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幕・84 美味しくなーれ♪
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母が亡くなったあと。
リヒトに対する皇帝の無関心は、侍従や侍女、果ては奴隷たちに至るまで浸透していた。
不要の皇子として、それでも皇子であると言うだけで、存在だけは許された。
運ばれてくる食事はいつも冷たく、時折、それさえ、忘れられる日々。
何日も同じ服を着て、風呂を用意されることもなく、それでもそれなりに、楽しく、リヒトは毎日を冒険して過ごした。
無関心になったということは、教育に費やされる時間を彼自身の楽しみのために使えるということだ。
子供にとって、それは悪い話でもなかった。
手入れされず、鬱蒼と生い茂った皇子宮の庭の草木の中で、木苺を見つけた時、とても嬉しかったことを覚えている。
ただ、分かち合える相手がいないのが、時にひどく空しかった。
だからだろう。
捨てるように地獄へ落とされたとはいえ、ヒューゴとの出会いはリヒトにとって一番うれしい思い出だ。
連れて帰ったヒューゴが「人間は成長するものだから」と子供の姿になった、その手を引いて、リヒトは宝物だと木苺を見せた。
ヒューゴは、きれいだと目を輝かせて、惚れ惚れと見入った。
地獄にきれいなものは少ないんだ、と言って。…そのせいだろうか。
リヒトが躊躇なくそれを飲み込んだ時、ヒューゴはびっくりして飛びあがった。
吐き出せ、と背中を叩いて来たのに、リヒトの方がもっとびっくりした。
嘘のようだが、本当に宝石と思ったようだ。
思い込みは、怖い。
説明し、納得してもらうまで時間はかかったが、実際、食べる方が早い。
口の中へ放り込むなり、ヒューゴはそれが食べ物だと理解したようだ。
ヒューゴは真っ赤になって恥ずかしがった。
その姿を、リヒトはもっと恥ずかしがらせたいなあと不埒なことを考えながら、ぼんやり見守った。
すぐさま立ち直ったヒューゴは、使命感に燃え上がる。
めらめらと瞳を燃やし、握り拳を作って、一言。
―――――俺がご飯を作る。
よく分からないまま、リヒトは拍手をしたが。
悪魔の作るごはんって?
正直、あの地獄の光景を潜り抜けてきた以上、あまり期待できない。
黒こげの虫とか想像してしまう。
そもそも、人間の食事を悪魔であるヒューゴがどの程度知っているというのか。
もちろん、竜の叡智が彼にはある。だがおそらくそれは、いくらありがたくとも、人間の生活の知恵とは無縁だ。
味付けなどどういうふうに行われているのか、リヒト自身全く分からない。
そもそも味付けという者が必要ということ自体、子供のリヒトは知らなかった。
知らなくていい立場だったとも言えるが。
だがリヒトのためだけに作られるごはん。しかも作り手はヒューゴ。
楽しみで仕方なかった。
わくわく待ったリヒトの前に出された、悪魔の料理。
―――――ヒューゴが作るごはんはとても美味しかった。
素朴な家庭の味というのだろうか、皇宮で出てくる食事として相応しいものとは言えなかったが、平民の家族はおそらく、このような食卓を囲むのだろうと思われるような、そんな温かな食事だ。
どこで彼がそんな知識を得たのかは知らない。
その上、妙に凝り性で、皇宮の厨房は使えないからと、魔力で動く簡易の移動式キッチンを作ったりした。たまにやり過ぎではないかとリヒトなどは思う。
だが、ヒューゴが楽しそうだからよしとしてきた。
ただしヒューゴがやって来た頃は、そちらに魔力を吸われ、彼はほとんど普通の人と変わりないことしかできなかった。なのに。
魔竜という上位の悪魔でありながら、そんな状態でも笑って過ごしていたヒューゴは相当強いと思う。
なによりヒューゴは、自分の体面よりリヒトのご飯を優先したと言うわけで。
リヒトから見れば、感謝しかない。
その内、こういう料理は皇子に相応しくないと言って、ヒューゴは皇宮で振る舞われる料理に近い豪華なものを作るようになった。
が、その頃には、リヒトは帝位に最も近い皇子としてすべての人間に認識されるようになり、ヒューゴがわざわざ料理を作る必要はなくなっていた。
とはいえ、たまに恋しくなる。
あの頃の、ヒューゴの食事が。
たまに、その本音を口にすると、リュクスは厳しい顔になる。
―――――そりゃ、ヒューゴのご飯は美味しいよ。好きだけど、ひとつ問題がある。
十代半ばの一時期、リヒトの宮殿で一緒に過ごしたことがあるリュクスは、ただ一点、ヒューゴと共に囲む食卓には問題があると言った。
―――――美味いか? って聞いた後、ヒューゴは美味しくなれよって言うよね、ぼくたちの方を見てさ!
