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第3章
幕20 使い魔ティム
しおりを挟む「さあ?」
マルセルに、カミラは素っ気なく応じた。
あの男が、あの男である以上、―――――ここに来た目的など、一つだろうに。
マルセルとて、それは知っているはず。
なのにわざわざ聞きに来たということは。
不意に、カミラの腹の底で、ざわざわと、嫌悪感に似た何かが渦巻き、胸までせり上がってきた。
…もとより。
この男に対する不信感は、あったのだ。
王国の財務を預かる重要な立場にありながら、五年前のあのタイミングで、国外にいたこと。
その後、どうにか逃げ出せた民を手助けし、仕事につけるよう尽力したと言われるが…ところどころ奇妙な点がある。
過程までは調査していないが、その際に、シハルヴァの民の幾人かが、―――――奴隷になっている。だが。
夫のオリヴァーですら、その確実な証拠は掴めていない。その最たる理由は。
奴隷におとされた民は、その後の扱いの酷さにより、所在を確定できた時にはほぼ全員が死んでいたからだ。
扇の下で、一瞬、カミラは奥歯を食い縛る。
すぐ、意識して力を抜いた。
―――――だめよ、カミラ。落ち着きなさい。
男たちと立つ場所は異なれど、ここがカミラの戦場だ。
微笑まなければならない。
さあ、笑うのよ。
…目の前のこの男、マルセルは何かを知っている。
シハルヴァ王国があのように滅んだ、その核心をきっと掴んでいる。
何らかの形で関わっているはずだ。
何に気付ていても、カミラは微笑まなければならない。
そ知らぬふり、無害なふりをしなければならない。
―――――なんて、歯痒い。しかし…。
忘れてはならない。
カミラには、守るべきものがある。
そのためには、何だって耐えてやる。
ただこの悪臭は、耐えがたい。
(それに、お兄さまが言っていたわ)
生前の兄を思い出しながら、カミラは泣きたい心地を呑み込んだ。
(財務大臣には、横領の疑惑が…)
そして―――――花が綻ぶように、微笑んで見せた。
「そうそう、思い出しましたわ」
廊下の向こうから、騎士の幾人かを連れ、戻ってくる夫の姿に視線を定めながら、彼女の微笑に見惚れたマルセルに言う。
「近く、コロッセオの試合見物へ向かうと仰っておりましたわね。ゼルキアン卿に御用がおありなら、そちらへ出向かれては?」
言葉途中で、さっとマルセルは青ざめた。カミラが見たのは、そこまでだ。
彼女の夫のオリヴァーに気付いたマルセルは、すっと身を引いた。
直接ではないが、マルセルは、国営のコロッセオの経営に関わっている。
平民上がりの、コロッセオ経営者と昵懇の付き合いのはずだ。
そして、その地下で。
―――――奴隷市場があると聞いている。
これらの情報を、あのオズヴァルトが、…のみならず、名だたる能力の高さを誇るゼルキアン家門出身のヴィスリアの魔人たちが、見逃すものだろうか。それとも。
これは、期待しすぎというものだろうか?
