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幕・185 いい度胸はお互い様
しおりを挟むリヒトの目が、すぅっと冷める。暗い影が落ちた。昂った肉体と裏腹に。
今までヒューゴがそんなことを言うたび、リヒトはこの悪魔に仕置きをしてきた。ひどく痛めつけた。獣をしつけるように。
もちろん、あとで、優しく介抱したが。
厳格な仕置きを繰り返した結果、地獄へ帰るという言葉は、ヒューゴの中で禁句のはずだ。
にもかかわらず、ヒューゴが彼にとって危険な言葉を口にしたということは。
リヒトの目が、物騒に細められた。
(今回の件で、…どの程度ヒューゴの意識が変わったんだ?)
一度、自由に空を飛ばせたから、他も大丈夫だろう、と舐めてかかったのか。
リヒトを甘く見ているのなら、もっと手ひどく躾けなければならない。
肉体と真逆に冷めきった意識になったリヒトの口から、ヒューゴが指を引き抜いた。
濡れた指先で、つ、と唇を辿る。
返事を促すように、打ち付ける腰の動きも止まった。
リヒトは、一度強くぎゅっと目を閉じる。とにかく今言えることは。
「…言い方が、気に食わない」
あがる息を抑えながら、リヒトは文句をつける。同時に、無意識に腰がくねった。
素直なヒューゴの性格は好きだが、真っ直ぐな言い方は時折心底、気に入らない。
『帰ってもいいか』? つまりヒューゴにとっては、地獄が故郷なのだ。リヒトのところではない。
しばしの沈黙ののち、
「言い方?」
途方に暮れたように、ヒューゴ。
「どのへんが?」
「分からないのなら、…仕方がないな、諦めろ」
だが、こう言いながらも、リヒトには自信がない。
いくらリヒトが許さないと言ったところで、ヒューゴが本気で望むなら、この悪魔はリヒトの束縛など力づくで振り切って進むだろう。
だが、ヒューゴはそうしない。
それを知っているからこそリヒトも強気でいられるのだ。
「…なあ、リヒト。前から思ってたんだけど、お前が、俺を絶対離そうとしないのって」
不思議そうに、ヒューゴは言葉を紡ぐ。
「なんだか前に、俺が絶対帰ってこなかった、そんな経験をしてる風だよな?」
「…なに?」
―――――ヒューゴが絶対、帰ってこなかった?
再会してから今まで、そんなことは一度もない。
なにせ、リヒトは念には念を入れて、ずっとヒューゴを縛っていたのだから。
(だが思えば確かに、そこまで念を入れる必要があったか? 我ながら過剰だった。異様なほど。その上、それでも安心できなかった)
聖女に刺されたヒューゴが姿を消した時、…正直、もう終わりだと思った。
ヒューゴは帰らない。帰ってこない。永遠に失われた。そう。
―――――あ・の・と・き・のように。
(あの絶望の深さ、確信は、いったい、なんだった? …どこから来た?)
リヒトが自身の内側を見ようと、した、…直後。
ひ、とリヒトの喉が引きつった音を立てる。腹の底から湧いたのは、猛烈な不安感。
全身から血の気が引きそうになり、リヒトは慌てて首を横に振った。
刹那、…幻だったかのように、すぐ、奇怪な不安感は消え去ったが。
(…?)
確かにそれは、リヒトがずっと、ヒューゴがいなくなることを恐れている気持ちの正体だった。
だが今は、心の奥へどれだけ目を凝らしても、現れない。
ドッとふきでた冷や汗が、一瞬で引いていく。
「いや、変なこと言ってる自覚はあるよ」
黙り込んだリヒトに何を思ったか、言い訳のように、ヒューゴは言葉を続けた。
「俺、そんなことしてないだろ? 前だって、そりゃ地獄に勝手に帰ろうとしたけど、ずっとリヒトに会えないのは寂しいから、会いに来ようと思ったし」
「…初耳だな」
だが、それでも、ヒューゴが地獄へ行くことを許すつもりはない。
会いに来るつもりだった、と言って、百年も経ってしまったら、リヒトは死んでいる。
悪魔の時間に対する感覚など、信用はできなかった。
「リヒト」
リヒトの岩のような決意を察したのだろう、捨て犬のように、ヒューゴが呼ぶ。
かわいそうに、と抱きしめてやりたい。
それ以上に、とどめを刺さなくては、とも思ってしまう。
もう二度と、ヒューゴが妙な考えなど起こさないように。
「そもそも」
息を整えながら、リヒトは突き放すように言った。
「今のお前が、地獄に行って、周囲の悪魔は無事にすむか?」
「…それは」
ヒューゴだって、自覚しているはずだ。
何の対策も知らない今のヒューゴでは、地獄にいる大切な仲間を殺してしまう可能性があると。
「まずその条件をクリアしないと、な?」
ぐっと、ヒューゴは言葉を飲み込んだ。
傷つけているだろうことは分かったが、そうしなければ、ヒューゴは大人しくしていないだろう。
そして何度も、リヒトが気に障る言葉を口にする。無邪気に。
(どうか僕に、お前を傷つけさせないでくれ)
一度奥歯を食いしばり、ヒューゴを追い詰めるために、口を開いた。
「それに地獄には…」
不意に、リヒトの脳裏に、ある名前が浮かび上がる。
―――――ヒューガ・ミサキ。
「お前にとって、大事な女がいるんだろう?」
リヒトは今まで一度も、それをヒューゴに聞いたためしはない。だが。
ヒューゴに思い切らせるためには、この女の存在が、一番効果的ではないのか。
果たして、ヒューゴは、驚いたように息を呑む。
なんで知っているのか、と―――――そう言った態度だ。
「彼女を死なせてしまってもいいのか?」
言いながらも、リヒトは思う。
その女が、地獄にいてよかった。
でなければ、リヒトが殺していただろう。ヒューゴはしょんぼりと呟く。
「…死ぬ、かな。あの子は、悪魔じゃないけど…」
『あの子』。『悪魔じゃない』。―――――なのに地獄に、いる?
理由は分からないが、詳しく聞く気は起こらない。なにせ。
ヒューゴは否定しなかった。地獄に、彼の故郷に、『大事な女』がいることを。
力ない呟きに、リヒトは余計、残酷な気持ちになった。
直後、思い切り、リヒトは繋がった部分をより強く押し付ける。
気持ちよさそうな、苦しそうな呻きがヒューゴの唇から漏れた。
困った声で、名を呼んでくる。
「…リヒト」
「その話は、終わりだ」
身体が求めるまま、リヒトは腰を蠢かす。
「早く、イけ」
「この…、状態で、さぁ…まったく」
リヒトの挑発に、ヒューゴはどこか、物騒に笑った。刹那。
「ぅ、あ!」
いっきに、奥まで突かれる。リヒトの全身が、戦慄いた。
それまで、わざと避けていた一番奥に、ヒューゴの切っ先が届いたからだ。
焦がれていたものが、待ち望んでいた場所へ到達する感覚。
刹那、リヒトの頭から、寸前までの会話が一気に抜け落ちた。
その耳元で、ヒューゴは囁く。
「陛下はいい度胸をしておいで、ですよね?」
それはお互い様だった。
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