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第3章
幕33 売られた喧嘩は
しおりを挟む「そっちこそ、いつもいい子ぶってるだけあるじゃないか」
挑発の口調で、エメリナ。
よせよせ、とリオネルが思う間にも、言葉は続く。
「殺されそうになっても、殺してないなんて。でもそれもいつまでもつかな?」
どういうつもりか、エメリナはリオネルに目配せした。リオネルは内心舌打ち。
完全に巻き込まれた。
しかも相手はヴィスリアの魔人―――――こうなってはもう、リオネルは逃れられない。
エメリナはランを指さし、命じた。
支配した相手に。
「殺せ」
刹那に動いた剣闘士の背後に隠れ、エメリナはリオネルに言う。
「あんただって、もう逃げられないんだよ、早くやりな!」
「ああくそ、この―――――疫病神が!」
牢内の魔術で作られた明かりに、ゆらと床に浮かび上がっていたリオネルの影が、ぶるり、震えた。
「出て来い、魔神! 我が意を行え―――――そんで、とっととずらかるぞ!!」
どこか危ういエメリナを、リオネルは面白がって付き合ってきた。
これは魔族の特性だ。トラブルメーカーほど楽しいものはない。
ただし今回ばかりは、それがとんでもない過ちだったとさすがのリオネルも思った。
こうなれば後の祭りだが。
リオネルの意に応じ、―――――彼の影が盛りあがる。
影の中へあらかじめ召還していた魔人が、その異形を現世に現わした。
人型をした、影。それが、顕現した魔人の姿だ。牢内が窮屈そうに盛りあがったかと思えば。
魔神は即座に動いた。
無造作に闇が凝った牢内へ腕を突っ込む。
拍子に、牢の鉄格子が棒切れのようにぽきぽきと折れた。
問題は、そこから先だ。
影の指先が闇に触れた。とたん。
痺れのような、肉体が水に溶けて流れ落ちていくような感覚がある。
痛みはないが、その先には決して届かない、不気味な感触。
―――――それでも。
(腕はくれてやろう。だが)
感覚はないが、かろうじでまだ存在する五本の指を熊手のような形にして、
(…お宝は頂く)
奥に隠れていたものを、魔神はいっきに、外へ掻き出した。
(手ごたえは、あった…どうだ?)
―――――床の上。
滑るように出てきた、小さな影がある。それは、小さな少女。黄金の髪に、白い肌。
ルビエラ・シハルヴァ。
ただしその目は、固く閉ざされている。そして、その姿は、思ったより小さい。
…違和感があった。
(捕まった時点では、十歳だったはずだから、今は十五歳のはずだが)
五年ぶりに明るみに出たその姿は、まだ十歳の子供にしか見えない。
「―――――…王女!」
あろうことか、襲い掛かった剣の腹を拳で横殴りにしたランは、割れ砕けた切っ先が天井に突き立つのを尻目に、小柄な人影目指して、前へ出た。
同じように、守るものを失った闇が、再び王女目指して蠢く。
「させるか!」
『これ』は、リオネルの戦利品だ。
誰に奪われるつもりもない。
気絶しているのか、眠っているのか。
王女とは思えないほど、簡素な服を身に着けた少女が動く気配はなかった。しかし、呼吸の気配はある。死んではいないだろう。
真っ先に、一番近くにいた魔神が、無事な腕で、少女を掬いあげる。
闇と、ランの指先を潜り抜け、王女を奪った。
間髪入れず、
「そらよっ」
エメリナが言っていた通り、トランクの中へ放り込んだ。
待ちかねたエメリナが蓋を閉じる。
とたん、凝っていた闇が、狼狽えたように薄くなった。
守るべき対象を感知できなくなったのだろう。
役目がなくなった精霊たちが、霧散していく。
「エメリナ!」
とはいえ、ランはそうはいかない。
王女がどこにいるか知る以上、地の果てまで追ってくるだろう。
あのヴィスリアの魔人ならば、きっとそうする。そしてそれは、主命である可能性が高かった。
トランクの蓋を閉じ、持ち上げようとしたエメリナに、ランは猟犬のように迫る。
「主君の命令だ、その方は返してもらう!」
さすがのエメリナも、ランにはかなわないと思ったのだろう。
だが、観念するには至らない。
咄嗟に周囲を見渡した彼女に、
「こっちだ!」
リオネルは、魔神の無事な方の腕を伸ばして見せた。
ぐっと唇をかみしめたエメリナは、
「お願いっ」
叫び、トランクをその腕めがけて投げる。
あの細身で大した力だと思うが、風の精霊の力を借りたのだろう。
トランクを受け止めた魔神の腕には、かなりの衝撃があった。
それをぎりぎりで止め損ねたランが、エメリナの身体に激突する。
「うわ」
通路を、絡み合うようにして転がった二人を尻目に、リオネルはにやりと笑った。
闇からコレを取り出すのに、苦労したのはリオネル一人だ。
わずかとはいえ、代償も払った。
ならば、戦利品は彼がもらうべきだろう。
「あばよっ、せいぜい頑張って争いな!」
言うなり。
リオネルは、魔神の拳で、地下の天井を突き上げた。
―――――真上は闘技場だ。
魔人の拳は、迷うことなくそれを打ち砕いた。
巻き込まれたくはなかったが、…ここまで来たからには仕方がない。
外の空気が流れ込む。太陽の光ごと。
たちまち、五年もの間凝っていた闇は消え去る。
ばさり、リオネルは翼を打って外へ飛び立ちながら、魔神に命じた。
「派手に殺せ! 蹂躙しろ! なくした腕を取り戻し、力の糧を得ろ!」
闘技場の中は、いつも通り、満員御礼だ。
時に人死にが出るこの見世物に、人間は毎日熱狂している。
だったら、自分たちが殺されたって仕方がない話だろう?
