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第三章 You're not alone
3. You're not alone(6)
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部屋に着くとまず葉子はエアコンを入れた。部屋は乾燥し切っているけれど、楽器にはちょうどいい。楽器というのは総じて湿気に弱いもので、湿気を欲するのは声楽くらいだった。
「そういえばみそらはまだ、伴奏法に来たことなかったわね」
荷物を置き、二台あるピアノの蓋をゆっくりと開けながら葉子が言った。ピアノの蓋は鍵盤だけではなく、本体のほうだ。全面黒で覆われたところにほのかに金の色が見えると、まるで微睡んでいた獣がほんの少し身動ぎしたような錯覚を覚える。
伴奏法はピアノ専攻の授業で、今年度から葉子も受け持っているらしい。来年度、三年に上がってからも引き続き講義がある、と、諸田や三谷から聞いている。
「うん。二年生ってまだ少ないよね?」
「コマがかぶると来れないからね。となると来年は可能性高くなるよ。なんならそこを空けといてくれると助かるんだけど」
冗談めかした言い方だったが、実際に毎週ソリストを探すのも大変なのではないかと思えた。木村先生にも相談してみようかな、などとみそらが心にメモをしていると、葉子は続けた。
「今からやるやつは、ソリストのいない伴奏法みたいなものだから、予習になるかもしれないし」
「やけに勧誘してくるね。そんなに人、足りてないの?」
みそらが思わず言うと、葉子はどこか苦笑気味に肩を落とした。
「みそらみたいな子が毎回いてくれればいいんだけどねえ」
わたしみたいな、とは、どういうことだろう。口を開く前に、葉子は三谷に向かって言っていた。
「じゃあ、やりますか」
二人が話している間にしっかりと三谷は準備をしていた。譜面台に広がっている伴奏用にコピーした薄い楽譜の端が見える。葉子はピアノの横に移動し「まずは最初から」と言った。
うなずく代わりに呼吸の音が聞こえる。呼吸が引き寄せられた次の瞬間、どん、と跳ねるように低音が和音を弾いた。
続く伴奏に、みそらはなるほどと思った。主旋律がないと空虚とでも言うのだろうか――なにかが足りないのだと、それがあらためて浮き彫りになる。例えるなら、ポップスのCDに収録されているインスト曲みたいなものだろうか。――そうか、ピアノ科のみんなはいつもこんな音を聴きながら練習しているんだ。
みそらが座る場所は、ピアノの弦の先にある。つまり演奏者の対面になるのだが、その間には譜面台があるため、演奏者と目が合うことはない。そのため遠慮なくじっと見つめていたのだが、葉子がふいに口を開いた。
「待って、ストップ」
この言い方は本気の時だ、とみそらは背筋が震えるのを感じた。いや、本気ではないレッスンなどないのだが、葉子がこういった抑揚のない声で言う時、それは彼女の及第点に届いていない時だと、みそらはこれまでの彼女のレッスンで理解している。
「みっちゃん、これ、相手は誰?」
誰とはどういうことだろう。みそらがそう思っていると、返事を待たずに葉子は続けた。
「颯太じゃないわね。――音源に引っ張られすぎじゃない?」
三谷は小さく「はい」と言ったようだった。そしてもう一度冒頭から弾き始める。――すると、みそらにもわかった。
音が明るい。さっきと同じ曲だけれど、音が明るい。「颯太じゃない」という葉子の声が脳裏によぎって、――理解した。今度の演奏は、江藤先輩だと思った。
なるほど、これが「誰」ということなのだ。誰をイメージして演奏するかで、こんなにも伴奏の――ピアノの音色が変わる。それを開始早々指摘する葉子にもびっくりするが、それに対してすぐに修正をかけてくる三谷にも驚く。伴奏法とはこんなことをやっているのだろうか――ピアノ科全員がこれをやれるのだろうか?