カミラは、守るべきものがある。たくさんのものを、そのために斬り捨てた。
残酷な女と思われたって、仕方がない。それでも、本音は。
(ねえ、ヴァル)
年に何回も会えなかったが、幼友達だったオズヴァルトの愛称を心の中で唱え、一度、ヒールの踵を床で強く打ち鳴らし、真剣に心の中で呟いた。
(あんな連中、はやくやっつけてちょうだい)
お転婆だった少女の頃の口調そのままに。
オリヴァーに挨拶し、急ぎ足で去っていくマルセルから目を逸らし、夫と共に歩き出しながら、カミラはそっと彼に寄り添った。
× × ×
ダーツの的とはこんな気分だろうか。
どこで何をしていようと常に突き立つ視線に、宴の場のオズヴァルトはうんざりしていた。
(さすがだね、オズくん)
それでもどこか他人事なのは仕方がない。
第一、誰も話しかけてこないのだ。緊張する理由はなかった。
代わりに、同じテーブルに腰かけた少年を気遣う。
美味しい食事は主人と同じで好物らしい、リスのように口をぱんぱんにしていた。
まっしろな肌に髪、そして紅の瞳。
彼はティム。
女帝クロエがオズヴァルトの元へ置いて行った彼女の使い魔である。
そして便宜上、少年と呼び、彼と呼ぶことにするが。
聞いた話では、無性だそうだ。
男でも女でもない。
繁殖の必要はないからと言われたが、納得だ。
その可愛らしい顔立ちは、少年のようでもあり、少女のようでもある。
出会ったばかりの緊張はどこへやら、ティムは既にある程度ヴィスリアの魔人たちに慣れたように見えた。
今やオズヴァルトよりも、周囲を遠巻きにしているアルドラの貴族たちの方を警戒しているようだ。
…確かに、オズの記憶にある限りでも、アルドラの貴族は油断がならない。
なによりオズヴァルトとしても、つい先ほど実感したばかりだ。
オリヴァー・レミントン。
(治めるべき民もいない魔境の地の大公、とは)
五年前、災厄の日。
ゼルキアン領の民は、主人たるオズヴァルト命令によって半ば追い立てられるように領地を去った。
日常の何もかもを残して。
彼等を受け入れてくれたのは、国外にある地母神の神殿だった。
地母神は、ゼルキアン領で主に信仰される狩猟の女神シューヤの母であり、その関係から、ゼルキアン家は代々、地母神の神殿へ多額の寄付を行っている。
そういった縁での受け入れだった。
もちろん、いつまでも甘えられるわけもない。
仕事を探し始めた彼らは、やがて、シューヤ商団の話を耳にして、商団の元へ続々と集い始めた。
よって、シューヤ商団は、元々ゼルキアン領に住んでいた民が主体となって働いている。
あとは、他のシハルヴァ王国の民。
(状況が落ち着けば、彼らに一旦里帰りをさせてあげたいところだ)
誰だって、生まれ育った場所が恋しいだろう。
…オズヴァルトとて、そうだ。
二度と戻れない、そして、恵まれていた場所ともいえないかもしれないが、故郷が恋しい。
いずれにせよ、今のゼルキアン領は魔境であり、民は不在。
大公と言えば聞こえはいいかもしれないが、実はない。
あのカミラの夫だ、さすがというべきか。
しかもそのことで、オズヴァルトの行動に制限をかけた。
それとも、公に動きやすい立場を作ってくれてありがとうと感謝するべきだろうか?
確かに今後オズヴァルトの行動に制限はできるが、本来公に使おうとしていた商団主という身分では、実際、オズヴァルト・ゼルキアンという男には不足であり、身分ある者―――――たとえば貴族相手となれば寸足らずもいいところだ。
顔を合わせるべき相手ではないと一蹴されておしまいだろう。
つい、皮肉な微笑が唇に浮かびそうになる。
いや、すんでしまったことをあとから考えても仕方がない。
気を取り直し、頬を膨らませ、口をせわしなく動かしながら、大きな目できょときょと会場を見渡すティムに声をかけた。
「知り合いでもいるのかね」
尋ねれば、大きな紅の目をオズヴァルトに向け、口の中のものを呑み込んだ後、
「違うよ」
人懐っこく答えた。
「主さまと行動していたから、見慣れた顔ぶれは多いけど、あのひとたちとお話ししたことは一度もないから」
きりっとした表情で、ちょっと屁理屈のような、だが本人は至って真面目に返事をする。
ただ、ティムが知っている者が多いということは、逆もそうだということだ。
(では、ティムが猫の姿になったなら、私と女帝に関わりがあると見る者が会場には大勢いるということか)
オズヴァルト・ゼルキアンと女帝のつながりを知っている者は多いだろうが、使い魔を預けるような関係とは思っていないはずだ。
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