派手にやれば、リオネルとて魔王からの仕置きは逃れられないだろうが、それにしたって百年くらいの謹慎で済むだろう。
百年など、あっという間だ。
その間、手に入れた魔女で遊ぶのも一興。
(どうやって遊んでやろうかなあ)
今からわくわくしながら、空から、闘技場全体を見渡した。
案の定、多くの観客が揃っている。
闘技場の床に空いた穴を指さし、興奮気味に騒いでいた。あくまで、他人事として。
「では、はじめようか」
血を、肉を、命を、魂を―――――こんなにたくさん、思いのままにできるとは。
これから見世物になるのは、観客全員の、死だ。
想像だけで、涎が出た。
これでついさっき払った、ちょっとした犠牲も帳消しだ。
リオネルに応じるように、魔神が咆哮―――――突然の闘技場の崩壊に気を取られていた観客たちが、悲鳴を上げる。
ようやく状況を察したらしい。
いっきに満ちた、恐怖と絶望の空気に、リオネルは心地よくなった。
上機嫌のリオネルが命じるままに、魔神はそこだけ唯一裂けた器官、口を三日月の形にして笑う。歯をむき出しにして。
席から立ち上がり、我先に逃げ惑う人間たちを追うように。
猛烈な魔力の息吹が闘技場を席捲―――――観客たちの肉体が、整備された建築物もろとも微塵にされると思われた、刹那。
―――――ガッガガガガガ!!!!
魔神を中心に、螺旋に観客席を刻もうとした風の刃が、透明な壁に阻まれた。
不快な音を立て、威力をかき消された風の刃は、相当の破壊力を有していたはずだ。
それが完全に封じられた。
この現実に、リオネルは唖然となる。
魔神との対戦など、高名な魔術師ですら避ける。その理由は。
―――――魔神は、人間の手では倒せない。
それが、世界の理だ。
召喚した魔族が召喚を解くか、死ぬかしない限りは、魔神という存在は消滅しないのだ。
魔神は、魔女がその威を借りるような自然界の精霊ではない。
が、魔の精霊と言えるかもしれなかった。魔物ならば血肉をまとうが、魔神はそうではない。ゆえに。
魔神を前にしたものは、一目散に逃げる他ない。
コロッセオの観客たちは、現れた巨大な怪物が、魔神だとすぐさま悟ったろう。同時に。
標的だった観客たちは、敏感に状況の変化を察したらしい。
逃げる姿勢を保ったまま、立ち尽くす巨大な魔神を観客席から見下ろした。
何らかの形でたった今、観客席への攻撃が阻まれた。
その事実に。
殺されるかもしれない極限状態にあった観客たちの視線は、一斉に、ある場所へ向かった。
そうだ。
今日、この場所には―――――あの方がいる。
ここにいる観客たちは、誰もが噂としてその話を耳にしていた。
嘘だと誰もが一笑に付したが、つい、噂に上がった席を見上げずにはいられなかった。
リオネルは、魔神から目を離した人間たちの視線が向かう先を見遣る。刹那。
「私は」
すぐ近くから、体温が低そうな、感情が薄い声が響いた。
「理不尽な暴力の下、嘆く声や悲鳴が不快でね」
いつからそこにいたのか。
銀髪。威圧的な長身―――――魔神の足元、恐れげもなく、男が一人、立っていた。
「私は暴力を否定はしない。だが目の前で、身勝手に振舞われるのは業腹だ」
魔神とリオネルを見上げた彼の瞳が見えた途端、リオネルはぎょっとなる。
青とも紫とも取れない、妙なる色合い―――――あれは、ゼルキアンの証。
思わず羽ばたく翼を止めそうになり、慌てて飛翔の姿勢を保つ。
(いや。待て。ばかな―――――あり得ない)
あの男は、魔族に憑依された。
憑依された時点で、人間は死ぬ。
その魂は消滅し、肉体も生命活動を停止するのだ。
それが理。世界の。
なのにこれは―――――いったい、何だ。
(何が起こっている?)
あれは、魔族などではない。人間―――――いや、噂通りなら。
天人だ。
間違いない。
では、―――――…では。
戻ったのか。還ったのか。あの男が。
オズヴァルト・ゼルキアンは、この世に。
「あり得ない、あり得ない、あり得ない…っ!」
目の前に見える光景が事実なら、リオネルは魔族たちに警句を放たなければならない。
オズヴァルト・ゼルキアンには近づくな。
彼を、憑依した魔族と侮って、近づけば―――――。
リオネルの警戒と焦燥を感じ取ったか、魔神が、オズヴァルトに向かって、威嚇の唸りを上げる。
警戒、というよりも。
ちっぽけな存在のくせに、無礼を働く愚か者を粛正する、そんな積極的な戦闘態勢に入っていた。
ああそうだ。
いかにオズヴァルト・ゼルキアンが規格外のことをやり遂げ、天人となったとしても、本来は人間だ。
魔神にかなうわけが。
安心したリオネルの目に映ったのは。
―――――オズヴァルトの口元に浮かんだ笑み。…それは、不敵な笑みだ。
魔神の威嚇に怯むどころか、…望むところ、とばかりに。
「私に勝負を挑むというのなら」
言うなり。
オズヴァルトは、崩壊していた足元を、退屈そうな様子で、危なげなく蹴りつけ、
「買ってやろう」
刹那、魔神の顔の眼前にいた彼は、拳をねじりこむように、その中央に叩き込んだ。
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