怖いから止めてほしい、そう呟いたリュクスの顔は真剣だった。
道理で、ヒューゴのその決まり文句を、特に気にしていないリヒトが、わかった、と頷いて返せば、リュクスは変な顔をしていたわけだ。
とはいえ。
(こんなことになるのなら、…頻繁に言えばよかった)
厨房の料理人たちに配慮して、リヒトはヒューゴの料理が食べたい、とは滅多に言わない。
それに。
(いつだって、会えるから)
毎日すぐそばにいて、いつだって、リヒトの声はヒューゴに届くから。
機会は毎日あって、だからこそ、つい、後回しにしてしまう。
だが、今。
ヒューゴはいない。
ここに、いない。―――――…これからも?
(どこへ行った。どこへ消えた。…まさか、この世から、いなくなった、なんて…ことは)
血の気が下がる。足から力が抜けそうになった。もしくは、足元にまっくらな穴が開いたような。
だが、座り込めない。当たり前だ。リヒトは皇帝だ。
オリエス帝国の象徴。
けれど。
ヒューゴがいなければ、必要などない地位だ。
今のリヒトには、ヒューゴを縛っていた神聖力が感じ取れない。
力を失ったソレは、すぐ解けて消えるだろう。
もうすっかり消滅しているかもしれない。
自由に焦がれる悪魔が、その機会を逃すはずはなかった。
ヒューゴは、きっと、地獄へ帰ってしまう。
―――――失われる。
こんなにも容易く。
たった一つだけ、リヒトが守りたかったものが。
そばにいてほしかった相手が。
他など何も望まないのに。
指の間をすり抜け、こぼれ落ちていく。
焦燥感が、腹の底を焼いた。
母が亡くなったあと。
リヒトに対する皇帝の無関心は、侍従や侍女、果ては奴隷たちに至るまで浸透していた。
不要の皇子として、それでも皇子であると言うだけで、存在だけは許された。
運ばれてくる食事はいつも冷たく、時折、それさえ、忘れられる日々。
何日も同じ服を着て、風呂を用意されることもなく、それでもそれなりに、楽しく、リヒトは毎日を冒険して過ごした。
無関心になったということは、教育に費やされる時間を彼自身の楽しみのために使えるということだ。
子供にとって、それは悪い話でもなかった。
手入れされず、鬱蒼と生い茂った皇子宮の庭の草木の中で、木苺を見つけた時、とても嬉しかったことを覚えている。
ただ、分かち合える相手がいないのが、時にひどく空しかった。
だからだろう。
捨てるように地獄へ落とされたとはいえ、ヒューゴとの出会いはリヒトにとって一番うれしい思い出だ。
連れて帰ったヒューゴが「人間は成長するものだから」と子供の姿になった、その手を引いて、リヒトは宝物だと木苺を見せた。
ヒューゴは、きれいだと目を輝かせて、惚れ惚れと見入った。
地獄にきれいなものは少ないんだ、と言って。…そのせいだろうか。
リヒトが躊躇なくそれを飲み込んだ時、ヒューゴはびっくりして飛びあがった。
吐き出せ、と背中を叩いて来たのに、リヒトの方がもっとびっくりした。
嘘のようだが、本当に宝石と思ったようだ。
思い込みは、怖い。
説明し、納得してもらうまで時間はかかったが、実際、食べる方が早い。
口の中へ放り込むなり、ヒューゴはそれが食べ物だと理解したようだ。
ヒューゴは真っ赤になって恥ずかしがった。
その姿を、リヒトはもっと恥ずかしがらせたいなあと不埒なことを考えながら、ぼんやり見守った。
すぐさま立ち直ったヒューゴは、使命感に燃え上がる。
めらめらと瞳を燃やし、握り拳を作って、一言。
―――――俺がご飯を作る。
よく分からないまま、リヒトは拍手をしたが。
悪魔の作るごはんって?
