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幕・63 さし伸ばされた手
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汚れ物の入った籠に隠れるようにしながら、エイダンは、研ぎ澄ました神経で、あの二人が地下牢から出ていくのを確認しながら、必死で考える。
死体を放置して行ったのは―――――そもそも、平気で殺したのは、それでも問題がないからだ。
…どういった状況ならば『問題なし』となるのか。
エイダンには想像もつかない。ただ。
脳裏に閃いたのは。
―――――薬包紙。
この地下牢に入れられた捕虜たちは、おそらくは全員が、何らかの薬物を口にしている。
そう、あの首謀者だけではない。拾った量からして、おそらくは人数分、アレは用意されていたはずだ。
もちろん、用意したのは、帝国ではない。
先ほどの貴族の青年だ。
用意されていたものが何かは、分からない。彼の目論見も分からない。
分からないが。
エイダンは、咄嗟に思考を止める。これ以上は推測の域を出なかった。なにより。
…推測するだけでも、危険な気がした。同時に。
―――――地下牢に満ちている薄気味悪い沈黙が、急に恐ろしくなってきた。
あの二人が出ていって、幾許か経つ。もう少し、待った方がいいような気もするが。
待っていたほうが、もっと危険な気がした。
ここで、取り返しのつかない何かが起きそうな予感に、追い立てられる心地で、立ち上がる。
慌てて籠を背負った。大きく息を吸いこむ。ぐっと息を止めて。
扉を開ける。そして。
―――――全力で、駆けだした。通路を走り抜ける。
呼び止める声はなかった。捕虜たちは、黙って彼を見送る。その眼差しは。
もう死んでいるかのような、諦念に満ちていた。
彼らを尻目に、エイダンは通路を真っ直ぐ突き進む。
この時になっても、エイダンは悩んでいた。
何事もなかったことにして、日常の仕事を続けるか、それとも―――――ここで見たことを、誰かに報告するか。
誰かに言ったところで、無駄だ。エイダンは奴隷。その言葉に意味はない。
誰もあの貴族の青年にはたどり着かないだろうし、辿りついたとしても、彼が知らぬ存ぜぬを通せばそちらが通される。
むしろ、目撃者は消されるだけだ。
奴隷など、次の日死体で発見されたとしても、ゴミ同然に処分される。
だが、それでも。
―――――よろしく、エイダン。俺、ヒューゴって言うの。
ある日、さし伸ばされた手があった。
エイダンは、皇宮にくる以前、オリエス帝国のある地方貴族のもとで、母と共に働いていた。
その貴族は、母の容姿が気に入って、エイダンと共に奴隷商人から買い上げたのだ。
だが、結局は奴隷である。
母は、男の気が向いた時には飾り立てられたが、彼の欲望を満たすために、ひどい暴力を連日受けて帰ってくる日々が長く続いた。
顔が腫れあがっていた日もあれば、明らかに骨折した腕を庇いながら帰って来た日もある。
男には妻がいて、彼女からの風当たりもきつく、体調を崩した母はやせ細り、ろくなものも食べられないまま、逝ってしまった。
酷い目に遭っているというのに、最後まで微笑みながら。
その頃には貴族の男の頭からは母の姿などなく、別の気に入りの奴隷を、犬のように鎖につないで一緒に歩いていた。
母が忘れられたということは、なし崩し的にエイダンも放置されたということで。
弔うこともできず、母の死体と共に忘れ去られたエイダンは、餓死寸前だった。
―――――大丈夫よ、いつか助けが来る。助けてくれるって、そう言ってくれた。
いつもふわふわした言動の母が、そういう時に限って、強く断言していたのを、今でもはっきりと思い出せる。
ただの気休め、夢物語だと、エイダンは虚ろに聞いていた。
だって、そうだろう。
誰が、奴隷など助けると言うのか。
なんのために。
後から知ったことだが。
その頃帝国では、地方貴族への粛清の嵐が吹き荒れていた。
首都から距離があるのをいいことに、民へのやり口があまりに度を越していた地方貴族たちは、この頃根絶やしになった。
エイダンはまだ子供で、世間のことなど知る由もなかったが。
当時エイダンの主人だった地方貴族ももれなく粛清の対象だったようだ。
情状酌量の余地なく、ギロチンの公開処刑を受けた。
とはいえ、そんなことになったところで、奴隷のエイダンが救われることはない。
そう、思っていたのに。
―――――私は間に合わなくてもいい、せめてこの子だけは助けてくれって、お母さんにお願いされたんだ。
エイダンの母の証言が、その男を罰する決め手を作ったとヒューゴは言った。
―――――証拠を揃える時間が必要で…でも間に合ってほしかった。せめて治癒を施そうとしたんだけど、お母さんが、ご主人様に疑われたら困るからこのままでいいって…。
ぼそぼそと、最後は言い訳のように、ヒューゴ。
エイダンにとっては、もう何もかもどうでもよかった。
それでも、人懐っこいヒューゴという男は、彼に怯えるエイダンを放っておいてはくれなかった。
善い人に見えるし言動もまともなのに、なぜ彼が怖いのか分からず混乱していたエイダンに、ヒューゴは何でもないことのように言った。
―――――俺、悪魔だからさ。だからそれは仕方ないんだよ。
…あっけらかんとしたものだった。エイダンは驚いた。
悪魔だから恐怖し、避けられる。そのことを、ヒューゴは一つも気にしていないのだ。
いや、かなしいと思っているようだが、受け容れ、その上で、自分らしく存在している。
しかも、他人の気遣いまでできるのだ。
もちろん、そうでなくとも、ヒューゴは特別な存在だ。だとしても、彼を見ていると。
奴隷だからと諦め、拗ねてすべて投げ出そうとしていた自身がひどくちっぽけに見えて、惨めだった。
…このままでいいわけがない。
エイダンを皇宮へ誘ってくれたのは、ヒューゴだ。
エイダンは力いっぱい頷いた。精一杯頑張ろうと思った。目まぐるしく働いているうちに、
―――――聞いて聞いて、リュクス! エイダンってすごいから!