今度の伴奏もやはり主旋律のない伴奏ではあったものの、それが江藤颯太に向けられたものだというのはわかるような気がした。みそらの耳に残っている先輩の声とずれがないのだ。
みそらは友人の音を追いながら、ぼんやりと自分の伴奏者のことを考えていた。そういえば諸田は伴奏の練習をどうやっているんだろう。三谷のように担当講師に相談しているのだろうか。――自分のことを思い出したりしてくれているのだろうか。
考えている間にもレッスンは進んでいる。ここは何の楽器が担当していた音か、ということについても葉子は容赦なく踏み込んでいく。書き込みはもちろんしているだろうが、三谷の返答には淀みがない。先ほどと同じように「ホルンぽくない」と指摘があればすぐに修正され、たしかにその音はホルンのようなまろやかさ帯びた、遠くへ伸びる音に変わる。
実際に音がピアノ以外のものになるわけではない。けれどそれらしく聞こえるというのはどういうことだろうか。演奏者の思い、楽器の特性を捉える――それだけでこんなにも聞こえが変わるものだろうか。
ポーランドのリズム、ワルツの左手、盆踊り、カトリック、プロテスタント、隣の部屋から聞こえるお経――僕たちは、日本人の心を歌っているんだ。
そんな色々なことを考えているうちに、レッスンは進んでいた。
時間はどんどん濃密になるようだった。演奏している三谷と指導している葉子にはもはやみそらがいることなど頭から消え去っているに違いない。その二人を取り巻く空気がまるで二人を中心に渦を巻いていくようで、――そこにすべての時間と音が密集していくようにみそらには見えた。外界から隔絶された時間が、二人の間に降り積もる。蓄積されて、厚みを増して、それが音楽というモノを作っていくようだった。
この学校には、そういうものがたくさんあり、それがまたうねりをつくって、この学校そのものになっているのではないか。そんな気さえする。時間の概念は消えて、そこには音しかないような――
葉子がふと表情を和らげた。
「今日はここまでね」
「はい――」
三谷はそこで息を吸い込んだ。そして吐くのと同時に、「ありがとうございました」と言った。その声を聞いてみそらは、自分はピアノを弾く時にこんなに息が上がるほど演奏したことがないと思った。
葉子がみそらを振り返って微笑んだ。
「どうだった?」
ぱちん、と耳元でなにかが弾けたようだった。映画を終わって現実と時間がリンクしたような――葉子の声はそんな起点の色を持っていた。みそらは自分の周りの空気が解けていくのを感じながら、ゆっくりと言葉を探した。
「面白かったよ。――伴奏法、行ってみたくなった」
「それはよかった」
面白かったなんてぼんやりとした言い方だったけれど、葉子が満足そうに笑ったので、良いレッスンだったんだろうなと思えた。なんだか言葉がうまく見つからないままにレッスンはお開きになり、例によって二人は揃って学校をあとにした。
「そういえばみそらはまだ、伴奏法に来たことなかったわね」
荷物を置き、二台あるピアノの蓋をゆっくりと開けながら葉子が言った。ピアノの蓋は鍵盤だけではなく、本体のほうだ。全面黒で覆われたところにほのかに金の色が見えると、まるで微睡んでいた獣がほんの少し身動ぎしたような錯覚を覚える。
伴奏法はピアノ専攻の授業で、今年度から葉子も受け持っているらしい。来年度、三年に上がってからも引き続き講義がある、と、諸田や三谷から聞いている。
「うん。二年生ってまだ少ないよね?」
「コマがかぶると来れないからね。となると来年は可能性高くなるよ。なんならそこを空けといてくれると助かるんだけど」
冗談めかした言い方だったが、実際に毎週ソリストを探すのも大変なのではないかと思えた。木村先生にも相談してみようかな、などとみそらが心にメモをしていると、葉子は続けた。
「今からやるやつは、ソリストのいない伴奏法みたいなものだから、予習になるかもしれないし」
「やけに勧誘してくるね。そんなに人、足りてないの?」
みそらが思わず言うと、葉子はどこか苦笑気味に肩を落とした。
「みそらみたいな子が毎回いてくれればいいんだけどねえ」
わたしみたいな、とは、どういうことだろう。口を開く前に、葉子は三谷に向かって言っていた。
「じゃあ、やりますか」
二人が話している間にしっかりと三谷は準備をしていた。譜面台に広がっている伴奏用にコピーした薄い楽譜の端が見える。葉子はピアノの横に移動し「まずは最初から」と言った。
うなずく代わりに呼吸の音が聞こえる。呼吸が引き寄せられた次の瞬間、どん、と跳ねるように低音が和音を弾いた。
