずか、秀は続ける。
「月杜を罰せるのは月杜だけだ。―――――黒瀬」
「はい、旦那さま」
言って、姿を見せたのは、初老の男。隙のないスーツ姿。崩れない、人の好さそうな微笑。
「何かございましたら、こちらにご連絡を」
言って、名刺を折り目正しく差し出した。黒瀬のそつない対応を尻目に、秀が振り向く。
見上げれば、…いつも通り、腹立たしいほど冷静な表情。
反則的な、どっしりとした存在感。
「行くぞ」
強制でもないのに、やんわりと背を押されたら、逆らえない。
それにこの状況下で逆らうのは、さすがに子供じみている。
小さく息を吐きだし、雪虎は黙って従った。
状況が状況でなければ、お見事、と口笛を吹ているところだ。
ところが、雪虎が答える前に、
「…どういうことだ、お前?」
夫の方が反応した。
声も態度も平常心だが、額に青筋が立っている。
―――――しめた。
多少、騒ぎを起こしてしまうのは、ホテル側に申し訳ないが、この状況だ、大目に見てもらうしかない。
視界の隅で、フロントにいるホテルの従業員が、出ていくべきか行かざるべきか、悩む態度を見せていた。
一方。
横目に見れば、もう、浩介と真也の姿はなかった。よし。
あとは雪虎がここを離脱すれば、コトは済む。
表情を変えず、雪虎が一歩後退しようとした刹那。
…うっかり、真正面から、見てしまった。母親の目を。
ぎくり、一瞬、脚が竦んだ。その場に足が縫い止められる。―――――そっくりだったからだ。
雪虎の母親がいつも見せていた眼と。
―――――お母さんを庇って。息子のあなたが犠牲になって。
何の躊躇もなく雪虎を盾にした彼女の眼差しと。
その影響下から、すっかり抜け出した、と思っていたのに。
雪虎はつい、奥歯を強く噛む。
(この歳になっても、…まだ)
呪縛が消えていない、とは。
逆に情けない。
「あなたママと一緒だったって本当?」
何も知らない顔でやってきた若い男に、娘が問いただす。
「え、…」
悪いことに、彼は嘘がつけない人間だったようだ。狼狽えた目を、義理の母親となる女性へ向ける。
―――――決定的だ。
カッとなり、怒りも隠さず、娘は雪虎の腕を掴んだ。
「ちょっとあなた、もっと詳しく…っ」
だが、いっとき、無防備になっていた雪虎の顔を覗き込むなり。
彼女は、小さな悲鳴を上げた。さっと青ざめる。汚いものに触れたかのように、後退した。
慌てて雪虎は顔を伏せるが、遅い。
「な、なんなの、あなた…気持ち悪い」
嘔吐を堪えるように、彼女が口元をおさえたとき。
「―――――なんの騒ぎかね」
騒ぎの気配に衆目を集め始めた状況下、いっきに冷や水を浴びせるような静謐な声がすぅっと自然に割って入った。
ぎくり、雪虎の身体が固まる。幼い頃から、聞き慣れた声だ。
なぜこんなところに。いや。
―――――地元で、著名人ばかりが集まる会合があるのなら、この男が呼ばれないわけがない。
月杜秀。
思わず、唇がへの字になった。
いちいち振り向かずとも、存在感がもう、重圧だ。
秀がそこにいる。
状況が状況であるだけに、よりいっそう死にたくなった。
また、何もこんな場面で出くわさなくてもいいではないか。
―――――秀と会うときは、いつもこうだ。
「…これはっ、月杜の、若当主…!」
高圧的だった父親の顔が、いっきにへつらうものに変わる。皆まで言わせず、
「まず、先に警告しておく」
風が動いた。そんな感じがするなり。
雪虎の隣に、誰かが立った。
190はあるだろう、長身。首はがっしり、肩幅も広く、腰も据わった、男らしい体躯。
そんな相手が動くのだ。いかに本人が物静かでも、何事も感じなかったで終わるはずもない。
「―――――コレは月杜の一族である」
告げるなり。
無造作に、雪虎の帽子が奪われた。いや、頭を撫でるように動いた秀の手に、払い落とされた。
足元に落ちたそれに、雪虎は心底ギョッとなる。
つい、秀を睨みそうになり、寸前、堪えた。
露になった雪虎の顔立ちに、幾人かが悲鳴を上げ、いっせいに顔を背けられる。
(…どういうつもりだ)
初見の相手には、雪虎の容姿は過剰なほど醜悪に見える現象を、秀は知っているはず。子供の頃からの付き合いなのだ。
知っていて、この行動に出たということは。
大勢の前で、貶めようという魂胆だろうか。いや、それなら。
どうして事前に、雪虎のことを『月杜の一族』と伝えたのか。
秀の考えが分からない。
どこにも視線を定めることなく真っ直ぐ前を向いたまま、微動だにせず、雪虎が逃げ出したい衝動を堪えた刹那。
「…『もう一度、彼を見なさい』」
―――――秀の、無感動な声が静まり返ったロビーに響いた。
なんだか、少し、嫌そうな声だな、と感じたのは、付き合いの長さがなせる業だろうか。ただ、次の瞬間。
(は?)
一瞬、雪虎は呆気にとられる。
確かに。
雪虎を見た一度目は皆、雪虎の姿に極端な醜悪さを見るが、二度目は、嘘のように、それを感じないらしいということは、知っている。
だが、一度で懲りた相手に、それを強要することはほぼ不可能だ。
ある意味で、勇気を必要とする。というのに。
ロビーにいた全員が、秀の呼びかけに対し、顔を上げた。雪虎を見る。―――――まるで、操り人形めいた動き。
(…なんだ?)
妙な違和感に、雪虎は少し、ぞっとした。
そして、全員が。
―――――呆気にとられた顔になった。彼らの目には、雪虎が、初見とは別人に見えているのだろう。
「それで?」
再度、秀が口を開く。
そうして、さり気なく雪虎の前に立ったものだから、あからさまに目をこすってまじまじと雪虎を見ようとした視線が、遮られた。
目の前にある秀の、羽織の背に、やはり今日も和装なのだな、と場違いな考えが浮かぶ。
「コレが何か問題を?」
「あ、いや…、それは」
しり込みした父親と違って、娘は勇敢だった。蛮勇、ともいうが。
「問題あるんじゃなくって、聞きたいことがあるだけで、…もがっ」
咄嗟に、横から手を伸ばした父親と母親に、口を塞がれた。
あからさまに秀の視線の温度が下がったからだ。
「も、申し訳ありません」
「きちんと、教育いたしますので」
両親の言葉に、秀は微かに顎を引いた。
「コレが騒ぎを起こした罰は、私が受けさせよう」
雪虎は咄嗟に、拳を強く握りこんだ。
落ち着け。
ここで反発したところで、誰の得にもならない。自身に言い聞かせ、大きく息を吐きだした。
知ってか知らずか、秀は続ける。
「月杜を罰せるのは月杜だけだ。―――――黒瀬」
「はい、旦那さま」
言って、姿を見せたのは、初老の男。隙のないスーツ姿。崩れない、人の好さそうな微笑。
「何かございましたら、こちらにご連絡を」
言って、名刺を折り目正しく差し出した。黒瀬のそつない対応を尻目に、秀が振り向く。
見上げれば、…いつも通り、腹立たしいほど冷静な表情。
反則的な、どっしりとした存在感。
「行くぞ」
強制でもないのに、やんわりと背を押されたら、逆らえない。
それにこの状況下で逆らうのは、さすがに子供じみている。
小さく息を吐きだし、雪虎は黙って従った。
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