ヒューゴに手を引っ張って連れて行かれた先にいた人は、…宰相閣下だった。
それを知らず、戸惑うエイダンを目の下に隈を作った彼へ押し出しながら、ヒューゴは熱弁。
―――――話して分かった。エイダンは、一を聞いて十を知る頭の子だよ。リヒトやリュクス、リカルドと同じ! 人材が欲しいって言ってただろ、育ててみない?
―――――あのね、国政は遊びじゃないんだよ。
呆れ返って棘のある一言を放ったリュクスだったが、それでもエイダンと真正面から向き合った。
そして、半ば空ろに諦めた態度で続ける。
―――――いやなことにこの悪魔、人を見る目はあるからね。
数日彼の部署で下働きをした後、リュクスは突如言った。
―――――読み書き計算を覚える時間を作ってね。
…仕事は増えたが、やりがいはある。なにより、できることが増えた。
ここのところ、毎日が楽しい。
そう思った矢先の、今日の出来事だ。
(やっぱり、報告、しないと)
気付かなかったことにしようと思ったが。
やはり、このままなかったことにしてはいけない。
死体を放置して行ったのは―――――そもそも、平気で殺したのは、それでも問題がないからだ。
…どういった状況ならば『問題なし』となるのか。
エイダンには想像もつかない。ただ。
脳裏に閃いたのは。
―――――薬包紙。
この地下牢に入れられた捕虜たちは、おそらくは全員が、何らかの薬物を口にしている。
そう、あの首謀者だけではない。拾った量からして、おそらくは人数分、アレは用意されていたはずだ。
もちろん、用意したのは、帝国ではない。
先ほどの貴族の青年だ。
用意されていたものが何かは、分からない。彼の目論見も分からない。
分からないが。
エイダンは、咄嗟に思考を止める。これ以上は推測の域を出なかった。なにより。
…推測するだけでも、危険な気がした。同時に。
―――――地下牢に満ちている薄気味悪い沈黙が、急に恐ろしくなってきた。
あの二人が出ていって、幾許か経つ。もう少し、待った方がいいような気もするが。
待っていたほうが、もっと危険な気がした。
ここで、取り返しのつかない何かが起きそうな予感に、追い立てられる心地で、立ち上がる。
慌てて籠を背負った。大きく息を吸いこむ。ぐっと息を止めて。
扉を開ける。そして。
―――――全力で、駆けだした。通路を走り抜ける。
呼び止める声はなかった。捕虜たちは、黙って彼を見送る。その眼差しは。
もう死んでいるかのような、諦念に満ちていた。
彼らを尻目に、エイダンは通路を真っ直ぐ突き進む。
この時になっても、エイダンは悩んでいた。
何事もなかったことにして、日常の仕事を続けるか、それとも―――――ここで見たことを、誰かに報告するか。
誰かに言ったところで、無駄だ。エイダンは奴隷。その言葉に意味はない。
誰もあの貴族の青年にはたどり着かないだろうし、辿りついたとしても、彼が知らぬ存ぜぬを通せばそちらが通される。
むしろ、目撃者は消されるだけだ。
奴隷など、次の日死体で発見されたとしても、ゴミ同然に処分される。
だが、それでも。
―――――よろしく、エイダン。俺、ヒューゴって言うの。
ある日、さし伸ばされた手があった。
エイダンは、皇宮にくる以前、オリエス帝国のある地方貴族のもとで、母と共に働いていた。
その貴族は、母の容姿が気に入って、エイダンと共に奴隷商人から買い上げたのだ。
だが、結局は奴隷である。
母は、男の気が向いた時には飾り立てられたが、彼の欲望を満たすために、ひどい暴力を連日受けて帰ってくる日々が長く続いた。
顔が腫れあがっていた日もあれば、明らかに骨折した腕を庇いながら帰って来た日もある。
男には妻がいて、彼女からの風当たりもきつく、体調を崩した母はやせ細り、ろくなものも食べられないまま、逝ってしまった。
酷い目に遭っているというのに、最後まで微笑みながら。
その頃には貴族の男の頭からは母の姿などなく、別の気に入りの奴隷を、犬のように鎖につないで一緒に歩いていた。