続く伴奏に、みそらはなるほどと思った。主旋律がないと空虚とでも言うのだろうか――なにかが足りないのだと、それがあらためて浮き彫りになる。例えるなら、ポップスのCDに収録されているインスト曲みたいなものだろうか。――そうか、ピアノ科のみんなはいつもこんな音を聴きながら練習しているんだ。
みそらが座る場所は、ピアノの弦の先にある。つまり演奏者の対面になるのだが、その間には譜面台があるため、演奏者と目が合うことはない。そのため遠慮なくじっと見つめていたのだが、葉子がふいに口を開いた。
「待って、ストップ」
この言い方は本気の時だ、とみそらは背筋が震えるのを感じた。いや、本気ではないレッスンなどないのだが、葉子がこういった抑揚のない声で言う時、それは彼女の及第点に届いていない時だと、みそらはこれまでの彼女のレッスンで理解している。
「みっちゃん、これ、相手は誰?」
誰とはどういうことだろう。みそらがそう思っていると、返事を待たずに葉子は続けた。
「颯太じゃないわね。――音源に引っ張られすぎじゃない?」
三谷は小さく「はい」と言ったようだった。そしてもう一度冒頭から弾き始める。――すると、みそらにもわかった。
音が明るい。さっきと同じ曲だけれど、音が明るい。「颯太じゃない」という葉子の声が脳裏によぎって、――理解した。今度の演奏は、江藤先輩だと思った。
なるほど、これが「誰」ということなのだ。誰をイメージして演奏するかで、こんなにも伴奏の――ピアノの音色が変わる。それを開始早々指摘する葉子にもびっくりするが、それに対してすぐに修正をかけてくる三谷にも驚く。伴奏法とはこんなことをやっているのだろうか――ピアノ科全員がこれをやれるのだろうか?
今度の伴奏もやはり主旋律のない伴奏ではあったものの、それが江藤颯太に向けられたものだというのはわかるような気がした。みそらの耳に残っている先輩の声とずれがないのだ。
みそらは友人の音を追いながら、ぼんやりと自分の伴奏者のことを考えていた。そういえば諸田は伴奏の練習をどうやっているんだろう。三谷のように担当講師に相談しているのだろうか。――自分のことを思い出したりしてくれているのだろうか。
考えている間にもレッスンは進んでいる。ここは何の楽器が担当していた音か、ということについても葉子は容赦なく踏み込んでいく。書き込みはもちろんしているだろうが、三谷の返答には淀みがない。先ほどと同じように「ホルンぽくない」と指摘があればすぐに修正され、たしかにその音はホルンのようなまろやかさ帯びた、遠くへ伸びる音に変わる。
実際に音がピアノ以外のものになるわけではない。けれどそれらしく聞こえるというのはどういうことだろうか。演奏者の思い、楽器の特性を捉える――それだけでこんなにも聞こえが変わるものだろうか。
ポーランドのリズム、ワルツの左手、盆踊り、カトリック、プロテスタント、隣の部屋から聞こえるお経――僕たちは、日本人の心を歌っているんだ。
そんな色々なことを考えているうちに、レッスンは進んでいた。
時間はどんどん濃密になるようだった。演奏している三谷と指導している葉子にはもはやみそらがいることなど頭から消え去っているに違いない。その二人を取り巻く空気がまるで二人を中心に渦を巻いていくようで、――そこにすべての時間と音が密集していくようにみそらには見えた。外界から隔絶された時間が、二人の間に降り積もる。蓄積されて、厚みを増して、それが音楽というモノを作っていくようだった。
この学校には、そういうものがたくさんあり、それがまたうねりをつくって、この学校そのものになっているのではないか。そんな気さえする。時間の概念は消えて、そこには音しかないような――
葉子がふと表情を和らげた。
「今日はここまでね」
「はい――」
三谷はそこで息を吸い込んだ。そして吐くのと同時に、「ありがとうございました」と言った。その声を聞いてみそらは、自分はピアノを弾く時にこんなに息が上がるほど演奏したことがないと思った。
葉子がみそらを振り返って微笑んだ。
「どうだった?」
ぱちん、と耳元でなにかが弾けたようだった。映画を終わって現実と時間がリンクしたような――葉子の声はそんな起点の色を持っていた。みそらは自分の周りの空気が解けていくのを感じながら、ゆっくりと言葉を探した。
「面白かったよ。――伴奏法、行ってみたくなった」
「それはよかった」
面白かったなんてぼんやりとした言い方だったけれど、葉子が満足そうに笑ったので、良いレッスンだったんだろうなと思えた。なんだか言葉がうまく見つからないままにレッスンはお開きになり、例によって二人は揃って学校をあとにした。
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