正直、あの地獄の光景を潜り抜けてきた以上、あまり期待できない。
黒こげの虫とか想像してしまう。
そもそも、人間の食事を悪魔であるヒューゴがどの程度知っているというのか。
もちろん、竜の叡智が彼にはある。だがおそらくそれは、いくらありがたくとも、人間の生活の知恵とは無縁だ。
味付けなどどういうふうに行われているのか、リヒト自身全く分からない。
そもそも味付けという者が必要ということ自体、子供のリヒトは知らなかった。
知らなくていい立場だったとも言えるが。
だがリヒトのためだけに作られるごはん。しかも作り手はヒューゴ。
楽しみで仕方なかった。
わくわく待ったリヒトの前に出された、悪魔の料理。
―――――ヒューゴが作るごはんはとても美味しかった。
素朴な家庭の味というのだろうか、皇宮で出てくる食事として相応しいものとは言えなかったが、平民の家族はおそらく、このような食卓を囲むのだろうと思われるような、そんな温かな食事だ。
どこで彼がそんな知識を得たのかは知らない。
その上、妙に凝り性で、皇宮の厨房は使えないからと、魔力で動く簡易の移動式キッチンを作ったりした。たまにやり過ぎではないかとリヒトなどは思う。
だが、ヒューゴが楽しそうだからよしとしてきた。
ただしヒューゴがやって来た頃は、そちらに魔力を吸われ、彼はほとんど普通の人と変わりないことしかできなかった。なのに。
魔竜という上位の悪魔でありながら、そんな状態でも笑って過ごしていたヒューゴは相当強いと思う。
なによりヒューゴは、自分の体面よりリヒトのご飯を優先したと言うわけで。
リヒトから見れば、感謝しかない。
その内、こういう料理は皇子に相応しくないと言って、ヒューゴは皇宮で振る舞われる料理に近い豪華なものを作るようになった。
が、その頃には、リヒトは帝位に最も近い皇子としてすべての人間に認識されるようになり、ヒューゴがわざわざ料理を作る必要はなくなっていた。
とはいえ、たまに恋しくなる。
あの頃の、ヒューゴの食事が。
たまに、その本音を口にすると、リュクスは厳しい顔になる。
―――――そりゃ、ヒューゴのご飯は美味しいよ。好きだけど、ひとつ問題がある。
十代半ばの一時期、リヒトの宮殿で一緒に過ごしたことがあるリュクスは、ただ一点、ヒューゴと共に囲む食卓には問題があると言った。
―――――美味いか? って聞いた後、ヒューゴは美味しくなれよって言うよね、ぼくたちの方を見てさ!
怖いから止めてほしい、そう呟いたリュクスの顔は真剣だった。
道理で、ヒューゴのその決まり文句を、特に気にしていないリヒトが、わかった、と頷いて返せば、リュクスは変な顔をしていたわけだ。
とはいえ。
(こんなことになるのなら、…頻繁に言えばよかった)
厨房の料理人たちに配慮して、リヒトはヒューゴの料理が食べたい、とは滅多に言わない。
それに。
(いつだって、会えるから)
毎日すぐそばにいて、いつだって、リヒトの声はヒューゴに届くから。
機会は毎日あって、だからこそ、つい、後回しにしてしまう。
だが、今。
ヒューゴはいない。
ここに、いない。―――――…これからも?
(どこへ行った。どこへ消えた。…まさか、この世から、いなくなった、なんて…ことは)
血の気が下がる。足から力が抜けそうになった。もしくは、足元にまっくらな穴が開いたような。
だが、座り込めない。当たり前だ。リヒトは皇帝だ。
オリエス帝国の象徴。
けれど。
ヒューゴがいなければ、必要などない地位だ。
今のリヒトには、ヒューゴを縛っていた神聖力が感じ取れない。
力を失ったソレは、すぐ解けて消えるだろう。
もうすっかり消滅しているかもしれない。
自由に焦がれる悪魔が、その機会を逃すはずはなかった。
ヒューゴは、きっと、地獄へ帰ってしまう。
―――――失われる。
こんなにも容易く。
たった一つだけ、リヒトが守りたかったものが。
そばにいてほしかった相手が。
他など何も望まないのに。
指の間をすり抜け、こぼれ落ちていく。
焦燥感が、腹の底を焼いた。
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