母が忘れられたということは、なし崩し的にエイダンも放置されたということで。
弔うこともできず、母の死体と共に忘れ去られたエイダンは、餓死寸前だった。
―――――大丈夫よ、いつか助けが来る。助けてくれるって、そう言ってくれた。
いつもふわふわした言動の母が、そういう時に限って、強く断言していたのを、今でもはっきりと思い出せる。
ただの気休め、夢物語だと、エイダンは虚ろに聞いていた。
だって、そうだろう。
誰が、奴隷など助けると言うのか。
なんのために。
後から知ったことだが。
その頃帝国では、地方貴族への粛清の嵐が吹き荒れていた。
首都から距離があるのをいいことに、民へのやり口があまりに度を越していた地方貴族たちは、この頃根絶やしになった。
エイダンはまだ子供で、世間のことなど知る由もなかったが。
当時エイダンの主人だった地方貴族ももれなく粛清の対象だったようだ。
情状酌量の余地なく、ギロチンの公開処刑を受けた。
とはいえ、そんなことになったところで、奴隷のエイダンが救われることはない。
そう、思っていたのに。
―――――私は間に合わなくてもいい、せめてこの子だけは助けてくれって、お母さんにお願いされたんだ。
エイダンの母の証言が、その男を罰する決め手を作ったとヒューゴは言った。
―――――証拠を揃える時間が必要で…でも間に合ってほしかった。せめて治癒を施そうとしたんだけど、お母さんが、ご主人様に疑われたら困るからこのままでいいって…。
ぼそぼそと、最後は言い訳のように、ヒューゴ。
エイダンにとっては、もう何もかもどうでもよかった。
それでも、人懐っこいヒューゴという男は、彼に怯えるエイダンを放っておいてはくれなかった。
善い人に見えるし言動もまともなのに、なぜ彼が怖いのか分からず混乱していたエイダンに、ヒューゴは何でもないことのように言った。
―――――俺、悪魔だからさ。だからそれは仕方ないんだよ。
…あっけらかんとしたものだった。エイダンは驚いた。
悪魔だから恐怖し、避けられる。そのことを、ヒューゴは一つも気にしていないのだ。
いや、かなしいと思っているようだが、受け容れ、その上で、自分らしく存在している。
しかも、他人の気遣いまでできるのだ。
もちろん、そうでなくとも、ヒューゴは特別な存在だ。だとしても、彼を見ていると。
奴隷だからと諦め、拗ねてすべて投げ出そうとしていた自身がひどくちっぽけに見えて、惨めだった。
…このままでいいわけがない。
エイダンを皇宮へ誘ってくれたのは、ヒューゴだ。
エイダンは力いっぱい頷いた。精一杯頑張ろうと思った。目まぐるしく働いているうちに、
―――――聞いて聞いて、リュクス! エイダンってすごいから!
ヒューゴに手を引っ張って連れて行かれた先にいた人は、…宰相閣下だった。
それを知らず、戸惑うエイダンを目の下に隈を作った彼へ押し出しながら、ヒューゴは熱弁。
―――――話して分かった。エイダンは、一を聞いて十を知る頭の子だよ。リヒトやリュクス、リカルドと同じ! 人材が欲しいって言ってただろ、育ててみない?
―――――あのね、国政は遊びじゃないんだよ。
呆れ返って棘のある一言を放ったリュクスだったが、それでもエイダンと真正面から向き合った。
そして、半ば空ろに諦めた態度で続ける。
―――――いやなことにこの悪魔、人を見る目はあるからね。
数日彼の部署で下働きをした後、リュクスは突如言った。
―――――読み書き計算を覚える時間を作ってね。
…仕事は増えたが、やりがいはある。なにより、できることが増えた。
ここのところ、毎日が楽しい。
そう思った矢先の、今日の出来事だ。
(やっぱり、報告、しないと)
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やはり、このままなかったことにしてはいけない。
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