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幕・162 ぼこぼこにした挙句
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日没後、足元から立ち上る闇が濃くなる時刻の、スラム街。
その一角で、突如、派手な音があがった。
夜空に花火でも打ち上げられたかのような歓声に似た声が続き、次々と大勢の人間が駆け出す騒音と怒号によって、寂れたスラム街を真昼のように賑わいはじめる。
スラム街の奥。
時に人体の一部が捨てられているような、饐えたにおいが漂う、暗い路地裏。
薄汚れた壁にもたれかかり、煙草に火をつける直前だった青年が、ふと顔を上げる。
今夜は曇りだ。星は見えない。月も隠れている。
一瞬動きを止めた彼は、碧眼を細め、何事もなかったかのように、煙草に火をつけた。
胸いっぱいに煙を吸い込む。
「あー…うるせぇなぁ…」
そんな薄汚い夜の中でも、明るい金髪を彼はわしわし掻き回した。
億劫な気分も隠さず、闇の向こうを睨む。
―――――今夜、同業者が派手な捕り物をはじめることは、分かっていた。
ここはスラム街だ。
多かれ少なかれ、誰しもがあくどいことをやって生きている。
でなければ、食べていけないからだ。生きていけないから、とそれが詐欺や盗みを働く言い訳にはならないという者もいるが。
(そう言うのに限って、いっこも苦労したことないヤツだったりするんだよな)
当然、きれいごとでできている神殿はこの地を見捨てた。
救うに値しない、穢れた地―――――それが、彼らがこの地区に与えた名称だ。
晴れてスラム街は、地獄同様、という認定を受けたわけだ。
ただそれならそれで、やりやすい。権力秩序は、いっそ邪魔になる時がある。
特に教育が受けられないために教養がない人間の場合、言葉で言って聞かせて分かるものではない。
そういう人間が多いこの地は。
独自の法で成り立っていた。
その法を、暴力という分かりやすい手段で住人達に徹底するのが、各組織の長だ。
青年もまた、その一人。ただし。
(いっとき、たった一人が牛耳ってた時期もあったんだがな)
その頃は、雑然としていたものの、誰もが最低限、人間らしくあれた時代だ。
そんな過去が信じられないくらい、この地は乱れてしまった。
だとしても。
―――――どこまで堕ちたとしても人間としての、最低限のルールは守る必要がある。
それは他の何のためでもない、皆にとって最後の、この居場所を守るために必要なことなのだ。
自ら破滅しないため、犯罪にまみれていても。
―――――いや、だからこそ、必要なルール。
にもかかわらず、平気で一線を越える人間がいる。
(それさえ分からない野郎どもがいるってんなら、ぶっ潰すしかねえだろ)
「レスター」
名を呼ばれた青年が振り向けば、馴染みの相手がつまらなそうな顔で立っていた。
スラム街に乱立する組織はいくつもあるが、その頭目同士の会合で、常に顔を合わせる古株の男だ。
年齢不詳、蛇のように青白い肌の男で、見た目は二十代半ば。
「例の女と繋ぎはつけたのか」
男が言うのに、レスターは暗がりの中でも煌めくような紺碧の瞳を細めた。
「ああ、見つけた」
「外套を被っていて顔は分からないと聞いたが」
「色々、手はある」
「…さすがだな」
感心したような態度であるにもかかわらず、声は蔑むようだ。
何を考えているか分からないが、
「それで、話は?」
自身が治める区域を守る、その気持ちだけははっきりした男だった。
たとえレスターが気に食わなくとも、目的のためにはおとなしく手を組むだろう。
ただし今回の騒動が収まれば、敵同士になるのは目に見えていた。それでいい。
レスターは素っ気なく答える。
「こっちの意図は伝わったはずだ」
何をどうやったか、詳しく語る必要などない。
煙を吐きだせば、相手は不快そうに紫煙を避けた。
なんにしろ、目的は遂げた。あとは、相手の出方次第。いや。
指示以上のことを件の相手がやってのけたことは、現状から理解しないわけにはいかない。
あまりにうまく出来過ぎた状況に、逆に不安になるほどだ。
理想は理想、現実は現実。
大人になれば、誰だってある程度は割り切る。
だが、今回話を持って行った相手は、理想以上の状況を作り上げていた。
「それにしても、…豪胆なのか、軽率なのか、―――――分からないな」
男は怒号や剣戟の音が連鎖する方角を見遣った。
「俺もさっぱりだよ」
レスターは呆れた声を出す。
この、腐り切った、ちっぽけな地区で。
それでも、平気で一線を越える馬鹿がいる。
人間、薬物、道具。
―――――中でも、異種族を捕獲し、売買する輩など、…―――――呆れてものも言えなくなる。
それは、異種族が、公に文句を言い出せない弱い立場の存在と高をくくっての行為かもしれない。
が、彼らは、人間では太刀打ちでいない技術や知識を持っていたりする。
要するに、金を生む存在でもあり、この地が彼らの技術や知識を必要とした時に、手助けを請うべき隣人でもあるのだ。
そんな彼らをモノのように売り買いするなど、愚の骨頂だった。
これで、いざというときの手助けが望み薄になる。
折角、数少ない彼らといい関係を築いてきた努力も、うっかりすれば水の泡だ。
「あー、連中、そのうち俺がどっかに奴隷として売り飛ばしてやろうと思ってたのに、先にぼこぼこにした挙句、見せしめにスラム街の中央に転がすなんてな」
レスターは笑顔で、額に青筋を立てた。
聞いた話では、魔塔にドワーフを売り飛ばした組織があったらしい。
例の女は―――――現れるなり、そのドワーフの知り合いだと堂々、告げたという。
道場破りよろしく、真昼に、彼を売り飛ばした組織に正面から乗り込んできたそうだ。
その上で、構成員を大勢軽々とのした挙句、ドワーフの売買に関わった三人を気絶させて薄暗い帳簿と共に連れ去った。
翌日。
その三人は、スラム街の中央で、素っ裸に剝かれ、殴られた頬を腫れ上がらせ、目の周りに青あざを作り、首から看板を下げた状態で発見された。
『わたしはゴミです』
『クズです』
『畜生です』
冗談のような話だが、現実の出来事だ。
とはいえ、全員、命はあった。…それこそが冗談だろう。
命はあったが、この界隈では生命を断たれたも同然だ。
当分の間、表には出て来られないだろうが。うち一人は、夜逃げ同然で皇都から出て行ったと報告を受けている。
正直、―――――痛快だった。
だが、目立つことをすれば目を付けられるのは、自明の理。
面目を丸潰れにされた組織は、血眼になってその女を捜した。
異種族の売買に関して探っていた女は、果たして、再びスラム街に現れた。
今夜、その売買が大々的に行われると偽の情報を流されたとおりに―――――情報が嘘だと知りながら。
その女は。
豪胆なのか。
軽率なのか。
もう、答えは出ている。
つまり、今夜起きている騒動の正確な状況は。
(海千山千の構成員たちが、たった一人の女のケツを追いまわしてるってだけだ)
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